聖徳太子とイエスキリスト

聖徳太子は実在しなかった、という議論があります。聖徳太子は後に創造された名前で、そのモデルとなった厩戸皇子の存在は確実としても、その人は聖徳太子ではない。というわけです。モデルになった人がいるのだから、実在しなかったと言い切ってしまうのもどうかと思いますが、様々な伝説が後に創作された可能性は十分に高いと言えるでしょう。

 馬小屋で生まれたところから、既に伝説めいていますが、このような誕生のしかたから、イエスキリストが伝説の下敷きになっているのではないかとの憶測も不可能ではありません。

 既にイエスの時代から数百年を経ており、ローマ帝国がキリスト教を国教に決めた後の時代のことですから、福音書の内容が日本まで伝わっていたとしても全く不思議ではありません。聖徳太子は蘇我氏と協力関係にあった政治家で、蘇我氏は大陸とのつながりが特に深かったということになれば、尚のことです。

 奇跡の内容では違いがあります。イエスキリストは病気の人の病気を触れるだけで治癒させ、貧しい人に無限と言えるほどのパンを与えます。一方で聖徳太子はずば抜けて聡明で、十人の話を一度に聞けたのような、優秀であるが故に奇跡的な仕事ができたという感じになっています。

 この違いはおそらくは儒教的な頭の良さ、人格の高さを良しとする価値観とキリスト伝説が混ざり合った結果に起きたとすれば説明が可能なのではないかと思います。

 今も法隆寺では聖徳太子への信仰は厚いそうですから、伝説だから真実ではないと言い切ってしまうより、今も信仰している人々の心情も酌みつつ、伝説を楽しむのが一番いいのかも知れません。

神風特攻隊のこと

日本軍が特攻を採用するのはレイテ沖海戦からで、もっとも本格的に行われたのは沖縄戦の時のことだということはよく知られていると思います。

 若い、これから日本を再建しなくてはいけない男性たちが特攻により戦死しましたが、飛行機を運転するというのは特殊技術であるため、ある程度学歴のある、より将来的に活躍してもらわなくては困る若者がパイロットとして養成されました。

 私の親戚にも特攻隊員として戦死した人がいますが、きっとその人は勉強ができる優秀な人だったのだろうと、その人のことを考えるたびに思います。

 レイテ沖海戦が行われた当時、優秀なパイロットもまだ生き残っていて、アメリカ機と空中戦ができるくらいの腕の持ち主が特攻で失われてしまいましたが、戦争が大詰めを迎えるころには、即席の養成になり、敵艦に体当たりするための急降下だけを何度も練習して出撃する人が多かったそうです。

 そのため、敵艦に辿り着く前に発見され、撃ち落されるというケースもかなりあったと言われています。

 沖縄戦の前半では、それでも戦果は高く、実際的な戦果以外にもアメリカ兵への心理的なショックは相当に強かったそうです。沖縄戦が後半に入るころにはアメリカ軍は沖縄海域全域に周到なレーダー網を構築したことで日本機の発見が容易になり、戦果はあまり上がらなくなりました。

 特攻作戦を指揮したのは宇垣纒司令でしたが、彼は1945年の8月15日の午後、終戦の詔勅ラジオ放送を聴いた後、特攻をしています。2000人近い若者に自殺攻撃を命令した以上、最後は自分も彼らの後を追うと決心していたと言われていますし、そうでなければこのような作戦の指揮を執り続けることは人間としてできなかったのではないかとも思えます。

 宇垣司令が特攻する時、20人ほどの特攻隊員が同行したそうです。その心境を全く理解できないということはありません。ついさっきまで覚悟を決めていた人が、戦争は負けで終了。では帰宅。とはいかないと思います。

 とは言うものの、戦争中ならまだしも、戦争が終わった後に特攻するというのは意味のないことです。宇垣司令はそのことで批判されることもあるようです。

真珠湾攻撃の辛いところ2

 真珠湾攻撃は戦術的には完璧だったとよく言われます。ハワイの北方からゼロ戦が飛来し、アメリカ側が成す術もないうちに太平洋艦隊を撃滅させ、颯爽と去って行った。そういうイメージが定着していますし、それは事実だとも思います。

 しかしながら、ある意味では不徹底に終わってしまい、戦略的にほとんど意味のない攻撃になってしまったことも残念ながら事実のように思います。

 真珠湾攻撃は二度行われ、第三派はありませんでした。二度の攻撃のうちにアメリカ太平洋艦隊の艦船は破壊されましたが、三度目の攻撃で港湾施設を破壊しなかったことが、様々な意味で痛恨だったという指摘もされています。

 まず多くの破壊された艦船が引き揚げられ、修繕され使用できるようになりましたので、敵の戦力を殺ぐという目的が不徹底でした。更に言えば、真珠湾が軍港として使用し続けることが可能だったため、アメリカ海軍の太平洋にとってはオペレーションが段違いに楽になります。

 しかし三度目の攻撃が容易に行えたかと言えば多少なりとも疑問はあります。二度の攻撃の間にゼロ戦250機のうち、約50機が生還していません。アメリカ側の迎撃はよくがんばったとも言えるかも知れないですが、その後の展開がどうなるかまだまだ読めない、ましてやアメリカの空母艦隊がどこにいるか分からないという状態では戦闘機を過度に消耗することはやり方を間違えれば自空母艦隊の全滅につながりかねません。

 連合艦隊関係者にとっては、空母艦隊がその時たまたま真珠湾にいなかったことが最も痛恨だったのではないかと思います。海の戦争は戦艦よりも空母と飛行機だということを証明したのは日本ですが、それをしてアメリカの空母艦隊が無傷のまま残ったということは山本五十六をして苦悩させます。
ハワイを占領しておけばよかった…という後悔もあったと言われ、それが後のミッドウェー作戦へとつながっていきます。

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真珠湾攻撃の辛いところ1

 真珠湾攻撃は宣戦布告前の攻撃だったとして、今も批判の対象にされることが良くあります。
 日本側の当初の予定では当日の朝に攻撃開始のほんの直前に野村吉三郎駐アメリカ大使が手交することにしていたそうですが、前日の人事異動に伴うパーティ、暗号電文の解読のための時間の浪費、タイピストの休暇など、不運が重なってしまい、攻撃している真っ最中の手交になってしまったと言われています。

 日清戦争、日露戦争ともに宣戦布告前から戦争を始めてしまっていますので、必ずしも日本が国際法を遵守する体質を持っていなかった面も否定はできないところですが、つきつめると当時の大使館員の仕事の甘さは日本人としては辛いところにならざるを得ません。

 真珠湾攻撃を描いたアメリカ映画の『トラ・トラ・トラ』では、日本が意図的に宣戦布告の通知を遅らせたのではないということを描いていますが、当時の日米関係は大変に蜜月で、日米友好ムードが盛り上がる中、日本側の弁明も取り入れられることになったのだろうと想像できます。
 その後作られた『パールハーバー』では、そのような同情的な部分は一切挿入されていませんが、それもまた時代の流れによるものなのかも知れません。

 歴史認識はその時々の時勢、流れ、外交関係などによっていかようにも変わってしまうものです。

 ソビエト連邦が満州国境を越えて軍を進める直前、日本の駐ソビエト大使に対して宣戦布告がなされています。大使が急いで大使館に戻ると電話線が切られていたそうです。電話線を切るのはどうかと思いますが、日本もあの時、アメリカから来た外交官を呼んで宣戦布告すれば、あのような失態にはならなかったのでは?と時々思うのです。

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信長暗殺の真犯人

信長暗殺の真犯人については諸説あって、もう語りつくされている感もありますが、私個人としてはやはり、朝廷説が一番いいのではないかと思っています。担当者として近衛説を取ることに特に疑問はなく、それで良いように思います。

 信長は朝廷から太政大臣か関白か征夷大将軍がどれか好きなのを選んでくれと全部断ったという経緯があり、安土城に天皇を移すことを計画していたフシもあり、時の勢いも尋常ではありませんので、朝廷が自分たちの立場を揺るがせにされるという不安を現実的なものとして受け止めたとしても全く不思議ではありません。

 更に言えば、過去、朝廷の簒奪を目論んでいた可能性が取り沙汰される人物は悉く暗殺される急病で死ぬかしています。朝廷にはそういう自己保存機能が古くから準備されていていざとなったら発動するというような仕組みでもあったのではなかろうかと完全に私の推測ですが、そう思えてしまいます。それが悪いというわけではないです。天皇制は支持していますので、そのようにして天皇家が乗り切ってきたことはそれで良かったと思います。

 プラスして秀吉や家康がグルになっていたという説もありますが、それも受け入れ可能なものと思えます。みんなで知らないふりをしてポスト信長時代に入ったとしても、それくらいのことはやってもおかしくないだろうと思えます。それぞれに動機は十分にあるでしょうし、だからこそかくも鮮やかに本能寺の変が成功したのかも知れません。

 少しひっかかるのは光秀のことです。彼は本能寺の変の後に諸方面に手紙を書き、協力を要請しますが、必ずしも反応は芳しくなく、光秀は次第に孤立していきます。

 そこまでみんながグルだったのなら光秀が孤立するのは理解に苦しみますが、みんなで光秀に嫌な役割を押し付けて、最後は光秀も切り捨てるというシナリオになっていたとしたら納得できなくもありません。

 だとすれば光秀はずいぶん気の毒な立場に立たされたとも言えそうですが、以上は全て憶測でございます。

松岡洋祐の焦り

 松岡洋祐はオレゴン大学の卒業で、当時の日本人の中でもとくにアメリカを良く知る人物であったと言われます。自他ともにそのように認識していたことでしょう。
 
 その松岡は満州事変の後の国際連盟の勧告を拒否し、脱退の道を選びます。国際連盟脱退は必ずしも本人の意思ではなかったとも言われますが、日本からの訓令もあったらしく、どうしても脱退しない方向でまとめようという決心もなかったかも知れません。何故なら、国際連盟にはアメリカが参加しておらず、松岡としてはアメリカの入らない国際機関の価値はさほど高くないという判断もあったように感じられるからです。

 松岡がアメリカをどれほど重視していたかは、その後の松岡外交がひたすらアメリカに対抗できる軸を作ることに情熱を傾けていたことから理解できます。ドイツのヒットラーと手を結び、その足でソ連に行ってスターリンと中立条約を結びます。当時日の出の勢いだったヒットラーと巨大な陸戦力を持つソビエト連邦と手を結べば、アメリカも日本に顔を向けざるを得なくなるとの期待を持っていたに違いありません。ですが結果としてはアメリカが日本打倒の意をより強くする方向に進んだと見るべきで、英米協調を主軸として安定を図ってきた日本外交の明治以来の伝統から見れば、大失敗、無理ゲーと言ってもよい試みを松岡していたと見て良いでしょう。

 フランス領インドシナ進駐後に始まった対日経済封鎖を解くため、松岡はアメリカとの交渉を担当しますが、アメリカ側から忌避され、近衛内閣は松岡を外すためだけに総辞職し、第三次近衛内閣が誕生します。自他ともに認めるアメリカ通であり、国運を左右する交渉には強い決意で松岡は臨んだことでしょうから、アメリカ側に忌避されて出る幕をなくしたことは本人にとっては相当に残念なことだったでしょう。

 戦後、松岡はA級戦犯に指名され、東京裁判にも姿を現しますが、裁判の初期の段階で病没してしまいます。本人の心中にはヒットラーと手を結んだことがアメリカを本気にさせ国を滅亡に導いたという自覚は十分にあったでしょうから、最期の日々はとても辛い回想を繰り返していたのではないかという気がしてならず、責任の重い人物ではありますけど、かわいそうだなあともやはり思うのです。

昭和天皇はマッカーサーに何を言ったのか

 戦後すぐ、昭和天皇がアメリカ大使公邸でダグラスマッカーサーと会見したことは有名な話です。そこで果たして何が話し合われたのか、昭和天皇がそれについて話すことは生涯ありませんでした。昭和天皇は会見の内容は誰にも明かさないと「男と男の約束」をしたと言っていたそうです。

 一方で、マッカーサーは後に出版した回顧録で昭和天皇から戦争の責任は全て自分が負うので、他の人たちを助けてほしいという主旨の発言があったとしています。

 当時通訳をした人も同様の主旨の証言をしていますので、ほぼ間違いのないことだったのではないかと思います。

 ただ、他の人については戦犯指名が予想される重臣たちのことか、生活に窮乏する国民たちのことか、その両方かということについてはちょっとはっきりしません。

 日本側からは一切その時の発言についての情報は出て来ないのは、当時の段階で天皇が責任を認める発言をしたことが明らかになれば、戦争犯罪人指名のリストに載る恐れがあり、そのリスクを回避するために内容を秘したとする考えもあります。

 責任を認めることで人望を得ることは時代、地域に関わらず、確かにあることですし、あの段階でそれを発言する昭和天皇の腹の括り方は相当なものだとも思います。一方で英米法的司法手続きの思想に則る以上、有罪か無罪かを申し立てる際に、先に外で自分の責任を認める発言しているのは決定的に不利になるでしょう。人の道と法律論の違いとしか言えないものかも知れません。

 では果たして昭和天皇の戦争責任はどう考えるべきでしょうか。様々な研究や議論があることは承知しています。難しい問題なのでいずれ稿を改めて考えてみたいと思います。

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昭和天皇の人物像

 昭和天皇がどんな人か、何を考えていたのか、歴史的な場面で何を思い何を発言したのか、などについて多くの人が関心を持ち、これまでも議論が重ねられてきました。

 一稿で書ききれるようなものではとてもありませんが、昭和天皇の人物像について考える際のアウトラインを少し考えてみたいと思います。

 昭和天皇は立憲君主制の精神をよく理解し、立憲君主であろうと自主的にそのような在り方を目指していたと伝えられています。
 しかし一方で、田中義一首相を叱責し、その叱責を受けて田中首相が辞職するという出来事があったり、226事件の解決に積極的にイニシアチブをとったり、近衛上奏文を受け取ったときの返答、終戦の時の聖断、更には戦後の日本国憲法のアウトラインや安全保障についてマッカーサーと意見交換するなど、随所に立憲君主の枠を飛び越えて、あたかも親政が敷かれていたかのように錯覚してしまいそうな一面も見られます。
 明治天皇や大正天皇の時代でここまで深く政治に関わるということは考えられないことだったはずです。

 これは私の想像ですが、おそらく飛びぬけて頭の良い人物だったのではないだろうか、それが上に述べたような憲法上曖昧な部分が生じる事態へと発展したのではないか、という気がします。昭和天皇は頭が良いので立憲君主とは何かを理解しているけれど、頭が良いが故に政治や軍事に関心が及び、おそらくは性格の激しいところがあって、つい口出ししてしまう。憲法には天皇は政治に介入してはいけないとは書いてないので、周囲も天皇の意思を尊重せざるを得ない。といったところではなかったかとも思えるのです。

 帝国憲法では天皇は内閣の輔弼を受けるということになっており、これは事実上、内閣が仕事をし、天皇は形式上の裁可を与えるということで当時から理解されていました。美濃部達吉氏の天皇機関説が登場したのも、たとえ排斥を受けたとはいえ当時のそのような憲法の運用があったからこそのことと考えることもできます。

 昭和天皇は天皇機関説には肯定的であり、このようなあたりは大正デモクラシーの空気を吸って少年時代を過ごしたリベラルな思考の一片を知ることもできます。

 ある研究では昭和天皇は晩年、自らの戦争責任について悩み、厭世的になった時期もあったとのことですが、歴代の天皇の中でも特別悩み多き人生を過ごされたのかも知れません。

昭和天皇と東京裁判

 東京裁判には批判も多い一方で、サンフランシスコ条約では日本がその裁判の結果を受け入れるとも書き込まれているため、国際法上は有効であるとも言えるように思います。様々な視点から多くのことが語られてきた東京裁判ですが、最大の争点は昭和天皇の訴追だったのではないかと思います。

 キーナン首席検事はマッカーサーの指示で昭和天皇を訴追しないことにしていましたが、キーナン氏本人は昭和天皇訴を追するべきだと考えていたと言われています。また、ウェッブ裁判長もその立場にありながら、天皇の訴追のない裁判はある種の茶番であるとも考えていたと言われます。

 東京裁判では、裁判である以上、誰にどのような責任があり、それをどう償うのかということが明確にされなくてはいけませんが、その引き受け手が東条英機元首相であったと言ってよいでしょう。

 裏側では日本側とアメリカ側が密に連絡を取り合い、昭和天皇を訴追しないことで合意ができたため、開戦の意思決定責任一切を東条英機氏に引き受けてもらうことで話がまとまり、東条氏には弁護人から「天皇の意思に反して開戦した」と証言するように求められます。東条氏は責任は引き受ける覚悟はあったと言われていますが、逆賊になることまで引き受けることはできないと非常に苦しんだと言います。

 東京裁判が正しいのか、正しくないのかなどの議論は今も尽きず、私が生きている間にこの議論が終息することはないと思います。

 しかし、法よりも政治的な要素が濃厚で、正邪の議論をしたところで結論は決して出ないのではないかとも思えてきます。

 昭和天皇が訴追されることは日本側としても絶対に避けたかったはずですから、そこを日米間で取引が成立していたとすれば、日本にも天皇を守ることができたという意味ではそれなりに意義のあったことなのかも知れません。

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昭和天皇と田中義一首相

よく知られている事件ですが、張作霖暗殺事件は関東軍の河本大作大佐が仕掛けたものだと考えられています。
 当時の田中義一首相もそのことは把握していましたが、真相は公表しない方針を選びました。昭和天皇は公表するようにとの意思を示していましたが、田中義一首相はそれを無視。
 昭和天皇は田中義一首相を叱責し、結果、田中首相は辞任します。

 ここで議論になるのは昭和天皇が田中義一首相に対し「辞めろ」と言ったかどうかです。もし立憲君主制の理念を重視するなら、天皇が首相に辞めろというのは越権行為です。叱責しただけなら、越権行為とまでは言えないでしょう。昭和天皇は後に田中首相を叱責したことは立憲君主として不適当だったと反省したと語ったと言われています。その後、天皇は立憲君主に徹しようとしたため、太平洋戦争開戦についてはイニシアチブをとらなかった(よって責任もない)、という話になっていきます。

 さて、ここでどうでしても不思議でならないのは田中義一首相が昭和天皇に叱られて辞職してしまうことです。立憲君主制が徹底されているとすれば、何も悩むことはありません。天皇が首相を好きか嫌いかは政治の運用上、全く問題がないのです。辞める理由はどこにもありません。「陛下はお怒りなのですか?そうですか、ではがんばって信用回復に努めます」と言って涼しい顔で首相を続ければ良いだけなのです。

 ところが、田中義一首相は辞任してしまいます。天皇に嫌われていてはやりにくいでしょうけれど、辞めなくてもいいのです。この辺り、憲法上様々なことが、それまで習慣的に運営されていたものが想定外の出来事が沸き起こり、混乱し始めていたようにも見えなくもありません。

 田中義一首相の個人的な性格や人生観、当時の個人的な事情も或いは絡んでくる可能性もありますねぇ…。