日中戦争4 満州事変‐石原莞爾と張学良

張作霖氏が殺害される事件が起きた後、息子の張学良氏‐この人は20世紀の東アジア関係史で最も謎に包まれた人物と言えるかも知れないですが‐が張作霖氏の軍隊と地盤を継承します。張学良氏にはいくつかの選択肢がありました。一つは南下の機会を模索するソビエト連邦と連携すること、もう一つは大陸での権益の拡大を模索する関東軍と連携すること、三つ目は軍閥が群雄割拠する中、力を伸ばしてきた蒋介石氏と連携することです。

で、結果として張学良氏が蒋介石氏との連携を選びます。普通に考えて、当時、張作霖氏が関東軍によって命を奪われたことは既に知れ渡っていましたから、人情の問題としても関東軍との連携はさすがにないだろうと思います。一部には実は張学良氏はソビエト連邦の工作員で、それで蒋介石氏に近づいたんだとする説もあるようですが、私は噂で聞いたことがあるだけなので、まあ、そういう噂もありますよ、くらいに留めておきたいと思います。張学良氏の回想インタビューは音声、動画、書籍など複数ありますが、私が中国語で発行された最近の回想ものの書籍では、若いころにどんなガールフレンドと付き合っていたかを張学良氏がいきいきと語っているような内容で、しかも実名を出していますから、本当にこんなものを外に出していいのかとも思いましたが、後に起きる西安事件については一切の口を閉ざしているあたり、墓場まで重大な何かを持って行ったことは確実で、それが何なのかは永遠の謎になると思います。

さて、張学良氏が満州地方で実力を保ちつつ蒋介石氏と連携することは、関東軍にとってはなかなか面倒なことだったと言えると思います。関東軍が割って入る隙のようなものがありません。全ては張作霖氏を殺害した河本大作大佐が悪いのですが、そっちの方は放置したまま、どうやって割って入るかということを考え抜いた石原莞爾が柳条湖事件を立案します。当時、中村大尉が諜報活動中に張学良麾下の部隊に殺害されたこともあって、現状をなんとかしようと関東軍が模索していた様子も感じ取れます。繰り返しになりますが、河本大佐の件をうっちゃってなんとかするというのは、ちょっと難しいことではなかったかとも思えます。

いずれにせよ、1931年9月18日、板垣征四郎大佐や石原莞爾中佐らが柳条湖での南満州鉄道を破壊し、それを国民党の軍の仕業であると自作自演して先端を開きます。土肥原賢二、甘粕正彦が奉天占領に動き、関東軍は満州地方全域を手に入れる方向で動いていき、天津で亡命生活を送っていた愛新覚羅溥儀を迎え入れて独立政権の確立を目指します。日本領にせず、独立傀儡政権の確立へと動いて行ったことは、パリ不戦条約のような第一次世界大戦後の新しい国際秩序の中で、あからさまな侵略行動がとれない時代に入ったからだと説明することもできると思います。




日中戦争3 張作霖事件‐昭和天皇と田中儀一と関東軍

昭和3年、1928年の6月4日、北京から満州方面へ脱出してきた張作霖の列車が爆破され、張作霖が死亡するという事件が起きます。列車が爆破されて転覆するという大事故ですから、かなりの人が命を落としたようです。

張作霖がどういう人かというと、日露戦争の時にロシア側のスパイとして活動していたんですが、日本軍に捕まり、以後、日本軍への協力者に立場を変え、辛亥革命で清朝が倒れた後は少しづつ力をつけて満州地方を支配する軍閥を形成するようになった人です。関東軍の協力を得ていたので、当時の満州地方ではかなり有力かつ有利な立場にいた人物と言ってよいでしょう。彼は北京まで乗り出していき、当時バラバラに分裂していた中国の真実の支配者は自分であると宣言します。これが張作霖の全盛期だと思いますが、反共産主義活動に熱心で、ソ連大使館内を捜索して共産主義活動関係者の逮捕に及ぶなどが過激すぎたためか、列強からの支持を少しずつ失って行きます。列強はむしろ、国民党軍を率いる蒋介石を中国の正統なリーダーとして認める方向へと舵を切って行くことになりました。蒋介石の国民党軍が上海から北京へと迫り、戦いに敗れた張作霖が奉天へと帰る途上で列車爆破事件が起きたというわけです。

蒋介石が日本側に対して、満州地方へは進出しないとの言質を与えており、「だったらいいんじゃね」と関東軍関係者は考えるようになったらしく、どっちかと言えば溥儀を擁立して満州国を作る構想の方が魅力的なので「張作霖が帰って来ても困るよねー」という空気が関東軍にあったことは事実のようです。

この事件を起こしたのは関東軍の河本大作大佐と少数の協力者によるものだということは、すぐに分かったのですが、誰も処罰されることもなく、事件の犯人は隠ぺいする方向で日本政府部内でも大体の意思統一がなされました。当時、まだまだ若い昭和天皇は、田中儀一首相に対し、事件の真相の公表を指示しましたが、田中首相が言を左右にして言う通りにしないので、昭和天皇がキレまくり、叱られた田中内閣はそれを理由に総辞職することになります。『昭和天皇独白録』では、昭和天皇が当時のことを回想し「田中首相に辞表を出してはどうかと言った」と述べていますが、田中首相辞任から、当該の回想がなされるまで20年近い年月が流れています。それで「辞表を出してはどうか」と言ったことまで覚え居てるわけですから、当時は相当な剣幕で切れまくったのではないかと私は推察しています。

この出来事をきっかけに、昭和天皇は、天皇が政治に口を出し過ぎると内閣が潰れて混乱が生じるということを学び、立憲君主として意思決定に口を挟まないというポリシーを貫くことにしたと一般に言われていますが、田中内閣が潰れた後で、昭和天皇は西園寺公望から立憲君主のあり方みたいなことでお説教されたようです。

張作霖の事件は日本帝国の戦争の長い歴史から見ると、どちらかと言うとあまり目立たない事件だとも思いますが、一連の出来事を眺めてみると、日本帝国の特質のようなものがよく見える出来事ではないかと思えます。まず第一に、張作霖が邪魔になったので殺すという短絡的かつ倫理性ゼロの発想法が関東軍でまかり通っていたことが分かります。更にそのような独断専行が批判されないという特殊な空気が日本政府には濃厚に流れていたということも分かります。また、昭和天皇の政治に対する考え方を知る上では、この事件を語ることは不可欠だとすら言えるように思います。これからも少しずつ、日中戦争史、できる範囲で続ける予定です。




日中戦争2 用語解説→関東軍とは

関東軍について、簡単に説明しています。関東軍は知ってる人にとっては常識で説明の必要はないんですが、知らない人にとっては「なんじゃそりゃ?」な用語だと思いますので、一応、やっておいた方が網羅的にやっておいた方がいいかなと思って動画にしていました。よろしくお願いします。




日中戦争1 日中戦争前史‐北京議定書

日中戦争は言うまでもないことですが、1937年に突如として起きたものではありません。そこへ至るまでに何十年もかけて蓄積された圧力のようなものが存在します。

以前、学生から「一体、いつから日本が中国に侵略していくようになったのか?」という趣旨の質問をされた時に、はて、どこから話せばいいのだろうかと考え、私はやっぱり北京議定書から始めるのがいいのではないかと考えるようになりました。

日清戦争から始めても決して間違ってはいないとは思います。ただ、日清戦争はその後の日本の浸食とは性質がやや違うように思います。日清戦争が起きた時、中国は既にアヘン戦争を経験した後の時代で、欧米からの浸食を受けてはいましたが、それでも東アジアの覇権国だという位置づけに違いはありませんでした。日本は新興国の挑戦者であり、両者が朝鮮半島に対する影響力を巡って争ったわけですから、覇権争いの戦いだったと言えます。

一方で、日中戦争は日本側から一方的にフルボッコをかましていこうという戦争をして、まあ、最終的には日本がフルボッコされたわけですけれども、いずれにせよ、日本がいつから中国をフルボッコにして利権を得ようと言うようなことを始めたかということをずっと辿って考えてみると、1900年の義和団の乱がその始まりなんじゃないかという気がします。義和団の乱はわざわざ説明する必要はないと思いますけれども、日本と欧米からどんどん浸食されている中国で、排外的な勢力が叛乱を起こし、普通だったら清朝がそれをなんとか取り締まるはずなんですが、清朝の西太后なんかはこれは外国人をやっつける好機だと思って列強に宣戦布告してしまうという、かなり行き当たりばったりで無計画な戦争状態が中国内部で始まってしまいます。

列強は一致して事態の収拾に臨み、清朝の皇帝と西太后とかは父祖の地である熱河まで避難して、取り敢えず列強が義和団の乱を抑え込んで、清朝とも講和しようという流れになります。『北京五十日』という古い映画があって、この映画でこの一連の事件のことを描いていますが、伊丹十三さんが日本軍の指揮官をやっているんですが、今思い出すと、中国人に対する偏見丸出しで、あんな映画を本当に作っていいのかという疑問もわいてくるんですが、それはともかく、この講和の際に、列強の兵力が中国に進駐すること、海岸地帯の租界から北京まで外国人が安全に通行できるように、そういった辺りにも外国の軍事力が進駐することなんかが決められるんですね。

これが、中国に対して侵略的に日本が入っていった第一歩なんじゃないかなと思いますし、当時、学生にはそんな風に説明しました。

その後、対華21か条要求とか、九か国条約とか、張作霖事件とか、満州事変とか、そういうのが折り重なって複雑怪奇な状態になっていくんですが、それはまた次回以降について考えてみたいと思います。




第一次世界大戦と日本

第一次世界大戦は、勃発した当時、世界大戦とは認識されず、日本では欧州大戦と呼ばれていました。また、この戦争はロシア、ドイツ、オーストリア、イギリスのロイヤルファミリーが血縁同士でもあったため、いとこ同士の戦争というような表現がされることもあるようです。

当初日本は当事者ではありませんでしたが、日英同盟の関係からイギリスから援助の要請があり、海軍はその要請にこたえて護衛艦を地中海に派遣したことが知られていますが、陸軍は「日本兵はお米を食べるが、ヨーロッパではパンしか手に入らない」という、耳を疑うような理由で断っています。本音を言えば、ヨーロッパに兵隊をおくっても特に利益があるとは思えず、単に危険なだけなので断ったというわけですね。

この構図は欧米諸国からは奇怪なもののように見えたのではないかと私には思えます。というのも、通常、軍の派遣については内閣が意思決定するはずで、陸海軍も協調路線をとるのが自然なはずです。しかし日本の場合は内閣ではなく、海軍、陸軍という単位で意思決定しており、しかも協調していない。こんなことってあるのだろうかと謎に思えるのが自然ではないかと思います。あまりに複雑怪奇なため、この現象については日本でもよほどの専門書でない限り、適切な説明がなされていないように私には思えます。

要するに陸海軍には独立指揮権、いわゆる統帥権が存在し、それが憲法上天皇に直属しているため、内閣が陸海軍に指揮命令を行うことができない、そして天皇は実務的には何もしないため、陸海軍は自営業者みたいに自由に行動できる。こんな複雑な構造は現代人の我々にとっては複雑怪奇ですし、もはや過去のことですから、あまり真剣に説明される場面も多くないのかも知れません。

さて、私はイギリスが日英同盟を理由に日本への協力要請を陸軍が断ったことが、後々の日本の運命に暗い影を落としていったように思えます。というのも、陸軍はヨーロッパ派兵を断っている一方で、中国と太平洋のドイツ利権はしっかり奪い取っており、火事場泥棒的な利益を得ています。国家に真の友人はいないという表現がないわけではありませんけれど、同盟国の目から見れば、困っている味方のことは忘れて自己中心的な利益の追求が露骨過ぎて、同盟維持のモチベーションを失う理由になったのではないかと思えてならないのです。

更に日本はヨーロッパ諸国が戦争で疲れ果て、東アジアでの利権追求をする余裕がない間隙を縫うようにして袁世凱政府に対し、対華21か条の要求というものを行っています。主たる内容は日露戦争でロシアから得た利権の継続の確認、今回の戦争で日本が得たドイツの利権の継承の確認などでしたが、中国政府内部に日本人顧問を送り込むことを要求した点には世界はドン引きです。現代人の私が、当時のことに関する書物を読んでもやっぱりドン引きです。世界が不安定な状態になっていることに付け込んで、中国を属国化してしまおうという魂胆が露骨過ぎて、やり過ぎ感がとことんあるわけですね。

戦争が終わった後、戦争の傷跡があまりに深かったことの反省から、パリ不戦条約が結ばれたり、国際連盟が創設されたりして、二度と戦争のない世界を作ろうとする努力が行われるようになります。この際、日本は常任理事国として迎え入れられたわけですが、ヨーロッパの列強が深い傷に苦しむ中で国際連盟を創設したのに対し、日本はほとんど代償らしいものを払うことなく、果実だけを手に入れていますので、第一次世界大戦後の世界の変化についていけなかったのではないかと私は思います。言い方はよくありませんが、世界から甘やかされて、日本は我がままの度が過ぎたまま敗戦まで走り切ったのではないかと説明できるような気がするのです。

第一次世界大戦が終わった後の世界は、不戦の誓いが常識になろうとしていたにも関わらず、大国の中で日本だけが、露骨な弱肉強食の19世紀的な世界が続いていると誤認してしまい、際限のない拡大主義を選び続けました。表現は悪いのですが、当時の日本について、私にはビギナーズラックでロトに当たった人がその後もロトを買い続けて破産してしまう人と同じような印象を抱いてしまいます。例えば満州国の創設や、汪精衛国民政府の創設について、日本帝国は民族自決の精神にのっとったものだと強弁しましたが、民族自決の理念をレトリックとして利用することしか考えることができなかったことなどに、当時の日本人の近視眼的な発想法を見出すことができるように思います。

今回は以上になります。次回以降、日中戦争を詳しくやっていきたいと考えていますが、体力と精神力の兼ね合いがありますので、無理のない範囲でこつこつ積み重ねていきたいと思います。




明治憲法と元老

明治憲法は表面的に読んだだけでは、実際のことがよく分からないように書かれています。まず、間違いないと思いますが、伊藤博文が故意に、分かりにくく書いたのではないかと私は思っております。以下にその理由を述べたいと思います。

まず第一に、天皇は神聖にして犯すべからずとなっており、天皇が国政を総攬するとも書かれてあります。もしこの部分だけを切り取って読めば、天皇親政、天皇が個人の意思で独裁的な政治を行うかのように読むことができます。たとえばロシアのツアーリや中国の皇帝のようなイメージですね。しかし、同時に憲法には天皇は憲法の規定に従うとされており、更に内閣が天皇を輔弼するとも書かれています。つまり、天皇は内閣と一緒に政治をするとも読めますが、ここで意味しているところは、内閣が天皇の代わりに政治をするので、天皇は何もしないと書かれているわけです。国政を総攬するはずの天皇が何もせず、実は内閣が政治をするというわけなのですから、これは分かりにくいに違いありません。

もう一点、和戦の大権、つまり戦争を始めたりやめたりする権利、即ち軍隊に対して指揮命令をする権利は天皇に属しているとされています。軍隊に対する指揮命令権、即ち統帥権を内閣が持っていないことになるわけですが、戦争という手段は当時であれば外交の最終手段です。それを持たない内閣に内政も外交もさせるので、はっきり言えば内閣の権限がそれだけ曖昧になり、議会によって追求される一番いいネタにされてしまいました。講和も軍縮も、議会による政府糾弾のネタになりますし、新聞もおもしろがって騒ぎ立てます。和戦の権利は天皇の大権なのに、政治家が勝手に戦争を辞めようとしている、みたいなレトリックになっていくわけです。日露戦争が終わった後の日比谷焼き討ち事件なんかもそういう種類の話に入ります。

とはいえ、明治日本はなかなかに成功した国家であったということは否定できないと思います。19世紀は弱肉強食の帝国主義、植民地主義が世界の流れでしたが、その中で欧米に植民地化されることもなく、産業化、工業化にも成功し、戦争もまさか勝てるとは思えない相手と始めて勝っています。つまり、うまく機能していたわけですね。憲法は政治家には戦争に関して意思決定できないと書いてあるのに、政治家がきちんと判断して戦争を始めるタイミングを見計らい、終わりのタイミングも見計らって、ちょうどいいところを狙って無理のない講和を結んで行きます。なぜこのようなことができたのかというと、元老という憲法に記載されていない集団が存在し、彼らが実質上の日本の支配者、日本帝国のオーナーだったからです。

元老は伊藤博文や山形有朋、西郷従道のような明治維新の功労者に与えられる称号で、一番多い時には11人ぐらいいたはずです。最後の元老はお公家さんのご出身の西園寺公望でした。西園寺はお公家さんですが、基本的には薩長藩閥で構成されており、明治日本の支配者が薩長藩閥だということが実によく分かります。この元老たちが首相の指名も行い、いろいろなことを話し合いで合意して、日清戦争や日露戦争も進めて行きます。内閣総理大臣は軍隊に対する指揮命令権を持っていないわけですが、元老には指揮命令の権利があると暗黙裡に了解されており、全ては元老たちが決めていたわけですね。で、憲法の縛りもないので、良くも悪くも自由に動くことができ、良く言えば現実的で臨機応変に、悪く言えば寡頭政治で黒幕的な存在として日本を動かしていたということができます。結果として、彼らが元気だった間は彼ら自身がアメリカと戦争しても勝てないことを知っているので、そういう無理なことは最初から考えもしませんし、薩長ともに幕末には英米と戦って彼らの強さをよく知っていますから、英米協調路線でうまく世界と渡り合って行ったと言えると思いますす。

最後の元老の西園寺公望は、長くフランスで生活し、議会制民主主義の価値感を充分に学んで帰って来ます。西園寺が帰ってきたころ、日本はまだ建前上は議会政治でしたが、実質上は元老政治が続いていましたので、西園寺が最後の元老になった時、彼は独自の判断で、議会選挙で民意を得た政党の党首を首相に選ぶという「憲政の常道」を確立しようとします。しかし、当時は暗殺が横行していて、首相になったら即暗殺対象みたいな時代でしたので、西園寺本人が議会主義者であったにも関わらず、軍人出身者を首相に指名せざるを得なくなっていきます。このような世相の中、世間からもプリンスとしてもてはやされた近衛文麿を最後の民主主義のカードとして西園寺が切り出したのですが、近衛文麿は多分、社会主義的なことをやろうとしたんだと思いますけれど、大政翼賛会を作って「幕府復活かよ」みたいに揶揄され、日中戦争も深みにはまっていってしまったという悲しい流れになってしまったわけです。西園寺は太平洋戦争が始まる少し前に亡くなっていますが、最後の言葉は「近衛は日本をどこへ連れて行くつもりや」だったそうです。

このように見て行くと、立憲主義は大切ですし、私も立憲主義を支持していますが、条文そのものだけでなく、いかにして運用されるかがより重要なのなのではないかと思えてきます。明治憲法であっても、元老という非法規的集団が政治家と軍人を操って国策を進めていたことで物事を仕切っていました。逆に、教条主義的に憲法を捉えると、統帥権干犯などと言われて現実的な政治ができなくなり、おかしな深みへとはまりこんでしまったと言うことができそうな気がします。これは現代にも通じる教訓になるのではないでしょうか。




坂本龍馬‐人物と時代

坂本龍馬には少なくとも二つの出自があります。一つは土佐藩の下級武士というもの。もう一つは土佐屈指の大金持ちの息子さんというものです。

土佐藩では武士の身分は大きく二つに分かれており、一つは藩主山之内家について山之内一豊とともに土佐に入ってきた譜代の家臣で上士と呼ばれました。もう一つは山之内が入って来る前に長宗我部氏に仕えていた武士で、下士と呼ばれていました。上士と下士は礼儀作法、道の譲り合い、衣服、役職、給与等々で厳しく分けられており、上士は文句なしの支配階級、下士は明らかに被支配階級だったようです。

ただ、坂本龍馬の場合、ご実家が超大金持ちですから、別にそれで困ることはあまりなかったようですし、下士の身分もお金で買い取ったようです。下士の生活は極貧だったようですから、下士の身分を売って生活がましになるならまだその方がいいと思った人もいたのでしょう。

このような事情から坂本家には二つの入り口があったそうです。一つは商人としての立派な構えの入り口、もう一つは下士としての地味で質素な入り口です。お金を注ぎ込んで豪華な入り口を作っても良かったのでしょうけれど、「下士の分際で」と言われることを避けたのだろうと思います。

さて、坂本龍馬は後に脱藩し、女性にモテ、大きな政治構想を語り、薩長同盟を成立させ、大政奉還のアイデアも彼によるものだと言われています。多くの人が、一介の素浪人が日本の歴史を動かしたのですから、そりゃあ、多くの人が憧れるのも納得です。

ただし、坂本龍馬にはわりと潤沢な実家からの仕送りがあったため、他の脱藩浪人と比べれば余裕があります。気持ちの余裕は女性にモテる要因になったでしょうし、大きな政治構想も気持ちの余裕から出るもので、やはりこのようなややほら吹き気味なところも、自身堂々と語ることで、やはり異性にもてる要素になったのではないかと思います。江戸で留学した際には剣術を学んでいた千葉道場の娘さんまで惚れさせていますので、なかなかのやり手です。薩長同盟についてはどうも西郷隆盛がバックについていて、坂本龍馬はそのエージェントみたいなところがあったようなのですが、西郷が自己愛を満たそうとするタイプではなかった分、坂本龍馬の活躍ぶりに目が移るようになっていったのかも知れません。長州の桂小五郎としても、龍馬が間に入ってくれたことでやりやすかったかも知れません。ついでに言うと大政奉還とか立憲主義みたいのは横井湘南、西周、徳川慶喜などが既にある程度、考えをまとめていたようですから、それを龍馬の発案とするのは、やや彼を過大評価しているように思えなくもありません。

坂本龍馬は陸奥宗光のように、彼の部下であったことが政治的な武器になり出世した人も居た上に、暗殺されるという最期を迎えているため、新政府での印象は強く、語り継がれる存在ではあったようです。ただし、さほど有名だったというわけでもなく、土佐藩閥の人々が日露戦争の際、皇后の枕元に坂本龍馬が現れて「日本海海戦では日本が勝つから心配するな」と言って去って行ったという、毒にも薬にもならない話を新聞記者にリークしたことにより、一機に名前が広がって行ったようです。戦後であれば司馬遼太郎さんの貢献は大きかったでしょう。徳川慶喜は維新後になるまで坂本龍馬を知らなかったと言いますから、彼本人が政治の中心に躍り出るところは一切なく、エージェントに徹していたようにも思えます。

坂本龍馬の暗殺については諸説あり、簡単に結論できることはないですし、永遠に結論は出ないでしょうけれども、龍馬は二度も土佐脱藩の身であり、幕府官吏からは指名手配を受けており、薩摩のエージェントでありながら、大政奉還後の新政府には徳川慶喜を推そうとしたそうで、敵は山のようにいる状態でした。自由に生きることは素晴らしいことですが、どうも敵を作り過ぎてしまったので、誰にも殺されてもおかしくなかったとは言えそうな気がします。



よろしければチャンネル登録をお願い申し上げます。

近藤勇‐人物と時代

近藤勇はもともとは日野の農家の出身だそうですが、市谷の剣術道場の養子に迎えられ、やがて道場主になります。彼の道場には沖田総司、土方歳三など後に新選組の主要なメンバーとして活躍する人物が出入りしていたのですが、彼らが歴史の舞台に登場するのは十四代将軍家茂の上洛と関係しています。

当時、公武合体の妙案として打ち出された家茂と孝明天皇の妹の和宮との婚姻が具体化していきましたが、その条件として家茂が上洛し、孝明天皇に攘夷を約束しなくてはなりませんでした。

将軍が京都を訪問するのは三代将軍家光以来200年ぶりのことであり、当時としては相当なビッグイベントとして受け取られたはずですが、警備等々の経費が嵩むため、家茂警護のために浪士の募集が行われ、近藤勇と門下生が応募しました。各地からの浪人が集合しており、浪士隊と呼ばれました。この中には後に近藤たちに暗殺される芹沢鴨とその仲間も入っていたわけです。

清河八郎という人物が浪士隊を個人的な手勢にしようと目論み、浪士隊は清河に率いられて江戸に帰ることになったのですが、近藤たちと芹沢鴨たちは京都に残ることを選択し、浪士隊から離脱することになります。その後の新選組の活躍を考えれば、近藤たちの人生をかけた大勝負だったとも思えますが、悲劇的な結末まで考慮すれば、この時おとなしく江戸に帰っていれば、無事に明治維新を迎え、近藤や土方も普通の人生を歩んだかも知れないとも思えます。

近藤たちが後に京都で結成した新選組は幕末の歴史の中で、典型的なパッと咲いてパッと散るタイプの活躍を見せた存在と言えますし、パッと咲いて散る感じに憧れる人が多いので、現代でも魅力的な題材として扱われるのではないかとも思えます。

しかし、新選組の歴史をよく眺めてみると、その血塗られた歩みに対し慄然とせざるを得ません。特に内部抗争の激しさには残酷という言葉以外の形容詞が見つかりません。

芹沢鴨の腹心である新見錦を陰謀で切腹に追い込んだ後、芹沢鴨も大雨の夜に愛人と眠っているところを襲撃し、謀殺しています。その後は山南敬介が脱走後に捉えられて切腹。新選組に加入した後に御陵衛士という名目(孝明天皇の陵墓を警備するという名目)で分離した伊東甲子太郎も暗殺されており、伊東甲子太郎の残党と新選組の間では油小路という場所で壮絶な斬り合いが起きています。

このようにして見ると、近藤勇という人物には土方や沖田のように最後まで慕ってついて来た人物がいたため、兄貴肌の人を惹きつける魅力があったに違いないと思うのですが、一方で、内部の粛清に歯止めをかけることができなかったというあたりに彼の限界を感じざるを得ません。

因果応報と呼ぶべきなのかどうか、鳥羽伏見の戦いでは、新選組は伊東甲子太郎の残党に狙い撃ちで砲撃されています。また、江戸に逃れた後に流山で地元の若者を集めて訓練していたところを新政府軍に見つかり、捕縛されるのですが、近藤勇は大久保大和という偽名を使い難を逃れようとします。この時も、伊東甲子太郎の残党の一人である加納鷲雄に見つけられてしまい、近藤勇であると見破られ、近藤は新政府軍によって斬首されるという最期を迎えることになります。切腹ではなく斬首した辺りに、長州藩がどれほど近藤を憎んでいたかを想像することができるのですが、新選組による池田屋襲撃は、飽くまでも江戸幕府の下部組織の立場による公務の実行であったこと、その後の治安維持活動もやはり公務の一環として行われていたことを考えると、近藤勇を犯罪者のように扱う処置は残酷過ぎるのではないかと思えなくもありません。

新選組に集まっていた人材の多くが普通の人で、普通の人が時代の分かれ目に出会い、自分の可能性を追求しようとしたところに魅力があるのだと思います。特に土方歳三の場合、鳥羽伏見の戦いで敗けてから、函館戦争までの生き様が見事であり、彼が失敗から学んで成長したと思える面もありますので、いずれ機会を設けて土方についても語ってみたいと思います。



よろしければチャンネル登録をよろしくお願い申し上げます。

西郷隆盛‐人物と時代

西郷隆盛は幕末維新史の人物の中でも特に人気のある人物だと言っていいと思います。彼の性格的な特徴を考えるに、何をやるにも正面から徹底的に取り組むひたむきさ、いつ、どんな時でも失敗を恐れずに行動する豪胆さがあり、味方にすれば心強く、敵に回せば大変に厄介な人物であったろうと思えますが、同時に、常にぎりぎりのラインまで追求するため、剣が峰の上を歩き続けるような危うさがあり、成功する時は期待以上の成果を収める可能性がある一方で、失敗する時は周囲も巻き込んで潰れていくという面があるように思えます。

若いころの西郷隆盛が才能を発揮した有名な例としては、島津氏の分家の御姫様である篤姫と十三代将軍家定との婚礼が行われる際、薩摩藩邸から江戸城まで行列が組まれましたが、その時の行列や婚礼道具の準備等の仕切り役が若き西郷吉之助であったということを挙げることができます。巨大な大名である島津氏から、将軍家への嫁入りですので、行列等々の準備はほとんどロジスティクスと呼べる規模のものだったと思いますが、島津斉彬が西郷を見込んでそれを担当させたあたりに、彼がもともと尋常ならざる才能を持っていたことを示しているように思えます。

一方で、斉彬の死後、島津氏の家長となった島津久光との関係は険悪なもので、島津久光に対して「あなたのような田舎者には理解できない」という趣旨の発言を面と向かってしており、嫌いな人物を侮辱する際にも遠慮なく率直であったことが分かります。

彼は安政の大獄の関係などもあって、二度も島流しに遭っていますが、能力の高さ故に呼び戻され、京都へ向かい、禁門の変の際には幕府・会津藩の軍が苦戦する中に登場して長州藩を撤退に追い込むという活躍を見せています。やはり軍事、即ちロジスティクスの才能に長けていたことを示すエピソードということもできると思います。

徳川慶喜と同盟することによって国政への参加の機会を伺っていた島津氏ですが、後に反慶喜へと方針が変わり、慶喜を共通の敵とする薩長同盟が結ばれることになります。慶喜は大政奉還をすることで一旦は薩長同盟の矛先から逃れることができましたが、島津氏の兵士が京都御所を占領した状態で行われたいわゆる小御所会議で慶喜の処遇について議論が行われた際、土佐の前藩主の山之内容堂が慶喜を強く弁護したためになかなか結論に至らないという状況が起きたのですが、休憩時間に西郷が「短刀一本あればことが足りる」、即ち山之内容堂を殺せばいいじゃないかと言ったことは大変有名なエピソードです。良くも悪くも目的のためには手段を選ばない彼の性格が良く出ているように思います。

戊辰戦争でも随所で西郷の豪胆さが発揮されますが、新しい時代を作ると言う大事業に新政府軍関係者がおっかなびっくりに取り組んでいる中、西郷が不退転の決意で、いつ死んでもいいという覚悟で状況に取り組んだことが、結果としては明治維新を成功させる大きな要因になったように思えます。

しかしながら、おそらく彼は性格的におとなしくしていることが難しい面があり、それが欠点と言えるのではないかとも思えます。明治維新後、岩倉使節団が欧米視察のために出発した後、西郷は留守政府を任されることになりますが、その間に西郷を中心に征韓論が盛り上がりを見せます。それまで幕府と外交関係を結んでいた朝鮮半島の李朝が、新政府との外交関係の樹立に難色を見せたことで、征韓論が盛り上がったわけですが、西郷隆盛が自分で朝鮮半島へ行くと言ってきかず、帰国した大久保とも意見がかみ合なかったため、明治六年の政変で西郷は多くの官吏たちとともに政府を去り、鹿児島へと帰ります。やはり留守政府をじっと守るということが、成功するかどうか分からないということに大胆にチャレンジする彼の性格に合わず、明治六年の政変につながったのではないかと私は個人的に推測しています。

さて、西郷は西南戦争で敗れて切腹して果てるという最期を迎えたわけですが、西南戦争以前の戦いでは常に万全を期し、勝つために手段を選ばなかった豪胆な西郷のイメージとはかけ離れた形での最期だったように思えます。西郷が鹿児島で挙兵した大義名分は東京へ行き新政府の非を大久保に問い質すということだったようですが、実際には西郷が開いていた塾の門下生が新政府の施設を襲撃し、門下生を引き渡すのは忍べず挙兵に至ったようです。ですので、西南戦争の際は、西郷は勝つことを目的としておらず、門下生たちとともに最期を迎えようという、ある種の慈悲の心に徹していたため、勝つための周到さというものに欠き、死に場所を求めて敗走するような展開になったのだと理解することができると思います。西南戦争の場合、西郷の目的は勝利することではなく、門下生とともに死ぬことでしたので、それに徹していたと言うこともでき、徹底して目的達成を目指すという彼の性格や行動パターンは最期まで一貫していたと考えてもさほど真相と大きくかけ離れていないのではないかと思います。



よろしければチャンネル登録をよろしくお願い申し上げます。