邪馬国はどこにあったのか?

魏志倭人伝に詳しくその存在について記された邪馬台国は大きく分けて畿内説と九州説に分かれます。それぞれに根拠があり、どちらの論陣も一歩も譲らぬ構えのように見えなくもありません。最近は各地で街起こし的に邪馬台国はうちにあったとう人も多いらしく、それはそれでお祭り的で面白いとも思いますが、やはり、では実際にはどこにあったのか?というのは気になるところです。

 まず間違いなく言えることは当時の日本列島にはそれなりに広い地域を支配する王権が少なくとも三つあったということでしょう。九州、畿内、関東にはそれぞれ古墳が多く、大きな物は畿内に多いようですが、数で言えば関東の方が多いとも言えます。もし仮に邪馬台国が日本列島に本当にあったとすれば、以上の3つのうちのどれかということになります。

 地理的に有利なのは九州でしょう。なんだかんだ言って大陸文明の入り口であったことは間違いなく、魏の使節は最初に目にする九州の王権について詳しく述べるというのは自然なことのように思えます。しかし、魏志倭人伝の記述に頼れば、邪馬台国は九州に上陸してからかなり進んだ場所にあったようです。

 王権の強力さという意味では畿内かも知れません。箸墓遺跡の調査が進み、かなり遠方からも様々な人々が集まって来ていたことが確実視されていますので、王権との関係を保つために各地の実力者が定期的に箸墓を訪問していた可能性が伺えます。しかし、畿内説は魏志倭人伝で更に南へ進むと邪馬台国があると記述している部分をきっと東の方向に進んだのに南へ進んだと間違えたのだ、というちょっと強引な解釈を根拠にしています。南と東を間違えるでしょうか?当時はまだ今よりも太陽の方角を意識して移動するでしょうから、それは考えにくいのではないかと思います。畿内に強い王権があったとしても、それは邪馬台国かどうかは少し怪しいように思います。

 関東地方は多分ないでしょう。

 記述を信じるなら、南へ南へと進みます。人々は素潜りが上手く、身体に入れ墨を入れるのが習慣になっています。私は時々、当時台湾の海岸沿いで生活していたであろう、入れ墨の習慣を持っていた原住民の土地に邪馬台国があったのではないかと思うことがあります。

高橋是清のこと

 高橋是清は財政家として大変有名な人物です。少年時代にアメリカに留学したら現地で奴隷として売られてしまったものの、買い取った人が良い人で、そこのお宅に養ってもらって学校へも行かせてもらったという不思議な運を持つ人としても知られています。

 日露戦争の時はアメリカとイギリスを行脚して日本の公債を売り歩き、戦費を確保したということもよく知られています。高橋是清の地道な行脚がなければ、日露戦争では日本が勝つことはなかったのではないかと思えてなりません。

 日銀総裁を経て大蔵大臣、首相を経験し、更にもう一度大蔵大臣に任命され、最期は226事件で命を落としてしまいます。

 金融恐慌では円を発行しまくって危機を逃れた他、世界恐慌のあおりを受けた後、軍拡することで政府支出を増やし日本をデフレから脱却させ、インフレ基調になると軍縮するという経済政策をする人としてはこれ以上合理的かつ臨機応変に仕事ができた人はそうはいないという感じの人で、今も高い評価を受けている人だと理解しています。

 高橋是清は226事件で亡くなってしまいましたが、もし生きていたらどうだっただろうか?ということをふと思わなくもありません。近衛文麿が対米交渉で行き詰まり総辞職した後、重臣会議で後継首相が東条英機になりますが、もし高橋是清が生きていれば、間違いなくその重臣会議に参加していたでしょうから、持ち前の合理精神で局面打開のための全く新しい視点を持つ球を仕込んでくれたのではないか、という気がしなくもありません。

 もっとも、軍がアメリカとの戦争に積極的だったことを考えれば、早晩、どこかで命を奪われてしまい、結果は違わなかったかも知れません。

 高橋是清を神格化したり、崇拝したりすることは望ましいことではありませんが、バブル崩壊後にこんな感じの人が現れてくれていたらなあと嘆息したくなることもありますねぇ…

幻のオーストラリア決戦

 ミッドウェー海戦で敗北した後、日本軍はオーストラリア決戦を画策するようになります。オーストラリアに上陸し、陸上決戦で連合国軍を破り、日本優位の印象を強く与えて講和に持ち込むというのが狙いです。

 オーストラリア攻略のための前進基地がガダルカナル島であり、そこに飛行場を建設することでオーストラリアを爆撃することが可能になる、更に言えば、オーストラリア東海岸地帯の制空権と制海権を抑えれば、アメリカとの連絡が途絶えるため、日本軍にとっては好都合だというものです。

 しかしながら、よく知られているようにガダルカナルの戦いでは当初こそ日米の拮抗が見られたものの、半年に及ぶ戦いの末に日本軍が撤退するという展開に至ります。仮にガダルカナルの戦いで勝利し、オーストラリア決戦に持ち込むことができたとしても、結果としてはオーストラリア人に恨まれるだけになったでしょうから、ある意味ではこれで、現代の日本人にとっては傷が浅くて済んだという気がしなくもありません。

 もし本当にオーストラリア決戦が行われていたらどうなっていたでしょうか?オーストラリア軍は特段の脅威になるとも思えませんので、日本軍が勝った可能性は十分にあります。しかし、どのみち補給不足に陥ることは確実で、現地調達が行われ、それは地元の人たちの目から見れば明白な略奪行為ということになり、いい結果を生むことになるとはちょっと思えません。というかかなり思えません。

 ガダルカナル戦が行われたころはアメリカの反撃態勢が整いつつあったころとも言えますので、シンガポール陥落の時ならともかく、1942年後半の段階でオーストラリア攻略に成功して講和に持ち込むという発想自体が甘いのではないか…という気がします。

 戦争はその行為自体が否定されるべきものです。もし、仮にその価値観に関する議論を省略して、どうすれば勝てたかということを検証するとしても、太平洋戦争に関して言えば、やはり始めてしまったこと自体がまずかったと結論するのが妥当では….と思えてしまいます。

憲政の常道

 大正時代、「憲政の常道」という言葉が誕生します。
 日本では当時、元老が首相を指名し、天皇が任命するという習慣が確立されていましたので、衆議院には首相指名権がありませんでした。
 しかし、この時代は民主主義の理念が多くの人に共有されるようになり、元老が首相を指名するという原則は崩れないものの、元老は直近の選挙で第一党になった党の党首を首相に指名し、仮にその人物が失政によって首相を辞任すると、第二党の党首を首相に指名するという習慣が原則化します。

 即ち国民が首相を指名できるようになったわけです。

 しかし、この原則は10年を待たずに崩れていきます。政治家同士の勢力争いがあまりにも激しく、陰謀による首相下しを年中やるようになったため、西園寺公望が自分の意思で憲政の常道を放棄してしまいます。その後は軍人や貴族院の人物が首相に指名されるようになり、大正デモクラシーというおもしろい現象は縮小してしまいます。

 戦後、かなりの時間が経って、小沢一郎氏が細川護熙氏を首相に擁立した時、「憲政の常道に反する」という批判がありました。当時、自民党は230程度の議席を確保しており、過半数には届きませんでしたが、第一党には違いありませんでしたから、憲政の常道に従えば、自民党の首相が選ばれるのが自然です。しかし、小沢氏は日本新党、社会党なととの連合で(いわば、オリーブの樹方式)、細川氏の首相指名を勝ち取ったわけです。

 そういうことが正しいのかどうか、衆議院議員はただの頭数集めなのか?ということを考え出すときりがありませんが、考える材料として憲政の常道というものもあると頭の隅に入れておくことも悪くないかも知れません。

写真素材 ぱくたそ

継体天皇はやっぱり怪しいのか?

第26代の継体天皇は、ちょっと怪しいのでは?とよく議論になる人物です。研究者や論者の中には継体天皇が本当の初代の天皇だと論じる人もいます。

 継体天皇は応神天皇が越前に派遣した息子の五代目の子孫ということになっており、臣籍降下のようなこともなかったため、皇位継承者として問題はなく、万世一系が続いていることになっています。

 私は天皇制を支持する日本人ですので、継体天皇がホンモノであってほしいなあと願う気持ちもありますが、そもそも応神天皇が実在したかもちょっと気がかりなだけでなく実在したとしても、その父親の仲哀天皇の子どもではないという説もあり、仲哀天皇が実在したかも心もとないという、不安の種はなかなか尽きないのです。

 応神天皇の息子の代で飛鳥を離れ五代も経た人物を迎え入れなければならないという点で、一体何があったのか?との疑問も残ります。その武烈天皇の時に何があったのよ?と首をかしげたくもなってきます。

 継体天皇は即位後ほど飛鳥に入らなかったそうですが、その辺も不穏な香りが漂っているとしか思えず、当時、天皇家とそれを支える豪族たちの社会で何か非常に困ったことが起きたと考える方が自然なのかも知れません。それが何かを知る術はもちろんなく、決定的なことは何も分からないわけです。

 初期の天皇の中には実在しなかったことが定説になっている人物もいますので、少々の誤差のようなものは受け入れていかなくてはいけないでしょう。すっぱりとした議論としては、継体天皇が最初の天皇だ、とするものもあり、そういう見方も必ずしも完全に否定する自信はありません。継体天皇が実在したことは確実だということで諸方面一致しており、現在の天皇家は継体天皇の子孫ということになります。継体天皇から数えてもその後100代くらい続いているわけですから、天皇家は十分に古いということは間違いないです。



近衛文麿内閣をどう評価するか

 近衛文麿は青年期にベルサイユ会議に参加するなど、若いころから政治家として活躍したエリートですが、日本帝国主義の黄金期を目にしてしまったために、もっと上を目指してしまい「英米中心の帝国主義を排す」などの挑戦的な文章を発表するなど、いわば日本帝国が舞い上がってしまって現実を忘れてしまっていったことを象徴する人物なのではないかという気がします。

 最も責任が重いのは、中国での戦争に深入りしてしまい、日本が引き返せないところまで導いてしまったことですが、憲法上の統帥権問題が政治家を縛り始め、敢えてその呪縛があるままの状態を受け入れてしまったということも、彼に対して厳しい評価が下されなくてはならない要因の一つのようにも思います。

 昭和天皇が近衛文麿の『平和への努力』を読み「近衛は自分の都合のいいことしか書かないね」と評した他、戦犯指名を受けて近衛が自決した後も「近衛は弱いね」と評したということですから、昭和天皇も近衛文麿の良くない意味でのエリート風の性格をあまり高く評価していなかったようです。

 他にもいろいろ問題はありますが、一つだけ、惜しいと思うのは、ルーズベルト大統領とハワイでサシで会談するという案が実現しなかったことでしょう。近衛は大幅な譲歩を用意していたとも言われています。南部仏印、満州国からの撤退を表明し、もしかすると大連旅順あたりはなんとか残したい、というようなそれまでの日本では考えられないほどの大きな譲歩を見せれば、世界の日本に対する評価は変わったかもしれません。そこに向けて努力した近衛のことはやはり公平に評価してあげたいようにも思います。ただ、ルーズベルト大統領はハワイでの会談には乗り気ではなかったということですから、もう、手遅れだったのかも知れませんが….。

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近衛文麿とルーズベルトの首脳会談

近衛文麿とルーズベルトの首脳会談

 日米開戦直前まで近衛文麿は野村吉三郎大使の対米交渉に期待をかけていたと思いますが、最後の秘策としてハワイで近衛とルーズベルトが会談し、日本が大幅に譲歩することで戦争を避けようとしたと言われています。

 実際にはルーズベルトがあまり乗り気ではなく、実現する前に東条英機にあんまり激しくせっつかれるのが嫌になって近衛内閣は総辞職し、ハワイ会談が実現することはありませんでした。松岡洋祐が潰したという話もあります。

 ルーズベルトが乗り気ではなかったため、そもそもどんなに頑張っても実現するはずはなかったとの意見もあることでしょう。近衛としては、ルーズベルトとサシで話し合うという派手な外交パフォーマンスで新聞記者の気持ちを高揚させ、和平路線の記事がバンバン掲載されるあたりのことを狙っていたのではという気がします。当時は軍も政治家も世論を非常に気にしていて、世論は新聞によって形成されるため、新聞が戦争を煽ればそっちに乗っかるという面があったことを否定し切れません。そのように思えば、パフォーマンスとしては最高な出し物になったことでしょし、それでアメリカとの戦争が回避されるのなら安いものです。もし、ルーズベルトとの会談が実現していれば、満州はともかくそれ以外の中国の土地からの全面撤退ということくらいのことは言ったかも知れませんから、実現しなかったのは実に惜しいことです。

 ルーズベルトは近衛あまり会いたくなかったようですが、昭和天皇と直接会いたいという親書を出したという話もあります。ただ、親書が出された直後に真珠湾攻撃が起きてしまったため、昭和天皇とルーズベルトも幻の会談になってしまったようです。

 もっとも、このあたり諸説あり、どの話が本当だったか、それくらい信用できるかということは判断の難しいところです。

 近衛・ルーズベルトにせよ、昭和天皇・ルーズベルトにせよ、そのような会談が行われていたら….と歴史の「もし」をついつい考えてしまいます。

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レイテ沖海戦をどう見るか

レイテ沖海戦は、その作戦はほぼ成功しながら、言わば現場の職務放棄とも言える事態で失敗してしまった戦いです。

 フィリピンのレイテ島にアメリカ軍が上陸し、続いて補給部隊が上陸することになっていましたが、その時にフィリピン北方沖に小沢空母艦隊が出撃。アメリカの戦闘機が小沢艦隊に集中している間に巨大戦艦大和と武蔵がレイテ沖に出現してアメリカの補給部隊を砲撃するという、戦国絵巻もののような華麗な作戦です。

 フィリピンは日本とインドネシアの間にある資源ルートで、そこを失えば石油が入ってこなくなり、戦艦も動かせなくなるため、日本は最後の空母艦隊を失う覚悟で囮として使用し、日本海軍の象徴的存在である大和と武蔵で敵の補給部隊、即ち戦争を続けるための核心の部分を撃つことになっていました。捨てるものは捨てるという腹を括った覚悟を決めた作戦であり、全体としてはほぼ成功していたにも関わらず、大和がフィリピンから反転し、最後の目的を遂げることができなかったことは、今日まで謎の反転として知られています。

 結果として空母艦隊も失われ得たものは何もなく、連合艦隊はそれを最後に組織的な作戦を行うことができなくなってしまいます。

 なぜ栗田長官が大和を反転させたのかは現在も議論が続くところです。私個人としては大和の保全(即ち栗田長官個人の身の保全)を優先したのだろうと思いますが、やはり本人が生前そうではなかったと言い張っていた以上、あまりにも不名誉な話ですから、謎ということで曖昧にされているのかも知れません。

 ではもし、大和が作戦通りに砲撃していたらどうなっていたでしょうか?レイテ沖に辿り着く前に武蔵は撃沈されています。アメリカ側は大和の出現を予期していなかったわけではありません。そのため、大和が砲撃していたなら小沢艦隊を沈めた飛行機の群れが返す刀で大和に襲いかかり、大和も撃沈されていた可能性が十分に高かったように思います。

 ただし、それによって補給物資を失ったアメリカ軍はフィリピン作戦で多くの支障をきたしたことでしょうから、戦争はまた違った様相を見せた可能性もあります。

 とはいえ、それも物量の問題に過ぎず、しばらくすればもっと沢山の補給が到着して何ともなかったということも大いにあり得ます。

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ミッドウェー海戦の辛いところ

 あの時ハワイを占領しておけばよかった…という後悔から考え出されたのがミッドウェー海戦です。川崎にアメリカ機が爆弾を落とすという事件もありましたので、事態を放置しておけば日本本土が空襲の危険にさらされるという不安も掻き立てられました。

連合艦隊の総力を尽くし、まずミッドウェー島を爆撃、次いでそれを占領。続いてハワイから迎撃のために出てくるであろうアメリカ空母艦隊を全滅させてハワイに進撃するという計画通りに進めば華麗かつ緻密な職人芸的作戦が展開されるはずでした。出撃艦隊後方には戦艦大和も出撃し、海上のパレードといった印象すら与えるものです。

残念ながら計画はうまくいかず、日本の空母は四隻が撃沈されてしまうことになりますが、そのような結果になってしまった原因はアメリカ空母艦隊が予定よりも早く出て来たことでした。有名な話ですが、日本の暗号通信は解読されていて、日本の予想よりも早く迎撃に出て来たのです。

飽くまでも結果論ですが、敵の艦隊を発見すれば即座に戦闘機を発進させ、こちらがやられる前に攻撃しなくてはいけません。ゼロ戦はミッドウェー島爆撃のための爆弾をつけていましたが、そのまま飛び立ち、敵空母の甲板に爆弾を落とし、とりあえず使えない状態にしておいて、帰還した飛行機に今度は魚雷を抱かせて出撃させて撃沈する、という手順を選ばなくてなりません。

しかしながら、敵空母発見の知らせを受けて急いで爆弾を取り外し、魚雷に付け替えている間に攻撃を受けるという痛恨の事態に立ち至ってしまいます。

確かに大きな痛手となる戦いでしたが、ゼロ戦は味方の空母をよく守り、且つ、アメリカの空母を二隻沈めています。上層部の采配ミスで混乱する中、喝采を送るべきことのようにも思えます。

日本側の哨戒機はアメリカ空母艦隊の上空を飛びながら、雲の上から警戒していたために発見できなかったと言います。普通に考えれば雲の下を確認しない哨戒活動というものは考えられません。戦いの長期化が必至の情勢下で、敵の空母を発見したくない、敵の空母はいないものと考えたい、という恐怖心から来る現実の誤認が深層心理にあったのではないかと私は時々思うのです。

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ベルサイユ会議と日本

第一次世界大戦の戦後処理のために開かれたベルサイユ会議では、日本から全権として牧野伸顕、西園寺公望が、副使として近衛文麿が参加します。西園寺は当時まだまだ若かった近衛文麿に目をかけ、政治家として大成してほしいとの意向があったとも言われていて、ベルサイユ会議へ連れて行ったのは、若い人にいろいろなものを見て経験してほしいという願いがあったとも言われています。

 さて、若きプリンス近衛文麿ですが、彼はベルサイユ会議の経験から『英米中心の平和主義を排す』という論文を発表するようになり、西園寺の考えとは少し違う方向に走り始めたように見えます。

 西園寺はパリで長く過ごした後、帰国後に自分で新聞社を創立しようとしますが、明治天皇からの要請という名目で首相になります。自分で新聞社を作ろうというくらいの人ですから、思想的にはリベラルな要素が強く、欧米との協調外交にも積極的な人です。

 そのため、まさか自分の目をかけた近衛が後に首相に指名され、民族主義的な傾向へ走るというのは考えてもしなかったことかも知れません。

 ちなみにベルサイユ会議では、「ヨーロッパの事情はあんまりよく分からないから余計なことは言うな」という訓命が東京より出ていて、それに従って日本代表たちは言葉数少なだったそうですが、仮にも戦勝国の一員として大国扱いしているにも関わらず、何を考えているかわからないとその他のヨーロッパの代表たちは日本代表に対してがっかりしたとも伝えられています。やはり、日本は外交が下手….なのですねぇ…