徳川慶喜‐人物と時代

250年続いた徳川幕府の最後の将軍が徳川慶喜という人物だということは広く知られていることですが、ここでは徳川慶喜という人物のやや特殊な性格や来歴が徳川幕府の消滅と密接に関係しているという観点から考えてみたいと思います。

徳川慶喜という人の最も大きな特色は、そもそもの来歴として、彼が水戸徳川家出身の人物であるということです。水戸徳川は慣例として絶対に将軍を狙えない立場にあったため、たとえば八代将軍の相続争いは尾張徳川と紀州徳川の間で行われたわけですが、水戸徳川はその相続争いには参加できなかったわけです。水戸徳川では水戸光圀以来の天皇崇拝思想の発展が見られ、徳川幕府の重要な一角を占める立場でありながら、徳川政権よりも朝廷を重視しようとする傾向が見られたのは、ここに述べたような水戸徳川の特別な立ち位置と関係があると私は思っています。

ではなぜ徳川慶喜が将軍になれたのかと言うと、慶喜が徳川三卿の一つである一橋徳川家の養子に入ったからです。八代将軍徳川吉宗以降、吉宗の出身母体である紀州徳川の人物が将軍職を独占できるようにとの発想法で新設されたのが徳川三卿なわけですが、これによってたとえば尾張徳川では徳川幕府を支持するというモチベーションが失われてしまい、戊辰戦争の時は早々に官軍につくという展開を見せています。

徳川慶喜が一橋の養子に入ったということは、紀州徳川の血統ではない人物が徳川三卿の一つに入り、将来の将軍候補として嘱望される立場になったということですから、水戸徳川関係者の意気が大いに上がり、慶喜を積極的に将軍に就任させようとするグループが形成され、これが一橋派と呼ばれるようになります。水戸徳川の人物が将軍職を継承することにリアリティが生まれたことで幕府官僚サイドで動揺が生まれ、慶喜の将軍就任にだけは抵抗したいという意思が生まれ、紀州徳川の徳川慶福を推薦するグループが形成され、こちらは南紀派と呼ばれました。大老の井伊直弼を中心にした南紀派が押し切り、十四代将軍は慶福が継承し、名を家茂と改めます。紀州徳川出身の徳川吉宗が八代将軍を継承した後も、紀州徳川家は温存されていたわけですが、これはそれ以前の徳川の慣例とはかけ離れています。五代将軍綱吉、六代将軍家宣はそれぞれ自分の藩を持っていましたが将軍継承と同時に藩は廃止されています。その慣例を破り、徳川吉宗は少しでも紀州系の人物の輪を広く残しておくために紀州徳川を温存し、結果として一橋派が台頭した際、紀州系によって制されていた徳川官僚の最終カードとして慶福が推薦されたのだと言うこともできると思います。

そもそも、吉宗以降は徳川三卿の人物が将軍継承順位としては優先でしたので、紀州の慶福が必ずしも優位であったとは言い難いのですが、水戸徳川に対するアレルギーが幕府官僚内部に存在していたのだと見て取ることができるとも言えるように思います。徳川慶喜の実父である徳川斉昭が頑なな尊皇派で口うるさく、慶喜が将軍に就任すれば斉昭が幕政に口を出す切っ掛けを得ることになりますから、それが嫌がられたのだとも言えるでしょう。

十四代将軍継承問題が決着した後に、井伊直弼による安政の大獄と呼ばれる粛清弾圧が行われますが、事の本質は一橋派の粛清であったわけで、それはこれまでに述べたような理由で、井伊直弼としてはできるだけ早期に一橋派の芽を摘んでおきたいと考えたのだと見ることもできます。そして弾圧に対する復讐として水戸脱藩浪士たちによる桜田門外の変が起き、井伊直弼は殺害されてしまうことになります。

幕政を仕切っていた井伊直弼は開国推進派で、安政五か国条約のような不平等条約を結んだことに対する思想的な反動が事件の背景にあったと説明されることもあると思いますが、基本的には思想とは関係のない怨みや復讐心のような側面が強かったのではないかと私は思っています。徳川慶喜は安政の大獄が始まってから井伊直弼が倒れるまでの間、蟄居謹慎ということになり、現代風に言うと外出禁止命令を受けていたわけですが、慶喜本人が何らかの犯罪行為をしたわけでもなんでもありませんので、慶喜という人物の内面には父親から受けた尊王思想の薫陶と同時に、幕政に対する不信感、幕府は存在しなくても別にいいのではないかという、彼らしい革新的な発想が生まれたのではないかと推測できると思います。

徳川慶喜の人物像を知る上で、もう一つ重要な点は生母が皇族の人物であるということも見逃せないのではないかと思います。後に慶喜が京都で政治の中心を握ることができるようになった理由として、彼が孝明天皇から厚い支持を得ていたことを無視することはできませんが、孝明天皇が慶喜を支持した背景には慶喜の生母が有栖川宮家の出身の人物であったということを挙げることができると思います。血統という概念は前近代的なものですから、あまり血統だけで全てを説明することは個人的には好まないのですが、当時の近代への移行期には、まだそういったことが説得力を持っていたのだと言うことはできます。

そのように考えますと、徳川慶喜は徳川家の人物でありながら、徳川官僚からは冷淡な扱いを受けた一方で、朝廷の支持は厚かったわけですから、慶喜本人が脱幕府の新しい政治を構想するようになったとしても、全く疑問ではないと言えます。

徳川幕府が滅亡した要因として、ペリーの黒船艦隊来航による幕府政治の影響力の低下や、財政的な困窮などが挙げられることがよくありますが、私はやや違った風に考えています。安政五か国条約で徳川幕府は関税自主権のない不平等条約を結んだわけですが、それまで入って来なかった関税という新しい収入源が生まれ、徳川幕府は経済的に潤っていたようです。徳川慶喜と松平春嶽が幕府政治の中枢に登場した時、彼らは幕府陸海軍を創設し、特に海軍は近代的で強力であったことが知られています。そういった近代的な装備を準備できたのも財政的な余裕があったことを示すものだとも思えます。

徳川慶喜は1867年に大政奉還を行い、徳川幕府は大政奉還の起案から朝廷の了承までの二日間で消滅したことになるのですが、これは慶喜のほとんど独断で京都で書類上の手続きをしただけのことに過ぎず、江戸の幕府官僚は何も知らされないまま事態が進行しました。逆に言えば、大政奉還したからと言って幕府の官僚組織は全くダメージを受けていなかったとも言えます。この大政奉還についても、徳川将軍が追い詰められてやむを得ず行ったというイメージを私は持っておりません。幕府は不要であると確信した徳川慶喜が自分を中心とした新しい近代的政府を樹立する目的で積極的に大政奉還したというイメージで捉える方が、より真相に近いのではないかと考えています。

尤も、徳川慶喜を中心とした新政府の樹立はありませんでした。彼は最後の最後で政争で敗れて二度と京都に入ることができず、完全に失脚します。大政奉還から完全に失脚して江戸へ脱出するまで僅かに数週間ですので、頭脳の良さを称賛された慶喜であっても、ぎりぎりのところで計算が狂ったと見ることもできるでしょう。

私はもし徳川慶喜を中心とした近代政府が樹立されていた場合、日本は帝国主義を伴わない近代国家になったのではないかとついつい想像してしまうのですが、慶喜中心の近代政府の樹立は、やはり難しかったかも知れないとも思います。慶喜は幕府官僚の支持を得ておらず、一方で大久保・西郷の薩摩コンビは執拗に慶喜失脚を狙う状態が続きました。慶喜の権力維持の根拠は孝明天皇の支持の一点にかかっていたと言っても良く、孝明天皇が病没した後は有力な支持基盤を失った状態でした。慶喜にとって頼れる者は自分の頭脳以外には無く、人は必ずミスをするものですから、大久保・西郷という天才的な人物たちが連携して慶喜を追い込もうと意図している状況下ではいずれは誤算により失脚していたと見るべきなのかも知れません。








平成がどんな時代だったかと振り返ってみると、小沢一郎さんの時代だったような気がする

平成という時代が始まった時、日本は史上最もいい時代を迎えていて、平成元禄という言葉が使われたりしました。この時、首相は竹下登さんで官房長官が小渕恵三さん、小沢一郎さんは官房副長官でした。辣腕と言われ、頭が良くて度胸が良くて顔が怖くて能力がある、要するに尋常ではない人物と評されていたわけで、田中角栄さんが「平時の羽田、乱世の小沢、大乱世の梶山」と評したそうです。今思うと、羽田孜さんが凡人で、小沢一郎さんが陰謀家、梶山さんは何をやるかわからないやたけたな人物だ、みたいな意味だったようにも思えます。

竹下登さんがリクルート事件で失脚した後は、竹下・金丸・小沢ラインと呼ばれる権力構造の中で、竹下さんの傀儡の政治家を小沢さんが操り人形にして首相するみたいなことが起きます。かつぐ神輿は軽いのがいいみたいなことを小沢さんが発言したのも、このころだったと思います。そう表現された海部さんは屈辱的だったのではないかと想像します。

小沢さんは首相指名権を事実上握るぐらいのところまでの実力者になり、なんとか指名を勝ち取りたい宮澤喜一さんから「大幹事長」と持ち上げられます。スーパーエリートの宮沢さんが平伏した時が、今から思えばあの人の一番の花だったのかも知れません。竹下さんと金丸さんは小沢一郎さんを首相に選ぼうと説得したこともあったのですが、小沢さんは絶対にやらないと固辞しました。自分が首相を傀儡にしているので、そんな風な首相に自分はなりたくない、自分は本格政権を作るんだと強い意志を持っていたのではないかなと想像します。

宮澤喜一さんはお気の毒だったと思うのですが、宮沢政権期に政治改革が議論され、政治改革が選挙制度に矮小化され、宮沢さんはテレビで「やる」と言って現場に裏切られて「嘘つき」と言われ、それを口実に小沢さんとその仲間が造反勢力になって、内閣不信任案の賛成に回り、宮沢内閣不信任が決議されてしまいます。今振り返ってみれば、小沢さんと竹下さんの感情的なもつれが要因だったようです。政治的な抗争という意味では竹下さんの方が小沢さんより上手で、衆議院竹下派は小沢系と非小沢系で二分されたものの、双方の紳士協定で参議院には手を突っ込まないと合意していたにもかかわらず、竹下さんが参議院を取り込んで、竹下派内の抗争は竹下さんの勝ちでゲームが進みました。

しかし一方で政権は自民党を飛び出した小沢さんが非自民を糾合して細川護熙内閣を作り上げます。羽田首班内閣でいくのかと思っていたら細川首班だったため、当時は大きな驚きが広がりました。宮沢政権不信任決議を受けて行われた解散総選挙で自民党は実は議席を増やしていましたが、小沢さんが引き抜いた人たちの分を補うことができず、自民党結党以来初めての非自民政権が生まれたわけです。野合とも言われましたが、時代が変わったと思って私は大きく影響を受けてしまい、しばらくは小沢さんの熱心なファンでした。政治のニュースも「小沢出せ、小沢」と思って観ていました。

ただ、細川さんが途中で嫌になって辞めてしまい、羽田首班で乗り切ろうとしたものの社会党外しが裏目に出て羽田内閣総辞職、改めての首班指名ではあろうことか自民社会連立政権が誕生し、小沢さんは野党へ。新進党を作ってみたり、壊してみたり、自由党を作って自自公連立みたいなこともやりましたが、やっぱり途中でダメになるを繰り返します。

よく見てみると小沢一郎さんと協力した政治家はみんな途中でダメになっていってしまいます。細川さんは政治の世界からドロップアウトして趣味人になってしまいましたし、羽田さんも半端に首相を辞めてしまうことになり、小沢さんと組んで政権を作った小渕さんも倒れてしまいました。他にも小沢さんと協力関係を結んでダメになっていった人を数えるときりがないですし、数えるだけ辛くなるので、ここではこれ以上は踏み込みません。

自民党には小沢アレルギーと呼ばれる現象が起き、絶対に非小沢の政党になったわけですが、野党でも非小沢の動きが生まれ、非自民小沢抜きの民主党が作られます。小沢さんの自由党は選挙の度に順調に議席を伸ばしますが、自民の力は堅調で、民主党が自由党に追い詰められると言う現象が起き、民主党の方が折れる形で小沢自由党と合流、小沢党首で新民主党が活動します。小沢さんという人の人生の浮き沈みの激しさ、周囲を振り回すやたらとでかい引力、関わった人間が次々とダメになっていくという不思議な力に私は驚愕もしますし、魅力も感じますし、でも、やっぱり限界も見えてしまいます。関わった人が次々とダメになるということは、小沢さんが周囲に無理をかけまくり圧迫しまくる人物だということを示しているのではないかと思います。みんな疲れて倒れていってしまうのです。そして途中で気づいた人たちは離れて行ってしまいます。

小沢さんの政策に関する考えには一貫性がなく矛盾だらけで、突き詰めるとやたらと派手な政局屋さんでした。今年の参議院選挙が小沢さんの最後の正念場みたいに言われています。もう一勝負するらしいです。私は一時、かなり小沢さんに注目していましたが、一、小沢ウオッチャーとしても疲れてしまいました。それでも過去三十年、小沢一郎さんを中心に政局が回っていた時期が相当あったというのは確かです。平成の始まりのころに注目を集め出し、平成の終わりとともに活躍を終えようとする小沢一郎さんが平成の主役の一人だったと言っていいと思いますし、やや誇大な表現かも知れませんが、平成は小沢一郎の時代だったと言っても言い過ぎではないように思います。








近代を構成する諸要素と日本

ここでは、近代とは何かについて考え、日本の近代について話を進めたいと思います。近代という言葉の概念はあまりに漠然としており、その範囲も広いものですから、今回はその入り口の入り口、いわゆる序の口という感じになります。

近代はヨーロッパにその出発点を求めることができますが、人文科学の観点から言えばビザンツ帝国が滅亡した後に始まったルネッサンスにその起源を求めることができます。しかし、それによって社会が大きく変動したかと言えば、そのように簡単に論じることができませんので、もう少し絞り込んでみたいと思います。

ある人が私に近代とは何かというお話しをしてくれた際、近代はイギリスの産業革命とフランスの市民革命が車の両輪のようにして前進し発展したものだということをおっしゃっていました。これは大変わかりやすく、且つ本質を突いた見事な議論だと私は思いました。

以上述べましたことを日本に当てはめてみて、日本の近代はいつから出発したのかということについて考えてみたいと思います。一般に明治維新の1868年を日本の近代化の出発点のように語られることがありますが、私はそれはあまり正確ではないように思います。というのも、明治維新が始まる前から日本では近代化が始まっていたということができるからです。

例えば、イギリスの産業革命が起きる前提として資本の蓄積ということがありますが、日本の場合、江戸時代という二百年以上の平和な時代が続いたことで、経済発展が達成され資本主義的な発展が都市部で起きたということについて、異論のある人はいないのではないかと思います。東海道などのいわゆる五街道が整備され、現代風に言えば交通インフラが整備されていたということもできるのですが、北海道や沖縄まで海上交通が整い、物流・交易が盛んに行われていました。特に江戸時代後半は江戸の市民生活が発展し、浮世絵でもヨーロッパから輸入した材料を使って絵が描かれたということもあったようで、当時の日本の貿易収支は輸入超過の赤字だったようですが、輸入が多いということは内需が活発であったことを示しており、江戸時代の後半に於いては豊かな市民生活による経済発展があったと考えるのが妥当ではないかと思います。大坂も商売の都市、商都として発展しましたが、大坂の船場あたりの商人の子弟などは丁稚奉公という形で十代から外のお店で住み込みで働き、やがて商売を覚え、独立していくというライフスタイルが確立されていたと言います。住み込みで働くことにより、勤勉さを覚えて真面目な商人へと育っていくわけですが、私はこのライフスタイルと勤勉であることを重視する倫理観について、マックスウェーバーが書いた【プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神】と同じ心理構造または行動パターンが生まれていたと考えてよいのではないかと思います。
さて、先ほども述べましたように江戸時代後半は江戸の市民文化が花開いたわけですが、経済的には一般の武士よりも成功した市民の方がより豊かな生活をしていました。興味深いのは、これは小林秀雄先生がお話しになっている音声を聞いて学んだことなのですが、当時のお金持ちはいろいろな遊びを経験して最後に辿り着くのが論語の勉強なのだそうです。つまり究極の道楽が勉強だというわけです。料亭のようなところでおいしいお料理とおいしいお酒を楽しんだ後で、論語の先生からお話しを聴いていたそうですが、このような文化的行動というのも、やがて維新後に起きる近代化に順応できる市民階層が江戸時代に形成されていたと言うことができるのではないかと思います。

さて、ここまでは経済のことをお話し申し上げましたが、次に政治についてお話ししたいと思います。江戸時代の武士は月に数日出仕する程度で仕事がほとんどなく、内職をするか勉強するか武術の稽古をするかというような日々を送っていたわけですが、結果として武士は知識教養階級として発展していくことになります。言い方を変えれば何も生産せずに、勉強だけしてほとんど役に立たないような人々になっていったということもできるのですが、彼らのような知識階級がしっかり形成されていたことにより、ヨーロッパから入って来る新しい知識を吸収して自分たちに合うように作り直すということができるようになっていたのではないかと私は思っております。

幕末に入りますと、吉田松陰がナポレオンのような人物が日本から登場することを切望していたそうです。中国の知識人である梁啓超もナポレオンのような人物が中国から登場しなければならないと書いているのを読んだことがありますが、ナポレオンは東洋の知識人にとってある種のお手本のように見えたのではないかと思えます。ナポレオンは人生の前半に於いては豊臣秀吉のような目覚ましい出世を果たし、ヨーロッパ各地へと勢力を広げて結果としてフランス革命の精神をヨーロッパ全域に輸出していくことになりました。ベートーベンがナポレオンに深い感銘を受け、【英雄】と題する交響曲を制作しましたが、後にナポレオンが皇帝に即位するという形で市民革命の精神を覆してしまうということがあり、大変に残念がったという話が伝わっています。

日本に話を戻しますが、幕末では日本の知識階級はナポレオンという人物のことも知っていたし、フランス革命や民主主義の概念のようなものもその存在が知られていたわけです。横井小楠や西周のような人が日本にもデモクラシーや立憲主義、三権分立のような制度を採り入れればいいのではないか、ヨーロッパの近代文明が成功している理由は封建制度から抜け出した市民社会の形成にあるのではないかというようなことを考えるようになったわけです。ですので、横井小楠が江戸幕府の政治総裁職を務めた松平春嶽のブレインであり、西周が最後の将軍の徳川慶喜のブレインであったことを考えますと、明治維新を達成した側よりも、明治維新で敗れた側の江戸幕府の方に政治的な近代化を志向する萌芽のようなものが生まれていたのではないかという気がします。徳川慶喜という人物の性格がやや特殊であったために、徳川を中心とした近代化は頓挫してしまいますが、あまり急激な変化を好まない徳川幕府を中心とした近代化が行われた場合、或いは帝国主義を伴わない穏やかな近代化もあり得たのではないかと私は思います。もっとも仮定の話ですので、ここは想像や推測のようなものでしかありません。

いずれにせよ、幕末期に政治権力を持つ人たちの中で、徳川慶喜、松平春嶽のような人は近代的な陸海軍の形成にも力を入れていましたし、立憲主義の可能性も模索した形跡がありますので、日本の近代化は明治維新よりも前に始まっていたと見るのがより実態に近いのではないかと言えると思います。








これは何度も練習した後で録画したファイナルカットです

こっちは何度もかみまくったので、「ボツ」なのですが、
思い出のために残しておきたいと思います。

映画『非常時日本』の荒木貞夫

大阪毎日新聞社1933年に作った『非常時日本』という映画がある。youtubeで断片的なものを見ることができたので、ここにそれについての備忘を残しておきたい。この映画については『日本映画とナショナリズム』という研究論文集で詳しく触れられているので、それも参照しつつ述べたい。

で、この映画の内容なのだが、荒木貞夫が今の日本人は西洋的資本主義の享楽に溺れて堕落していてなっとらんと叱咤しており、続いて日本精神や皇国精神、皇軍がどうのこうのと延々と演説するもので、画面には荒木の演説の声とともに都市生活を楽しむ当時の日本の人々の姿が映し出されている。要するに荒木の批判する人々の姿とともに荒木のやや高めの声が流れ続けるという代物なのである。おもしろいかと問われれば、ちっともおもしろくない。全くおもしろくないと言ってもいいほどおもしろくない。荒木の演説そのものが空疎で何を言っているのかよく分からないからだ。

『日本映画とナショナリズム』という論文集では、日本のことを「皇国」と呼び、日本軍のことを「皇軍」と呼ぶのを定着させたのが荒木貞夫その人であり、その定着手段が今回取り上げているこの『非常時日本』という映画を通じてだということらしかった。当時の日本は既に大正デモクラシーも経験しているため、リベラリズムを受け入れて生きている人は多かった。この映画に映し出されている声なき都市生活者だ。そして既に世界恐慌・昭和恐慌も経験しているため、やや資本主義への疑念がもたれている時代でもあったが、実は30年代に入ると関東大震災からの傷も癒えはじめ、高橋是清の財政もばっちり決まって日本は世界恐慌からいち早く立ち直り、また大正デモクラシーの時代よろしく明るく楽しい資本主義の世界は始まりかけていた時代であったとも言える。

だが、満州事変後の日本は、結局は自ら新しい繁栄を放棄するかのようにしてひたすらに滅亡へと走って行ってしまい、残念ではあるが戦争にも負けてしまった。もし日本が満州事変とかやらずに明るく楽しい消費社会に突入していたら、世界の歴史は全く違ったものになっていたかも知れない。で、荒木貞夫は明るく楽しい消費社会を批判する演説をしていたわけだが、当然のごとくこの映画はヒットしなかったらしい。そりゃそうだ。当時の日本人は今の私たち日本人よりも遥かに娯楽を求めていた。私たちはある意味では娯楽に飽き飽きしている。ミニマリストを目指したり、プチ断食をしてみたりというのが流行るのは、娯楽と消費が限界に達して、ちょっと違ったことをやってみたいという風に世の中が変わってきたからだ。

一方で当時の日本人は洋服や洋楽を今よりももっと強く求めていたし、荒木貞夫の演説が心に届いたとも思えない。私は当時の帝国当局者の東南アジア向けのプロパガンダ放送に関する資料を読み込んだ時期があるが、東南アジア在住の邦人には時局に関するニュースや国威発揚の演説よりも西洋音楽の放送の方が需要があって、プロパガンダを流しても効果がないと担当者がこぼしていたのを読んだことがある。かように30年代の人々は戦争よりも消費と西洋を求めていた。

以上述べたことをざっくりと要約して結論するとすれば、1930年代、一般の日本人は西洋化、資本主義的消費社会、明るく楽しい資本主義みたいな方向に進みたがっていたが、満州事変以降、しっかり戦争をやって勝ちたい当局としては、たとえば荒木貞夫のようなおしゃべり好きをメディアに登場させて宣伝し、人々の戦意高揚をはからねばならなかった。従っていわゆる戦前的全体主義は1930年代以降に急速に盛り上がったもので、それ以前、そんなものは存在しなかった。ということができるだろう。無駄な戦争をやって敗けて滅亡したのだから、残念なことは残念だが、荒木貞夫みたいな人たちが権力の中枢にいることを許容する権力構造が存在した以上、いずれは破綻するしかなかったのかも知れない。



関連記事
白山眞理著『報道写真と戦争』で学ぶ日本帝国の宣伝活動

白山眞理著『報道写真と戦争』で学ぶ日本帝国の宣伝活動

日本帝国政府内閣に「情報部」なるものが設置されたのが昭和1937年9月だ。日中戦争と歩を同一にしており、日本帝国政府が当初から日中戦争を総力戦と位置付けていたことを根拠づける展開の一つだと言うことができる。情報部は一方に於いて内務省警保局から引き継いだ検閲の仕事をし、一方に於いては宣伝・プロパガンダの仕事をした。ナチスの宣伝省をモデルにしていたであろうことは論を待たない。

で、今回は検閲の方の話ではなく宣伝の方の話なのだが、当時の帝国の宣伝対象は大きく3種類に分類することができる。一つは帝国内地の臣民、もう一つは外地・植民地の人々、もう一つが諸外国だ。内閣情報部は帝国臣民に読ませるために『週報』を発行し、やがて『写真週報』を発行するようになるが、他に対外宣伝の目的で『FRONT』『NIPPON』などの雑誌を発行する。英語を含む複数の言語で発行されていたらしい。アメリカの『ライフ』誌をモデルにして発行したもので、これらの雑誌の発行を通じて「報道写真」という分野が対外宣伝のために確立されていく。

内閣情報部の対外宣伝写真がほしいという要請を受けて名取洋之助、木村伊平、土門拳などの著名な写真家たちが日本工房なる会社を銀座に設立し、実際に大陸に渡って写真を撮影して帰って来るようになるのである。白山眞理先生の『報道写真と戦争』は、彼ら写真家たちの戦争中の足跡を戦後に至るまで丹念に情報収集した画期的な研究書だ。

この著作を読んで見えて来ることは、「報道写真」とはそもそもヤラセだということだ。報道写真は記録写真とは全く違うものだ。記録写真は証拠として残すために撮影するものだが、報道写真は情報の受け手が感動する演出を施して、「これが真実だ」と伝達する役割を負っている。演出はするが芸術写真とも異なるというところが微妙で難しく、醍醐味のあるところだとも言える。私は以前新聞記者をしていたことがあって、この手の報道写真を撮影して歩く日々を送っていた。ヤラセなければデスクが納得する写真は撮影できないので、新聞の写真は大抵がヤラセだと思っていい。私は新聞記者がヤラセを日常的に行うことに疑問を感じたが、ヤラセが普通だったので私もそうするしかなかった。白山眞理先生の著作を読んで、この報道写真のルーツをようやく知ることができたと思い、私は長年の謎が一つ解けたような感動を覚えた。

もう一つ興味深いのは、戦争は確かに日本に於ける報道写真というヤラセ撮影の文化を生み出したが、それがアメリカの雑誌をモデルにしているということだ。日本兵の骸骨を机の上に於いてほほ笑んでいる少女の写真とか、硫黄島で星条旗を掲げるアメリカ兵の写真とか、ヤラセなければ撮影できるわけがない。マッカーサーも自己演出のために自発的にヤラセ写真をプレスに撮影させた。フィリピン奪還上陸の写真は自分がかっこよく見えるように撮り直しをさせたと言われているし、昭和天皇と並んで映った写真も、写真がもつ効果を熟知した上でやっていることだ。写真の技術が発達して報道に使用できるようになった時、ヤラセになることは明白な運命だったのだとすら言えるかも知れない。

もともと写真は高価な趣味で、明治時代は徳川慶喜のような元将軍クラスの人物でないと遊べなかった。昭和の初めごろになると誰でも記念写真を撮れる程度には写真は気軽な技術になったが、それでもフィルムと現像の費用を考えれば慎重を要する技術で、見るものを感激させる報道写真を撮影するためにはヤラセるしかなかったのだとも言えるだろう。しかし現代はスマートフォンの普及に伴い、誰でも無限に撮影と録音ができる時代が来た。プロのカメラマンが撮るよりも、現場に居合わせた素人が本物を撮影して報道機関に持ち込んだり、ネットに直接アップロードするのが普通な時代になった。過去、報道写真は時代を作るほどの影響力を持ち得たが、今後は通用しなくなりすたれていくのではないだろうか。



関連記事
映画『非常時日本』の荒木貞夫

ナチズムと民主主義と女性

改めて述べる必要もないほどよく知られているように、ナチスは第一次世界大戦後に作られた世界的にも最先端の民主国家のドイツで大統領と議会と有権者の支持を得て誕生した独裁政権だ。当時の世界最先端とは、女性が参政権を得ていたという意味だ。そのため、一方に於いて平然と人命を奪う一方で、女性に対して務めて紳士的な姿勢を貫くという、どう解釈していいのか分からない、しかしそれだけに業の深い集団であったと言ってもいいだろう。

たとえがゲッベルスの妻マクダは理想的なドイツ人妻を最期まで演じきった。ゲッベルス夫妻の子だくさんは偶然ではない。ドイツ民族を産めよ増やせよのメッセージを国民に与えるために意図されたものだった。ゲッベルス夫妻の子どもたちはフォトジェニックであるがゆえに宣伝に利用され、映画館で上映された。夫妻の子どもたちはベルリン攻防戦が終わる直前に親によって毒殺されたことを知っている我々現代人がみれば、子どもたちのフォトジェニックさがかえって重苦しく見えてしまう。

ゲッベルスは浮気性だったことで知られており、マクダは離婚を真剣に考えたと言われているが、ヒトラーが仲裁して離婚は避けられた。ヒトラーが女性たちからの支持を得るために自身が独身を貫いた一方で腹心のゲッベルスには温かい家庭イメージを守り抜かせる必要があったからだ。ワイマール憲法下で女性の支持を得ることは確かに必須だったに違いないが、同時に女性の人気を得たいという幼稚な男性性をナチズムに感じるのは、このような小細工やこざかしい演出を様々な場面で見出すことができるからだ。

ゲッベルスのオフィスには多くの女性た働いていたが、その中の一人が晩年にインタビューに答えた内容から、ヒトラーとゲッベルスが女性からの支持を得るためにどれほど苦心していたかを見出すことができるだろう。
ナチスは民族主義と労働者の味方という分かりやすいメッセージを発信して支持を獲得した。本来ならドイツの資本家や旧貴族階級はナチスの敵でなければならなかったが、両者は共産主義を共通の敵とみなして結びついた。首相指名権を持っていた大統領のヒンデンブルクはヒトラーという若造が危ないやつだと気づいてはいたが、バカだとも思っていたので上手に手のひらで転がせると思ったし、共産党が政権を獲るよりはましだと思ったらしかった。結果としては何もかもめちゃくちゃになったのだが将来のことを知ることは不可能だ。ヒトラー本人も自分の最期は予見できなかったに違いない。

ドイツ民族を増やすという危ない民族主義は、金髪で碧眼という「理想的アーリア人」を増やすという方向性で動き出し、ヨーロッパの占領地ではSSの将兵と各地の金髪碧眼の女性が子どもを作るというプロジェクトが進行した。興味深いのは女性に意に沿わない性交渉がもたれたのではなく、将兵たちと選ばれた現地の女性たちとの間で合コンパーティが開かれ、女性も納得づくで子どもづくりが行われたことだ。もちろん、当時のナチス占領下でナチス将兵に交際を求められた際、断ることは困難だった可能性はあるため、どこまでが女性の本意だったのかを判断することは簡単ではない。だが、少なくとも体裁としてはパーティで知り合い同意の上で一対の男女になり、理想的なアーリア人の子どもの大量生産が図られたのである。そのようにして実際に生まれた子どもたちは、戦後になって自分の出自を知らされないまま成長するケースが多く、実際のところが完全に解明されているわけでもないようだが、父親がSSであるということを理由に酷い目に遭わされたケースもある。

19世紀の後半から20世紀の前半にかけて、世界は産業革命と市民革命という二つの近代化の両輪によって大きく変化し、人々は伝統的な生き方から近代的な生き方へと変貌するために戸惑い、努力し、失敗したり成功したりした。ナチズムはそのような近代化の過程で迷う人々の心の隙間に入り込み、残念ながらとことん成長してしまい、人類に大きな傷を残して破滅していった。民族の理想的な特徴を持つ人間を増やすために合コンパーティを開くということはばかげているし、それによって生まれた子どもが酷い目に遭わされるというのも人間の尊厳に対する重大な挑戦であるため、許容されてはならない。それらのことは21世紀の現代人には許容できない。2018年最後の日の今日、私はナチズムのようなことはある程度の条件が整えば今でも起こり得るということを考えつつ、私は現実世界に大した影響力を持っているわけでもなんでもないが、たまたまそういったものをいろいろ見て年末を過ごしてしまったので、私なりに慎ましくストイックな年越しをしようと思う。



明智光秀の自分探し

明智光秀はルーツや経歴が分かったような分からないような不思議な人物で、人物評価も一定しない。本能寺の変の実行犯であることは確かだが、『信長の棺』などで描かれているように、最近は光秀の他に黒幕がいたのではないかという話が流行しており、そっちの方がおもしろいので支持が集まるという構図ができあがっていると言える。

これは、戦前に秀吉が忠臣として高く評価されていたことと関係がある。明治新政府は徳川政権の否定を徹底する必要があったため、明治維新と一切関係のない豊臣秀吉を持ち上げた物語を流布させる必要があった。私が子どものころは戦前の教育を受けた人がまだまだ世の中を仕切っていたので秀吉は立派な人説が流布しており、私も『太閤記』の子供向け版みたいなのを読んで、頭が良くて心がきれいな豊臣秀吉は立派な人だと刷り込まれていた。秀吉は織田信長と良好な人間関係を築き、家臣としても誠実に仕えていて、その誠実さはどれくらいかというと信長が死んだあとに光秀と取引せずに打ち取ったのだからこの上もなく立派な人でそりゃ天下もとるでしょう。というような感じの理解になっていたので必然的に光秀は主君を殺した挙句に自分もやられるダメなやつ説を採用することになる。

やがて時代が下り、21世紀に入ってから秀吉善人説はほぼ姿を消したように思える。光秀を倒した後の秀吉の行動は人間性を疑わざるを得ないほど冷淡で打算的であり、知れば知るほど織田政権の簒奪者だというイメージが強くなってくる。そこから光秀が悪いのではなく裏で糸を引いていたのは秀吉なのではないか、いやいや、家康でしょう、いやいや義昭でしょう、いやいや五摂家でしょうと話がいくらでも散らばって行くのである。

大学で光秀についてしゃべらなくてはいけない時、私は上に述べたような事情をふわふわと考えて、毎年視点を変えてみたり、学生へのサービスのつもりで様々な陰謀説があるという話をしたりする。で、なんとなく光秀の肖像画を見ていて、新しい視点を得た気がしたのでここに備忘のために書いておきたい。憂鬱そうな光秀の表情は自分探しをする学生にそっくりでだ。

明智光秀の憂鬱そうな表情。肖像画はその人の内面を語ることがしばしある。

私は自分探しをする学生を否定しない。大学の教師になるようなタイプは大抵自分探しに時間を浪費するからだ。大学院に行く時点で他の同年代とは違う人生を歩むことになるし、更に留学とかさせてもらったりとかするので他の同世代とは人生に対する姿勢や考え方が広がる一方だ。なので、そういう学生の気持ちは私はよく分かるつもりでいる。

それはそうとして、明智光秀の肖像画を見ていると、ああ、この表情がこの人物の人生を語っているのだなあという心境になった。写真のない時代、絵師は人物の特徴を懸命に肖像画に書き込もうとする。信長、秀吉、家康の肖像画はそれぞれの絵師がその人物の特徴を懸命にとらえて描いたものだと説明すれば分かってもらえると思う。家康と慶喜は目がなんとなく似ていると私は思うのだが、家康の絵師がその特徴をしっかりと捉えていたからだと言えるだろう。

光秀はいつ生まれたのかもあまりはっきりしないし、土岐源氏ということになっているがどんな風に育ったかもよく分からない。ある時から朝倉義景の家臣になり、ある時から足利義昭の家臣になり、ある時から信長の家臣になるという渡り歩き方をしている。深い教養で京の公家たちとも親交があったとされるが、その割に雑な人生を送っているとも言える。想像だが戦国武将は仁義がなければまかり通らない。仁義のないものは後ろから刺されて終わるはずである。光秀の渡り歩き方には仁義がない。義昭の家臣と言っても足利幕府に累代で仕えてきたとかそういうのではない。現代風に言うと大学院から東京大学なのだが、東大ブランドを使うみたいな目で見られていたに相違ないのである。そして彼の憂鬱そうな表情からは、そうでもしなければ人生を這い上がることができなかったのだという彼だけの心の中の真実も見えて来るような気がしてならない。

そう思うと、信長を殺そうという大胆な発想を持つ人間が当時いたとすれば、光秀くらいなのではないか、従って黒幕などというものは存在せず、光秀単独犯行説が実は最も正しいのではないかと最近思うようになった。このブログは私が思ったことを書くのが趣旨なので了解してもらいたい。

秀吉は臨機応変に動くことができるが、自分から大きく物事を構想して操るタイプとは言えない。深い企てを考えるタイプであるとすれば朝鮮出兵のような誇大妄想的行動は採らない。信長が死んだからいけるんじゃねと踏んだのであり、信長を殺すというようなリスクをとるタイプではない。

家康も信長を殺したかったかも知れないが、リスクをとるタイプではない。朝廷も言うまでもないがリスクはとらないし、信長が朝廷を廃止しようとしていたから背後には朝廷が動いたというのは証明できない前提を幾つも積み重ねた結果生まれてくるものなので遊びで考えるのはいいが本気で受け止めることはできない。義昭黒幕説もあるが、義昭には影響力はなかった。

光秀を現代風に表現すれば新卒であまりぱっとしない企業の総合職に滑り込み、転職を重ねて、途中は公務員をやった時期もあって、気づくとグーグルとかアップルとかアマゾンとかソフトバンクみたいな新時代の企業の役員にまで出世したような感じになるはずで、わざわざボスを倒してまで実現しなければならないことなどあるはずがない。だが、自分探しを続けていた(たとえば私もその一人であって、ここではある程度の自嘲を込めているので了解してほしい)タイプは、大胆なことをやってみたくなるのである。光秀が大胆なことをすれば自分が抱えている小さな悩みを解決できるかも知れないというリスキーな思考方法を選ぶタイプだったとすれば、それで充分に、いろいろなことの説明がつくのではないだろうか。



伊丹万作『戦争責任者の問題』を読んで考える敗戦国民の矜持

たまたま、映画監督で伊丹万作という人(伊丹十三さんの親父さん)が『戦争責任者の問題』という文章をは1946年に発表していたことを知り、インターネットで探してみると青空文庫で読むことができたので、どういう内容のものか読んでみた。15年戦争の失敗にどのような意味を与えるかは戦後を生きる日本人にとって簡単には答えの出せない難しい問題だが、私が漠然と考えていたことと同じことが書かれてあったので、私は自分の言いたいことを代わりに言ってくれている人が70年も前にいたのだと知って驚き、感動もしたので、ちょっとここで論じてみたいと思う。

伊丹万作氏は、「自由映画人集団」が文化運動をするというから参加してみたところ、かなり実践的な政治活動グループだと悟り脱退することにしたというのが、この文章の骨幹みたいなもになると思うのだが、興味深いのはその理由である。私は自由映画人集団がどんなことをしていたのかよく知らないので偉そうなことは全然書けないのだが、要するに戦争責任者をあぶりだして徹底的に懲らしめよう、追放しようという運動をしていたらしい。で、伊丹万作氏は、戦争責任者がいるとすれば、その軽重はあるにしても日本国民全員(子どもを除く)に及ぶのだから、他人の責任を追及する前に自分の責任を反省するのが先ではないかという趣旨のことを述べている。

実は私も前からそう思っている。これは私の人生観にもかかわって来るが私以外の誰かが悪い、私以外の何かが悪い、他の何者かの責任だと言っている間、人間は成長しない。自分にも責任があると認めた時、人は自分がどのように行動するかを考え、思慮深くなり、慎み深くなり、他人の貢献するということを考えるようになるのではないかと私は思っている。そのため、一部の戦争犯罪人とか戦争責任者だけに全てを押し付けてしまうのは、日本人にとって良くないと、一人の日本人として思うのだ。敗戦国民の矜持みたいなことを私はよく考える。潔く敗けたのだから、その敗けについて反芻し、新しい未来を切り開く糧にする、みたいなことだ。

もちろん、罪の軽重はあるから、場合によっては重い刑を科せられることはあるだろうし、反省の意思を持っただけで赦されていい場合もあると思う。

東京裁判はそういう意味ではいろいろな意味で微妙な裁判だと私には思える。裁判することによっていつどこで誰が、どんな意思決定をしたのかある程度は明らかにされたと思うが、一方で裁判にかけられなかった人たち全員に対して推定無罪の効果が生まれるし、多分、当時の人々は自分は悪くない。悪いのは他の〇〇だ。と言うことによって心理的な安全を担保することができた。しかし結果として、一部の人たちだけが悪く、他の人たちは反省しなくていいという構造も生まれたように思える。

私は日本が好きだし、日本人に生まれたことを嬉しく思っているが、今日まで続く思想的対立の根底には伊丹万作氏が指摘したような内省の不在があるのではないかという気がしてならない。私はどちらか一方に与したくはないのだが、どちらにも、或いは多方面に及ぶ内省の不存在は前々から気になっていたし、私はそのような議論に疲れてしまうこともあった。だが、日本人の良いところはきちんと内省するとそこから学んで真っ直ぐに道を歩くところにあると思うし、内省は一回すればいいものではなくて常に行われるべきものだとも思うから、そういうところから議論を始めると、もうちょっと何かが融合するのではないかという気がする。私がここで述べている内省の不存在とは、丸山眞夫が指摘した「無責任の体系」とだいたい同じような意味だとも思うので、そういう意味では丸山眞夫みたいな超絶有名人が既に指摘しているのに、そこはみんながスルーするか上手に解釈を変えているのだろう。それはともかく、良い戦争などというものは存在しないと思うので、なぜ悪い戦争をしたのかについて考えることは意味があると思うし、仮にあの戦争を悪い戦争だと思わない人がいるとしても、敗けたことは事実なので何故敗けたのかを考えることも新しい発見につながるのではないだろうか。『失敗の本質』みたいなことは常に考えておいて損はない。人は失敗から学ぶのだから。



映画『ゲッベルスと私』を観て愕然とした件

岩波ホールで『ゲッベルスと私』というドキュメンタリーを観た私は愕然とした。ゲッベルスの「元秘書」とされる女性は、敢えて言えば平凡な人だという印象を受けたので、そのことでは愕然とすることはなかった。ただ、映画の作り手は証言と交互して様々な史料映像を挿入しており、それらの映像の凄惨さに私は愕然としてしまったのだ。

特に私が恐怖を感じたのは、アメリカ軍によるナチスが作った収容所内のガス室の検証映像だった。ガス室の壁には人の手の跡やひっかいたような跡が無数に残されていた。それらはそこで殺された人たちが最後の瞬間にもがき苦しんだか、なんとか脱出生き延びようとしたか、或いはその両方が起きたことを、しかも繰り返し繰り返し起きたことを示していた。

私は以前、アウシュビッツの所長だったルドルフ・ヘス(ヒトラーの副総統でイギリスにパラシュート降下した人物とは別人)が書き残した手記を読んだことがある。ルドルフ・ヘスはもちろん戦後に処刑されたが、人の歴史で最もたくさん人を殺した男であり、今後も、少なくとも私が生きている間に同じことをする人は現れないだろうと思う、というか思いたいのだが、私がガス室について具体的に知っていることは限られていて、ルドルフ・ヘスの手記に拠れば、シャワーを浴びるという理由で閉じ込めた人々を彼は見下ろすことができる位置に立っており、人々は彼を見た瞬間、やはり騙されて殺されるのだと知り、憎悪と怨みの叫びを上げたということらしかった。彼は何度となくそこに立ち、怨みながら死んでいく人たちを見たことになる。私のガス室に関する知識はこの程度のものでしかなかった。

今回、この映画を観て、壁に残された無数の手の跡は、当時の状況をより具体的に私に教えてくれるものになった。恐ろし過ぎて愕然としてしまったのである。

一方で、ゲッベルスの元秘書とされる女性は、ナチス政権誕生から敗戦の少し前の時期に至るまで、それなりに生活をエンジョイしていたことを話している。恋人がいて、ゲッベルスの演説にしびれ、宣伝省の給料の良さに満足していた。そしてホロコーストが行われていたことを「知らなかった」と彼女は言い切り、「私に罪はない。ドイツ全国民に罪があると言うのなら別だけれど、自分たちが選んだ政権なのだから」と述べる。民主主義の手続きを踏んでナチス政権は誕生したため、有権者全員にそれなりの責任はあると言えるが、選んだ政権が悪いことをした場合の有権者の責任は限定的で観念的なものだ。日本の首相が失政をやらかした場合に、有権者の責任を問うのは限界があるのと同じだ。

だが、この映画では、彼女のそのような証言と交互に凄惨な映像が挿入されるため、「知らなかったで済むのか?」という疑問を抱くように構成されている。知らなかったから悪くないと言うには、事態はあまりに重大すぎるからだ。アメリカ軍がドイツ市民向けに作ったフィルムも挿入されており、そこでは「知っていたのに止めなかった責任」を問うていた。私個人の想像になるが、あれほど大規模に熱心に継続的に行われていたのだから、多かれ少なかれ、憚れるようなことが行われていたことには気づくのではないだろうかと思う。現代でも自分の属する組織がどういう状況なのかということは私のような下っ端でも何となくわかることもあるし、噂も流れてくる。そのため、彼女が「知らなかった」と言い切ったとしても簡単に信じることができない。尤も、彼女の証言を嘘だと言い切るだけの証拠を私が知っているわけでもなんでもないのだが。

以下は全て私の想像になるが、彼女は何十年もの間、何度となく記憶を整理し、反芻し、自分の受け入れやすい物語を作り上げたに違いないという気がする。人は誰でもそうするので、彼女もそうせざるを得なかったに違いない。彼女は戦争が終わってから5年間抑留されていたと述べていた。その5年間は屈辱的な経験、人に話せないような酷い目に遭わされたであろうことも想像はつく。そのため、戦争が終わる前の記憶がより美化され、それなりにエンジョイできたという物語が形成されたのではないだろうか。彼女の本音は、ホロコーストに直接かかわったわけでもないし、戦争の意思決定に加わったわけでもないのに、5年も抑留されて酷い目に遭わされた。充分に責任は取った。というところにあるのではないだろうか。これはとても難しい問題で、責任がどこまで及ぶのか線引きができる人はいないだろう。そのことについては、今後、私も反芻して考えることになると思う。この映画を観てしまったら、考えないわけにはいかない。



関連記事
ハンナ・アーレントとアイヒマン
シンドラーとファニア

三島由紀夫と石原慎太郎

三田文学で石原慎太郎が文壇生活五十年を振り返るという趣旨の対談をしているのを読み、やはり三島由紀夫に関する回想が最も興味深いものだった。三島由紀夫はその是非は別としてあまりに特殊な存在であり過ぎる。

作品と文章の完成度の高さは入念であり、彼らしい完璧主義的であり、美しく、繊細且つ逞しい。三島由紀夫に関わることで『宴の後』事件というものがあるが、プライバシーの侵害で訴えられたのに対して、人間を科学的に描くという純粋な文芸表現であると彼は反論した。文芸とは人間を科学的に描く行動であるとする、彼の小説に対する信念が披歴された、ある意味貴重な事件である。

人間を科学的に描くという信念はヨーロッパの自然主義小説に由来するはずだが、果たして人間を科学的に描くということが真実に可能なのかどうか、私には分からない。フランス自然主義を模倣しようとした明治小説の自然主義スタイルについて、江藤淳は「(自然主義文芸を)やりおおせたと思っている」人々の作品だと鋭い指摘をしている。柄谷行人は田山花袋は小説に書いたことよりもっと他人に言えないことをしているはずだとこちらもかなり鋭いところを突いている。他人に言えないことは隠し抜きつつ人間の真実を描こうとすること自体に論理矛盾があり、人は誰でも他人に言えないことはあるはずだから、結局のところ、科学的に人間を描く文芸というものは存在し得ないのではないかと私には思える。

それはさておき、当該の対談では、川端康成が三島由紀夫に対して強い拒否感を持っていたと石原慎太郎は話していた。三島由紀夫の晩年の生き方は確かに常人には受け入れ難いものがある。私的軍隊なるものを組織し、自衛隊の施設に入り込み、幕僚を縛り付けて演説し、果てるという彼の動きには理解し難いものがある。もし共感する人がいるとすれば、それはその人の自由なので、私は否定しない。いずれにせよ、石原慎太郎の対談している内容に拠れば、三島由紀夫が自決する直前のころ、そういう彼に川端康成が拒否感を持っていたというのは初めて読んだ。どちらかと言えば両者の絆が強いという物語の方が流布していると私は理解していたから、意外だと言えば意外だったが、考えてみれば確かに私的軍隊を持つ小説家を受け入れ難い存在だと思ったとしても不思議ではない。大岡昇平も三島由紀夫の新宅に呼ばれた際、悪趣味だと思ったが言えずにいたという趣旨のことを話しているのを読んだことがあるので、三島由紀夫は周囲との人間的距離感に苦しんだに違いない。苦しむが故により言動が過激になったのではないだろうか。

三島由紀夫が自決して果てた後、川端康成は現場を見たという。石原慎太郎も現場まで行ったが、現場そのものは見ずに立ち去ったそうだ。以後、川端康成は三島由紀夫の亡霊を見るようになり、後を追うかのようにして自ら命を絶っている。石原慎太郎は対談で見なくてよかったという感想を述べていた。私ももし、現場に立ち入る権利を持つ人間だったとしても見たくない。私は小説について作者の人生や背景というものをあまり考えず、作品そのものと対話することをより重視するのがいいと思っているが、今回の石原慎太郎の対談を読むことで、私は三島由紀夫という人の心の中を少しは想像することができるようになったし、過去に読んだ三島作品を思い出し、彼がどういう心境でそういうものを書いたのかについて想像することもできた。やはり作品理解には作者の人生と背景を知ることの重要性は否定できない。

三島由紀夫はその過激な人生と精緻な文章力によって、常人には測りがたい内面を持つ人という印象がどうしても強い。そのため、私は三島由紀夫理解は自分には一生できないだろうと思って諦めているところがあったのだが、今回のことで多少は相対的に見ることができるようになったと思えるし、その点は有益だった。



関連記事
縄田雄二『一八二七年の幻燈文学』と映画