中華文化の清明節と日本のお彼岸はすることが似ていますが、時期が近いだけで関係はないのですか?

「中華文化の清明節と日本のお彼岸はすることが似ていますが、時期が近いだけで関係はないのですか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

関係あると思います。日本のそういったことって結構、中国の道教の影響を受けているはずですから。「天皇」という名称を最初に使ったのは天武天皇ですが、北極星のことを天皇星と呼んでいるところからぱくっていると考えてさしつかえないと思いますし、伊勢神宮を整備したのも奥さんの持統天皇が藤原京を作ったのも、中国から来た陰陽道、要するに風水に基づいて進めたと考えて良いと思います。




もし、徳川幕府が何らかの理由で倒れ、天下統一される前の戦国時代のような状態で開国要求勢力が日本に到着したら、日本も清のような状態になっていましたか?

「もし、徳川幕府が何らかの理由で倒れ、天下統一される前の戦国時代のような状態で開国要求勢力が日本に到着したら、日本も清のような状態になっていましたか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

インドみたいになったと思います。インドは各地のマハラジャが互いに覇を競い合う状態であったため、イギリスがマハラジャAと組んでマハラジャBを滅ぼしたり、マハラジャCと組んでマハラジャDを滅ぼしたりを繰り返し、最終的にビクトリア女王を皇帝として戴くインド帝国になりました。清の場合は中央集権国家であったため、戦争に敗けるごとに列強に土地を切り与えねばなりませんでしたが、統一国家としてのまとまりを失うには至りませんでした。日本がもし戦国時代の状態で、英米仏露の艦隊がやってくるというようなことになれば、容赦なく、丸ごと飲み込まれるか、列強の間で分割され、日本という国は消滅したと思います。



日本国憲法は敗戦後の絶望の末に制定されたのか、それとも終戦後の未来への希望をもとに制定されたのか、結局どちらなのでしょう?GHQの思惑などとは別で日本側で携わった方たちの活動を知りたいです。

「日本国憲法は敗戦後の絶望の末に制定されたのか、それとも終戦後の未来への希望をもとに制定されたのか、結局どちらなのでしょう?GHQの思惑などとは別で日本側で携わった方たちの活動を知りたいです。」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

幣原喜重郎内閣の時に松本蒸治という人物が憲法改正草案を作らされました。ただ、明治憲法が天皇の大権が全てという建付けになっていたのをある程度制限するという感じのものだったので、マッカーサーががっかりし、マッカーサー三原則を提示して今の憲法が書かれることになったわけです。当時は様々な民間試案も作られたみたいで喧々諤々あったみたいですから、憲法制定史を調べればいろいろ出てくるだろうなと思います。上に述べたのは、ほんのうわべで申し訳ないくらいの薄い内容ですが、まあ、そんな感じです。



世界の標準語として使われる英語は、イギリス(英国)由来であると思いますが、フランス語やドイツ語、ポルトガル語ではなく、英語が覇権を握った理由はなんでしょうか?

「世界の標準語として使われる英語は、イギリス(英国)由来であると思いますが、フランス語やドイツ語、ポルトガル語ではなく、英語が覇権を握った理由はなんでしょうか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

19世紀に覇権を握ったのはイギリスで、20世紀に覇権を握ったのはアメリカでした。2世紀にわたり英語圏の国が覇権を握ったのですから、英語が世界の標準言語として認識されるようになったとしても、不思議に思うようなことではありません。

以下、余談です。

フランスは確かに19世紀にイギリスと世界の覇権を争いましたが、アフリカでの戦いに敗れ、インドでの戦いにも敗れています。日本では薩長の背後にイギリスがつき、幕府の背後にフランスがついたため、幕末の動乱は英仏代理戦争みたいになっていたのですが、これも薩長勝利で要するにイギリス勝利ということですから、フランスはイギリスと対立すると基本負けています。フランスは結構弱くて、清仏戦争でも負けかけていて、包囲され全滅しそうになったこともあったようです。

ドイツ語についてですが、ハプスブルク家が神聖ローマ帝国とか、オーストリア帝国みたいな中央ヨーロッパの覇権を獲っていましたから、いろいろなことがうまく回っていれば、かなりのところまで行った可能性はありそうに思います。とはいえ大航海時代には乗り遅れ、産業革命でも乗り遅れてますから、どうしても2番手3番手のイメージが拭えませんし、フランス革命以降の歴史を見ると、神聖ローマ帝国はナポレオンによって解体されましたし、オーストリア帝国も第一次世界大戦の結果消滅。ドイツ帝国も同様に消滅しましたから、やはり国際政治で敗れたからドイツ語はそこまでパワーを持っていないという理解でいいのではないかなと思います。神聖ローマ帝国がローマ教皇とタッグを組んでヨーロッパを支配するという構造が続いたのですが、それがかえってあだとなってしまい、ナポレオンみたいな急進的な人物に狙い撃ちにされたという感がなくもありません。第一次世界大戦のときはウイリヘルム二世のようなボンクラが皇帝だったというのも運が悪いです。

ポルトガルですけれど、やっぱりナポレオンに引っ掻き回されて、王国としての実体が失われ、イギリスの好きなようにできる土地になったみたいなところがあるみたいです。今でも密かにポルトガルはイギリスの傀儡国家みたいな言い方がされる時があるみたいですが、現状もそうなのかどうかは分かりませんけれど。



海外の映画などで見られる間違った日本の文化の解釈にはどんなものがありますか?

「海外の映画などで見られる間違った日本の文化の解釈にはどんなものがありますか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

ドイツ人のアーノルド・ファンクという映画監督が撮影した『新しき土』という映画があるのですが、これは日本人の伊丹万作との二人監督ということで話題になりました。ドイツ語タイトルは『侍の娘』というもので、ファンクは最初からステレオタイプの日本イメージの映像を作る気まんまんだったようです。で、この映画では恋愛に敗れた原節子が自ら命を絶つために火山へ向かうという場面があります。侍=切腹であり、侍の娘というタイトルからも分かるように、侍の娘も恥辱を受ければ命を絶つとの前提があり、日本の温泉のイメージと結びついて火山で自殺という発想になったんだと思います。伊丹万作はこの設定にきれまくり、二人の監督は全く別々に映画を撮影しました。今、ネットで探せば、ファンク版は見つかるのではないかと思います。



朝鮮半島がロシア領になった場合、日本は軍事的にどのような不都合があったのでしょうか?

「朝鮮半島がロシア領になった場合、日本は軍事的にどのような不都合があったのでしょうか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

対馬海峡が最前線になり、いつでもロシア軍が九州を狙えるというのが、心理的負担になったであろうことは間違いありません。それを避けるために、九州を最前線にしないために朝鮮半島を日本が獲ったわけですが、結果としてはその朝鮮半島の外側も獲らないと安心できないと思うようになって、満州も獲り、満州の確保を確実にしたいので国際連盟を脱退し…ときりがなくなってしまって、帝国は滅亡まで走り切ってしまったわけですね。



大航海時代辺りのヨーロッパでは、日本や朝鮮、中国等の東アジア諸国はどのような国だと思われていたのですか?インドと同じ文化圏だと思われていたりしたんでしょうか?

「大航海時代辺りのヨーロッパでは、日本や朝鮮、中国等の東アジア諸国はどのような国だと思われていたのですか?インドと同じ文化圏だと思われていたりしたんでしょうか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

当時のインドという言葉は広く、東洋全域、中東の向こう側は全てインドでした。その意味ではインドと同じ文化圏だと思われていたと理解してもあながち間違ってはいないと思います。アメリカが西インドで、現代のインドからインドシナ、インドネシアの地域は東インドというわけで、どちらもインドだと思われていたわけですから、いかに漠然としたイメージしか抱かれていなかったかが分かります。黄金の国ジパングへ西回り航路で到達しようとしてインカ帝国にたどり着き、本当に黄金を略奪するという偶然の一致もあったわけですね。南米の黄金の都はエルドラドと呼ばれましたが、これも中尊寺金色堂と区別がついていたとはとても思えません。



玉音放送は敗戦の手続きの前に放送されてますが、講和の日時が決まる前にしたんですか?

「玉音放送は敗戦の手続きの前に放送されてますが、講和の日時が決まる前にしたんですか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

その通りです。講和が成立するのはサンフランシスコ条約の締結を待たなくてはいけませんから、調印が1951年で、発効が1952年です。

との回答だけですとちょっと意地悪なので、補足します。昭和天皇の終戦放送が8月15日に行われましたが、この段階でアメリカの占領をどのようにして行うか、どんな手続きが踏まれるべきかについては何も決まっていませんでした。19日になって日本軍の代表者が飛行機でフィリピンに飛び、具体的なことが話し合われました。その後、米軍は続々と日本への上陸を開始し、8月30日にマッカーサーが厚木基地に降り立ちます。そして9月2日にミズーリ号艦上で降伏文書への署名という運びになりました。



米国は日本に二度と戦争をさせないために憲法9条を押し付けたというのは俗説で、日本から進んで「戦争放棄」をしたのでしょうか?米国への忖度、米国の糸引きなどはなかったのでしょうか。

「米国は日本に二度と戦争をさせないために憲法9条を押し付けたというのは俗説で、日本から進んで「戦争放棄」をしたのでしょうか?米国への忖度、米国の糸引きなどはなかったのでしょうか。」というquoraでの質問に対する私の回答です。

マッカーサー三原則の一つが平和主義なわけですけど、これから憲法を書くぞ、という時期に幣原喜重郎がマッカーサーにこっそりと頼んで平和主義を盛り込んでもらったと言われています。そのため、憲法9条はアメリカの押し付けではなく、日本人の発案によると考えることもできるとも言われます。

しかしながら、幣原喜重郎がこっそり頼んだということは、要するに密室で決めたということですから、そのことについては慎重でなくてはならないとも思います。自分の政治理念を実現するために、堂々と議会で戦うのではなく、アメリカの外圧だという体裁で突破したからです。現代でも国際機関の日本への要求は財務官僚が裏でシナリオを書いてるなどと揶揄されることがありますが、それと同じということになってしまうわけですね。

そうは言っても、当時のマッカーサーが幣原喜重郎に頼まれたというだけで、平和主義を盛り込んだとはちょっと考えにくいと思います。マッカーサーの占領政策は基本的には昭和天皇との合意で進められていたと私は考えていますし、そのように考えている人はそれなりにいると思います。

というのも、マッカーサーはアメリカ大統領選挙に共和党代表として臨む準備を進めていて、日本の占領政策の成功を政治的な資産にしようと考えていました。占領を最も確実に成功させる手段は昭和天皇と手を組むことだと彼は考えていたようなのです。

根拠としては、有名なマッカーサーと昭和天皇の初面談の美談(昭和天皇が「私はどうなってもいいので、国民を助けてください」と発言したとされるもの)が、マッカーサーの回顧録だけに残っているということに求めることができると思います。というのも、マッカーサーは昭和天皇の人柄が最高なので、この人なしに日本占領は成功しないと思ったという趣旨のことを述べているのですが、これってちょっと斜めに読むと、天皇とマッカーサーを手を結ぶ儀式をしたと読み解くことはそんなに難しいことではないように思うんですね。

昭和天皇は当時の会見の内容は絶対秘密で死ぬまで誰にも言いませんでしたから、マッカーサーの言うところの昭和天皇の人間性が素晴らしい云々は、やっぱりちょっと眉唾だなと思わざるを得ないのです。

控え目に表現するとしても、この時になんらかの取引が行われたと見られてもおかしくはない状況だったと言えるでしょう。

では、仮に取引があったとして、それが何であったかと言えば、ソビエト連邦を意識したアメリカ軍による日本の長期占領、基地の提供、安全保障条約の締結などであったのではないでしょうか。昭和天皇は天皇制度の維持を条件にそれらの条件を受け入れ、win-winな関係を築いたのではないかと思うのです。

ですから、平和憲法は昭和天皇とマッカーサーの合意の結果、作られたものだと私はとらえています。

じゃ、幣原喜重郎が出る幕ってなんだったんでしょうか?一つは昭和天皇のメッセンジャーとしてマッカーサーに会いに行ったのを、彼は政治家ですから上手の自分の手柄のように吹聴した可能性があります。もう一つはマッカーサーと昭和天皇の合意を知らずに、考えすぎて頼みに行ったということもあるかも知れません。私は前者を採ります。当時の政治の中枢にいるものであれば、マッカーサーと天皇の蜜月に気づかないとは考えられません。幣原は空気を読み流れに乗ったのではないでしょうか。



第二次大戦後期にオーストリアで起きたイッター城の戦い(Battle for Castle Itter)のように、アメリカ兵と日本兵がともに戦ったような状況はあったのでしょうか?

「第二次大戦後期にオーストリアで起きたイッター城の戦い(Battle for Castle Itter)のように、アメリカ兵と日本兵がともに戦ったような状況はあったのでしょうか?」というquoraでの質問に対する私の回答です。

アメリカ兵と日本兵の協力というのは、ちょっと考えてみたのですが、聞いたことがないです。私が知らないだけかも知れませんけれど。ただ、中国で、国民党軍と旧関東軍将兵が協力して共産党軍とたたかったケースはありました。通貨事件と呼ばれていますが、結局、返り討ちにあってしまったため、ちょっとここでは述べられないような結末を迎えました。この時、溥儀の縁者が巻き添えになったことを溥儀の弟の溥傑氏の妻である嵯峨宮家の浩さんが自伝に書き残しています。