平治の乱‐平清盛の全盛期の始まり‐その後には頼朝と義経が

保元の乱で最終勝利者みたいな立場になったのが後白河天皇です。宿敵みたいになってしまった崇徳天皇を排除することに成功しただけでなく、源氏・平氏・藤原氏の内側にいる反対勢力の排除にも成功しました。権力の中の人たちは隅から隅まで後白河天皇派ですから、もしかすると天智天皇や天武天皇以来の強力な天皇だったと言えるかも知れません。

しかし、そのような後白河天皇にとって晴れやかな時代は長くは続きませんでした。政治を実質的に仕切ったのは側近の信西だったからです。おそらく、30歳くらいまで遊んでばかりいた後白河天皇は政策にも儀礼にも明るくなく、面倒なことは秀才の誉れ高いスーパーインテリの信西に頼む以外にはなかったのかも知れません。また、武力という点では平清盛に頼るしかありませんでした。要するに後白河天皇には、天皇という権威以外、何もなかったのです。よくよく観察してみると、孤独で遅咲きだった男が、平安末期の動乱の時代をバランス感覚だけで生き延びるためにどうすればいいか、知恵を絞っていたかわいそうな姿が目に浮かんできそうです。

さて、そのような信西に近づいたのが近衛天皇の母親だった美福門院です。美福門院は実子の近衛天皇が亡くなったことで非常に落ち込んでいたであろうことは想像できますが、彼女にはもう一人、自分で出産したわけではないけれども、我が子同様に育てた男の子がいました。その男の子は後白河天皇の息子であり、同時に美福門院の養子であるという状態だったわけです。そして美福門院にとって、後白河天皇は愛情をちっとも感じない赤の他人でしたから、後白河天皇を早く引退させて、その子を天皇にしようと信西に持ち掛けます。そもそも後白河天皇は、近衛天皇が亡くなった時の会議で、後白河天皇の息子がある程度成長するまでのつなぎとして天皇にするという合意があって即位した人ですから、秀才信西から見ても、後白河天皇の早期の引退は当然のことのように思えたはずです。後白河天皇にそれを拒否するだけの実力はありませんでしたから、おそらくは不承不承に受け入れて息子に譲位したものと想像できます。こうして登場した新たな天皇が二条天皇です。本来なら、後白河天皇はこれで上皇になり、院政ができるはずなんですが、信西にがっちり固められているので、政治には手も足も出ないというわけです。

ですが、後白河上皇は新たな作戦を思いつきます。藤原信頼という人物を抜擢するのです。信頼は通常では考えられないスピードで出世しますが、これは後白河上皇が人事に介入したからですね。但し実力のない後白河上皇の推薦によって出世するのは限界があります。信頼はもしかすると摂政関白くらいを狙ったかも知れませんが、そんなこと後白河上皇にできるわけないんです。途中からそれ以上進めなくなった信頼は不満を募らせるようになったと言われています。そして藤原信頼が挙兵し、京都御所を占拠して後白河上皇と二条天皇を逮捕します。平清盛がいればこんなこと、できなかったに決まっているんですが、清盛は京都を離れて熊野詣をしているところでした。信頼は軍事力を源氏の棟梁である源義朝に頼っていたんですが、義朝の軍事力はさほど強力ではなく、清盛が京都に戻ってくれば誰が勝つかは明らかでした。ただし、信頼側は後白河上皇と二条天皇を軟禁しており、上皇と天皇さえ手元にあれば清盛も手を出せないという計算もありました。信頼と天皇と上皇が一緒にいる以上、信頼に弓をひくことは天皇と敵対することになってしまうため、清盛にもためらいがあったわけです。226事件でも反乱軍が皇居を背後した山王ホテルにたてこもりますが、ロジックとしては同じもので山王ホテルに攻撃があれば、それは皇居に向かって弾を撃つことになるためうかつには手が出せないだろうとの計算があったというわけです。

平清盛が京へ戻ってくるまでの間、生命の危険にさらされていたのが信西です。信西は都の郊外に逃れ、穴を掘って入り、そこで清盛を待つことにしました。しかし、発見されてしまいます。信西は自害しようとしたらしいのですが、発見された時はまだ生きていたそうです。いずれにせよ信西は首を切られ、信西の首をやりにくくりつけた武士たちが京都市中を行進する様子を描いた絵画も残されています。

清盛は一旦、信頼に恭順の意を表します。当時、信頼が天皇と上皇を監視する係で、源義朝は軍事的に周辺を固める係との役割分担があったようなのですが、清盛が帰ってきたと知った後白河上皇はなんと脱出に成功します。そして最後の切り札の二条天皇までもが脱出し、信頼の監視体制の甘さがバレバレになるという事態に発展しました。

さて、後は清盛が信頼と義朝をなんの憂いもなく征伐すればいいというだけの話になりました。信頼は義朝に日本一の大馬鹿野郎と罵られて逃走します。義朝も東国へ向けて逃走するのですが、義朝は途中で家臣に殺されます。この家臣は平家滅亡後、義朝の息子の頼朝の命で殺されています。信頼の方は仮にも藤原氏のお公家さんですから、よもや殺されることはあるまいと思ったのでしょうか、しかし信西も藤原氏の人物です。信西を殺しておいて自分だけ助かるとはやはり考えが甘いですね。信西は後白河天皇に命乞いするも拒絶され、斬首されました。

このようにしてみると、関係者それぞれが痛みを感じる中、平清盛の一人勝ちみたいにも見えますが、もうちょっと考えてみると、少し違った構造が見えてくるようにも思えます。私は初めてじっくりと平治の乱について勉強した時に、これは最初から仕組まれていて、藤原信頼がはめられたのではないかとの印象を持ちました。黒幕は多分、後白河上皇です。後白河にとっては信西は目の上のたんこぶのような存在であったに違いありません。二条天皇に譲位させられ、自分の院政は形式的なものにすぎませんでした。信西さえいなければ…との悪魔のささやきはあるけれど、かといって表立ってやるわけにはいかない。そこで、自分の飼い犬である藤原信頼をかませ犬にしたというわけです。信頼が信西を殺せば、自分の手を汚さずに済む。信頼のことも用済みになれば見捨てればいいとの考えもあったことでしょう。信頼は後白河に命じられて挙兵したわけですから、後白河に命乞いしたのも助けてくれるとの確信があったのかも知れません。まあ、裏切られたわけですが。信頼の上皇と天皇への監視が甘いのもうなずけます。信頼からすれば、天皇のことはともかく、上皇はお芝居をしているだけで実は共犯ですから、監視なんてしなくてもいいと思えたんです。仲間なんだもの。後白河を信頼してしまったのが落ち度だったのかも知れません。

信西が死に、信頼が死に、後白河上皇は今度こそ自分が最終勝利者になったと思ったかも知れません。しかし、新たな挑戦者が台頭してきます。平清盛です。次回は後白河vs平清盛という感じの内容になると思います。

平清盛は保元の乱、平治の乱を通じて後白河の側に立ち、後白河を支えてきましたが、遂に全ての敵を倒した結果、後白河と最後の聖戦みたいな対決状態に入ってきます。しかし人が失敗する時は、まさかそんなことでと思うことで足元をすくわれるのが普通なのかも知れません。平治の乱の戦後処理で平清盛は痛恨のミスを犯すことになりました。源義朝の息子の頼朝の命を助け、伊豆へ島流しにしたのです。頼朝・義経が平氏と戦争することについてはまたもう少し後にやってみたいと思います。



保元の乱-複雑すぎる人間関係-そして平清盛の時代へ

平安時代の終わりの始まりと言える保元の乱は、知名度の高いできごとであるわりには、内容的なことはさほど知られてはいないと思います。というのも、人間関係が非常に複雑で、更にその時代の慣習に対する理解がないとわけがわからないということが多く、学校の教科書などではとても説明しきれるものではないからなんです。

今回はできるだけ簡潔に、分かりやすく、本質的な肝の部分に集中して述べてみたいと思います。事の発端は天皇家の内紛にあります。当時の天皇家は白河上皇以降、院政をする上皇が政治の実権を握っていました。で、白河上皇の次の堀河上皇の次の鳥羽上皇という人がいて、その人の一番上の息子さんが崇徳天皇になります。崇徳天皇は今回の最重要人物の一人です。この段階で鳥羽上皇が政治の実力者で崇徳天皇は鳥羽上皇の指導監督を受け入れる立場ということになります。ですが、そのことに天皇が不満を抱く必要は本来ありません。自分が天皇を引退して院政をする、その順番を待っているだけのことだからです。ところが、崇徳天皇の場合だけ、そういうわけにはいきませんでした。鳥羽上皇は崇徳天皇を退位させて、上皇を名乗らせるんですが、次の天皇を崇徳天皇の息子である重仁親王ではなく、崇徳天皇の弟を指名し、その人が近衛天皇になります。上皇が院政をする条件は現役天皇の直接の父か祖父であることが原則必須なので、崇徳上皇の弟が天皇になった場合、崇徳上皇の院政をする権利が失われてしまうんですね。崇徳上皇からすれば、親父に騙されたようなものです。もっとも、崇徳上皇は鳥羽上皇の息子ではなく、白河上皇っていう三代前の遊び人上皇の息子説があるので、げ、気持ち悪いって話なんですが、それで鳥羽上皇は崇徳上皇を好きになれなかったという話もあります。本当かどうかは分かりませんけれど、崇徳上皇には罪がないですから、本当だったとしても気の毒ですよね。

で、ですね、この近衛天皇の即位については、母親の影響力の問題もあるんです。崇徳上皇と近衛天皇は兄弟なわけですが、母親が違うんですね。崇徳上皇の母親は待賢門院という人で、近衛天皇の母親は美福門院という人なんです。どちらも鳥羽上皇のお妃さまになるわけですが、母親同士、自分の産んだ息子を天皇にしたいと願う策謀があったとしても理解はできます。近衛天皇の即位はその母親の美福門院の勝利であり、即ち崇徳上皇の母親の待賢門院の敗北を意味しています。このままいけば、近衛天皇の子孫が天皇家を継承していくことになると考えられました。

ところが、番狂わせが起きます。近衛天皇が若くして亡くなってしまうのです。近衛天皇は17歳だったため、皇太子もいなかったのですが、近衛天皇の崩御を受けて、皇室関係者で会議が開かれます。崇徳天皇の息子の重仁親王を押す声もあったようなのですが、鳥羽上皇が全力で拒否し、崇徳天皇のもう一人の弟が後継者として選ばれます。この人が後白河天皇なんですね。源平の戦いとかになると、必ず悪役として語られる超有名なトリックスターです。後白河天皇という人は自分が天皇になれるとは思っていなかったし、周囲もそうは思っていなかったので、遊んで暮らすことしか考えていなかった人で、白拍子の今様とか踊れたとかって話が残ってますから、まあ、現代風に言えばストリートダンスみたいなのが得意な高貴な若者だったような感じだと思うんです。庶民と一緒に遊んでいた人が天皇になるんですから、今だったらけっこう魅力的な人として扱われたかも知れませんね。で、彼が天皇になった時はすでに成人していました。当時は天皇は子どもがなるもので、大人になったら上皇になるのが普通と考えられていましたから、大人になってから天皇になるって実はちょっと変な感じなんですよ。でも、その変な感じなにもかかわらず、みんなでごり押ししちゃったんですね。はっきり言えば、崇徳上皇には権力を渡さないとする鳥羽上皇の強い意志を感じますね。後白河天皇は崇徳上皇と同じ母親を持っていて、先ほど述べた待賢門院なわけですから、待賢門院的には受け入れることができる人選であったと言えるかも知れません。待賢門院と美福門院のばちばちの対決は待賢門院の勝利で決着したわけです。美福門院は反撃するんですけど、それは次回やりますね。

ですが、崇徳上皇は納得できませんでした。後白河天皇が弟である以上、自分が院政をすることができないからです。私だったら政治をするより上皇になったら遊びたいですけど、崇徳上皇は多分、よほど鳥羽上皇にいじめられたんでしょうね。そんなことではすまなかったんだと思います。で、鳥羽上皇が亡くなるのを待って、崇徳上皇は兵を集めることにしました。崇徳上皇が兵を集めているという知らせが後白河天皇のところに届き、後白河天皇のところにも兵が集まり始めます。源氏・平氏の武士も分裂して崇徳上皇のところに集まった武士と後白河天皇のところに集まった武士とにわかれました。これからスーパースターになっていく平清盛は後白河天皇のところに自らの兵を率いて集まったんですね。当時、藤原摂関家も跡目相続の争いが起きていて、一旦は相続を約束されたのに反故にされてしまった藤原頼長という人が崇徳上皇の味方につきます。崇徳上皇サイドはなんというか、排除されてしまった人たちの集合体みたいになっていたんでしょうね。

京都を舞台に後白河天皇派と崇徳上皇派がそれぞれに集まって一触即発ということになり、後はどちらが先に手を出すかという感じになりました。崇徳上皇の陣地では、夜明け前に夜襲をかけ、敵の陣地を焼き払えばいいじゃないかとの意見が出ましたが、それは卑怯な手法だとして却下されます。崇徳上皇の側は政治的に敗けてしまった人たちが集まっているため、ここで卑怯な手法をとってそれでも負けてしまったら、やっぱりあいつらはダメなやつらだったんだと言われかねないと不安になったのではないでしょうか。仮に負けたとしても正々堂々と戦ったという名誉は残したいと思ったのかも知れません。非常に気の毒なのは、歴史は勝利者の都合のいいように書かれるので、敗けても有終の美があるというのは、甘美な幻想に近いところがあるんですが、それに崇徳上皇は気づいていなかったというか、そういったイメージにしがみつきたいくらい不安だったのかも知れませんね。

一方の後白河天皇の方でも軍議が開かれ、平清盛は夜襲を主張し、それが受け入れられて彼らは実行に移します。後白河天皇としては崇徳上皇に院政の権利がない以上、自分たちが正統な政権であり、正規の軍事行動によって暴徒を鎮圧するのだから夜襲であっても卑怯でもなんでもないというロジックがあったのかも知れません。

未明になって後白河軍が出撃し、両軍は鴨川を挟んで一進一退したと言われていますが、後白河サイドが崇徳サイドの建物に放火し、崇徳上皇と藤原頼長が脱出して勝負が決まります。藤原頼長は重傷を負い、奈良に逃げてそこで命を失います。崇徳上皇は捕らえられて讃岐に島流しです。崇徳上皇は讃岐でなくなりますが、激しい恨みと憤りを抱えたまま亡くなったために怨霊になったとも言われます。今は崇徳上皇の御霊は手厚く神様としてお祭りされています。

保元の乱はこのようにして幕を閉じましたが、政治の実権は後白河天皇の側に就いた当時最強のインテリである信西が握りました。側近政治が始まったと言っていいでしょう。それまでは天皇家との血縁の距離が政治力を決めましたが、信西は血縁を越えたわけです。当時の常識をくつがえすできごとであったために軋轢がうまれ、反発もうまれ、次の平治の乱で信西は殺されて平清盛の時代へと続きます。保元の乱で実際に戦闘をしたのは武士階級の兵士たちです。たとえ皇族であろうと貴族であろうと、武士が集まって来なければ敗けてしまいますから、実質的に武士が政治のキャスティングボードを握る時代に入ったということもできます。それまでひたすら貴族に従っていた武士が、あ、あれ、俺たちって強いよね?と気づいたと言ってもいいかも知れません。武士の時代の始まりの始まりのスタートラインが保元の乱であったわけです。



平清盛の登場

平清盛はお母さんが誰なのか漠然としか分かってはいません。有名な『平家物語』では、祇園女御という女の人が母親だということになっています。で、この祇園女御という人はですね、白河天皇のおそばに仕える女性であったようです。平清盛の父親は平忠盛という人なんですが、当時のお公家さんが書いた日記によると、この人の奥さんは白河天皇のお近くで仕えていた女性だったということらしいので、平忠盛と祇園女御の間に清盛が生まれたということであれば、それでめでたしなのですが、実は清盛の本当の父親は白河天皇なのではないかと、ひそかに噂されていたようです。

というのも、白河天皇は天皇を引退して上皇になってからというもの、それはそれは手あたり次第に女性と関係する人で有名だったようなのです。そのため、祇園女御が妊娠したことがわかると、白河天皇の北面の武士として忠実に使えていた平忠盛に与えたという話になるんですね。白河天皇というか白河上皇の女性好きはちょっと信じがたい伝説にもなっていて、崇徳天皇は一応鳥羽天皇の息子ということになってるけど、実はその前の前の天皇の白河上皇が本当の父親というようなへんな噂です。本当だったら意味不明で気持ち悪いです。

この白河天皇の名前がわりと有名な理由は、院政を本格的に始めたのがこの人だからなんですね。それ以前も院政が行われていたんじゃないかとの指摘もあるようなんですが、本当にパワーを発揮したのはこの人からということで、藤原摂関家と上皇が協力して政治をするというのがサイクルになっていたと考えられています。表面的には協力という表現になりますけど、実際には互いに権力という綱を引っ張り合っていたという感じではないでしょうか。ちょっと藤原摂関家で不幸が続いてしまい、藤原氏の方がパワーダウンしてしまった間隙を突くように、白河上皇が権力ゲームの最終勝利者みたいになったようです。院政の特徴は、上皇という天皇家の家長が天皇を監督するという形で政治を行うため、藤原氏の摂関政治よりはるかに強権的に物事を進めることができたということのようです。従って、多くの荘園の寄進があったりして、儲かる儲かるフィーバー、みたいなところもあったかも知れません。

まあ、それくらいパワーのある人だったので、平忠盛も祇園女御を与えられて、ますます忠誠に励んだのかも知れません。一応、祇園女御の妹が実は平清盛の本当の母親という説もあるにはあるんですが、なんか、どっちでもいいというか、知れば知るほどどろどろしていて疲れてしまいます。

いずれにせよ、この平清盛は出世が早いんですよ。12歳で従五位になります。従五位というのはお公家さんの一番下の位なんですが、要するに清盛は武士の出身なのに公卿になることができたというわけなんです。この異例の大出世の理由としては、祇園女御が相当なパワーを持っていて、清盛を押したからだとも言われますし、そのような押しがきいたのは、祇園女御が元白河天皇の恋人だったから、あるいは、やっぱり清盛は本当に白河天皇の息子だったから。というようなゴシップぽい話になるわけです。

今回は推測だらけで誠に申し訳ないとも思うのですが、それくらい謎に包まれた平清盛が天下を獲るというのは、とても魅力的なおもしろいことだと思うので、次回以降、平清盛を中心に保元の乱、平治の乱、そして清盛の天下獲りから平家の衰亡へと話を進めていきたいと思います。平安時代末期は武士が台頭して戦乱の時代になるわけですが、清盛はめっちゃ強いんですね。そういう謎な面と優秀な面を持ち、トップに駆け上がったというのが、繰り返しになりますけど、魅力的に思えてなりません。



源氏物語と摂関政治

平安時代、天皇が直接政治に関わって意思決定をする時代は終わり、代わりに藤原氏による摂関政治が通常運用されていくようになります。

藤原氏による摂関政治がどういうものかをなるべく手短に述べてみたいのですが、まず天皇の皇后を必ず藤原氏の女性にします。で、皇后が生んだ男子を次の天皇に即位させます。そうすると、皇后の実家の藤原氏のお父さんは、天皇の母方の祖父という立場になります。ですから、眷属という観点から言えば、この藤原氏のおじいちゃんは天皇よりも立場が上になります。ですので、天皇が幼少の間はこのおじいちゃんが摂政として天皇の代わりに政治を行うわけです。摂政は天皇代理ですね。で、天皇がだんだん成長して大きくなってくると、摂政は必要ありません。天皇は大人になったらなんでも自分でできるからです。ですから、建前上、摂政は終了します。代わりに関白が天皇の代わりに政治をします。関白の場合は、天皇代理ではなく、天皇に対して政治の責任を負うという感じですね。戦前の内閣が天皇に対して責任を負っていたのとイメージとしては近いと思います。建前としては、天皇は素晴らしいので、摂政に頼らなくていいんだけれど、政治のような汚れ仕事は関白がやりますから、どうか帝は毎日楽しく過ごしてくださいという感じでしょうかね。誰が関白をやるかというと、天皇の母方の祖父として摂政をしていた人が引き続き関白をやります。メンバーは同じなんですね。要するに形式を整えて藤原氏が政治権力を完全に握り、天皇は実権を失っていきます。とはいえ、これで両者が持ちつ持たれつ、うまくやっていたのが摂関政治とも言えるでしょう。天皇家に政治の実権を奪い返そうとしたのが白河上皇による院政の開始ということになりますが、これまた次回以降になると思います。で、このシステムが機能し続ける限り、天皇の母親は必ず藤原氏の摂関家の人でなくてはいけませんでしたから、逆に言うと天皇の息子でも、お母さんが藤原摂関家の人でなければ用済みというか、生きていると逆に命を狙われるかも知れないので一休さんみたいに早々に出家したりするということになるんですね。

さて、この摂関政治の最盛期がいつかと言えば、非常に有名ですけれど、藤原道長の時代だったわけです。ただし、道長自身はもともと藤原摂関家のトップだったわけではないんですね。藤原摂関家のトップを氏の長者と言ったりしますけれど、道長にはお兄さんがいました。で、このお兄さんが道隆という人なんですが、お酒が大好きな人で、関白まで上り詰めるものの、糖尿病で死んでしまいます。で、道長にチャンス到来というわけです。おそらくはあちこちに賄賂も送って様々な工作に明け暮れたと思うのですが、兄道隆の息子が藤原氏の氏長者になることを阻止することに政治生命をかけて成功し、自分が氏長者になることを一条天皇に認めてもらいます。道長は権力強化のために、自分の娘彰子を一条天皇の皇后にします。実はこれはかなり強硬策だったのです。というのも、一条天皇には既に、藤原道隆の娘の藤原定子という女性を皇后にしていたんです。天皇は権力者ですから側室を複数持つことは問題なかったんですが、皇后二人は一条天皇以前にはありませんでした。つまり初めてのことでした。皇后は天皇の正妻さんなわけですが、一条天皇には正妻が二人いたわけです。清朝最後の皇帝だった溥儀には第一夫人と第二夫人がいたのは、ラストエンペラーという映画でも描かれていますが、溥儀の正式な妻は飽くまでも第一夫人だけであって、第二夫人とはランクが違っていました。それくらい正式な妻は一人というのが近代以前の東洋でも普通な概念なわけですが、一条天皇には同格の皇后が二人いたわけです。その異例ぶりをご理解いただけますでしょうか。

そして、道長の娘の彰子の家庭教師になったのが、源氏物語を書いた紫式部というわけですね。ちなみに、ライバルの皇后である定子の家庭教師が清少納言です。時々、おもしろがって紫式部vs清少納言みたいな語られ方をすることがありますが、世代的には清少納言の方が若干上で、両者は面識はなかったみたいです。紫式部は清少納言をライバル視していたみたいですが、清少納言からすれば自分の引退後に紫式部が出てきたみたいな感じなので、どうでもよかったんじゃないですかね。

紫式部は宮中に仕えながら源氏物語を書いたわけですが、これが平安貴族の間で大ヒットし、紫式部は一挙にスターみたいになったそうです。一条天皇も源氏物語を愛読していて、紫式部の生徒である彰子とは、源氏物語が共通の話題になり、そのおかげで仲良しになったみたいなイメージでとらえられているみたいです。

源氏物語を真面目に読めば気づきますが、主人公の光源氏ってキャラクター的には結構、テキトーなんですね。光源氏が政治の世界でどうやって生き延びていくかとか、そういった男性目線からの切実な内容は省略されています。光源氏は出世も失脚も復活もするんですが、細かいことは書かれていません。紫式部にとって、そんなことはどうでもいいからです。顔はいいけど、中身は最低というキャラクターで、紫式部は意識してそんな風に書いています。なぜかというと、紫式部はあちこちの女と遊ぶ悪い男のために涙する女たちの姿を描きたかったからだと私は理解しています。光源氏がものにしていく女性たちのプロフィールや心情、容姿などに関するディテールの細かいこと。具体的で、リアリティがあり、平安時代の貴族の生活が分かるだけでなく、心情ということに関しては、現代でも多くの女性の共感を得られるものになっていると言っていいのではないかと思います。

光源氏のモデルは藤原道長なのではないかという説もあるみたいなんですが、はっきり言ってどうでもいいですよね。仮に光源氏のモデルが道長であったとしても、紫式部は道長を描きたかったわけではないからです。

そういうわけで、藤原道長の摂関政治全盛期に誕生した源氏物語について今回は述べましたが、先に述べましたように、平安後期から末期にかけて、上皇による院政が行われ、摂関政治は衰退していきます。それについてはまた次回やりたいと思います。



孝謙天皇-天武系の滅亡と天智系の復活-

前回までに飛鳥時代から奈良時代前半にかけての天皇家の内紛について少し述べてきましたが、そのような内紛は主として天皇家が天智天皇の子孫と天武天皇の子孫に分かれたことに要因があったわけです。

天智系は壬申の乱の負け組になりますから、こちらの系統の皇族は、生きていても皇位継承の見込みが立たないため、わりとだらっとした感じで過ごしていたはずですが、天武系の方は勝ち組であるため、皇位継承の可能性があり、それが逆に兄弟たちの足の引っ張り合いに発展してしまい、さほど時を経ずしてほとんど適切な継承権のある人物がいなくなっていくという事態へと立ち至ってしまいました。

さて、天武系皇族がまだ、辛うじてどうにかなっていた時期、最も安定していたのは前回の聖武天皇の時代だったと思いますが、その次の天皇は、聖武天皇と光明皇后の間に生まれた女性の孝謙天皇が即位しました。

孝謙天皇は、多分、天武系の血塗られた歴史が、ほとほと嫌になっていたんだと思います。想像ですが、結構、潔癖症な人で、それゆえに、自分の内側にも古い天武系の血が流れているとか思って嫌悪していたんじゃないかと思います。カリオストロの城でクラリスが伯爵から、古いゴートの血が流れていると言われて耳をふさぐのと同じ感じなんじゃないでしょうか。なので、天皇家なんか潰れてしまえばいい、と思っていたんじゃないかと思います。というのも、孝謙天皇の時代に、残った天武系男子がほぼ全滅事態になったからです。彼女が彼らを潰した、故意に、場合によっては成り行きに任せて、潰したように思えてなりません。シャアがザビ家打倒を誓っていたものの、半分は自分の手でなんとかしたとはいえ、残り半分は自分意外の力でザビ家潰れて行ったのと似た感じに思えばいいかも知れません。たとえば彼女の父親である聖武天皇は道祖王という人を、孝謙天皇の次に指名していますけれど、立太子されたんですが、廃されてしまい、最期は拷問されて死んでいます。

孝謙天皇は大炊王(おおいおう)という人に皇位を譲って、大炊王は淳仁天皇になり、自分は上皇になったんですが、この時代、悪名高き道鏡と親しくなり、藤原仲麻呂などの朝臣たちと対立します。これが後に藤原仲麻呂の乱になるんですね。藤原仲麻呂は藤原南家になるんですけど、この戦いで藤原仲麻呂が戦死し、南家の他のメンバーが討ち死にしてまってダメになるんですが、代わりに藤原北家が台頭するようになり、平安時代には摂関家になっていきます。藤原仲麻呂は淳仁天皇とも協力関係であったと考えられていますし、天武系の皇子たちもこぞって仲麻呂の側についたんですが、敗戦してしまいましたから、皇子たちはことごとく流刑にされています。これで天武系がほぼ全滅になってしまうんですね。淳仁天皇も淡路島に流罪にされてしまい、非常に大きな無念を抱えてなくなったと伝えられています。

藤原南家の人物たちが討ち死にしていったのに対し、孝謙上皇と対立した皇族男子たちは命はとられることはありませんでしたから、皇族の命は奪わないと言う不文律がこの時代には既に確立されていたのが見えてきます。天智天皇が有間皇子を死刑にしたのとはだいぶ様子が違いますね。

いずにせよ、この戦乱で孝謙上皇に敵対する人物たちが同時にターミネートされたわけですから、ゴッドファーザー的問題解決がなされたと言っても良さそうですね。

そして孝謙上皇は、自ら再び天皇に即位します。称徳天皇と呼ばれます。彼女はこの時期に次の天皇は道鏡がいいとの神託を得たと言い張るんですが、もちろんそんな神の声が聞こえるなんて誰も信じないので、また悶着が起こりそうになるものの、和気清麻呂が神託を出した宇佐八幡宮まで確かめに行って、「その神託は嘘です」との証言を採って帰ってきます。和気清麻呂は流罪されてしまうんですが、それでも道鏡の天皇即位はありませんでした。称徳天皇は和気清麻呂を流罪にしてから半年ほどで病死していて、道教もそれに伴って追放されたんですが、あんまりにも問題ばかり起こしすぎたので、謀殺されていたとしてもおかしくないと思います。和気清麻呂は称徳天皇の死後に政治の世界に復活しています。

称徳天皇が亡くなった後、天武系皇族はまだ少しは残っていたんですが、藤原百川という人物が、天武系ひどすぎるので、天智系にしようと工作して押し切り、天智系の白壁王という初老の男性が光仁天皇として即位します。天智系の復活であり、現代までその系統が続いていることになります。

光仁天皇の皇后の井上内親王という人は天武天皇の子孫になるんですが、彼女と、彼女が生んだ男子はしばらくして呪詛した罪を被せられて命を落としています。当時、天武系の血統を根絶やしにするが、いかに熱心に行われたかを示すできごとのように思えてなりません。

本当に奈良時代の天皇家はすさまじいですね。次は光仁天皇の息子の桓武天皇の平安遷都の話になります。桓武天皇の時代にも早良親王が酷い目に遭っているんですが、それはまだ次回です。




聖武天皇と光明皇后の仏教ニューエージ

天武天皇とその妻の持統天皇は、朝廷を飛鳥の地以外のどこかへと移動させる必要を感じていたようですが、どこへ移動させるかということはかなり悩ましい問題だったようです。というのも、大和朝廷脱飛鳥計画は天武天皇の前の天智天皇の時から熱心に行われていたのは間違いないと思いますが、一度目は難波宮を建設して大坂へ脱出するも、関係者の仲間割れで元の木阿弥になり、大津宮を建設して琵琶湖の方に脱出したこともありましたが、壬申の乱で血塗られた歴史を背負ってしまい、あまり大津へ帰りたいとも思えない、はて、やっぱ飛鳥…?みたいなところもあったのではないかと思います。

しかし、思い切って陰陽師まで動員して藤原京という中国の長安をモデルにした新しい都を建設することに踏み切ります。建設はかなり進んだようなのですが、遣唐使から帰ってきた人が、「ちょっと違う」と言うので、改めて遷都先を探すことになり、奈良の都の平城京が建設されることになりました。本格的に長安をモデルにした都市建設が行われ、当初は長年使用される首都して期待されていたようですが、天皇家の内輪もめはひどいは、藤原氏も権力争いに参加するは、疫病でばたばた人が死んでいくわということで、奈良の都は咲く花の匂うが如き今盛りなりとうたわれたとはいえ、やっぱりなんか暗いんですよね。

で、陰謀が渦巻き疫病が流行する中、それでも清く、そして美しく生きようとしたの天皇が聖武天皇とその奥さんの光明皇后でした。聖武天皇は天武天皇のひ孫になるんですが、天武天皇の子孫たちが殺し合ったり病死して減少していきましたから、ひ孫の段階で既に後継者不足が懸念される中の大切な男子だったようです。父親の文武天皇も早世していますんで、当時としては、この子だけは健やかに育ってほしいと願いを込めて育てられたのではないでしょうか。妻の光明皇后ですが、こちらの父親は藤原不比等です。藤原氏は常に天皇家に女子を供給することで、天皇家の外戚として権力を維持してきましたが、その最初のケースが光明皇后です。

藤原氏は天武天皇にとっての宿敵の天智天皇と一緒に天下取りをした系統ですから、実は天武系皇族が繁栄している時代には分が悪かったんですけれど、藤原不比等が恵まれない境遇の中、懸命に皇室に使えて信用を築き、その息子たちである、いわゆる藤原四兄弟が団結して藤原氏の国政参加を不動のものへとしていきます。この過程では、天武系皇族として将来を期待された長屋王の謀殺も含まれていますから、天智系と天武系の仁義なき戦いは奈良時代に入っても続いていたと見るべきですね。そんな風におっかない藤原四兄弟も疫病で死んじゃいますから、本当に奈良時代の人って大変ですね。

そのような殺伐とした時代の中で、聖武天皇と光明皇后は本当に深く愛し合っていた夫婦と考えられているんですが、二人は男子を授かります。この男子の名前が基王(もといおう)と言うんですけど、生まれて一年もせずに亡くなってしまうんですね。当時はまだまだ、乳幼児が亡くなってしまうケースは多かったんでしょうね。この基王の死についてですね、さきほどの藤原四兄弟は長屋王が呪詛したんだと言い出したわけですよ。長屋王は基王がいなければ、天皇になれるかも知れないから、きっと呪い殺したんだ。みたいな話になるんですね。で、いずれにせよみんな死んじゃったわけです。

当時の聖武天皇の立場であれば、非常に大きな心痛だったということは言葉を尽くさなくても想像がつきますよね。自分の息子が早世してしまって悲しんでたいら従弟が謀殺されてしまうわけです。で、その従弟を死に追い込んだのは奥さんの兄弟ですからね。なんかもう、めちゃくちゃですよね。ですが、聖武天皇は強い人でした。ただ悲嘆に暮れるのではなく、その悲しみをバネにして、東大寺大仏殿の建設に乗り出します。息子さんの供養もあると思いますけど、奈良時代の血塗られた犠牲者たちをまとめて大仏様のお力でお救いください、平和な都にしてくださいという願いがこめられていたんだと思います。

奥さんの光明皇后も聖武天皇と一緒に、仏教信仰を厚くする生き方を選びます。奈良時代美術の中でも特に人気の高い阿修羅王の像が今も興福寺に保存されていますが、この像は光明皇后が基王がもし生きて成長していたら、こんな風になるだろうなと想像した姿を像という形態に作成させたものなんです。光明皇后の哀切に満ちた心境を想像することができますよね。奈良時代の初期から中ごろにかけてのこの時代、仏教芸術が花開きますけど、これって聖武天皇と光明皇后が辛い現実に向き合う必要から仏教へと傾倒していったことと関係があって、当時は仏教はまだまだ新しい外来の宗教ですし、目に見えない法則とか真理によって世界できてるっていう斬新な考え方がベースになってますから、現代風に言えば、スピリチュアル夫婦って言えると思うんです。時代は仏教ニューエージだったわけですね。そんな風に思うと、天平文化って今も教科書に書いてますけど、当時の人たちが新時代の萌芽を感じて胸を膨らませていた、そんな鼓動が感じられる芸術文化って言えるような気がしますよね。

光明皇后は恵まれない人たちのために、お風呂屋さんをしていたんですね。で、誰でも無料でお風呂に入れて、光明皇后自身がそこで働いて、人々の背中を流していたそうなんです。で、ポリシーとして、どんなに汚い人がきても必ず体を洗ってあげるという信念を持って頑張っていたそうなんですが、ある時、それはあまりに酷くて、ちょっと断ろうかと真剣に悩む感じの人がお風呂へ来たらしいんですよ。で、光明皇后は悩んだものの、意を決して、丁寧に洗ってあげます。皮膚の病を患っている人だったみたいなんですが、膿を吸い出してあげたりもしたと言われています。そうすると実はそのお客さんは如来様だったということが最後になって分かります。如来様は大変に満足されて天へとのぼって行かれたそうなんですが、光明皇后は、ああ、自分はこれをやってきて良かったという自己肯定感を得られるみたいな、そういう話のようなんです。

この話って、なんかに似てるなあと思ったんですが、千と千尋にそっくりなんですね。宮崎駿さんが光明皇后のことを知らないわけないですから、千と千尋の元ネタは光明皇后なんじゃないでしょうかね。




天武天皇の子孫たち‐そして誰もいなくなった

天智天皇が宿敵蘇我氏を倒すことで古代日本では天皇家独裁の方向へと舵が切られていったわけですが、その後、天皇家内部での仲間割れへと事態が発展して行きます。

天智天皇の死後、天智天皇の息子と弟で天下分け目の戦いが行われ、弟が勝利。弟が天皇に即位します。天武天皇です。天皇家はこの段階で天智天皇の子孫と天武天皇の子孫の二つに系統が分かれてきました。

天智天皇の子孫は、仮に健やかに成長したとしても、別にいいことがあるわけでもないし、特に人々から大事にされるわけでもなく、ただ、無為に日々を送る、無為徒食の人々になっていきます。負け組なわけです。これはこれで、もしかすると、のんびりとして穏やかでいい人生かも知れません。だって、皇族には変わりないですから、衣食住は保障されていて、しかも権力争いに巻き込まれることはないんですから。

一方の天武天皇の子孫はそんな安楽な人生を送るわけにはなかなかいきませんでした。というのも、彼らは勝ち組ですから、天皇になれる可能性のある人々なわけです。従って、競争は苛烈になります。天武天皇は成功者・権力者ですから、複数の女性に男子を産ませています。それぞれの女性が、自分の産んだ男子に後を継がせたいと考えて競争状態になるというのは全く不思議なことでもなんでもないというか、自然なこと、人情として理解できることなわけですね。

天武天皇は息子たちを吉野へ連れて行き、そこで約束をさせます。この約束を吉野の盟約と言うのですが、天武天皇の皇后で後の持統天皇になる女性の産んだ男子である草壁皇子を次期天皇にするということで他の皇子たちは競争しないと誓約させたわけです。ところがどっこい、大津皇子という人物がだんだん頭角を現していき、草壁皇子にとっての挑戦者のような存在になっていったと考えられています。で、草壁サイドはどうしたかというと、大津皇子は謀反を計画していると訴えました。大津皇子は捕らえられて自害させられています。挑戦者がいなくなったことで、草壁皇子の天皇即位かというと、そうはいきませんでした。やはり、大津皇子を死なせた直後に草壁皇子即位ではちょっと露骨すぎるのが憚られたのではないかと思うのですが、天武天皇の皇后が持統天皇に即位します。多分、ころあいを見て草壁皇子に譲位しようと考えていたと思えるんですが、肝心の草壁皇子が病没してしまいます。その他の皇子たちも持統天皇の在位中にばったばったと死んでゆき、皇位継承に適切な人物がほとんどいなくなってしまいました。

草壁皇子の息子さんが生きていたので、ぎりセーフだったわけですが、持統天皇はその人に譲位しました。それが文武天皇になるんですけど、その子孫には聖武天皇みたいに興味深い人もいるんですが、結論から言えば、あまりに激しい足の引っ張り合いや殺し合いが続いたために、結局のところ死に絶えてしまい、皇位継承は天智天皇の子孫にバトンタッチすることになりました。

負け組で、無為徒食で歌を歌ったり散歩したりして過ごしていただけのはずの天智系の復活なわけです。今の天皇家はこの天智系の子孫ということになり、天智系の運の良さみたいなものを感じないわけにはいきません。

というわけで、王朝交代かと思うほどの激しい権力争いの話をわりと今回はさらりとしてしまいましたが、天武系が滅んで天智系に移るまで100年くらいかかってます。その間に奈良時代という魅力的な時代も始まっていましたから、奈良時代のことを次回以降少しやってみたいなと思います。




天武天皇‐稀に見る超有能な史上最強天皇

天智天皇が亡くなった後、古代日本の天下は天智天皇の弟の大海人皇子と、天智天皇の息子の大友皇子とで分断されます。通常、後継者は父から息子へというパターンが多く、兄から弟へというパターンは非常に少ないですから、血統の原理を優先した場合、天智天皇の長男の大友皇子の方が有利と言えます。ですがこれは平時に於いてのことであって、有事・非常時になると話が変わってきて、有能な人物がヘゲモニーを握る、そのために平時の血統のロジックがひっくり返されるということは時々あるわけです。で、今回はそういう内容になります。

天智天皇が亡くなると、天智政権で太政大臣までつとめて政権ナンバー2にいた弟の大海人皇子は政治から身を引くと表明し、大津宮を出て吉野へ行きます。どういうわけか日本の歴史では政治的に苦しい立場になった人は吉野へ脱出するというパターンが多いですね。義経もそうですし、後醍醐天皇もそうです。で、大海人皇子もそういうわけで吉野へ脱出し、大友皇子とは対立しないという姿勢を鮮明にしたわけです。ただ、多くの人がその姿勢を信用していなかったみたいです。というのも、天智天皇と大海人皇子はどうも仲が悪かったようなんですね。額田王という女性を兄弟でとりあってますし、天智天皇の後継者問題でも、天智天皇は当初、弟を指名していて、後に息子に変更しています。こりゃ恨みもつのるというものです。しかも、大海人皇子は相当に頭も良く、行動力もあったみたいですから、有能かつ恨みを持つ男が吉野へ逃れた以上、これはリベンジを挑んでくるというような感じで見られていたみたいです。そして実際、彼はリベンジ戦に臨み、勝利するわけなんですね。

このリベンジ戦が壬申の乱なわけですが、大海人皇子は挙兵する前に伊勢に立ち寄り、伊勢神宮の神様からおまもりいただいて、スーパーナチュラルな能力を発揮した。というような話になってます。大海人皇子が魚を釣り、身の半分だけ切り取って川に戻したら泳いだ。みたいな話になってるんですね。すっごく包丁さばきのうまい名人が魚を半分だけ切って水槽に戻すというのをyoutubeで見たことありますから、スーパーナチュラルなんじゃなくて、手が器用だったということなのかも知れませんね。

それはともかく、おそらく大海人皇子には陰陽道に関する知識が豊富な側近がいたりして、中国の道教の知識も導入して、大海人皇子がスーパーナチュラルな強さを持ってるという伝説づくりを熱心にやっていた様子を見て取ることができます。

で、多分、スーパーナチュラルとか関係なく、大海人皇子が有能だったからだと思うんですが、壬申の乱では大海人皇子が勝利し、大友皇子は自害したと伝えられます。大友皇子は明治になってから天皇だったということにされて、弘文天皇という名を贈られていますが、実際に即位したかどうかは不明です。即位していたとしても全く不思議ではないんです。大海人皇子が吉野に去ってから、ささっと儀式をやっちゃへばよくて、手続き的な問題にすぎません。大嘗祭みたいな大げさなのは仮にできなくても特例的にOKな場合がありますから、大友皇子が即位していたとしても、全然おかしな話ではありません。ただし、即位した形跡が見当たらないので、自信をもって即位したとも言い難いんですね。大海人皇子が勝利して天武天皇になるわけですけど、天武天皇サイドからすれば、大友皇子の正統性が低ければ低いほどいいわけですから、大友皇子が即位していた形跡を全て消し去るという努力がなされたとしても、不思議じゃないんですよ。まあ、真相は分かりませんけれどね。

で、天武天皇なんですが、即位してから古事記、日本書紀の編纂をさせます。そして初めて、「天皇」という称号を使用することになるんです。それ以前の天皇は、天武天皇の時代から遡って、天皇だったということで話をまとめているわけなんですが、天武天皇が初めて、その治世の時に、「俺は天皇だ」と自覚している天皇ということになります。その自覚的な天皇という称号は今日まで続いているわけですね。ですから天皇の歴史がどこから始まったと考えるかについてはいろんな意見があり得ますけれど、最も短く見積もった場合は、天武天皇の時代から始まったというように捉えることができるわけで、それが大体、西暦700年ごろということになります。どんなに短く見積もっても1300年の歴史がありますから、充分長いということはできると思いますね。

「天皇」という称号の由来なんですが、道教では北極星のことを天皇星と呼ぶらしいんですね。で、どうもこれだろうなと考えていいと思います。天武天皇が、豊富な道教の知識を用いて、北極星を表す天皇星から天皇という称号をとってきたわけです。ですから、天皇というのは、道教の体系をパクってきて、日本で使えるようにアレンジしたものと言ってもいいかも知れません。

この「天皇」という称号の導入の凄いところは、これを使うことによって、天皇家はその他の貴族や豪族とは違うんだよということが明確に分かるということです。天皇は人というより神なんだというイメージの形成はここから始まるわけです。天皇って、天の皇帝ですから、超絶神秘的で、神聖なんだっていう雰囲気を作ることができる呼称なわけです。天皇家は天武天皇の時代になって明確に君主という立場を固めたとも言えると思います。それ以前は豪族の中の豪族というか、一番強い豪族、最強ランクの豪族だから偉い!という感じだったのが、豪族じゃなくて、君主ね。強いから偉いんじゃなくて、生きてるだけで偉いんだよ。ということになったと捉えることができるわけですね。

で、日本の神話とか、天智天皇の大化の改新の事業とかも、この天皇家神聖伝説に合うように再編成されたんだと思います。再編成されたから良いとか悪いとかというものはありません。新約聖書はローマ帝国時代に再編集されたものなわけですが、歴史なり理論なり哲学なりというものは再編集を繰り返すことで洗練されていくものだと言えると思います。




天智天皇の晩年の挫折

中大兄は中臣鎌足とタッグを組み、まずは大敵の蘇我入鹿を倒した後、次々と政敵を倒して権力の全てを自らの手中に収めます。孝徳天皇とか、有間皇子とか、容赦ない目にあわされているわけですし、ちょっと詳しく調べてみると、そのサイコパスぶりにぞっとするほどです。

中大兄の政治手法の特徴は自分が天皇になるのは慎重に避け、傀儡を推し立てて後ろから全体の糸を引くというものです。特に孝徳天皇の時はそれが顕著だったわけですが、孝徳天皇の謎の崩御の後、一度は天皇から退位した母親を引っ張り出して、再び天皇に即位させます。お母さんだったら裏切る心配はないので、安心といったところなのかも知れません。

で、このお母さんに天皇をしてもらっているときに、日本を取り巻く国際社会が大きく変動します。日本の友好国の百済が滅亡してしまうんです。百済は朝鮮半島の日本に近い方に位置する王国で、国王の息子さんが日本に人質的な感じで送られてきたりしていたので、日本優位の同盟関係を結んでいた相手ということになります。現代で言えばアメリカと日本の関係みたいな感じかもしれません。戦国時代で言えば信長と家康みたいな感じでしょうかね。ただ、人質をとっていたからと言って、百済を奴隷のごとく見下していたかというとそういうわけではなかったようです。安全保障について責任を感じていたらしく、百済滅亡の報に接すると、中大兄はお母さんと一緒に博多方面まで出張し、朝鮮半島での戦争の準備に入ります。ところがここでお母さんが病死してしまいます。陣中での病没ですから、お母さんも心身が疲労していたのかも知れません。とはいえ68歳まで生きたわけですから、当時としては充分生きたと言えるとも思います。

中大兄はお母さん以上に便利に使える天皇がいないため、いよいよ自分が天皇になるしかないか・・・とも思うのですが、しばらくは天皇に即位せず、即位予定者の立場で政治をしたそうです。往生際悪いですね。どうしても天皇をやりたくなかった、できるだけやりたくないというのが実によくわかります。想像ですが、天皇になっちゃうと人々の関心は次の天皇は誰?に移ってしまうため、自分の影響力が相対的に低下し、レームダック化する時期が近付くということを気にしていたのかも知れません。中大兄は弟を後継者としていましたが、後に息子が生まれちゃうんです。一番悪いパターンですね。豊臣秀吉にとっての秀頼みたいな感じですね。遅すぎる男の子だったわけです。中大兄には自分が死んだら弟が自分の息子を殺して天皇の位を簒奪するという未来が見えていたのかも知れません。多分、弟を殺したいと思っていたはずです。弟の方もですね、意思と能力の両方の面で史上最強の弟で隙あらばと虎視眈々だったと思います。

中大兄は弟を殺している場合ではありませんでした。朝鮮半島での戦争に片を付けるのが先だったんです。白村江の戦いが行われました。白村江は日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍の戦いだったわけですが、あまり深く考えずに突撃した日本側が、よく整理された戦闘隊形で臨んだ唐サイドに対してほぼパーフェクト負けしたとも伝えられています。日本海海戦のバルチック艦隊みたいな目に、この時は日本艦隊側があわされたという感じのようです。海が日本兵の血で赤くなったということですから、The Coveという映画のイルカ漁の現場みたいになっていたのかも知れません。実際に同時代に生きていたらめっちゃ怖いですよね。

中大兄は敗戦ですっかりびびってしまい、まずは都を大津に移します。大津は比較的内陸にありながら大河が大阪湾までつながっているため、船による情報伝達がやりやすいというメリットがあったのかも知れません。九州には水城という砦を築き、兵隊を大量に九州地方に送り込みます。防人と呼ばれた男たちですね。で大津宮でいよいよ天皇に即位し、そうして先ほど述べたように、自分の次は誰でしょうゲームになってしまいます。

晩年の中大兄、即ち天智天皇の人生は全くぱっとしません。もっとも頼りにしていた中臣鎌足は病没してしまいます。敗戦で打ちひしがれ、史上最強の弟が自分の息子を殺そうとプランを練っているであろう難しい時期に死なれちゃったわけですから、天智天皇は心細かったに違いありません。鎌足が亡くなった後、弟を日本史上初の太政大臣に任命します。太政大臣という仰々しい役職に就かせることで、天皇への忠誠を誓わせようとしたんでしょうね。今でいえば、首相が自分の首を狙ってきそうなライバルの政治家を副総理に任命したりするような感じだと思います。で、首相の首をとりたい政治家は官房長官を辞任したりしますけど、これも理屈としては同じで公式な役職についていると、その時の政権に忠誠を誓わないといけないので、そういう風にすることで弟を封じ込めようと思ったんだと思います。そんなこんなでおおわらわのうちに、唐からは敗戦を認めろよという話が来て、日本は敗戦国の立場で遣唐使を送ることになります。

弟を太政大臣にすることで、要するに最大の敵を自分の近くに置くことで、後は機会を見て弟を殺す予定だったと思いますが、その前に天智天皇は病没します。一説では他殺説もあります。当時の天智天皇は40代ですから、病死するにはまだ早いんですよね。弟に殺された可能性も否定しにくい感じのようです。

蘇我入鹿を殺してから20年以上の間、独裁的に政治を行い、邪魔者を殺してきた天智天皇ですが、以上のようにして運が尽きたまま治世を終えました。そして弟が天智天皇の息子を殺して天下を獲り、天武天皇になるわけですが、天武天皇についてはまた次回以降で。