岡本かの子‐女性崇拝

岡本太郎の母としても知られる文筆家の岡本かの子が、読売新聞紙上において『女性崇拝』という題の論評を発表したのは、1936年の1月20日だ。この年、その一か月後に226事件が起きていることを思えば、日本はいよいよ動乱へと国を挙げて飛び込んでいこうとする不安な時期でもある。かの子の『女性崇拝』にも、その不安はかすかに投影されている。ただ、太宰治の私信ほど、切迫したものではない。満州事変以降、日本は世界の孤児になり、それでも世界の干渉を振り切るだけの体力を持っていた。たとえ国際連盟から脱退していたとしても、日本を押さえつけることができる国などなかった。1936年となれば、まだ盧溝橋事件も起きていない。だからこそ、日本人は迷っていたと言うことができる。果たして以前のように国際秩序へ帰って行くべきだろうか。それとも、日本独自の路線を追求するべきだろうかと。どちらを選ぶかについて、まだ辛うじて時間が残されていた。そういう時期だったのだ。

では、辛うじて日本独自の路線を歩むとして、それはどんな路線なのだろうか。岡本かの子は女性崇拝のありようをイギリス、フランス、日本で比較している。案外と、イギリス人は女性を尊重していそうで、文章などを読めば女性に対する嫌味が強い。フランス人は女房の言いなりになるのでちょうどいいと思っている。さて、日本だが、日本はいわゆる武士道の国だ。だが、たとえば秀吉が淀殿に入れ込んでいるときでも、正妻の北政所の権利が侵害されることはなかった。日本版女性崇拝も捨てたものではない。かの子はそう述べている。当時の世相から考えれば、かの子は秀吉と北政所のことを例に出し、日本が独自路線を進み得ることを暗に示した。

結果、日本帝国は滅亡したわけだが、昭和11年の段階でそれが分かる人などいるはずがない。詩人でフランスから派遣されたクローデルでさえ、日本は賢明な選択をすると本国へも訴えていた。そのような時代背景を考えてかの子の文章を読めば、より深いものも見えてくる。フェミニズムは尊重するべき思想だが、そのフェミニズムも国際政治の影響を強く受けるということを、かの子の文章から見出すことができるだろう。尤も、戦前といえば暗いイメージが強いが、かの子のようなフェミニストの文章が新聞に掲載されるということは、大正デモクラシーの成果は失われていないわけなので、そのあたりは歓迎すべき材料のように思う。




太宰治‐私信

1941年12月2日、太平洋戦争の始まる直前に、太宰の書いた叔母さん宛ての手紙が都新聞に掲載された。ここで太宰は自分が必ず文芸で成功すると信じているので、無用な心配はしないでほしいと「叔母さん」に頼んでいる。表面的には、これは太宰の将来への展望を述べた宣言、21世紀風に言えばセルフアファメーションみたいなもの読めるかも知れないが、実際にはやや異なるのではないかと私は朗読しながら気づいた。太宰はこの文章で戦勝祈願をしているのである。

この文章が発表された時期は、日米戦争はいつ勃発してもおかしくない段階に入っていた。日米もし戦わばというたぐいの言論はいくらでもあったが、それよりも踏み込んで、日米はいつ戦争になるのかというようなことも囁かれていた時期でもある。日本の南部仏印進駐以降の英米からの経済封鎖は日本人の心理に大きな不安を抱かせていた。経済封鎖は戦争状態とほぼ同義だ。日米関係は既に相当に切迫していたと言い切って間違いない。当時を生きた人々にとって、対米開戦は決して寝耳に水ではなかった。大川周明は満鉄調査部の出版していた雑誌、『新亜細亜』で、ABCD経済封鎖を恐れる必要はないと明言している。ABCDの、米英蘭中のうち、有効な経済封鎖ができるのはアメリカだけだ。イギリスはドイツとの戦争に忙しく、日本に手を出す余裕はない。オランダは本国がドイツに飲み込まれており、オランダ領インドネシアが日本を脅かすことなど考えられない。中国もそうだ。日本にとって恐るべき敵はアメリカだけだが、アメリカとさえことを構えなければどうということはないと大川周明は楽観的かつかなり正鵠を射た議論をしている。日本はそのアメリカと全面戦争に突入したのだから、大川周明のような戦後にA級戦犯として起訴されるような人物でさえ、忌避すべきと考えた選択をしたのである。このころの歴史のことは、知れば知るほど暗澹たる心境にさせられる。

太宰の手紙に戻る。当時の日本人は、アメリカと戦争をして本当に勝てるのだろうか…。という不安の中を生きていたに違いないが、そこで人気作家の太宰が、私は成功を信じて文芸をやると宣言する文章を発表したのは、実のところは日本人は勝てると信じて戦争すれば勝てるという裏の意味を潜ませている。私ですら気づいたのだから、当時の読者の多くはそのことに気づいただろう。マッカーサーが戦後に読んでも気づかないかも知れないが、私たちには分かる。太宰は、イエスキリストが明日のことを思い悩むなと弟子たちに話したことを引用し、日本帝国も思い悩まず、目の前のことに信じて取り組めと発破をかけた。この文章の真意は戦意高揚だ。東条英機が読んだかどうかは知らないし、既に日本の空母艦隊は択捉島の単冠湾を出港してハワイへ向かっていたわけだから、太宰のこの文章が何らかの影響力を発揮した痕跡を認めることは難しいだろう。だが、当時の日本人の気分をよく代弁した文章だ。さすがは太宰だ。




関連朗読動画 太宰治‐海

原民喜‐砂漠の花

1945年8月6日、広島にいた原民喜はその時に遭遇したあまりに深刻な様相を『夏の花』という作品に書き記し、作品は三田文学に掲載された。原子爆弾が使用されたことに関する多くの著作があるが、私は原民喜の記述したものが最もその深刻さを伝える文章になっていると思う。そして悲しいことに、どんなに言葉を尽くしても、広島の経験は絶対に、経験者にしか分からないものでしかないはずで、私は原民喜がなんとか読者に伝えようとして言葉を紡いでいる様子に出会い、立ち尽くしてしまうのだ。しかし、やはり読まなくてはいけない。読まずに日本人を生きることは難しいのではないかと思う。

原民喜はその後も被爆経験を書き続けた。書かずにはいられないし、書かねばならないという使命感もあったに違いない。非常につらいことだが、彼は次第に心身が蝕まれ、最期は自ら命を絶つことになる。健康状態が良くなかったことは、原子爆弾の後遺症であったとも言われるが証明されたわけでもないのという、少し難しい問題をはらむ。個人的には、原民喜はその場にいて、燃える広島の中を歩き、肉親や仲間たちと生き延びるために手を尽くしたのだ。当然、体調不良には放射線の影響を考慮しなければならないと思う。放射線はここまで浴びるまでは大丈夫とか、そういうものではなくて、浴びれば浴びただけ影響すると私は理解している。終戦直後、三田文学などで書くことに取り組む民喜の理解者の中には遠藤周作もいた。

『砂漠の花』では、直接的な広島の被害は述べられていない。どちらかと言えば、生きている間にどこまで書けるのか、何を如何に書くことができるのか、という書き手としての限界への挑戦を見据えたような内容になっている。しかし、原民喜には残された時間は少なかったから、現代人にはちょっと考えられないくらいに深刻な問題だったのではなかろうか。三田文学の重鎮である奥野信太郎から「生きるんだよ」と電話されたエピソードが書かれているが、それは奥野が民喜の死を予見できていたからに相違なく、それは奥野だけでなく、周囲の誰もが民喜から死を連想せざるを得なかったに相違あるまい。彼は深く死を抱え込んでいたし、そのことについて周囲は同情するしかなかったのではなかろうか。哀悼の意も込めて、今回は民喜の『砂漠の花』を取り上げた。砂漠には花は咲かない。咲いたとしても乾燥しているために儚く枯れていく運命にある。民喜は放射線を浴びた自分のことが砂漠に咲く花と同じ運命を背負っているように思えたのだろう。そして、それでも生きているということ、砂漠に咲いた花も生きようとするように、民喜もまた、限界まで生きようとしている。そして命の表現は、彼の場合は書くことであった。そのような激しく深い思いが短くまとめられたのが、『砂漠の花』というエッセイだ。




有島武郎‐聖書の権威

有島武郎は人生の初期に於いてキリスト教にひかれ洗礼を受けるのですが、後に社会主義へも傾倒していきます。キリスト教と社会主義は形而上学的な立場は全く違うもので簡単に相容れるものではないのですが、問題意識には共通する部分があり、一人の人間があるときはキリスト教に傾倒し、あるときは社会主義に傾倒するということは充分にあり得ることかも知れません。聖書に登場するイエス・キリストが徹底的に見せる弱いものへの博愛は、社会的弱者の救済を目指す社会主義の問題意識と似ていると思うのです。私個人はキリスト教の洗礼を受けていますが、社会主義をあまり信用してはいません。過去の近現代史で社会主義がいかなるものであったかを見つめてみた時、社会主義の国家では弱者が存在しなくなったのではなく、弱者が見えなくなっただけなのだと私は思うからです。私はやや過激なくらいの自由主義者なのですが、それは困っている人や苦しんでいる人が自力救済できる余地をなるべく大きくするべきだと思っているからです。人それぞれ救済の形は違います。国家や行政が救済の形を決めるのではなく、個々人が自分で救済の形を決めることができるほうが、人類はより幸せになれると私は思うのです。

それはそうと、明治・大正・昭和の近代日本にやってきた西洋の社会主義とキリスト教は、以上述べたような弱者救済の倫理の観点から抗いようのない魅力を知識人に見せつけ、有島武郎のように純粋な心を持つ人は、惹かれつつ迷いました。彼は最期は自ら命を絶ってしまいますが、そこまで自分を追い込んでしまうのも、あまりに純粋に倫理と正義を追求し、誠実すぎたために些細な矛盾を見逃すことができず、解決方法はそれしかないという心境になったのではないかと、つい、想像してしまいます。

有島武郎は『聖書の権威』という短いエッセイで、芸術と聖書が対立関係にあり、時に芸術に惹かれて人間的欲望に関心が向き、時に聖書に惹かれて正義と倫理に関することに関心が向いたと認めています。興味深いのは聖書こそ芸術を超える、いわば芸術のかなたにある究極の芸術であるということを示唆して全文を終えていることです。有島武郎はそこまで言い切ってしまえるほどに聖書を読み込んだに違いありません。





芥川龍之介‐谷崎潤一郎氏

芥川龍之介谷崎潤一郎と一緒に神田へ出かけた思い出を書いた短いエッセイが『谷崎潤一郎氏』だ。谷崎が赤いネクタイをして歩いているのが一目を引き、芥川はそのおしゃれっぷりに圧倒されてしまう。国語の教科書などに出てくる谷崎の写真は大抵、和服姿に難しそうな表情をしているものなので、あまりおしゃれそうなイメージは受けないが、実際には相当なしゃれものだったらしい。中国で撮影した谷崎の写真は洋装でなかなかの美男子であり、映画『自由恋愛』でも、女優をとっかえひっかえ連れ歩く洋装のおしゃれ美男子という感じで登場してくる。谷崎は春琴抄とか細雪とかを書いてしまうくらいの達人なのだから、おしゃれでないはずがないし、もてるに決まっている。

芥川と谷崎はちょっと炭酸水でも飲んで休憩しようとカフェ―に入るのだが、女給さんがしげしげと谷崎のオシャレネクタイに関心を示してネクタイを褒める。要するに谷崎の方が芥川より女給さんにもてている瞬間である。で、感極まった芥川は女給さんに50銭のチップを渡すという内容だ。大正時代、円タクとか円本というのがはやったので、当時の1円は現代の価値にして1000円かそれより少し高いくらいになると思う。とすれば50銭というのは500円くらい。最近のアメリカフランスのような先進国でのチップにしてはやや安いが、チップの習慣のない日本では好意の表現としてはちょうどいいくらいかも知れない。

芥川は、谷崎のような東京人は不要なチップを渡す場面を冷笑的にさげすむと述べているが、芥川も東京人である。ただ、芥川は自分が谷崎に対して恐れ入ってしまったあたりのことを表現するために、敢えて谷崎=東京人=冷笑的という構図で述べているのかも知れない。谷崎は、そんなの渡すほどのことはしてもらってないじゃないかというような趣旨の発言をするのだが、芥川は人生で一番価値のあるチップだったというような満足感を述べている。芥川が若くて女の子に対して降伏してしまう程度に素朴なのに対し、都会人で秀才で金持ちでほしいものは何でも手に入れている谷崎は、女給さんにほめてもらったうえで、チップはあげないというあたりの対称性がおもしろと見ることができるだろう。






芥川龍之介‐小説の読者

芥川龍之介がどんな小説を愛するのかについて述べた短いエッセイです。

小説やエッセイを書くには才能と努力の両方が必要だと思いますが、文章を読みこなすのも同じで、才能と努力を必要とします。真に文章を読みこなすことのできる人のことを読巧者と言いますが、芥川の『小説の読者』は、まさしく読巧者とは何かを書いているように思います。青空文庫に収録されているものを朗読しました。

昭和初期に書かれたもので、芥川の最晩年にさしかかろうという時期ですが、それだけに筆致が磨かれて来ているとも言えそうな、鋭いエッセイです。自分の文章を読む人にどこまで真意を伝えることができるかという問題意識を持ちながら書かれたエッセイだとは思いますが、同時に諦めの心境も感じ取ることができます。






芥川龍之介‐教訓談

芥川龍之介がかちかち山という童話を手掛かりに、人の心の恐ろしさについて述べています。
短いですが、迫力があり、芥川が次第にペシミスティックへと心境が変化していく一片を感じ取ることができるように思います。青空文庫に収録されているものを朗読しました。

芥川龍之介は亡くなる直前には多くの厭世的な文章を残していますが、生きている現実感を失い、自分の存在に自信を持てなくなっていくようになった様も感じ取ることができます。この教訓談は、大正11年に書かれたものですから、芥川が亡くなる時期よりはだいぶ早いのですが、既に人の世に対する嫌悪、自己嫌悪を見出すことができます。芥川は自ら命を絶つという悲劇性ゆえに、名前に憂いを帯びているとすら思えますが、漱石の弟子たちの中では、特別大きくその名が知られた人ですし、彼の短文の迫力は今後100年かもっと先まで、日本語が今の形態から変化しても愛され続けることでしょう。






中原中也‐小林秀雄小論

中原中也はさすが大詩人ですから、今回の文章は何を述べているのか細かいところについては、実のところ、ちょっとよく意味が分かりません。他の戦前の文章も時にその意図が測りがたいことはありますが、今回はより深刻です。ただ、分かるのは、小林秀雄のことを深く憎んでいること、しかし、小林秀雄の巨大さも認めていて、秀雄を憎む自分自身を強く嫌悪していること、そういったことがひしひしと伝わってきます。青空文庫に収録されているものを朗読しました。

小林秀雄と中原中也は、長谷川泰子という女性を巡り、命を削るような激しい恋の三角関係に立ち至ったことはつとに有名なことです。純粋でまだまだ世間知らずのところもあり、おそらくは生まれつきあまりにも打算というものを知らなさ過ぎた中原中也は、恋でも文芸でも友人関係でも小林秀雄に敗れていくことになります。中原中也は早世してしまいますが、小林秀雄に敗れたことが命を縮めてしまったのかも知れません。中原中也と小林秀雄の間にいて、双方と人間関係を保ったのが大岡昇平でしたが、中原中也が朝に午後に夜にと一日に何度も遊びに来るのに相当参ってしまったそうです。波状訪問と表現している評論を読んで、そりゃ訪問される側は大変だと思いました。ですが、そうでもしなければならないくらい、中也は依存傾向が強く、すぐに「汚れちまった悲しみに」状態になったでしょうから、周囲はさぞかし大変だったでしょう。ですが、多分、そのぶんお人よしで、繰り返しになりますが純粋で、愛すべき、憎めない人だったのではないかと思えてなりません。




永井荷風‐鴎外先生

永井荷風がいかに森鴎外を仰ぎ見、尊敬しているか、手放しの賛辞が書かれています。鴎外なんて大したことないぜと言っているやつがいたら、そいつ本当に何にもわかってねえという趣旨のことが述べられています。青空文庫に収録されているものを朗読しました。

永井荷風は生家の非常識なくらいのお金持ちぶり、生まれながらのエリート、華やかな留学時代と慶應教授時代というイメージが先行し、更に書くものは女のことばかり、晩年もやっぱり女のことばかりというわけで、毀誉褒貶あるようにも思いますが、その恵まれた前半生をひたすら芸術にささげたわけですから、芸術を見る目は普通ではないわけです。その荷風が全力で敬意を示す芸術家鴎外の凄さを改めて思い知らされます。




佐藤春夫‐永井荷風

佐藤春夫が永井荷風の人となり、その人生を非常に短い文章で端的に表現した名文です。その一言一句からは、佐藤春夫がどれほど荷風に対して複雑な感情を抱いていたかを感じ取ることもできます。青空文庫に収録されているものを朗読しました。

文面では、一応は永井荷風を立てているように見えるものも、実はボロカスです。いいとこのボンボンが異様な女好き。以上。のような感じです。佐藤春夫が谷崎潤一郎とも解決の難しい感情的な矛盾した対立のような共依存のようなわけのわからない関係を築いたりしたのと、まるで別人格であるかのように食客三千人と言われたのとを考えれば、佐藤春夫は随分と自分の消化しきれない感情をもてあましながら生きたのだろうということが見えてきます。今回のものは、永井荷風の人生も、佐藤春夫の人生も理解が深まるお得な内容だと言えそうです。