長州藩士たちの苦しみ

長州藩は関ケ原の戦いの時に毛利輝元が徳川家康に騙されたことの恨みを250年間忘れずに語り継いできた藩だったことで知られています。考えようによっては、加藤清正とか福島正則とか小早川秀秋とかは家を潰されているわけですから、毛利輝元が領地の大幅削減で済んだことは運が良かったとすらいえるのですが、この家康の僅かな温情が、250年後に仇となったとも言えそうです。

毛利家はたとえば足利義昭が信長のところから亡命してきた時に受け入れてあげたり、南朝の子孫をかくまってあげたとかの噂があったりするようなおうちですから、幕末、京都に潜伏する長州藩士たちが、孝明天皇を誘拐して天皇の命令書とかを乱発すれば倒幕できると考えたとしても、それは彼らの伝統的な方法論とも言えるので驚くにはあたりません。きっと池田屋に集まった長州藩士たちは過去の歴史をよく学んでいて、後白河天皇とか後醍醐天皇とかの人生も踏まえた上で、孝明天皇誘拐計画を話し合うことにしたのでしょう。そしてそれは新選組に察知され、踏み込まれ、死者が出て、京都の長州藩士は逃げ回らねばならないハメになってしまいました。

孝明天皇は、将軍後見職の立場だった徳川慶喜を非常に厚く信頼しており、長州関係者は尊王攘夷を大義名分に幕府を論難しようとしていましたが、そういった反慶喜につながる行動を非常に嫌がって、そんなやつらは追放だ!という状態になっていましたから、長州藩士たちはますます、孝明天皇を抱き込んだ慶喜が憎く、やはり実力で天皇を誘拐するしかないと思い詰めていったようです。慶喜がそこまで孝明天皇から高く評価されていたのは、慶喜の母親が有栖川宮家のご出身の正真正銘の皇族であったため、慶喜には半分皇族の血が流れていたことが大きいと思います。排他的な京都の公家社会の中で、孝明天皇は慶喜のことを単なる武士と扱わず、親戚みたいに扱ったというわけです。ですから、長州藩士がいくら孝明天皇を暴力で誘拐したとしても、そんなことで天皇の信頼を得たりすることができるわけないんですけど、やはり、ちょっと思い詰め方が尋常ではなかったというか、一度そうしようと決心してしまったら、途中でやめられなくなってしまったんでしょうかねえ。

池田屋で一旦ひどい目にあった長州藩士たちは故郷から応援の兵隊たちも呼んで体勢を立て直し、京都の西側の標高の高い土地に陣取って、京の都を見下ろす形で京都制圧の計画を実行しようとしました。彼らは京都市内になだれ込み、御所に火をつけて孝明天皇を誘拐しようとしたんです。要するに池田屋で相談して決定する予定だったことを、ちょっと遅れてやっぱり実行に移すことにしたというわけです。徳川慶喜は孝明天皇から禁裏御守衛総督という肩書を与えられます。本来幕府の人間だったはずの慶喜はこれで朝廷のために働く人物へと転職したことになるんですが、まあ、やっぱり一言でいえば優秀なんでしょうねえ。慶喜は必勝の体制で長州藩の軍隊を迎え撃つことができました。まず慶喜から長州軍に対して降伏勧告が出されましたが、当然の如く無視ですので、後は実際に戦って勝てば官軍、どっちが強いかはっきりさせるしかないという状態になったんですね。御所に実力で侵入しようとする長州軍を幕府軍は迎え撃ち、たとえば御所に西側の蛤御門には当時の銃撃の弾痕が今も残っているそうです。私も何度か蛤御門には行ったんですが、恥ずかしながらどこに弾痕があるのかよく分からなかったのですが、見る人が見ればわかるのでしょう。戦いの当初、長州軍が優勢になった時があって、彼らは御所内部へと乱入していきましたが、西郷吉之助が率いる薩摩藩の兵隊たちが慶喜の率いる幕府軍の応援に入り、形成は簡単に逆転して長州軍は総崩れとなり、長州の兵隊たちはちりじりになって、懇意にしてもらっていた公家の屋敷とかにかくまってもらおうとしたんですね。もちろん、公家の方たちは困って出ていけと言ったに違いないんですが、長州の兵隊たちは簡単には出て行ってくれません。で、慶喜は公家の家々に火を放つという決心をします。後先考えずに燃やしたものですから、京都中が火の海になり、信長が残したものも秀吉が残したものも勢いよく燃えてしまったらしいんですが、京都は応仁の乱以来の焼け野原になったそうです。勝つためならなんでもやるという覚悟の決まった決断ができるところは慶喜の凄いところですが、そのために一般市民が焼け出されるのはやむを得ないとする割り切りもまた慶喜らしい冷めた感じも見出すことができる出来事だったと思います。この時、長州側のリーダー格の久坂玄瑞が逃げ込んだ鷹司邸で自害するなどしているため、彼らにとっては非常に凄惨で残酷な記憶になったことは間違いないと思います。

天皇の誘拐を計画して京都御所を襲撃したわけですから、長州藩は朝敵認定されることになります。ま、当然ですよね。普通に考えてやばいでやつらですから、朝敵認定して幕府が取り締まるのが筋というものだと思います。明治になってから当時のことを振り返り、長州藩をお取りつぶしにすればよかったと気付いた幕府官僚もいたらしいんですが、当時は長州藩を取り潰すというわりと普通のアイデアが議論された形跡はなく、長州藩を武力で威嚇し、責任者を切腹させて領地を削り、そこで講和に持ち込もうと幕府側は考えていたようです。

幕府は諸藩に出兵を命じ、幕府と諸藩の連合軍が長州に迫りました。第一次長州征伐です。興味深いのは、このとき幕府は日本国政府を名乗り、西洋の国際法に準じて宣戦布告状を長州側に送り付けていることです。幕府が急速に近代的なマインドを身に着けていたことが分かります。絶対に勝てないと思った長州藩首脳たちは降伏の意を示し、それは受け入れられ、複数の家老の切腹、領地の削減などを条件に手打ちとなりそうな雰囲気になりました。ただし、長州藩主父子を犯罪人として市中引き回しにするという条件も入っていて、これは受け入れることができないと叫び、長州藩内でクーデターを起こした男がいました。高杉晋作です。彼は「俺は功山寺で待ってる。みんなで萩城へ行き、幕府への降伏の決定を取り消させ、戦争を継続しよう」と同士たちに呼びかけます。最初に功山寺に来たのが伊藤博文で、後から来たのが山形有朋でした。余談ですが、この時の到着した順番が明治になって首相になる順番にも影響したと言われています。まあ、いつも、余談だらけでやってますから、今回だけ余談ですがとことわる理由も特にないんですが、あはは…。

高杉晋作は当初少数で功山寺を出発したらしいんですが、萩城にたどり着くころには同調者が三千人にまで膨れ上がっており、降伏を決めた家老たちは自害して果て、新たな藩の方針が決められて、報告を受けた藩主毛利敬親は、「そうせえ」と答えたことから、藩士たちからそうせえ様と呼ばれたそうですが、毛利敬親も勝手に家臣たちが殺し合う様子を見て、もういろいろ面倒になってしまって、勝手にしろって思ったんじゃないでしょうか。ここまでだけでも果たして長州藩にどれだけの死者が出たのやら…という感じなのですが、これで長州と幕府は再び戦闘状態になりました。第二次長州征伐ですね。幕府側は戦力差から考えて余裕で勝てると思ったはずです。

ところがですね、陸戦では長州の大村益次郎が前線し、幕府軍を後退させています。また、関門海峡では坂本龍馬が操る小型軍艦が幕府の巨大軍艦を翻弄し、攪乱していました。混乱に乗じて高杉晋作の奇兵隊が九州に上陸し小倉城へ目指して前進するという、幕府側からすればまさかの事態になってしまいます。小倉城の手前には肥後細川家の部隊が初期的なマシンガンであるガトリング砲を据えて待ち構えており、奇兵隊はそこでしばらく足止めされてしまいます。ただし、奇兵隊の動きを止めることができたのがこのガトリング砲だけだったものですから、肥後細川家の兵隊には休息が与えられず、細川家の将兵たちの不満が膨らんでしまい、彼らは独自の判断で帰ってしまいます。これで小倉城は裸同然になってわけですが、最高司令官として大坂城に入っていた将軍家茂が亡くなったという知らせが入り、幕府軍現地司令官もそれを理由に戦線を離脱。幕府軍は統率を失い、戦線が維持できない状態に陥ってしまいました。長州の勝利でこの戦争は終わりました。停戦交渉のために勝海舟が広島に派遣されています。

この一連の幕府側の敗北に接した慶喜は、第三次長州征伐も計画し、諸藩の兵隊を使わずに巨費を投じて育てた幕府陸軍で長州に乗り込もうと考えたようなのですが、将軍家茂は他界してしまうし、小倉城は陥落するしで、ここは突っ走っても駄目だと判断して断念しています。

幕府軍が全力を挙げた戦いで長州藩が勝ってしまうという誰も想像しなかった展開によって幕府の権威は完全に失墜してしまいましたが、この戦争の最中に京都では薩摩と長州の秘密同盟が結ばれています。この同盟は長州がつぶれそうになった時には薩摩は寄り添うという程度の内容で、決して一致協力して新政府を作るというような遠大なものではありませんでしたが、坂本龍馬が間に入って西郷吉之助と桂小五郎が手を結んだというのは、やはりかなり大きな出来事であったと言えるでしょう。

池田屋事件から長州征伐までの流れを見ていくと、長州がいかに不器用なことをしているかが見えてくる気がします。池田屋事件から京都御所攻防戦に至る流れは、その目的が孝明天皇誘拐という荒唐無稽なもので、こんなことを本気でやろうとしていた彼らが憐れにすら思えてきます。また、長州征伐戦争が始まった時、日本中の誰もが、或いは日本に関する知識を持つ外国人の全てが、長州が滅亡すると信じたに違いありませんから、当然、長州藩士たちも、藩主の毛利敬親も万事休すと死を覚悟したはずです。その時の心情を思うと、やはりかわいそうなくらいに、こいつら、まっすぐでブレないなあと思ってしまいます。一時は現実に流されて長いものに巻かれようと降伏を決めますが、やっぱりやーめたと戦いを継続することになったとき、やっぱりもう一度死を覚悟したはずです。で、勝ったという。この経験は凄いですよね。後に日本陸軍は何でも精神力で突破しようとしますけれど、その基礎になったのは陸軍を作った長州藩士たちの、この時の経験が強く影響したんじゃないだろうかとも思ってしまいます。最終的に勝ったわけですから、彼らはそれは喜んだでしょうけれど、それまでの期間、非常に苦悶しながら、もはや後戻りできないと何かにかじりつくような気持ちで戦い続けた彼らの心情には鬼気迫るものがあるような気がします。そしてそれは良くも悪くも長州藩士たちが建設した日本陸軍の行動様式にも影響したような気がしますので、本当に物事は良いことと悪いことが混じり合っていると思えてなりません。

とはいえ、このような番狂わせがあったりするから、幕末という時代はおもしろいんでしょうねえ。



新選組の夢と現実

14代将軍家茂が孝明天皇の妹である和宮をお嫁さんにもらうことと引き換えに、徳川将軍の京都訪問が実現されました。これは徳川家光以来200年以上ぶりのことで、このことだけでも当時としては大事件だったのですが、意外なことに、徳川幕府は将軍警護の人材不足という、まさかの壁にぶち当たってしまいました。幕府は急いで江戸で行き場をなくして食い詰めかけている浪人たちに募集をかけ、浪士隊を結成し、京都までの将軍の道のりに参加させます。おそらく、資金的な問題というよりは、幕府官僚たちの中には京都へ行かされることを不安がり、誰も行こうとしないのでやむを得ず浪人たちをかき集めたのではないでしょうか。そして、将軍警護の後、彼らを召し抱えるのが嫌だったので、飽くまでも浪士隊という名称を変更せず、臨時雇いの雇用形態を維持しようとしました。浪士隊に集まってきた人たちは、多分、公費で京都へ行けるというようなことにも魅力を感じたんでしょうけど、これをきっかけに就職できればいいなという思いがあったはずです。浪士隊は途中から清河八郎という男の個人的な武装集団みたいになっていきますが、浪人たちが清河に取り込まれていった理由としては、結局幕府が最後まで、彼らに将来的な約束を与えようとしないので、失望が広がった結果なのではないかとも思えます。

浪士隊は清河八郎のアジテーションに乗せられて江戸へ帰っていきましたが、少数ながら京都に残った人たちがいました。後に京都で新選組を結成することになる近藤勇とその仲間たちです。近藤勇は剣術道場主でしたから、別に就職先がほしかったとかそういうこともなかったと思いますけど、やっぱり、もっとおもしろい活躍の場を得たかったんでしょうね。新選組のエピソードが魅力的なのは、名を挙げることを渇望する若い男たちが、勇気を振り絞った結果、本当にその渇望を実現し、世間を沸かせたことにあったのではないかと思います。スラムドッグミリオネアという映画で、スラム出身の男の子がクイズに答えて億万長者になるっていう映画がありましたけど、私はその映画をみて泣いてしまったんですが、それと同じようなおもしろさを新選組には感じてしまいます。新選組は存在そのものが常識破りな夢みたいなもので、とにかくとてもおもしろいのです。

新選組には様々な有名なエピソードが残されていますが、特に有名なものをここでざっと列挙してみたいと思います。まずは京都の壬生村の八木家に拠点を構えていた時代に起きた、芹沢鴨暗殺事件。新選組は近藤勇と芹沢鴨の二人局長制を採用し、派閥争いを起こしていましたが、数と結束力で勝る近藤勇と土方歳三のグループが、まず芹沢鴨の最も信頼できたであろう部下の新見錦を陰謀で切腹に追い込み、芹沢鴨のことも寝込みを襲って暗殺します。土方たちは芹沢鴨を殺害した直後に家主の八木家の人々に対し、芹沢鴨が賊に襲われましたと報告していますが、あまりにも嘘が見え透いていたため、八木家の人はおかしくて笑いをこらえるのに苦労したそうです。八木家の人にとっては迷惑に違いないのですが、人が自宅で殺されたことがおかしくて笑えてしまうという八木家の人々の感性にもびっくりしてしまう事件なわけですね。

次に池田屋事件。長州藩の桂小五郎などが京都で謀議を重ね、御所に放火して孝明天皇を誘拐しようと企んでいたことを新選組が察知し、彼らが池田屋で謀議しているところを襲撃した事件でした。桂小五郎が一旦池田屋に来たものの、まだあんまり人が集まってないから出直すことにして帰った後で新選組が踏み込んだことは非常に有名です。桂小五郎はそれからしばらく姿を隠して過ごしました。ちなみに新選組に捕まえられて、この謀略をゲロってしまった男性は、受けた拷問があまりに激しかったために、数日後に亡くなっています。長州藩とその関係者は、この事件への復讐を決心し、彼らの倒幕のモチベーションが激しく高まったため、かえって倒幕に突き進むようになったとも言われています。新選組は長州藩士たちの謀議の場所が池田屋か四国屋かの特定ができず、戦力を二つ分けて両方に送り込みましたが、送った隊士の数が少ない方の池田屋が本命だったことが後でわかります。新選組は最初は4人で踏み込みましたが、その後、四国屋に行っていた隊士たちが合流しました。京都守護職を命じられていた会津藩の陣屋にも、新選組は会津藩お預かりという立場であったために報告がされていましたが、会津藩は本気にしなかったため、会津の兵隊が到着したころには事件は終わっていました。同じころに一番隊長の沖田総司は喀血し、肺病を発症しています。映画などでは京都の祇園祭のコンコンチキチンコンチキチンの音が聴こえる中、池田屋での戦いの最中に沖田が血を吐いたりしています。

そして、次のエピソードとしては副長の山南敬助の脱走と切腹でしょうか。山南脱走の真の動機はよく分かりませんが、彼は明里という芸者さんと江戸へ向けて駆け落ちし、大津で沖田総司に追いつかれて京都へ帰り、切腹しています。果たして本気で逃げるつもりだったのどうかもちょっと怪しいような、山南の心中には新選組に対する深い諦めがあって、彼はそれを土方たちに見せたかったのではないかというような不思議な印象が残るできごとでしたが、山南のケースに象徴されるように、新選組では粛清に次ぐ粛清が行われ、戦いで死んだ人より粛清で切腹させられた人の方が数が多いとも言われています。新選組の暗い面が見えてくる現象であったともいえるでしょう。おそらく、近藤と土方が既得権益を守ることに意識が向きすぎていたのではないでしょうか。ダサくて残念ですが、それもまた、彼らの若さゆえの過ちと思うと、後世の私たちは自らの身を律するのに役立てたいできごとであったとも思えます。

さて、このような内部粛清に彼ら明け暮れる中、時代は大きく変転し、徳川慶喜による大政奉還が行われ、坂本龍馬が暗殺され、新選組が分裂して御陵衛士という組織を作った伊東甲子太郎とその部下たちが京都の油小路というところでまとめて殺害されるという事件も起きました。油小路での伊東殺害事件は、粛清の総決算みたいな事件なのですが、江戸で塾を開いていた伊東が、近藤勇に請われる形で新選組に参加するために京都へ来たものの、新選組が近藤と土方の私的な利益団体に堕してしまっていることを見抜いた伊東が失望し、御陵衛士という組織を作るという名目で新選組から出ていきました。御陵衛士というのは、病死したばかりの孝明天皇のお墓を警備する組織というわけで、ほとんど言い訳みたいな大義名分しかない組織なんですけど、伊東はこの組織に弟子たちを抱え込み、尊王攘夷派の中で名前を挙げようとしていたのではないかと思います。坂本龍馬が暗殺された時は現場に行き、犯人の遺留品を見て、これは新選組の原田左之助のものだと証言しています。当時の伊東は討幕派に対して顔を売るのに必死な時でしたから、果たしてその証言が本当かどうかは結構怪しいと思いますけれど、その直後、近藤勇の自宅に招かれてお酒を飲み、帰り道に油小路で襲われて絶命しています。真冬の京都で遺体が凍り付いている状態になっていることを知った伊東の弟子たちが遺体を回収するために油小路へ行き、待ち伏せていた新選組と壮絶な殺し合いになったそうです。当時、近くに住んでいた人の証言によると、朝になって様子を見てみたところ指がたくさん落ちていたそうです。この時、伊東の弟子で、生き延びた数名が薩摩藩邸へと逃げて行きました。薩摩藩では迷惑なので中に入れようとしませんでしたが、中に入れてくれなければここで切腹して果てると騒ぐのでやむを得ず中に入れてやり、彼らは鳥羽伏見の戦いで大砲を与えられ、高台から新選組を狙い撃ちにしています。しかも、江戸開城後に近藤勇が逮捕された時、近藤が「私は大久保大和という名前の旗本です。近藤勇じゃありません」としらを切っていたところ、伊東の弟子の生き残りの一人である加納鷲雄が「この男は近藤勇です」と証言することで、近藤の嘘が崩されるということがありました。加納はその時の近藤の苦々しそうな表情を語り草にしており、彼の武勇伝になったわけですが、それで近藤は斬首されていますので、ちょっと加納君、はしゃぎすぎじゃないっすかと思わなくもありません。まあ、しかし、彼の師匠の伊東が惨殺され、加納君も殺されかけたわけですから、やむをえませんでしょうかね…

さて、鳥羽伏見の戦いでは新選組も多くの戦死者を出しました。徳川慶喜が大坂城を捨てて脱出したため、徳川将兵も戦闘を継続するわけにもいかず、新選組も徳川の軍艦に乗って江戸へ帰還します。江戸では品川に上陸し品川で豪遊したそうです。近藤勇は当時、徳川家直参旗本の身分でしたから、江戸城で主戦論を唱えたらしいんですけれど、当時既に勝海舟が江戸城開城路線で話を進めようとしていたため、近藤たちは邪魔な存在でした。近藤たちは甲府城の警備を命じられましたが、甲府へ行く途中、近藤たちのふるさとの日野に立ち寄り、三日間、大盤振る舞いの派手な宴会をやった結果、甲府城にたどり着いた時には、官軍が先に甲府城に入っているという情けないことになっていました。江戸へ帰ってからの近藤勇はトホホなエピソードばかりが残っていて、ちょっと悲しくなってしまうのですが、近藤勇と土方歳三は、新選組の古株である永倉新八や原田左之助に対し、近藤勇と主従関係を結ぶことを要求します。そして永倉と原田はそれを断り、彼らは袂を分かちました。新選組は近藤勇が局長ではあったものの、隊士たちは近藤の家臣ではなく、目的を共有する仲間であるとの認識があったということが、このエピソードからわかるのですが、この分裂により、新選組は実質的に消滅したと言っていいと思います。

近藤と土方は千葉の流山へ行き、そこで新しいメンバーを集めて再起を図りますが、官軍に逮捕され、既に述べましたように加納君のいやーな感じの活躍もあって、近藤が斬首されるという流れになります。近藤の首は京都の三条河原にさらされたそうです。近藤勇が死罪になった理由は、坂本龍馬を殺害したからというのが訴因としてあるそうなのですが、坂本龍馬暗殺についてはまた回を改めてやりたいとは思うのですが、真犯人については分かっていないため、要するに近藤勇には冤罪の可能性もあるんですよね。普通、裁判にかければ、近藤勇は罪状認否もできるし、弁護側の抗弁のチャンスもあってしかるべきなのですが、まともな裁判をせずに近藤を殺したわけですから、官軍のあなた方、お前ら大丈夫か?頭湧いてるんじゃないのか?と言いたくなってしまいます。この感情優先、思い込み優先OKな雰囲気が薩長藩閥に漂っていたために、日本の帝国主義が結構ダメダメになったんじゃないかなと私は勝手に考えています。

徳川慶喜は、彼の晩年になって、近藤勇の話題が出た時に涙ぐんでいたとのエピソードが残っています。徳川慶喜の幕末の政治的な駆け引き、彼が将軍だった時に描いた新政府の構想などについて考えてみると、慶喜は稀にみる極めて優秀な人物であったことが分かるのですが、幕府の中で充分な働きをする人材に恵まれなかったために、ぎりぎりのところで敗れてしまったという感があります。一方で、彼の最大の敵であった島津久光は本人が凡人なのに、部下が超人みたいなのが揃っていたために、勝利することができました。幕府官僚たちがみな逃げ腰で無責任だったことについては、慶喜本人が極めて遺憾に思っていて、失望していたに違いないと思うのですが、そのような中、近藤勇が非常によく働き、献身的であったと慶喜は感じていたのだと思います。その近藤が官軍によって処刑される時、慶喜は自分が助かるためにはやむを得ないと見殺しにしたことに対する自責の念があったのではないでしょうか。慶喜は晩年、のほほんと生きていたようにも言われますが、些細なエピソードを積み重ねてみると、最終的に政争で敗れたことについて深く苦しんでいたであろうことが見えても来るのです。また、慶喜については詳しくやりたいとも思います。

新選組については子母澤寛という人が書いた新選組三部作にだいたいの細かいことが書かれています。新選組は小説や映画、大河ドラマにもなりましたが、子母澤寛の新選組三部作はそれらのネタ本になっていて、他にそこまで新選組について詳しく書かれた資料もあまりないものですから、そのネタ本をベースにして演出の腕が試される、というような感じになっています。ですので、詳しいことが知りたい人は子母澤寛の著作を参照することをお勧めします。



徳川家茂の愛と死‐和宮替え玉説についても述べてます

紀州徳川家の当主だった徳川慶福は、13代将軍家定の後継者に選ばれ、14代将軍に就任します。名前も家茂に改め、非常に若い将軍ですから、就任したばかりのころは、将来を大いに期待された将軍であったに違いありません。しかし、彼はあまり長生きすることができず、政治へのイニシアティブをとることもほとんどありませんでした。

家茂が将軍になったばかりのころ、徳川幕府の実権を握っていたのは井伊直弼で、その井伊直弼が桜田門外の変で殺害されると、今度は井伊直弼によって犯罪人扱いされて外出禁止にされていた徳川慶喜が将軍後見職という地位について幕府政治の最高峰に立つことになります。この慶喜の政治家としてのキャリア形成は島津久光が朝廷を動かしたことによる結果なのですが、久光は間接的に家茂の人生に大きく影響を与えたとみることもできるかも知れません。なにしろ、家茂の結婚相手選びについても、久光が運動したことが影響していたのですから。

島津久光は井伊直弼が殺された後の徳川幕府の権威を固めなおすために公武合体という妙案を思いつき、その実現に奔走します。本当に久光のオリジナルのアイデアなのかどうかは知りませんけれど、久光はこれだ!とこのアイデア実現に邁進したそうです。

そして公明天皇の妹である和宮が家茂の正室として江戸へ向かうことが決められました。和宮は相当に嫌がったとする話もあって、江戸で和宮の顔を知っている人はいないはずですから、偽物、替え玉の女の人を和宮と偽って送り込んだとの都市伝説もないわけではありません。和宮替え玉説によると、江戸へ行った和宮は替え玉で、その偽物は明治維新後に京都へ帰る途中で殺されて口封じされた、というような話になってます。私はいくつかの理由で信用していません。まず第一に、和宮の生母が一緒に江戸へ行っています。和宮の母親だけ本物で、偽物の和宮の世話をするためについてきたという話などあり得ません。だったら和宮の母親も偽物だったとしたらって話になりますけど、それはちょっと大げさすぎます。秘密が大きすぎてその分ばれるリスクが上がってしまいます。そもそも徳川の諜報機能の高さを考えれば、高い確率でバレるでしょうから、そんな訳の分からないギャンブル性の強いことを公武合体のような重大事で朝廷が選ぶだろうかという疑問も捨てることはできません。また、鳥羽伏見の戦いの後、和宮は徳川家の家名存続の嘆願書を書いていますが、これは和宮が本物だと京都の朝廷の人たちが認めているとの前提で成り立つエピソードです。偽物が本物のふりをしてそんな嘆願書を書くなど、荒唐無稽すぎます。更に、和宮は明治維新後に京都に帰ったものの、数年後には東京に帰ってきています。そして徳川家の人たちともよく交流したというわけですから、途中のある時期替え玉だったとして、バレないわけないんですよ。というわけで、和宮は本物であったと私は認定したいと思います。以前、大江戸博物館で和宮の結婚道具の展示を見たことがありますが、それはそれは豪華で高趣味でハイセンスで素敵でしたよ。

それはそうと、和宮は当時、既に有栖川宮熾仁親王と婚約していたにもかかわらず、家茂と結婚するために婚約は破棄させられています。政略結婚の道具にあからさまにされていたわけで、和宮には同情してしまいます。

しかし家茂と和宮の結婚生活は極めて幸福なものであったようです。幕末の殺伐とした世の中で、政争と利権と暗殺が渦巻く中、この二人が真実に愛し合っていたらしいというエピソードは数少ない心温まるいい話なのですが、和宮は大奥で篤姫にいじめられぬいたらしいという話もあるので、いいことと悪いことは同時に起きているものだという人生の真実みたいなものを考えさせられてしまいます。

朝廷は和宮を家茂に与える見返りとして、家茂の上洛を求めてきました。徳川将軍が京都へ行くのは三代将軍家光以来のことで、既に200年以上なかったことでしたが、家茂は同意して京都へ向かいます。この時の家茂警備のために江戸で浪人たちが集められたのですが、その募集に応じた者の中に近藤勇や土方歳三がいて、彼らは京都で新選組を旗揚げします。新選組のことはまた改めてやりたいと思いますけれど、この時代はそれぞれのできごとが密接に絡み合っていて、まるで複雑なパズルを解いているかのような心境になってしまいます。

将軍が京都へ行くということは、天皇と将軍のどっちがえらいかを改めてはっきりさせるとする効果があり、朝廷は京都へ来た家茂に対し、ペリー来航以来、日本国内で増える一方の外国人の追放を約束させようとします。孝明天皇は石清水八幡宮を家茂と一緒に訪問し、そういう逃げられないシチュエーションを作って、外国人追放の約束をさせようとプランニングしたものの、家茂サイドがやばいと気付いて、風邪をひきましたと言って石清水八幡宮には行かなかったというなかなかの心理戦も展開されたようです。家茂の代わりに慶喜が石清水八幡宮へ行きましたが、慶喜も約束させられるかも知れないと思って病気を偽り逃げ出しています。

実は天皇は徳川家康の時代から京都御所の外へ出ることを禁止されていましたから、孝明天皇が石清水八幡宮へ行ったというのはこれも200年以上なかったことであって、こんなおきて破りが行われたのも、天皇の権威の復活と徳川将軍の失墜みたいな感じで受け取る人も当時はいたようですし、多分、その見方であっていると思います。

家茂はこれ以上京都にいると、また何かを約束させられるかも知れないので、幕府首脳たちが知恵を絞って軍隊を大坂に送るという威嚇行為までして家茂を江戸に帰らせましたが、しばらくして再び家茂は今度は大坂へ出ていく必要が生じました。京都御所を武力で制圧しようとして失敗した長州藩を征伐するために、幕府軍が西日本へと出撃し、その最高司令部が大坂城に置かれ、家茂は最高司令官として大坂城に入ることになったわけです。そして彼は大坂で急病で倒れ、帰らぬ人になりました。当時数えでまだ21歳という若さです。人間の年齢的にも最も健康で元気な、あんまり死ななさそうな年齢だと思いますので、当然、毒殺説とかも出るんですけど、私もこの家茂毒殺説については結構、ありそうな話だとも思えます。家茂は井伊直弼の強い推しがあって将軍になったわけですが、家茂を守るはずの井伊直弼は殺されてこの世にはいませんでした。島津久光が幕府政治にやたらと介入してきましたが、島津氏はもともと慶喜を推薦する側で、家茂にとっては本来敵対勢力だったわけです。しかも久光の運動の結果、ライバルの慶喜は事実上の家茂の監督役であり、もう一人の幕府政治の重鎮である政治総裁職に就任して松平春嶽も慶喜派で、気づくと家茂は幕府内で孤立していたと言っていい状態だったわけですね。彼が心を開くことのできる真実の味方は和宮だけだったのではないかと思います。政治の世界は本当に難しいですねえ…政治家にはなりたくありません。マジで。

最後に、家茂と和宮の心温まる交流を印象付けるエピソードで今回は終わりたいと思います。家茂がどんな顔の人だったかについては、肖像画を見るしかないんですけど、最後の将軍の慶喜の肖像写真ならいろいろ残っているのに対し、家茂の写真は残っていません。ですが、和宮の墓所の調査がされたときに、和宮の棺にはある男性の写真が収められていたというのです。で、その写真は大切に研究室みたいなところに運び込まれたんですが、外気に触れたことが悪かったのか、翌朝にはその写真は単なる白い紙になっていて男性の姿は消えていたそうです。で、この写真の主こそが家茂なのではないかと推測することが可能になるわけですが、一方では実は和宮はずっと有栖川宮熾仁親王を慕っていて、写真の主は実は熾仁親王だったのではないかと言う人もいるようです。検証不可能なものの、私は家茂の写真であったと考える方に一票を投じたいと思います。技術的な問題でいえば、たとえば大坂城に家茂が入っていたような時代には既に多くの日本人が写真を撮ることができた時代に入っていました。ですから、家茂の写真が撮影されていた可能性は充分にあるわけです。そして、まあ、当時の貞操観念から考えても、結ばれなかった元婚約相手の写真を棺にまで入れてもらうというのは考えにくく、一人の夫とだけ添い遂げるという価値観が強かったであろうことを考えれば、和宮の棺にあった写真の男性は家茂だったと考える方が無理がないように思えるんですね。まあ、家茂が早世してしまったことが気の毒なので、そうであってほしいとの私の願望もありますけれど。



島津久光の憂鬱‐徳川慶喜に嫌われた男

島津久光は幕末の歴史を語る上で決して外すことのできない重要人物です。久光の存在がなければ薩摩が幕府を倒すことはおそらくなかったでしょう。明治維新までの歴史は久光の意思によって形成されたとすら言えなくもないと私は思います。にもかかわらず、ぶっちゃけあまり尊敬されていなくて、真実に望んだものは何も手に入れることができなかった彼は、非常に気の毒な人でもありました。彼はそのことでつねに憂鬱な心境で過ごし、鬱屈した行動を採っていたように思います。そのあたりのことを、今回は確認してみたいと思います。

まず、若年期の経験が不幸です。久光はのちの藩主島津斉彬の弟なのですが、母親が違っていて、久光の母親のおゆらさんが久光が島津氏を相続することを願い、斉彬の子供たちを呪い殺そうとしていたとするお由良騒動が起きています。なんともいやーな感じのする後味の悪い話なのですが、単におゆらさんだけではなく、薩摩藩の重役たちが斉彬派と久光派に分裂した内部抗争になっており、どうもその陰には久光の父親で藩主の島津斉興が黒幕になっていて、その主目的は斉彬の失脚にあったという話もあって、要するに当時の島津氏の内部は複雑怪奇な足の引っ張り合いをしていて、久光本人は斉彬との関係は良かったらしいのですが、権力闘争に巻き込まれてしまい、なんとなくいやーな青春期を過ごしたに違いないのです。この権力闘争は表面的には久光派の優位で進んだように見えたものの、斉彬派の藩士たちが薩摩を脱出し、福岡藩を頼って事情を訴え、話が福岡藩から幕府老中阿部正弘へと伝わって、阿部正弘が斉彬派の肩を持ち、斉彬による家督相続が実現しました。これをお由良騒動と言いますが、どう考えても後味が悪いだけで美化できるような話ではなく、久光の性格はゆがんだに違いないですし、後に徳川慶喜を擁立して幕政に参加しようとしたのも、このお由良騒動のトラウマによるものなんじゃないかなとか想像してしまいます。

で、斉彬とは仲のいい兄弟だったはずなんですが、斉彬が病気になってしまい、後継者として久光の息子の忠義を指名します。久光飛ばしとも思える指名ですけれど、斉彬には幼少の男の子がいたんですが、その子が大きくなるまで忠義が藩主をつとめるということになっていたものの、その男の子が病死したために、忠義が薩摩藩の最後の藩主になりました。昔は小さな子供が病気で死んでしまうことは今よりもずっと珍しくなかったわけですが、でも、こういうタイミングで亡くなってしまう子供の話を知ると、ついつい毒殺を疑ってしまいます。日本史のことをちょっと追及しすぎて悪い思考パターンに染まってしまったのでしょうか…

で、ですね、こんなイヤーな経験を若いうちにした久光ですが、息子の忠義が藩主である以上、彼は藩主を監督する権利を持っていることになるので、久光は藩の政治について独裁的と言ってもいいくらいの権力を手にすることができるようになりました。ところがです、ところがなのですが、久光はあんまりそれを喜んでいなかったみたいなんです。なぜなら、彼は薩摩にいる限り最高権力者なのですが、一歩薩摩を出ると一切の権威も権力もないただの人だったからです。藩主であれば、江戸幕府から大名として扱われますし、朝廷も官位をくれたりするわけですけど、久光にはそういったものがなんにもないんですね。頭に来た久光は軍隊を率いて京都へ行きましたが、その時の朝廷からの久光に対する呼称は島津三郎でした。おまえは下級武士なんだよというのを呼称で明確に示したわけですね。京都の公家社会って怖いですね。ちなみにこの時、京都市内で薩摩藩士同士が殺し合う寺田屋事件が起きています。

久光は更に頭にきて今度は江戸へ向かいます。久光の狙いは京都の朝廷を動かし、安政の大獄でひどい目に遭っていた徳川慶喜と松平春嶽を政治の表舞台に引っ張り出し、自分は背後にまわって慶喜を操ろうと考えたわけです。この回りくどいやり方は、やっぱりお由良騒動で自分が藩の重役たちに操られた経験があったから、それをついつい反復しようとしたのではないかと思えてなりません。久光はかわいそうな人ですね。同情してしまいます。久光の運動の成果が出て、慶喜は将軍後見職に就任し、松平春嶽も政治総裁職に就きます。この二人は文久の幕政改革を行い、幕府陸軍を創設するなど、実に思い切った改革に乗り出します。頭の良さで極めて高い評価を得ていた慶喜は、久光の慶喜をコントロールしてやろうという下心を見抜いたのか、ほとんど久光を相手にしていなかったようです。しかも、そこまで慶喜に尽くしたにもかかわらず、久光は江戸でもただの人扱いで、江戸城にすら入ることができませんでした。

イライラしながら失意の中を薩摩へと帰る島津久光の行列の前をイギリス人一行が通り過ぎます。生麦事件です。久光の家臣たちが馬に乗ったイギリス人のおじさんを追いかけて切り殺し、切り捨てごめんなので、そういうことで、じゃ。といって去ってしまいます。イギリスから抗議を受け、幕府は謝罪して賠償金も払ったんですけど、薩摩藩は知らぬ顔を決め込みます。結果として薩英戦争が起きるところまで問題が発展し、鹿児島の街はイギリス艦隊の砲撃を受けて炎上したわけですから、そりゃ、久光に対して、あなたもっとちゃんと反省しなさいよと誰かが言ってあげなくてはいけないんですけど、薩英戦争の結果、薩摩はイギリスと友好関係を結ぶようになり、薩摩藩内でいち早く近代化をスタートさせ、幕府に対して対抗できる存在へと成長していくことになりましたから、久光には風が吹けば桶屋が儲かる的な強運がついていたのかも知れません。

久光が最も恵まれていたのは、極めて優秀でしかも忠実な家臣たちを得ていたことではないでしょうか。なにしろ西郷吉之助、大久保一蔵、小松帯刀と幕末維新史のスーパースターたちを久光は自由に使える立場にいました。もちろん、西郷吉之助とは感情的な対立があったことも事実らしいのですが、それでも、命令した仕事はなにがなんでもやりぬく西郷のような部下がいることで非常に助かったに違いありません。久光は後に慶喜打倒を決心しますが、それが実現できたのは西郷と大久保が命がけで働いたからです。

慶喜が京都で政治の中心にいたとき、久光は慶喜に働きかけ、有力諸侯と慶喜が協議して政治の意思決定を行う仕組みを実現するところまでこぎつけました。久光はようやく政治に参加するという念願のチャンスを得たのです。しかも、慶喜と協議するという政府首脳レベルですから、そりゃ、嬉しかったでしょうね。彼はこのようなきらびやかな舞台を与えられたいという一心で、軍隊を連れて京都へ行って言うことをきかない薩摩藩士を殺し、江戸まで行って失意で帰らねばならない状態でイギリス人も殺してその続きで鹿児島の街が火の海にまでなったのですから、多大な犠牲を払ってきたわけです。そしてようやく晴れ舞台なのです。しかし、慶喜は久光のことがとっても嫌いだったんですね。お酒の席で久光のことを天下の愚物と侮辱します。多分、酔ったふりして言いたいことを言ったんだと思います。慶喜は大正時代にインタビューされたときも久光のことはあんまり好きじゃなかったと、やんわりと死ぬほど嫌いだったという意味のことを言っています。そのようなことがあって、諸公会議は頓挫してしまい、久光は慶喜と幕府を打倒することを決心して自分は薩摩へ帰ります。後は西郷と大久保に命じておけば部下たちが勝手に倒幕してくれるので実に便利という感じだったのかも知れません。そして本当に倒幕したのですから、久光の個人的な権力への渇望が日本の歴史を大きく変えたのだと思うと、本当にめっちゃ影響力のある自己中心男ということができるかも知れません。

しかし、さらなるどんでん返しがありました。なんと廃藩置県で久光の権力の基盤そのものが西郷と大久保によって奪われてしまったのです。久光は死ぬまで西郷と大久保にだまされたと言っていたそうですが、このあたりの究極のところで足元をすくわれてしまうのが、久光のやはりかわいそうなところなのです。きっと。若い時のお由良騒動でも、圧倒的優位で物事が進んだにもかかわらず、最後の最後は自分じゃなくて息子が藩主になるという、なんか、裏技みたいなことをされてしまったわけですから、彼にはそういう、これまた不思議な悲運が常についていたと思えなくもありません。

新政府ができてからは左大臣という極めて高い役職を久光は得ることができました。夢にまで見た公職であり、しかも位人臣最高レベルの左大臣ですから、彼の上には太政大臣の三条実朝しかいないという状態になったんですけど、そもそも左大臣には実権が何も与えられませんでした。しかも西郷が西南戦争で命を落とし、大久保も暗殺された後は久光の処遇を心配してくれる人がいなくなってしまい、一人薩摩でイライラしていたようなのです。島津氏家長という極めて恵まれた立場にありながら、ほしいものを全く手に入れることができなかった島津久光は本当に気の毒な、それでいてやっぱりちょっと笑ってしまいたくなるようなキャラでもあるんですけれど、でも、そんな風になっちゃった要因が、彼が悪いんじゃなくて、お由良騒動でいろいろトラウマになってしまったんだと思うと、もうちょっと真剣に同情してあげたくなります。

こんな彼の自己中心的願望実現のために西郷と大久保が動いた結果、明治維新が実現したのだと思うと、実は近代日本建設のために極めて大きな功績のあった人とも言えますから、少しは尊敬してあげてもいいかなと、今回、この内容を作りながら思ってしまいました。



井伊直弼殺害事件‐徳川幕府の終わりの始まり

ペリーが日本にやってきて以来、西洋を受け入れるか、それとも拒絶するかについて、日本国内で激しい侃々諤々の議論がなされましたが、その裏テーマとして、徳川幕府の主流は果たして誰なのかという権力ゲームが行われていました。思想面と血統面での争いがあざなえる縄の如くに絡み合っていますので、私なりに解きほどいてみたいと思います。

当時の徳川幕府が荒れた理由は、水戸徳川家の息子さんである徳川慶喜が一橋の養子に入ったことにあります。水戸徳川家は徳川家康の遺言で絶対に徳川将軍を継承できない立場だったのですが、そのために水戸徳川の人たちはどうしてもいじけてしまい、将軍よりも天皇に関心が強くなって、尊王思想を基本とする独特な皇国史観の体系を形作っていきました。有名な水戸黄門が大日本史を編纂したのも、将軍になれないことへのいじけ心から、天皇中心思想を軸にした歴史書を作ろうと思ったからなんですね。

で、水戸黄門から200年、水戸徳川はひたすら尊王思想を強めていったわけですけれど、そこの息子さんである慶喜が一橋の養子に入ったのはかなりの大事件だったわけです。というのも、一橋は本来、当時の徳川の主流だった徳川吉宗の子孫が継承できる家柄で、ここの当主になる人は直球で将軍候補になります。徳川慶喜を一橋の養子に入れたのは、12代将軍の徳川家慶で、家慶の息子さんの家定が長生きできないであろうと考えて、頭が特別にいいことで有名だった水戸の慶喜を家定の次にの将軍にしようというプランがそこにはあったわけです。

当然、慶喜の実家である水戸徳川家はフィーバー状態になります。水戸徳川の当主である徳川斉昭も、幕政に参加するビッグチャンス到来と信じ、慶喜が将軍になる前から態度がでかくなり、あちこちに口も出すようになり、それだけ人望を失っていきました。人望がないうえに思いつきで西洋軍艦を設計させたら進水式と同時に船が沈むという大恥までかいています。

一方で、幕府の中枢の官僚たちは、まさか水戸徳川が幕政に介入してくるとは考えていませんでしたから、嫌がることこの上ないという感じになってしまい、徳川幕府は開国という非常に難しい時期に、内部分裂で苦しむという状況に陥っていたわけなんですね。

幕府官僚たちが嫌いに嫌いまくった徳川斉昭を抑え込むためのカウンターパートとして、幕府守旧派の意見を代表して政治の表舞台に登場してきたのが、非常に有名な井伊直弼です。彼は幕府内部世論を背景に大老に就任し、表の仕事としては安政五か国条約を結ぶなど、日本の開国を進めていきましたが、裏の仕事としては、傍若無人な水戸の徳川斉昭を抑え込むということに熱心に取り組みました。

幕府は井伊直弼グループと徳川斉昭グループに分裂し、仁義なき戦いに発展します。ぶっちゃけ徳川斉昭グループはほとんど孤立していたに等しいと言ってもいいのですが、なんといっても持っている切り札が一橋慶喜で、将来の将軍候補ですから、やたらと強いわけです。

井伊直弼vs徳川斉昭の第一ラウンドは、第14代将軍指名争いでした。順当にけば慶喜が指名されることになるわけで、慶喜で押し切ろうとした人々を一橋派と呼びました。井伊直弼たちは、対抗馬として、なんと吉宗の実家である紀州徳川の藩主である徳川慶福を担ぎ出してきます。吉宗が紀州徳川の実家を出てから既に100年。ぶっちゃけ慶福と吉宗の血筋なんて全然遠いわけですけど、それでも水戸徳川の方がもっと血筋的には遠いので、なんとかここは慶福で押し切り、とにもかくにも徳川斉昭を牽制しようというわけで、彼らを南紀派と呼びました。紀州のことを南紀と呼ぶので南紀派ですね。和歌山みやげとして有名な南紀和歌山那智黒キャンディーの南紀です。那智黒キャンディーの黒糖を使った癖になる甘さは一度食べると忘れることはできません。

幕府内での支持の厚みは井伊直弼の方が圧倒的だったのですが、徳川斉昭は水戸の人物らしく思想面で井伊直弼を攻撃します。即ち、井伊直弼が開国したのは、家康から家光にかけて完成された鎖国という国是を破壊するもので、神の国である日本をダメにするものだというわけですね。水戸は皇国史観のメッカみたいなところで、伊勢出身の本居宣長みたいな全国の国学の学者たちともつながりが深いため、その方面から井伊の一番痛いところを突いてきたわけです。井伊直弼が開国派で尊王攘夷の武士たちに批判されたと説明されることが多いですが、その本質は直弼と斉彬の権力争いであったということは改めて強調しておきたいと思います。このときの一橋派の中に、その後の政局で慶喜を支え続けた福井藩主の松平春嶽もいました。

この将軍後継指名争いは職権を握っていた井伊直弼が勝ちました。紀州藩主徳川慶福が14代将軍に決まり、彼は徳川家茂と名を改めて江戸城に入ります。井伊直弼の凄いところは、それで終わりとするわけではなく、将軍の威光も後ろ盾として使えますから、勢いで一橋派の面々を逮捕しまくったことです。これを安政の大獄と言います。思想面の対立であったかのように装われていますが、実質的には将軍後継争いに関わる人間関係の遺恨が原因で起きたのが安政の大獄なわけです。

この安政の大獄により、水戸斉昭と息子の一橋慶喜はともに犯罪者認定され、外出禁止が命じられました。徳川家の人物が家臣筋の井伊直弼によって外出禁止にされたというのは、江戸幕府史上初のことであったはずです。松平春嶽の命令で慶喜擁立に尽力した福井藩主の橋本佐内はなんと斬首という極めて残酷な扱いを受けています。武士であればせめて切腹。そもそも将軍の後継者争いというあくまでも権力ゲームに過ぎないことで死人を出すというのは、井伊直弼は明らかにやりすぎと思います。他にも西郷吉之助の親友の月照という僧侶が一橋派に与したとの理由で追われる身となり、おそらくは島津久光の命で西郷吉之助によって殺されています。西郷の立場を概観するに、親友の月照が慶喜擁立に与する以上、少なくとも心情的には慶喜擁立派だった可能性がありますが、戊辰戦争の時にはぎりぎりまで慶喜を殺すことに努力を傾けています。月照を慶喜のために失った以上、慶喜には死んでもらうという私怨なんかもあったのではないかと私はちょっとうがった見方をしてしまいます。

さて、水戸藩士たちがいきりたちました。そりゃそうです。主君の徳川斉昭が井伊直弼によって犯罪者扱いされたのです。しかも徳川斉昭は外出禁止が解ける前に病死しました。獄中での死と同じです。井伊直弼は一橋派のネガティブキャンペーンが功を奏し、当時、尊王攘夷派の武士たちからは日本をダメにする政治家ワースト1みたいな目で見られていたため、水戸藩士たちは井伊直弼を殺すことは単なる私怨だけではなく、日本を良くすることだとすら信じるようになり、彼の命を狙うとの決心を固めました。

桜田門外の変では、元水戸藩士たちが犯人だという風に教科書などには書かれますが、彼らは水戸藩に迷惑をかけてはいけないので、まずは脱藩してから井伊直弼殺害に及んだわけです。

当日の朝、井伊直弼の屋敷から江戸城桜田門までおよそ400メートルほどの距離で、本来なら直弼の行列はすぐに江戸城内に入ってしかるべきですが、そこを狙われて直弼は絶命します。当日は雪だったため、護衛の武士たちは刀に水が入らないように布を被せていたために抜刀が遅くなり、撃退できなかったとも言われています。

尚、江戸時代、殺されるというのは最大の不名誉であるため、武士が殺されると、その家は断絶します。有名なものだと吉良上野介が赤穂浪士に殺害された事件で吉良家は廃止され、上野介の息子さんも座敷牢みたいなところに入れられて病死しています。20代前半でしたから、本当に病死かどうかも怪しいわけですが、要するに人間扱いされていません。井伊直弼は彦根藩主ですから、通常なら彦根藩が廃止される事態になるはずなのですが、やはり本当にそんな風にすると、幕府がめちゃくちゃになってしまうとの判断があったからなのか、当時の正式な発表は病死でした。誰も信じていない、大本営発表みたいな発表でしたが、まあ、いかに恥を忍ぼうとも、彦根藩を守るということで関係者一同結束したのだろうなということが分かりますね。

後に、戊辰戦争が始まった鳥羽伏見の戦いでは、幕府の形成が不利だとみると、極めて早い段階で彦根藩は官軍についていますが、これはやはり、当時の徳川宗家の主君で徳川慶喜で、徳川慶喜の実家の水戸藩は彦根藩の仇みたいなものですから、慶喜のために戦う義理はないと彦根藩の兵隊たちが思ったとしても全く不思議ではありません。

幕府は戦う前から既に内部から崩壊し始めていたということも見えてきます。桜田門外の変は、幕末の歴史の中ではわりと前半に出てくるエピソードと言えますが、すでに徳川慶喜と西郷吉之助という幕末最大のスーパースターがかかわっていたということで非常に興味深いです。

井伊家の人にとっては災難だったに違いありませんから、井伊直弼には敬意を払いたいと思います。あの時代にあまり混乱を招くことなく西洋列強と渡り合い、不平等条約とはいえ、それを結ぶことによって日本の国際的な地位をある程度安定させたことは、日本の植民地化を避けることに大いに貢献したに違いありません。その点は高く評価されるべきではないかなと思います。



将軍家定、アメリカ人のハリスに会う

タウンゼント・ハリスは日米修好通商条約を結んだ人として知られています。ペリーが幕府に要求したのは日米和親条約で、これは基本的には国交が存在することを確認する程度のものだったわけで、ハリスが要求したものとは別なのですが、この日米修好通商条約が締結されて漸く、日本とアメリカは正式に貿易する間柄になりました。とはいえ、あからさまな不平等条約で、幕府には関税自主権がなく、治安維持についてもアメリカは領事裁判権を持つというものでした。これと同じ内容のものを井伊直弼主導で幕府は列強と結んだのですが、これを安政五か国条約と言います。明治政府が条約改正を目指したのは、この条約のことなわけです。条約は何度も改訂され、名前も微妙に変化していきますが、太平洋戦争が始まるちょっと前にフランクリン・ルーズベルトから条約の破棄を通告され、日本は経済封鎖されて戦争への道を走るということになりますから、まあ、長い目で見て日本滅亡の伏線にもなったとすら言えるような条約です。終戦直後、石原莞爾は日本の戦争犯罪人を裁くなら、まずペリーから裁けと言ったそうですが、どちらかと言えば、タウンゼント・ハリスの方が罪は重いと私は感じています。

で、ハリスについて詳しいことが知りたい場合は、『大君の通貨』という本が文芸春秋から出ていて、この本を読むと、ハリスの領事としての仕事ぶりがよく分かります。ただし、著者はハリスに対して非常に批判的なため、ハリスの利権漁りぶりが露呈される内容になっています。ハリスが熱心に漁った利権というのが、江戸幕府が発行していた一分銀という通貨を香港なり上海なりに持っていき金に交換するだけで大儲けができるという不思議な商売でした。日本と西洋では金と銀の交換比率が違うため、日本から銀を持ち出すだけで儲かるというわけなのです。結果、日本国内では深刻な銀不足が起き、インフレにもつながっていきます。

ちなみに、ハリスの悪いところばかり言いつらねては気の毒なので、そんなに悪いことばっかでもないよと言うために付け足しておきたいのですが、江戸幕府には関税自主権がなかったものの、関税は列強によって5パーセントと定められ、それまでなかった新たな収入源になったものですから、幕府財政は相当に潤ったそうです。幕府はその儲かったお金で強力な陸海軍を設置しています。

それはそうとして、ハリスが日本に要求したことのなかに、将軍に会わせろというものがありました。当時の幕府の感覚でいえば、将軍は神聖不可侵ですから、ハリスのような外国人に会わせるわけにはいきません。現代ではもちろんそのようなことは考えられないことですけれど、当時は身分が違いすぎると言葉を交わすことすらできなかったわけです。たとえば将軍は直参の旗本とか、大名とかとは直接話すことができましたが、大名の家臣は陪臣になるため、口を利いてはいけないのです。不便なことこの上ないと思えますが、そういう社会の中で、ハリスはいったいどういう立場でぐうすればいいのか、前例ないので分からないというのもあったと思います。

しかもハリスは畳の上で椅子に座っての会見を希望しました。畳の上に正座なんかできるかこのやろうというわけですね。うっかりすると、ハリスの方が将軍よりも目線が上になってしまい、そこだけは絶対に避けなければいけません。将軍家定とハリスが会見した時のスケッチが残っていますが、家定は台みたいなところの上に置かれた椅子に座っており、相当に目線は高かったようです。家定はこのとき、日米両国の友好は未来永劫続くであろうとの言葉を述べたそうですが、さすがは将軍、言うことがポジティブでいいですね。このスケッチで描かれた家定は非常に華奢な少年みたいな感じなんですけれど、華奢感が更に高貴な雰囲気を醸し出しており、たとえばその後の若き君主である明治天皇とか、後の幼帝溥儀とかに通じる東洋の心優しい繊細な君主というイメージがして、私は個人的になかなか好きです。

14代将軍の家茂はアメリカ人に会っていません。しかし15代将軍の慶喜になると、大坂城に諸国の外交官を呼んで会見したりとかしていますから、将軍が外国人と会うことのハードルはだんだん下がっていったものと考えてもいいかも知れません。のちに天皇の時代になっても、昭和天皇に至ってはヨーロッパへの長期遊学を果たしていますし、今の天皇陛下もイギリスへ留学していますから、もはや日本の君主は外国との交流は必須のお仕事の一部とすら言えるわけで、今回はそのような、日本の君主の外国人との謁見事始めのような感じでやってみました。次は14代将軍相続に関する幕府内部の争いについてやりたいと思います。いよいよ幕末の動乱へと入っていきます。



ペリーの具体的な要件

一般的に、アメリカ人のペリーは日本に通商を求めて浦賀沖に黒船艦隊を伴って現れた。ということになると思います。それは間違ってはいませんが、やや不正確な理解になってしまっていると言えるかもしれません。ペリーが求めていたのは日本との通商ではなく、アメリカの捕鯨船の寄港地を求めていたわけです。

当時、捕鯨はアメリカの主要産業でした。メルヴィルの『白鯨』はアメリカ文学の代表的な作品として知られていますが、アメリカの捕鯨船が太平洋を無数に航海していたという時代背景があったからこそ成立する物語であり、且つそれなりに共感者を集めることもできたというわけなのです。現代のわれわれが『白鯨』を読んでも別に共感もしなければ、感動もしません。ふーん、そんな業態があるのか、へー。で終わりです。もしかすると漁業のお仕事をしていらっしゃる方なら、更にいろいろ感じることがあるかも知れませんが、それについては漁業関係者の方々に敬意を表し、何らかのご意見があれば尊重するという感じにしたいと思います。

で、ですね、ペリーが求めていたのは捕鯨船の寄港地なわけですから、交易通商とか本気でやりたいと思っていたわけじゃなくて、水とか燃料とか食料とかを補給できればそれでいいわけです。補給の際にはちゃんと対価も支払っていたそうですから、普通にフェアトレードだったわけですね。幕府は下田を開き、アメリカ人の居留が認められましたが、当時はアメリカサイドもちゃんと気を使っていて、飽くまでも日本との協定に従って無理のない居留をしていたそうです。下田はアメリカの船に開かれる前から江戸の玄関口として栄え、交易品の市場がたっていたそうです。今も下田を歩けば古い江戸時代の土蔵をいくつも見ることができますが、あのような土蔵がたくさん建てられたということは、下田が貿易の街として発展したことの証明と言えます。

ペリーが捕鯨船の寄港地を求めていたという話をして、学生たちがどよめいたこともあったのですが、やはりThe Coveという映画とかで捕鯨に対するアンチイメージが広がり、問題が複雑すぎることもあって、まさかアメリカが昔、捕鯨やりまくってたとか知らない人が時々いて、そういう反応になるみたいです。私はThe Coveという映画を見て、ここまでアンチに攻撃されるのなら、無理してクジラを食べなくてもいいとか思っちゃいましたけど、先日は和歌山の太地町にもいって、太地町の人たちが鯨との共生を前面に押し出したアピールを感じることができ、非常に判断が難しいなあと思いましたけれど、アメリカが鯨をとりまくって生態系のバランスを崩したというあたりは覚えておいてもいいかも知れません。今後、捕鯨はどうするかについては過去の歴史を確認してからだ、と思うのですよ。

さて、それはそうとして、要するに捕鯨の寄港地を求めているだけなわけですから、江戸の近くに寄港地がなくてもいいんですよ。しかも、いくらアメリカ側が蒸気船という近代文明の最新艦隊で現れたからといって、たったの四隻ですから、幕府側は夜間に火をかけるとかすれが簡単に撃退できる類の艦隊ですから、確かに黒船がきてびっくりはしたでしょうけれど、びびりまくって恐れおののいたなんていうのは、そんなことはないわけです。当時、四千万人近い人口が日本にいたわけですが、それをわずか数百のアメリカ軍の海兵隊で制圧なんかできっこないんです。大砲だって、守備としては効果があったでしょうけれど、江戸を砲撃して降伏させるなんてパワーがあるわけありません。飽くまでも、攻めてきたら反撃するからな、という意味での脅し効果があったのであって、ペリーが艦砲射撃する不安なんて最初からなかったと私は考えています。ペリーはどうしても江戸幕府が話し合いに応じてくれない場合は、琉球を寄港地にして本国に報告するつもりであったと考えられています。

ペリーは浦賀沖に現れる前に、琉球に上陸して首里城を占領していますから、そのあたりでお茶を濁すこともできんですね。日本の近代のキリスト教布教史は沖縄から語られることが多いのですが、これはペリー上陸後にアメリカの聖公会が沖縄で宣教を始めたことを日本の布教史に組み込んでいるからなんですね。

さてさて、琉球は実は薩摩藩が支配していたことは知られています。ペリーは首里城を占領しましたけれど、これはもちろん薩摩藩にも話が伝わっていたわけです。さらには薩摩藩から江戸にも話が伝わっていたために、幕府もペリーが来ることは知っていたと考えられています。ペリーの来航は寝耳に水でもなんでもなかったわけです。

考えてみると日本側の対応は結構、冷静で、きちんと話し合いがもたれ、協定もちゃんと煮詰めたものが作られています。こんなことができたのは、幕府側も心の準備をしていたからだと考える方が自然なのでないでしょうかね。

ペリーが来航した時、江戸幕府の将軍は第十二代の徳川家慶でした。ペリー来航からしばらくして家慶は病没しましたが、この家慶の意向により、将来、将軍に就任させる予定で、水戸徳川家の人物である徳川慶喜を一橋に養子に迎えています。家慶の後継者は家定でしたが、家定が病弱なことはよく知られていたため、家定が将軍宣下を受けた直後から次の将軍選びが始まったわけですが、もし家慶がもうちょっと長生きして、将軍を引退したあとも大御所政治をしていたとすれば、十四代将軍は慶喜が就任し、行動的で極めて優秀なことで知られた慶喜が長く将軍をすることになったでしょうから、日本の歴史は幕府主導による近代化という展開を見せていたと思います。慶喜も幕府も外国に攻めて行きたいとか全然考えてなかったはずですから、果たして日本が帝国主義国家になったかどうかも微妙だなあとも思いますから、そういう風に思うと、慶喜が将軍になる時期が遅かったことは日本のその後の歴史を本当に、大きく変えたと思いますねえ。次回は家定とアメリカ領事ハリスの謁見についてやってみたいと思います。



ナポレオンとフリーメイソンと江戸幕府

19世紀に入り、ヨーロッパ勢力が様々な形で東洋に影響力をおよぼすようになったころ、東洋人に特別なインパクトを与えたのが、やはり近代史で最も有名なヨーロッパ人と言えるナポレオンでした。ここでは1つの具体的な実利に関係した例を取り上げ、更に思想面での影響まで見ていきたいと思います。

実利に関係した例というのは1808年に起きたフェートン号事件のことです。イギリスの軍艦であるフェートン号が日本の長崎港に現れてオランダ人商館員を誘拐し、水と食料をせしめて帰っていったというのがフェートン号事件なのですが、なぜそんなことになったのか、ナポレオン戦争と関連して非常に複雑な動きがあったからで、それは風が吹けば桶屋が儲かる式に起きたできごとでした。

ナポレオンはヨーロッパ全域へとその影響力をおよぼす地域を広げていきましたが、そのようにしてナポレオンに飲み込まれた地域にオランダがありました。ナポレオンがやってくる前、オランダにはハプスブルク家より任命された総督が支配者として世襲しており、ウイレム5世がその最後の総督なのですが、彼はナポレオンに追われてイギリスに亡命し、ナポレオンの弟がオランダ国王になります。これはナポレオンが単にオランダというヨーロッパの一地域を手に入れたということだけを示すものではありませんでした。オランダの植民地もナポレオンの支配下に入ったことを意味したわけです。

ウイレム5世は亡命先のイギリスに、植民地がナポレオンにとられてしまわないよう、なんとかしてほしいと依頼します。イギリスからすれば棚からたなぼたです。ナポレオンが奪ったオランダの植民地を横取りするチャンスですから、大いに張り切り、で、日本の長崎の出島もオランダの植民地であると見なしてフェートン号を派遣してきたというわけです。

そういうわけで、フェートン号は国際社会の正義とか大義とかはあんまり関係なく、ウイレム5世の依頼を大義名分に好き放題やろうというわけですから、入港するときはオランダ国旗を掲げており、出迎えのために船に乗り込んだオランダ商館員を人質にして、水と食料を要求し、ある程度要求を満たしたら帰っていきました。

このとき、仮にも長崎は日本の主権の及ぶ範囲であり、徳川幕府の直轄地でもあるわけですから、長崎奉行と近隣諸藩はフェートン号焼き討ちの検討にも入ったのですが、実行する前に帰って行ったので、そういう事態には至りませんでした。焼き討ちしたらこんどはもっと大きなイギリス艦隊が報復という名目でさらなる海賊行為をしたに違いありませんから、難しいところではあったと思います。とはいえ、まだそこまでイギリスは強くなってなかった時代のことですから、返り討ちにできた可能性は充分にあったとも思いますけれど。

要するにフェートン号事件とはナポレオン戦争の余波を受けて、もともと海賊行為大好きなイギリス海軍が日本で乱暴狼藉を働いたという事件なわけですが、ナポレオンが世界に広げた波紋の大きさには刮目せざるを得ない面があるように思えます。

幕末、吉田松陰はナポレオンについて関心を持ち、日本でもナポレオンみたいな人間が登場して列強の干渉を排除しなければならないと考えていたようです。ナポレオンをヨーロッパからの干渉の象徴として見るのではなく、模範とすべき存在として見たところに吉田松陰の視野の広さを感じさせます。フランスもフランス革命後、ハプスブルク家とか、イギリスとかからさんざん干渉されたわけですが、それをナポレオン押し返しただけでなく、ハプスブルク家のヨーロッパ支配の象徴である神聖ローマ帝国を消滅させたわけで、ハプスブルク家は返り討ちに遭ったとも言えますから、そういうのがかっこいいと吉田松陰は思ったのかも知れませんね。

ちなみに、もう少し後の時代になると、中国の梁啓超という人が、やはり中国にもナポレオンが必要だというようなことを書き残しています。東洋の知識人はナポレオンがどれほど凄いかということに随分を影響を受けたようです。ナポレオンはコルシカ島出身の平民だったわけですが、フランスの皇帝になったというわけで、そういう出世の仕方にも吉田松陰や梁啓超は感銘を受けたのかもしれません。日本で言えば、佐渡島出身の身分の低い武士が将軍になるようなものですから、豊臣秀吉みたいな話になっちゃいますよね。

ナポレオンはフランス民法の整備もして、これをナポレオン法典とも呼びますが、フランスの三権分立とか、今述べたナポレオン法典とかを勉強して帰ってきた人物が西周です。彼は徳川慶喜のブレーンとして活躍しましたが、日本をフランスみたいな国にするということで慶喜と西周は一致していたようです。

西周は日本で最初のフリーメイソンのメンバーになったことでも知られていますが、ナポレオンもフリーメイソンのメンバーだったわけで、ナポレオンはフリーメイソンの理念の輸出も、その戦争目的の一つに据えていたはずです。そういったことを西周は知っていて、それを日本にも輸入しようとしたっぽいですね。徳川慶喜は戊辰戦争の時に西郷隆盛に殺されかけたのをイギリス公使パークスが間に入って命拾いしていますが、このあたりにはフリーメイソンらしい近代国際法順守の精神も見られるように思えますから、おそらく、完全に想像ですけど、徳川慶喜もフリーメイソンのメンバーだったのではないでしょうか。



ロシアの接近

江戸時代、日本人にとっての西洋といえばオランダであり、西洋に関する研究はひとまとめに蘭学と呼ばれていたわけですが、実はオランダだけで西洋は語れないのだという現実を江戸時代後期に入ると日本人はまざまと見せつけられていくことになります。19世紀の半ばになれば、アメリカだのイギリスだのフランスだのと続々と日本に接近してきますが、まず、日本に接近してきた西洋と言えば、ロシアであって、彼らとの衝撃的な出会いは大黒屋光太夫という商人がロシア領内に漂流したことから始まります。18世紀の終わりころのできごとです。

大黒屋光太夫一行を乗せた船が故障して漂流してしまい、アリューシャン列島の島にたどり着きます。現在、アリューシャン列島はアメリカ領ですが、当時はロシア領でした。アメリカ合衆国がのちにロシア皇帝からアラスカを買い取るんですが、それ以前はロシア皇帝の土地だったんですね。

で、大黒屋光太夫はアリューシャンの孤島でロシアの辺境警備隊みたいな人たちと出会い、彼は日本に帰りたいのだと訴えます。当時、大航海時代から何百年も経ってますし、産業革命もそろそろ起きそうな気配の時代ですから、技術的に日本に帰ることは決して難しくなかったはずですが、政治的には困難でした。ロシア領から正式に出ていくためにはロシア皇帝の許可が必要だという話になり、大黒光太夫とその仲間たちはロシア皇帝エカテリーナ2世に帰国の許しをもらうため、なんとシベリアを越えてペテルブルクを目指します。地球半周ですよね。で、すっごい時間が経って、光太夫の仲間のほとんどが外地で死んでしまって、それでもなんとかペテルブルクでエカテリーナ二世との謁見を果たした光太夫は日本に帰ってきました。井上靖さんが『おろしや国酔夢譚』で光太夫の話を書いてますけど、他にも吉村昭さんも光太夫のことを小説にしています。

で、この時、光太夫を日本に送り届けた男がラクスマンというわけで、ラクスマンは光太夫を北海道に送り届けたついでに松前藩に対し日本との通商交渉の意思があることを伝えます。日本側はそういったことは長崎じゃないと話し合えないと言い出したので、長崎に行くのかなと思うとさにあらず、ラクスマンは帰っていきました。

じゃ、これで終わりかというとそうではないんですね。次にレザノフが来ます。レザノフはロシア皇帝アレクサンドル一世の親書を携え、日本人漂流民もつれて日本に来るんですが、ラクスマンの時に長崎へたらいまわしにされそうになった話を知っていたらしく、直接長崎に姿を現しました。レザノフは日本語の勉強もしていたそうです。しかし、長崎奉行から、うちはオランダとしか交易してませんのでと門前払いされてしまいました。このレザノフ事件は結構な衝撃を与えたらしく、佐久間象山が海岸地帯の防衛の必要性を訴えた『海防策』という著作で、この著作を書こうと思うようになったのはレザノフが日本に来たからだと述べてますし、ラクスマンに続いてレザノフが来たということは、ロシア人はだんだん領域を広げて日本に迫ってるのではないかとの疑念が幕府首脳にもたれるようになって、間宮林蔵の北方派遣にもつながっていきます。間宮林蔵はサハリン島はシベリア大陸とはつながっていないことを発見し、そこは間宮海峡と呼ばれますけれど、ロシア側ではタタール海峡と呼ぶらしいんですが、間宮林蔵はその海峡を越えてアムール川の方まで行き、清朝の役人にも会って、ロシアの進出状況を調べています。19世紀にはチェーホフもサハリン島へ行って現地の人々の生活を記録したりしていますから、サハリン島、千島列島、北海道あたりは日露双方が互いに縄張り争いを意識し合う微妙な土地だったことが分かります。

やがて時代が下るとプチャーチンが来日し、日本とロシアの間で北方の国境線が策定されました。千島列島のエトロフとウルップの間で国境線が定められ、樺太島に関しては、両国民雑居の地ということになりましたから、やはり、まだどちらのものとも言えない、悩ましい、曖昧な状態だったのであろうと思います。もちろん、北海道からサハリン島にかけてはアイヌの人々やツングースの人々が暮らしていて、彼らは別にロシア皇帝に忠誠を誓ったり、徳川将軍の命令に従ったりする義理もないわけですから、知らないうちに国境線の策定とかされても困るという話になるのはもちろんのことと思います。いつか、アイヌ研究みたいな特集もやってみたいですね。

というわけで、いよいよ19世紀。そろそろ日本も近代が始まろうとしています。



吉宗のリアルホラー権力闘争

徳川幕府第八代将軍の徳川吉宗は、本来、徳川家の中での将軍継承順位が非常に低かったため、将軍になれるはずの人ではありませんでした。ところが、我々が知っているように八代将軍になったわけなのですが、今回は彼がどんな風に権力ゲームで勝ち残っていったかを確認してみたいと思います。よく見てみると、実に血なまぐさいというか、驚くほど恐るべき闘争が行われていたことが分かるのです。

吉宗は紀州徳川家の第二代藩主である徳川光貞の四男としてこの世に生を受けました。紀州徳川家はたくさんある徳川家の中では、本家、尾張徳川家に次ぐ、三番目の家柄になりますけれど、吉宗が産まれてきたときは本家には徳川綱吉がいて、当時はまだ綱吉も若かったですから安泰でしたし、その次に尾張徳川があるわけですから、紀州徳川に将軍の順番が回ってくるなど考えられませんでした。ましてや、吉宗は四男ですから、紀州藩主になることすら本来は無理だったはずなのです。

ところが、吉宗の一番上の兄の徳川綱教が紀州藩第三代藩主の座にありながら、病死します。吉宗には更に二人の兄がいましたが、その二人も同じ年に相次いで病死し、四番目の吉宗に藩主の座が回ってきました。これだけでもちょっと怪しんですが、本番はむしろこれからとすら言えます。

五代将軍の綱吉に後継者たるべき男子がいなかったため、次の将軍候補を誰にするかが焦点になってくるんですけれど、江戸の幕府官僚たちは尾張か紀州から将軍が来るのを嫌がっていました。たとえば尾張藩主が将軍になれば、尾張藩の家臣たちが大量に江戸にきて、江戸城の行政を乗っ取ってしまうことは明らかで、そういうことを幕府官僚はいやがったわけです。ですから、尾張や紀州のような大量の家臣を抱える徳川家の人物ではなくて、もうちょっと言うことを聞きそうなのを選ぼうとします。で、白羽の矢が立ったのが甲府徳川家の徳川家宣でした。御三家の人物でもない彼がなぜ選ばれたのかと言うと、第三代将軍家光の孫だからというのが幕府官僚たちの説明でした。家康が設定した御三家よりも、家光の血筋の論理が優先したということで注目すべきことなわけですが、甲府徳川家は歴史も浅く、幕府官僚組織に組み込めば、飲み込まれて消えてしまうのでやりやすかったというわけです。

ですが、おもしろくないのは、紀州と尾張です。特に尾張は、綱吉の次は尾張からと思って張り切っていたのに、本来傍流とみなしていた徳川家宣が六代目になって、つまらないこと甚だしいわけですよね。しかも、六代目以降は順調にいけば家宣の子孫が将軍職を継承していきますから、下手をすると未来永劫、尾張にも紀州にも将軍の順番が回ってきません。ところが、どういうわけか家宣は将軍に就任してから僅か3年で病没してしまいます。家宣には新井白石、間部詮房という側近がいたのですが、彼らは急いで家宣の息子の家継を第七代将軍に据えました。本来、将軍はせめて元服をしている人物から選ぶという慣例になっていましたが、家継は非常に幼い男の子だったために元服をすませておらず、そこは慣例破りで推し進められました。家宣の血筋を将軍家として残すためにはそれしかないとの判断が働いたというわけです。そのうえ、新井白石も間部詮房も、紀州なり尾張なりに将軍の座をとられると、失職してしまいかねませんから、利害損得を考えても、ここは家宣の息子でということになります。しかし、幼少の息子さんが将軍になったということは、これから何十年か将軍をやるということですから、尾張の人も紀州の人も自分が生きている間に将軍の順番が回ってくることをあきらめなくてはならないということをも意味するわけで、もはや万事休す。むしろ新しい徳川将軍の血筋を祝福し、自分は領国経営を一生懸命やったほうがまだみんなが幸せになるというものです。ところが七代将軍家継も3年後に病没してしまいます。

ここまで述べただけでも、吉宗に将軍の順番が回ってくるまで何人病死したのかと数えるのがちょっと大変な気がしますが、更に加えて、ちょっと省略しますけど、尾張徳川の方でも将軍にふさわしそうな男子がばったばったと死んでいきます。

七代将軍家継が亡くなったとき、まがりなりにも吉宗は直系の紀州徳川藩主でしたが、尾張藩主は本家が滅亡してしまっていて、分家の人が藩主になっており、すでに吉宗リードな状態でした。更には大奥への工作と新井白石たちへの工作も功を奏して、吉宗が晴れて八代将軍に就任という次第になったというわけなんですね。長い!実に長い!吉宗が将軍になるまでを述べるだけでここまで長いとは!

さて、ここまで、いったい何人が毒殺されたのかついつい疑いの目で吉宗を見たくなってくるのですが、更に吉宗の凄いところは、後世も自分の血筋で将軍職を独占できるように設定しておいたことです。吉宗は徳川三卿と呼ばれる3つの家を自分の息子たちに創設させました。田安・清水・一橋と呼ばれる三つで、将軍はこの三つの家から選ばれることになったわけです。徳川三卿は養子を融通しあって絶えないように調整され続けましたから、本来、徳川の親戚筋で一番高貴だったはずの尾張徳川に出る幕はありません。しかも紀州徳川家も存続したため、尾張は一機に傍流へと転げ落ちてしまったというわけなんですね。幕末、尾張徳川は早々に官軍の側についてますけど、吉宗の時の経緯を知っていれば、そりゃそうだと、そこまでして江戸に義理を尽くす理由はないと尾張の人が思っていたとしてなんら不思議はありません。幕末の長州征伐の時は、幕府軍司令官を尾張の徳川慶勝が担当しましたが、彼のやる気がなかったのは有名な話で、それもさもありなんと勘ぐってしまいます。徳川滅亡の要因の一つは、吉宗一人勝ち現象があったからと言えなくもなさそうに思えます。

尚、最後の将軍である徳川慶喜は一橋の人でしたから、一橋慶喜と呼ばれましたが、もともとは、絶対に将軍になれるはずのない水戸徳川の人でした。その彼が一橋に養子に入ったことで、大きな番狂わせが起き、徳川の団結が乱れたこともまた事実で、なるほど成功の中に失敗の種があるのかと、人間の営みの不思議のようなものをついつい考えてしまいますねえ。