明治憲法と元老

明治憲法は表面的に読んだだけでは、実際のことがよく分からないように書かれています。まず、間違いないと思いますが、伊藤博文が故意に、分かりにくく書いたのではないかと私は思っております。以下にその理由を述べたいと思います。

まず第一に、天皇は神聖にして犯すべからずとなっており、天皇が国政を総攬するとも書かれてあります。もしこの部分だけを切り取って読めば、天皇親政、天皇が個人の意思で独裁的な政治を行うかのように読むことができます。たとえばロシアのツアーリや中国の皇帝のようなイメージですね。しかし、同時に憲法には天皇は憲法の規定に従うとされており、更に内閣が天皇を輔弼するとも書かれています。つまり、天皇は内閣と一緒に政治をするとも読めますが、ここで意味しているところは、内閣が天皇の代わりに政治をするので、天皇は何もしないと書かれているわけです。国政を総攬するはずの天皇が何もせず、実は内閣が政治をするというわけなのですから、これは分かりにくいに違いありません。

もう一点、和戦の大権、つまり戦争を始めたりやめたりする権利、即ち軍隊に対して指揮命令をする権利は天皇に属しているとされています。軍隊に対する指揮命令権、即ち統帥権を内閣が持っていないことになるわけですが、戦争という手段は当時であれば外交の最終手段です。それを持たない内閣に内政も外交もさせるので、はっきり言えば内閣の権限がそれだけ曖昧になり、議会によって追求される一番いいネタにされてしまいました。講和も軍縮も、議会による政府糾弾のネタになりますし、新聞もおもしろがって騒ぎ立てます。和戦の権利は天皇の大権なのに、政治家が勝手に戦争を辞めようとしている、みたいなレトリックになっていくわけです。日露戦争が終わった後の日比谷焼き討ち事件なんかもそういう種類の話に入ります。

とはいえ、明治日本はなかなかに成功した国家であったということは否定できないと思います。19世紀は弱肉強食の帝国主義、植民地主義が世界の流れでしたが、その中で欧米に植民地化されることもなく、産業化、工業化にも成功し、戦争もまさか勝てるとは思えない相手と始めて勝っています。つまり、うまく機能していたわけですね。憲法は政治家には戦争に関して意思決定できないと書いてあるのに、政治家がきちんと判断して戦争を始めるタイミングを見計らい、終わりのタイミングも見計らって、ちょうどいいところを狙って無理のない講和を結んで行きます。なぜこのようなことができたのかというと、元老という憲法に記載されていない集団が存在し、彼らが実質上の日本の支配者、日本帝国のオーナーだったからです。

元老は伊藤博文や山形有朋、西郷従道のような明治維新の功労者に与えられる称号で、一番多い時には11人ぐらいいたはずです。最後の元老はお公家さんのご出身の西園寺公望でした。西園寺はお公家さんですが、基本的には薩長藩閥で構成されており、明治日本の支配者が薩長藩閥だということが実によく分かります。この元老たちが首相の指名も行い、いろいろなことを話し合いで合意して、日清戦争や日露戦争も進めて行きます。内閣総理大臣は軍隊に対する指揮命令権を持っていないわけですが、元老には指揮命令の権利があると暗黙裡に了解されており、全ては元老たちが決めていたわけですね。で、憲法の縛りもないので、良くも悪くも自由に動くことができ、良く言えば現実的で臨機応変に、悪く言えば寡頭政治で黒幕的な存在として日本を動かしていたということができます。結果として、彼らが元気だった間は彼ら自身がアメリカと戦争しても勝てないことを知っているので、そういう無理なことは最初から考えもしませんし、薩長ともに幕末には英米と戦って彼らの強さをよく知っていますから、英米協調路線でうまく世界と渡り合って行ったと言えると思いますす。

最後の元老の西園寺公望は、長くフランスで生活し、議会制民主主義の価値感を充分に学んで帰って来ます。西園寺が帰ってきたころ、日本はまだ建前上は議会政治でしたが、実質上は元老政治が続いていましたので、西園寺が最後の元老になった時、彼は独自の判断で、議会選挙で民意を得た政党の党首を首相に選ぶという「憲政の常道」を確立しようとします。しかし、当時は暗殺が横行していて、首相になったら即暗殺対象みたいな時代でしたので、西園寺本人が議会主義者であったにも関わらず、軍人出身者を首相に指名せざるを得なくなっていきます。このような世相の中、世間からもプリンスとしてもてはやされた近衛文麿を最後の民主主義のカードとして西園寺が切り出したのですが、近衛文麿は多分、社会主義的なことをやろうとしたんだと思いますけれど、大政翼賛会を作って「幕府復活かよ」みたいに揶揄され、日中戦争も深みにはまっていってしまったという悲しい流れになってしまったわけです。西園寺は太平洋戦争が始まる少し前に亡くなっていますが、最後の言葉は「近衛は日本をどこへ連れて行くつもりや」だったそうです。

このように見て行くと、立憲主義は大切ですし、私も立憲主義を支持していますが、条文そのものだけでなく、いかにして運用されるかがより重要なのなのではないかと思えてきます。明治憲法であっても、元老という非法規的集団が政治家と軍人を操って国策を進めていたことで物事を仕切っていました。逆に、教条主義的に憲法を捉えると、統帥権干犯などと言われて現実的な政治ができなくなり、おかしな深みへとはまりこんでしまったと言うことができそうな気がします。これは現代にも通じる教訓になるのではないでしょうか。




坂本龍馬‐人物と時代

坂本龍馬には少なくとも二つの出自があります。一つは土佐藩の下級武士というもの。もう一つは土佐屈指の大金持ちの息子さんというものです。

土佐藩では武士の身分は大きく二つに分かれており、一つは藩主山之内家について山之内一豊とともに土佐に入ってきた譜代の家臣で上士と呼ばれました。もう一つは山之内が入って来る前に長宗我部氏に仕えていた武士で、下士と呼ばれていました。上士と下士は礼儀作法、道の譲り合い、衣服、役職、給与等々で厳しく分けられており、上士は文句なしの支配階級、下士は明らかに被支配階級だったようです。

ただ、坂本龍馬の場合、ご実家が超大金持ちですから、別にそれで困ることはあまりなかったようですし、下士の身分もお金で買い取ったようです。下士の生活は極貧だったようですから、下士の身分を売って生活がましになるならまだその方がいいと思った人もいたのでしょう。

このような事情から坂本家には二つの入り口があったそうです。一つは商人としての立派な構えの入り口、もう一つは下士としての地味で質素な入り口です。お金を注ぎ込んで豪華な入り口を作っても良かったのでしょうけれど、「下士の分際で」と言われることを避けたのだろうと思います。

さて、坂本龍馬は後に脱藩し、女性にモテ、大きな政治構想を語り、薩長同盟を成立させ、大政奉還のアイデアも彼によるものだと言われています。多くの人が、一介の素浪人が日本の歴史を動かしたのですから、そりゃあ、多くの人が憧れるのも納得です。

ただし、坂本龍馬にはわりと潤沢な実家からの仕送りがあったため、他の脱藩浪人と比べれば余裕があります。気持ちの余裕は女性にモテる要因になったでしょうし、大きな政治構想も気持ちの余裕から出るもので、やはりこのようなややほら吹き気味なところも、自身堂々と語ることで、やはり異性にもてる要素になったのではないかと思います。江戸で留学した際には剣術を学んでいた千葉道場の娘さんまで惚れさせていますので、なかなかのやり手です。薩長同盟についてはどうも西郷隆盛がバックについていて、坂本龍馬はそのエージェントみたいなところがあったようなのですが、西郷が自己愛を満たそうとするタイプではなかった分、坂本龍馬の活躍ぶりに目が移るようになっていったのかも知れません。長州の桂小五郎としても、龍馬が間に入ってくれたことでやりやすかったかも知れません。ついでに言うと大政奉還とか立憲主義みたいのは横井湘南、西周、徳川慶喜などが既にある程度、考えをまとめていたようですから、それを龍馬の発案とするのは、やや彼を過大評価しているように思えなくもありません。

坂本龍馬は陸奥宗光のように、彼の部下であったことが政治的な武器になり出世した人も居た上に、暗殺されるという最期を迎えているため、新政府での印象は強く、語り継がれる存在ではあったようです。ただし、さほど有名だったというわけでもなく、土佐藩閥の人々が日露戦争の際、皇后の枕元に坂本龍馬が現れて「日本海海戦では日本が勝つから心配するな」と言って去って行ったという、毒にも薬にもならない話を新聞記者にリークしたことにより、一機に名前が広がって行ったようです。戦後であれば司馬遼太郎さんの貢献は大きかったでしょう。徳川慶喜は維新後になるまで坂本龍馬を知らなかったと言いますから、彼本人が政治の中心に躍り出るところは一切なく、エージェントに徹していたようにも思えます。

坂本龍馬の暗殺については諸説あり、簡単に結論できることはないですし、永遠に結論は出ないでしょうけれども、龍馬は二度も土佐脱藩の身であり、幕府官吏からは指名手配を受けており、薩摩のエージェントでありながら、大政奉還後の新政府には徳川慶喜を推そうとしたそうで、敵は山のようにいる状態でした。自由に生きることは素晴らしいことですが、どうも敵を作り過ぎてしまったので、誰にも殺されてもおかしくなかったとは言えそうな気がします。



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近藤勇‐人物と時代

近藤勇はもともとは日野の農家の出身だそうですが、市谷の剣術道場の養子に迎えられ、やがて道場主になります。彼の道場には沖田総司、土方歳三など後に新選組の主要なメンバーとして活躍する人物が出入りしていたのですが、彼らが歴史の舞台に登場するのは十四代将軍家茂の上洛と関係しています。

当時、公武合体の妙案として打ち出された家茂と孝明天皇の妹の和宮との婚姻が具体化していきましたが、その条件として家茂が上洛し、孝明天皇に攘夷を約束しなくてはなりませんでした。

将軍が京都を訪問するのは三代将軍家光以来200年ぶりのことであり、当時としては相当なビッグイベントとして受け取られたはずですが、警備等々の経費が嵩むため、家茂警護のために浪士の募集が行われ、近藤勇と門下生が応募しました。各地からの浪人が集合しており、浪士隊と呼ばれました。この中には後に近藤たちに暗殺される芹沢鴨とその仲間も入っていたわけです。

清河八郎という人物が浪士隊を個人的な手勢にしようと目論み、浪士隊は清河に率いられて江戸に帰ることになったのですが、近藤たちと芹沢鴨たちは京都に残ることを選択し、浪士隊から離脱することになります。その後の新選組の活躍を考えれば、近藤たちの人生をかけた大勝負だったとも思えますが、悲劇的な結末まで考慮すれば、この時おとなしく江戸に帰っていれば、無事に明治維新を迎え、近藤や土方も普通の人生を歩んだかも知れないとも思えます。

近藤たちが後に京都で結成した新選組は幕末の歴史の中で、典型的なパッと咲いてパッと散るタイプの活躍を見せた存在と言えますし、パッと咲いて散る感じに憧れる人が多いので、現代でも魅力的な題材として扱われるのではないかとも思えます。

しかし、新選組の歴史をよく眺めてみると、その血塗られた歩みに対し慄然とせざるを得ません。特に内部抗争の激しさには残酷という言葉以外の形容詞が見つかりません。

芹沢鴨の腹心である新見錦を陰謀で切腹に追い込んだ後、芹沢鴨も大雨の夜に愛人と眠っているところを襲撃し、謀殺しています。その後は山南敬介が脱走後に捉えられて切腹。新選組に加入した後に御陵衛士という名目(孝明天皇の陵墓を警備するという名目)で分離した伊東甲子太郎も暗殺されており、伊東甲子太郎の残党と新選組の間では油小路という場所で壮絶な斬り合いが起きています。

このようにして見ると、近藤勇という人物には土方や沖田のように最後まで慕ってついて来た人物がいたため、兄貴肌の人を惹きつける魅力があったに違いないと思うのですが、一方で、内部の粛清に歯止めをかけることができなかったというあたりに彼の限界を感じざるを得ません。

因果応報と呼ぶべきなのかどうか、鳥羽伏見の戦いでは、新選組は伊東甲子太郎の残党に狙い撃ちで砲撃されています。また、江戸に逃れた後に流山で地元の若者を集めて訓練していたところを新政府軍に見つかり、捕縛されるのですが、近藤勇は大久保大和という偽名を使い難を逃れようとします。この時も、伊東甲子太郎の残党の一人である加納鷲雄に見つけられてしまい、近藤勇であると見破られ、近藤は新政府軍によって斬首されるという最期を迎えることになります。切腹ではなく斬首した辺りに、長州藩がどれほど近藤を憎んでいたかを想像することができるのですが、新選組による池田屋襲撃は、飽くまでも江戸幕府の下部組織の立場による公務の実行であったこと、その後の治安維持活動もやはり公務の一環として行われていたことを考えると、近藤勇を犯罪者のように扱う処置は残酷過ぎるのではないかと思えなくもありません。

新選組に集まっていた人材の多くが普通の人で、普通の人が時代の分かれ目に出会い、自分の可能性を追求しようとしたところに魅力があるのだと思います。特に土方歳三の場合、鳥羽伏見の戦いで敗けてから、函館戦争までの生き様が見事であり、彼が失敗から学んで成長したと思える面もありますので、いずれ機会を設けて土方についても語ってみたいと思います。



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西郷隆盛‐人物と時代

西郷隆盛は幕末維新史の人物の中でも特に人気のある人物だと言っていいと思います。彼の性格的な特徴を考えるに、何をやるにも正面から徹底的に取り組むひたむきさ、いつ、どんな時でも失敗を恐れずに行動する豪胆さがあり、味方にすれば心強く、敵に回せば大変に厄介な人物であったろうと思えますが、同時に、常にぎりぎりのラインまで追求するため、剣が峰の上を歩き続けるような危うさがあり、成功する時は期待以上の成果を収める可能性がある一方で、失敗する時は周囲も巻き込んで潰れていくという面があるように思えます。

若いころの西郷隆盛が才能を発揮した有名な例としては、島津氏の分家の御姫様である篤姫と十三代将軍家定との婚礼が行われる際、薩摩藩邸から江戸城まで行列が組まれましたが、その時の行列や婚礼道具の準備等の仕切り役が若き西郷吉之助であったということを挙げることができます。巨大な大名である島津氏から、将軍家への嫁入りですので、行列等々の準備はほとんどロジスティクスと呼べる規模のものだったと思いますが、島津斉彬が西郷を見込んでそれを担当させたあたりに、彼がもともと尋常ならざる才能を持っていたことを示しているように思えます。

一方で、斉彬の死後、島津氏の家長となった島津久光との関係は険悪なもので、島津久光に対して「あなたのような田舎者には理解できない」という趣旨の発言を面と向かってしており、嫌いな人物を侮辱する際にも遠慮なく率直であったことが分かります。

彼は安政の大獄の関係などもあって、二度も島流しに遭っていますが、能力の高さ故に呼び戻され、京都へ向かい、禁門の変の際には幕府・会津藩の軍が苦戦する中に登場して長州藩を撤退に追い込むという活躍を見せています。やはり軍事、即ちロジスティクスの才能に長けていたことを示すエピソードということもできると思います。

徳川慶喜と同盟することによって国政への参加の機会を伺っていた島津氏ですが、後に反慶喜へと方針が変わり、慶喜を共通の敵とする薩長同盟が結ばれることになります。慶喜は大政奉還をすることで一旦は薩長同盟の矛先から逃れることができましたが、島津氏の兵士が京都御所を占領した状態で行われたいわゆる小御所会議で慶喜の処遇について議論が行われた際、土佐の前藩主の山之内容堂が慶喜を強く弁護したためになかなか結論に至らないという状況が起きたのですが、休憩時間に西郷が「短刀一本あればことが足りる」、即ち山之内容堂を殺せばいいじゃないかと言ったことは大変有名なエピソードです。良くも悪くも目的のためには手段を選ばない彼の性格が良く出ているように思います。

戊辰戦争でも随所で西郷の豪胆さが発揮されますが、新しい時代を作ると言う大事業に新政府軍関係者がおっかなびっくりに取り組んでいる中、西郷が不退転の決意で、いつ死んでもいいという覚悟で状況に取り組んだことが、結果としては明治維新を成功させる大きな要因になったように思えます。

しかしながら、おそらく彼は性格的におとなしくしていることが難しい面があり、それが欠点と言えるのではないかとも思えます。明治維新後、岩倉使節団が欧米視察のために出発した後、西郷は留守政府を任されることになりますが、その間に西郷を中心に征韓論が盛り上がりを見せます。それまで幕府と外交関係を結んでいた朝鮮半島の李朝が、新政府との外交関係の樹立に難色を見せたことで、征韓論が盛り上がったわけですが、西郷隆盛が自分で朝鮮半島へ行くと言ってきかず、帰国した大久保とも意見がかみ合なかったため、明治六年の政変で西郷は多くの官吏たちとともに政府を去り、鹿児島へと帰ります。やはり留守政府をじっと守るということが、成功するかどうか分からないということに大胆にチャレンジする彼の性格に合わず、明治六年の政変につながったのではないかと私は個人的に推測しています。

さて、西郷は西南戦争で敗れて切腹して果てるという最期を迎えたわけですが、西南戦争以前の戦いでは常に万全を期し、勝つために手段を選ばなかった豪胆な西郷のイメージとはかけ離れた形での最期だったように思えます。西郷が鹿児島で挙兵した大義名分は東京へ行き新政府の非を大久保に問い質すということだったようですが、実際には西郷が開いていた塾の門下生が新政府の施設を襲撃し、門下生を引き渡すのは忍べず挙兵に至ったようです。ですので、西南戦争の際は、西郷は勝つことを目的としておらず、門下生たちとともに最期を迎えようという、ある種の慈悲の心に徹していたため、勝つための周到さというものに欠き、死に場所を求めて敗走するような展開になったのだと理解することができると思います。西南戦争の場合、西郷の目的は勝利することではなく、門下生とともに死ぬことでしたので、それに徹していたと言うこともでき、徹底して目的達成を目指すという彼の性格や行動パターンは最期まで一貫していたと考えてもさほど真相と大きくかけ離れていないのではないかと思います。



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『純粋芸術としての映画』の近代

いろいろな巡り合わせが重なり、珍しい本を手にすることになった。正確にはある人からある人へと私が本を届けに行く役目を負うことになり、役得としてその本を読むことができたのだ。本のタイトルは『純粋芸術としての映画』で、著者はフィヨドル・スチェパン。翻訳者は佐々木能理男となっている。この佐々木さんという人についてぐぐってみたところ、敗戦の前まではナチスに関連する文章を数多く翻訳した人ということらしいので、ドイツ語に堪能な人だったのだろう。また、戦後は不遇をかこつ日々を送ったようなのだが、それもやはりナチスに肩入れしてしまったのが仇になったのだろう。で、本の奥付を見ると昭和10年発行とあり、ナンバリングもされていた。私にこの本を渡した人によると、三百冊限定で印刷されたものだということだったので、ナンバーは三百のうち何番目に印刷したのかを示すのだろうと思う。シルクスクリーンにナンバリングしてあるのと同じような感じと言っていいかも知れない。

で、この本の内容なのだが、忘れないうちにここに書いてしまっておきたい。要点としては映画と演劇は似て非なるものであり、映画と現実も似て非なるものだ(要するに写実的とかそんなものはない)ということらしい。特に映画と演劇の違いについては念入りに議論されていて、演劇の場合は生きている人間が舞台で演じるため、そこには観客と演者が共有する空間が生まれる。そして観客は演者の動きや台詞によって喜怒哀楽を疑似体験するのだが、映画はそういうものではない。映画を演劇の延長線上のように考え、演劇が物語を見せるように、映画で演劇のような物語を見せると思って映画を理解することはできない。と主張されていた。なぜなら、映画の本質はモンタージュだからだ。

一応、モンタージュとは何かを簡単に定義しておきたいが、分かりやすく簡潔に言うとすれば切ったり貼ったりする編集のことだ。編集と言えば話しは早いがカタカナにしなくては気が済まない人はいるものだ。

で、本に戻るが映画はモンタージュするのが醍醐味なので何かを物語るということとは本質的に合致しないということらしい。これは映画と演劇の闘争であるとすら述べられていて、そこまで違った性質を持つ芸術行為なのなら闘争する必要はないとも思えるが、とにかく闘争らしい。トーキー映画が生まれる前、映画は動く写真で全てを表現していた。いい作品はモンタージュの勝利なのであり、代表的な勝利者がチャップリンということにされている。一応、私は反論したくなってしまったので、ここでちょっと反論するが、チャップリンも『独裁者』からトーキーを始めていて、その後の作品もトーキーだ。トーキーじゃない有名な作品としてふと頭に思い浮かぶのはドイツ表現主義の『カリガリ博士』だが、ところどころに台詞を書いたカットが入っているのでやっぱりトーキーの方が便利なのではないかと思えてしまった。ついでに言うともう少し後のドイツ表現主義映画で『M』という有名な作品があるが、これはトーキーのはしりみたいな作品なので、やっぱりみんな動く写真というより喋る映画の方が好きなのではないかともふと思えてしまったのである。とはいえ、この本では動く写真なので、リズムだけが問題なのであり、なぜここまでリズムを問題にするのかと言うと、近代人の生活は仕事も余暇も機会とともにリズミカルにこなせるように仕組みができあがっているので、映画という新しい芸術が物語という文脈を無視してリズムのみに注力するのも言うなれば必然、くらいの勢いで書かれてあった。

で、人間の現実とも映画は全く関係ないのだと同書は主張する。人間が人間らしく動くのを写すのはちっとも映画という芸術の主旨にあっておらず、その先を行く何かをモンタージュするのが映画だということになるらしい。

私は映画理論については単位はとったが専門ではないし、そういうことに関する論文も書いたことはない。ただ、この本の内容を以前にどこかで触れたことがあるような気がして、よくよく考えてみると、その単位をとった授業でドゥルーズの映画論を読まされて似たようなことが書かれてあったのを思い出した。めちゃめちゃ省略すると、彼もまた映画の本質をモンタージュとリズムに見出していたからこそ、映画について運動と時間の観点から延々と議論していたのだ。ついでに言うと最近見た上演芸術でも物語・文脈を無視し、脱人文主義みたいなものを目指していた内容だったので、こういう流れは100年前からあったのだとこの本を読んで改めて納得したところがあった。私はまだまだ浅学で分かっていないところも多いが、この本がドゥルーズのネタ本なのだなくらいに思えば、勉強になるわけです。



徳川慶喜‐人物と時代

250年続いた徳川幕府の最後の将軍が徳川慶喜という人物だということは広く知られていることですが、ここでは徳川慶喜という人物のやや特殊な性格や来歴が徳川幕府の消滅と密接に関係しているという観点から考えてみたいと思います。

徳川慶喜という人の最も大きな特色は、そもそもの来歴として、彼が水戸徳川家出身の人物であるということです。水戸徳川は慣例として絶対に将軍を狙えない立場にあったため、たとえば八代将軍の相続争いは尾張徳川と紀州徳川の間で行われたわけですが、水戸徳川はその相続争いには参加できなかったわけです。水戸徳川では水戸光圀以来の天皇崇拝思想の発展が見られ、徳川幕府の重要な一角を占める立場でありながら、徳川政権よりも朝廷を重視しようとする傾向が見られたのは、ここに述べたような水戸徳川の特別な立ち位置と関係があると私は思っています。

ではなぜ徳川慶喜が将軍になれたのかと言うと、慶喜が徳川三卿の一つである一橋徳川家の養子に入ったからです。八代将軍徳川吉宗以降、吉宗の出身母体である紀州徳川の人物が将軍職を独占できるようにとの発想法で新設されたのが徳川三卿なわけですが、これによってたとえば尾張徳川では徳川幕府を支持するというモチベーションが失われてしまい、戊辰戦争の時は早々に官軍につくという展開を見せています。

徳川慶喜が一橋の養子に入ったということは、紀州徳川の血統ではない人物が徳川三卿の一つに入り、将来の将軍候補として嘱望される立場になったということですから、水戸徳川関係者の意気が大いに上がり、慶喜を積極的に将軍に就任させようとするグループが形成され、これが一橋派と呼ばれるようになります。水戸徳川の人物が将軍職を継承することにリアリティが生まれたことで幕府官僚サイドで動揺が生まれ、慶喜の将軍就任にだけは抵抗したいという意思が生まれ、紀州徳川の徳川慶福を推薦するグループが形成され、こちらは南紀派と呼ばれました。大老の井伊直弼を中心にした南紀派が押し切り、十四代将軍は慶福が継承し、名を家茂と改めます。紀州徳川出身の徳川吉宗が八代将軍を継承した後も、紀州徳川家は温存されていたわけですが、これはそれ以前の徳川の慣例とはかけ離れています。五代将軍綱吉、六代将軍家宣はそれぞれ自分の藩を持っていましたが将軍継承と同時に藩は廃止されています。その慣例を破り、徳川吉宗は少しでも紀州系の人物の輪を広く残しておくために紀州徳川を温存し、結果として一橋派が台頭した際、紀州系によって制されていた徳川官僚の最終カードとして慶福が推薦されたのだと言うこともできると思います。

そもそも、吉宗以降は徳川三卿の人物が将軍継承順位としては優先でしたので、紀州の慶福が必ずしも優位であったとは言い難いのですが、水戸徳川に対するアレルギーが幕府官僚内部に存在していたのだと見て取ることができるとも言えるように思います。徳川慶喜の実父である徳川斉昭が頑なな尊皇派で口うるさく、慶喜が将軍に就任すれば斉昭が幕政に口を出す切っ掛けを得ることになりますから、それが嫌がられたのだとも言えるでしょう。

十四代将軍継承問題が決着した後に、井伊直弼による安政の大獄と呼ばれる粛清弾圧が行われますが、事の本質は一橋派の粛清であったわけで、それはこれまでに述べたような理由で、井伊直弼としてはできるだけ早期に一橋派の芽を摘んでおきたいと考えたのだと見ることもできます。そして弾圧に対する復讐として水戸脱藩浪士たちによる桜田門外の変が起き、井伊直弼は殺害されてしまうことになります。

幕政を仕切っていた井伊直弼は開国推進派で、安政五か国条約のような不平等条約を結んだことに対する思想的な反動が事件の背景にあったと説明されることもあると思いますが、基本的には思想とは関係のない怨みや復讐心のような側面が強かったのではないかと私は思っています。徳川慶喜は安政の大獄が始まってから井伊直弼が倒れるまでの間、蟄居謹慎ということになり、現代風に言うと外出禁止命令を受けていたわけですが、慶喜本人が何らかの犯罪行為をしたわけでもなんでもありませんので、慶喜という人物の内面には父親から受けた尊王思想の薫陶と同時に、幕政に対する不信感、幕府は存在しなくても別にいいのではないかという、彼らしい革新的な発想が生まれたのではないかと推測できると思います。

徳川慶喜の人物像を知る上で、もう一つ重要な点は生母が皇族の人物であるということも見逃せないのではないかと思います。後に慶喜が京都で政治の中心を握ることができるようになった理由として、彼が孝明天皇から厚い支持を得ていたことを無視することはできませんが、孝明天皇が慶喜を支持した背景には慶喜の生母が有栖川宮家の出身の人物であったということを挙げることができると思います。血統という概念は前近代的なものですから、あまり血統だけで全てを説明することは個人的には好まないのですが、当時の近代への移行期には、まだそういったことが説得力を持っていたのだと言うことはできます。

そのように考えますと、徳川慶喜は徳川家の人物でありながら、徳川官僚からは冷淡な扱いを受けた一方で、朝廷の支持は厚かったわけですから、慶喜本人が脱幕府の新しい政治を構想するようになったとしても、全く疑問ではないと言えます。

徳川幕府が滅亡した要因として、ペリーの黒船艦隊来航による幕府政治の影響力の低下や、財政的な困窮などが挙げられることがよくありますが、私はやや違った風に考えています。安政五か国条約で徳川幕府は関税自主権のない不平等条約を結んだわけですが、それまで入って来なかった関税という新しい収入源が生まれ、徳川幕府は経済的に潤っていたようです。徳川慶喜と松平春嶽が幕府政治の中枢に登場した時、彼らは幕府陸海軍を創設し、特に海軍は近代的で強力であったことが知られています。そういった近代的な装備を準備できたのも財政的な余裕があったことを示すものだとも思えます。

徳川慶喜は1867年に大政奉還を行い、徳川幕府は大政奉還の起案から朝廷の了承までの二日間で消滅したことになるのですが、これは慶喜のほとんど独断で京都で書類上の手続きをしただけのことに過ぎず、江戸の幕府官僚は何も知らされないまま事態が進行しました。逆に言えば、大政奉還したからと言って幕府の官僚組織は全くダメージを受けていなかったとも言えます。この大政奉還についても、徳川将軍が追い詰められてやむを得ず行ったというイメージを私は持っておりません。幕府は不要であると確信した徳川慶喜が自分を中心とした新しい近代的政府を樹立する目的で積極的に大政奉還したというイメージで捉える方が、より真相に近いのではないかと考えています。

尤も、徳川慶喜を中心とした新政府の樹立はありませんでした。彼は最後の最後で政争で敗れて二度と京都に入ることができず、完全に失脚します。大政奉還から完全に失脚して江戸へ脱出するまで僅かに数週間ですので、頭脳の良さを称賛された慶喜であっても、ぎりぎりのところで計算が狂ったと見ることもできるでしょう。

私はもし徳川慶喜を中心とした近代政府が樹立されていた場合、日本は帝国主義を伴わない近代国家になったのではないかとついつい想像してしまうのですが、慶喜中心の近代政府の樹立は、やはり難しかったかも知れないとも思います。慶喜は幕府官僚の支持を得ておらず、一方で大久保・西郷の薩摩コンビは執拗に慶喜失脚を狙う状態が続きました。慶喜の権力維持の根拠は孝明天皇の支持の一点にかかっていたと言っても良く、孝明天皇が病没した後は有力な支持基盤を失った状態でした。慶喜にとって頼れる者は自分の頭脳以外には無く、人は必ずミスをするものですから、大久保・西郷という天才的な人物たちが連携して慶喜を追い込もうと意図している状況下ではいずれは誤算により失脚していたと見るべきなのかも知れません。








平成がどんな時代だったかと振り返ってみると、小沢一郎さんの時代だったような気がする

平成という時代が始まった時、日本は史上最もいい時代を迎えていて、平成元禄という言葉が使われたりしました。この時、首相は竹下登さんで官房長官が小渕恵三さん、小沢一郎さんは官房副長官でした。辣腕と言われ、頭が良くて度胸が良くて顔が怖くて能力がある、要するに尋常ではない人物と評されていたわけで、田中角栄さんが「平時の羽田、乱世の小沢、大乱世の梶山」と評したそうです。今思うと、羽田孜さんが凡人で、小沢一郎さんが陰謀家、梶山さんは何をやるかわからないやたけたな人物だ、みたいな意味だったようにも思えます。

竹下登さんがリクルート事件で失脚した後は、竹下・金丸・小沢ラインと呼ばれる権力構造の中で、竹下さんの傀儡の政治家を小沢さんが操り人形にして首相するみたいなことが起きます。かつぐ神輿は軽いのがいいみたいなことを小沢さんが発言したのも、このころだったと思います。そう表現された海部さんは屈辱的だったのではないかと想像します。

小沢さんは首相指名権を事実上握るぐらいのところまでの実力者になり、なんとか指名を勝ち取りたい宮澤喜一さんから「大幹事長」と持ち上げられます。スーパーエリートの宮沢さんが平伏した時が、今から思えばあの人の一番の花だったのかも知れません。竹下さんと金丸さんは小沢一郎さんを首相に選ぼうと説得したこともあったのですが、小沢さんは絶対にやらないと固辞しました。自分が首相を傀儡にしているので、そんな風な首相に自分はなりたくない、自分は本格政権を作るんだと強い意志を持っていたのではないかなと想像します。

宮澤喜一さんはお気の毒だったと思うのですが、宮沢政権期に政治改革が議論され、政治改革が選挙制度に矮小化され、宮沢さんはテレビで「やる」と言って現場に裏切られて「嘘つき」と言われ、それを口実に小沢さんとその仲間が造反勢力になって、内閣不信任案の賛成に回り、宮沢内閣不信任が決議されてしまいます。今振り返ってみれば、小沢さんと竹下さんの感情的なもつれが要因だったようです。政治的な抗争という意味では竹下さんの方が小沢さんより上手で、衆議院竹下派は小沢系と非小沢系で二分されたものの、双方の紳士協定で参議院には手を突っ込まないと合意していたにもかかわらず、竹下さんが参議院を取り込んで、竹下派内の抗争は竹下さんの勝ちでゲームが進みました。

しかし一方で政権は自民党を飛び出した小沢さんが非自民を糾合して細川護熙内閣を作り上げます。羽田首班内閣でいくのかと思っていたら細川首班だったため、当時は大きな驚きが広がりました。宮沢政権不信任決議を受けて行われた解散総選挙で自民党は実は議席を増やしていましたが、小沢さんが引き抜いた人たちの分を補うことができず、自民党結党以来初めての非自民政権が生まれたわけです。野合とも言われましたが、時代が変わったと思って私は大きく影響を受けてしまい、しばらくは小沢さんの熱心なファンでした。政治のニュースも「小沢出せ、小沢」と思って観ていました。

ただ、細川さんが途中で嫌になって辞めてしまい、羽田首班で乗り切ろうとしたものの社会党外しが裏目に出て羽田内閣総辞職、改めての首班指名ではあろうことか自民社会連立政権が誕生し、小沢さんは野党へ。新進党を作ってみたり、壊してみたり、自由党を作って自自公連立みたいなこともやりましたが、やっぱり途中でダメになるを繰り返します。

よく見てみると小沢一郎さんと協力した政治家はみんな途中でダメになっていってしまいます。細川さんは政治の世界からドロップアウトして趣味人になってしまいましたし、羽田さんも半端に首相を辞めてしまうことになり、小沢さんと組んで政権を作った小渕さんも倒れてしまいました。他にも小沢さんと協力関係を結んでダメになっていった人を数えるときりがないですし、数えるだけ辛くなるので、ここではこれ以上は踏み込みません。

自民党には小沢アレルギーと呼ばれる現象が起き、絶対に非小沢の政党になったわけですが、野党でも非小沢の動きが生まれ、非自民小沢抜きの民主党が作られます。小沢さんの自由党は選挙の度に順調に議席を伸ばしますが、自民の力は堅調で、民主党が自由党に追い詰められると言う現象が起き、民主党の方が折れる形で小沢自由党と合流、小沢党首で新民主党が活動します。小沢さんという人の人生の浮き沈みの激しさ、周囲を振り回すやたらとでかい引力、関わった人間が次々とダメになっていくという不思議な力に私は驚愕もしますし、魅力も感じますし、でも、やっぱり限界も見えてしまいます。関わった人が次々とダメになるということは、小沢さんが周囲に無理をかけまくり圧迫しまくる人物だということを示しているのではないかと思います。みんな疲れて倒れていってしまうのです。そして途中で気づいた人たちは離れて行ってしまいます。

小沢さんの政策に関する考えには一貫性がなく矛盾だらけで、突き詰めるとやたらと派手な政局屋さんでした。今年の参議院選挙が小沢さんの最後の正念場みたいに言われています。もう一勝負するらしいです。私は一時、かなり小沢さんに注目していましたが、一、小沢ウオッチャーとしても疲れてしまいました。それでも過去三十年、小沢一郎さんを中心に政局が回っていた時期が相当あったというのは確かです。平成の始まりのころに注目を集め出し、平成の終わりとともに活躍を終えようとする小沢一郎さんが平成の主役の一人だったと言っていいと思いますし、やや誇大な表現かも知れませんが、平成は小沢一郎の時代だったと言っても言い過ぎではないように思います。








近代を構成する諸要素と日本

ここでは、近代とは何かについて考え、日本の近代について話を進めたいと思います。近代という言葉の概念はあまりに漠然としており、その範囲も広いものですから、今回はその入り口の入り口、いわゆる序の口という感じになります。

近代はヨーロッパにその出発点を求めることができますが、人文科学の観点から言えばビザンツ帝国が滅亡した後に始まったルネッサンスにその起源を求めることができます。しかし、それによって社会が大きく変動したかと言えば、そのように簡単に論じることができませんので、もう少し絞り込んでみたいと思います。

ある人が私に近代とは何かというお話しをしてくれた際、近代はイギリスの産業革命とフランスの市民革命が車の両輪のようにして前進し発展したものだということをおっしゃっていました。これは大変わかりやすく、且つ本質を突いた見事な議論だと私は思いました。

以上述べましたことを日本に当てはめてみて、日本の近代はいつから出発したのかということについて考えてみたいと思います。一般に明治維新の1868年を日本の近代化の出発点のように語られることがありますが、私はそれはあまり正確ではないように思います。というのも、明治維新が始まる前から日本では近代化が始まっていたということができるからです。

例えば、イギリスの産業革命が起きる前提として資本の蓄積ということがありますが、日本の場合、江戸時代という二百年以上の平和な時代が続いたことで、経済発展が達成され資本主義的な発展が都市部で起きたということについて、異論のある人はいないのではないかと思います。東海道などのいわゆる五街道が整備され、現代風に言えば交通インフラが整備されていたということもできるのですが、北海道や沖縄まで海上交通が整い、物流・交易が盛んに行われていました。特に江戸時代後半は江戸の市民生活が発展し、浮世絵でもヨーロッパから輸入した材料を使って絵が描かれたということもあったようで、当時の日本の貿易収支は輸入超過の赤字だったようですが、輸入が多いということは内需が活発であったことを示しており、江戸時代の後半に於いては豊かな市民生活による経済発展があったと考えるのが妥当ではないかと思います。大坂も商売の都市、商都として発展しましたが、大坂の船場あたりの商人の子弟などは丁稚奉公という形で十代から外のお店で住み込みで働き、やがて商売を覚え、独立していくというライフスタイルが確立されていたと言います。住み込みで働くことにより、勤勉さを覚えて真面目な商人へと育っていくわけですが、私はこのライフスタイルと勤勉であることを重視する倫理観について、マックスウェーバーが書いた【プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神】と同じ心理構造または行動パターンが生まれていたと考えてよいのではないかと思います。
さて、先ほども述べましたように江戸時代後半は江戸の市民文化が花開いたわけですが、経済的には一般の武士よりも成功した市民の方がより豊かな生活をしていました。興味深いのは、これは小林秀雄先生がお話しになっている音声を聞いて学んだことなのですが、当時のお金持ちはいろいろな遊びを経験して最後に辿り着くのが論語の勉強なのだそうです。つまり究極の道楽が勉強だというわけです。料亭のようなところでおいしいお料理とおいしいお酒を楽しんだ後で、論語の先生からお話しを聴いていたそうですが、このような文化的行動というのも、やがて維新後に起きる近代化に順応できる市民階層が江戸時代に形成されていたと言うことができるのではないかと思います。

さて、ここまでは経済のことをお話し申し上げましたが、次に政治についてお話ししたいと思います。江戸時代の武士は月に数日出仕する程度で仕事がほとんどなく、内職をするか勉強するか武術の稽古をするかというような日々を送っていたわけですが、結果として武士は知識教養階級として発展していくことになります。言い方を変えれば何も生産せずに、勉強だけしてほとんど役に立たないような人々になっていったということもできるのですが、彼らのような知識階級がしっかり形成されていたことにより、ヨーロッパから入って来る新しい知識を吸収して自分たちに合うように作り直すということができるようになっていたのではないかと私は思っております。

幕末に入りますと、吉田松陰がナポレオンのような人物が日本から登場することを切望していたそうです。中国の知識人である梁啓超もナポレオンのような人物が中国から登場しなければならないと書いているのを読んだことがありますが、ナポレオンは東洋の知識人にとってある種のお手本のように見えたのではないかと思えます。ナポレオンは人生の前半に於いては豊臣秀吉のような目覚ましい出世を果たし、ヨーロッパ各地へと勢力を広げて結果としてフランス革命の精神をヨーロッパ全域に輸出していくことになりました。ベートーベンがナポレオンに深い感銘を受け、【英雄】と題する交響曲を制作しましたが、後にナポレオンが皇帝に即位するという形で市民革命の精神を覆してしまうということがあり、大変に残念がったという話が伝わっています。

日本に話を戻しますが、幕末では日本の知識階級はナポレオンという人物のことも知っていたし、フランス革命や民主主義の概念のようなものもその存在が知られていたわけです。横井小楠や西周のような人が日本にもデモクラシーや立憲主義、三権分立のような制度を採り入れればいいのではないか、ヨーロッパの近代文明が成功している理由は封建制度から抜け出した市民社会の形成にあるのではないかというようなことを考えるようになったわけです。ですので、横井小楠が江戸幕府の政治総裁職を務めた松平春嶽のブレインであり、西周が最後の将軍の徳川慶喜のブレインであったことを考えますと、明治維新を達成した側よりも、明治維新で敗れた側の江戸幕府の方に政治的な近代化を志向する萌芽のようなものが生まれていたのではないかという気がします。徳川慶喜という人物の性格がやや特殊であったために、徳川を中心とした近代化は頓挫してしまいますが、あまり急激な変化を好まない徳川幕府を中心とした近代化が行われた場合、或いは帝国主義を伴わない穏やかな近代化もあり得たのではないかと私は思います。もっとも仮定の話ですので、ここは想像や推測のようなものでしかありません。

いずれにせよ、幕末期に政治権力を持つ人たちの中で、徳川慶喜、松平春嶽のような人は近代的な陸海軍の形成にも力を入れていましたし、立憲主義の可能性も模索した形跡がありますので、日本の近代化は明治維新よりも前に始まっていたと見るのがより実態に近いのではないかと言えると思います。








これは何度も練習した後で録画したファイナルカットです

こっちは何度もかみまくったので、「ボツ」なのですが、
思い出のために残しておきたいと思います。

映画『非常時日本』の荒木貞夫

大阪毎日新聞社1933年に作った『非常時日本』という映画がある。youtubeで断片的なものを見ることができたので、ここにそれについての備忘を残しておきたい。この映画については『日本映画とナショナリズム』という研究論文集で詳しく触れられているので、それも参照しつつ述べたい。

で、この映画の内容なのだが、荒木貞夫が今の日本人は西洋的資本主義の享楽に溺れて堕落していてなっとらんと叱咤しており、続いて日本精神や皇国精神、皇軍がどうのこうのと延々と演説するもので、画面には荒木の演説の声とともに都市生活を楽しむ当時の日本の人々の姿が映し出されている。要するに荒木の批判する人々の姿とともに荒木のやや高めの声が流れ続けるという代物なのである。おもしろいかと問われれば、ちっともおもしろくない。全くおもしろくないと言ってもいいほどおもしろくない。荒木の演説そのものが空疎で何を言っているのかよく分からないからだ。

『日本映画とナショナリズム』という論文集では、日本のことを「皇国」と呼び、日本軍のことを「皇軍」と呼ぶのを定着させたのが荒木貞夫その人であり、その定着手段が今回取り上げているこの『非常時日本』という映画を通じてだということらしかった。当時の日本は既に大正デモクラシーも経験しているため、リベラリズムを受け入れて生きている人は多かった。この映画に映し出されている声なき都市生活者だ。そして既に世界恐慌・昭和恐慌も経験しているため、やや資本主義への疑念がもたれている時代でもあったが、実は30年代に入ると関東大震災からの傷も癒えはじめ、高橋是清の財政もばっちり決まって日本は世界恐慌からいち早く立ち直り、また大正デモクラシーの時代よろしく明るく楽しい資本主義の世界は始まりかけていた時代であったとも言える。

だが、満州事変後の日本は、結局は自ら新しい繁栄を放棄するかのようにしてひたすらに滅亡へと走って行ってしまい、残念ではあるが戦争にも負けてしまった。もし日本が満州事変とかやらずに明るく楽しい消費社会に突入していたら、世界の歴史は全く違ったものになっていたかも知れない。で、荒木貞夫は明るく楽しい消費社会を批判する演説をしていたわけだが、当然のごとくこの映画はヒットしなかったらしい。そりゃそうだ。当時の日本人は今の私たち日本人よりも遥かに娯楽を求めていた。私たちはある意味では娯楽に飽き飽きしている。ミニマリストを目指したり、プチ断食をしてみたりというのが流行るのは、娯楽と消費が限界に達して、ちょっと違ったことをやってみたいという風に世の中が変わってきたからだ。

一方で当時の日本人は洋服や洋楽を今よりももっと強く求めていたし、荒木貞夫の演説が心に届いたとも思えない。私は当時の帝国当局者の東南アジア向けのプロパガンダ放送に関する資料を読み込んだ時期があるが、東南アジア在住の邦人には時局に関するニュースや国威発揚の演説よりも西洋音楽の放送の方が需要があって、プロパガンダを流しても効果がないと担当者がこぼしていたのを読んだことがある。かように30年代の人々は戦争よりも消費と西洋を求めていた。

以上述べたことをざっくりと要約して結論するとすれば、1930年代、一般の日本人は西洋化、資本主義的消費社会、明るく楽しい資本主義みたいな方向に進みたがっていたが、満州事変以降、しっかり戦争をやって勝ちたい当局としては、たとえば荒木貞夫のようなおしゃべり好きをメディアに登場させて宣伝し、人々の戦意高揚をはからねばならなかった。従っていわゆる戦前的全体主義は1930年代以降に急速に盛り上がったもので、それ以前、そんなものは存在しなかった。ということができるだろう。無駄な戦争をやって敗けて滅亡したのだから、残念なことは残念だが、荒木貞夫みたいな人たちが権力の中枢にいることを許容する権力構造が存在した以上、いずれは破綻するしかなかったのかも知れない。



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