後の祭りって言いますけど、祭りの後の間違いではないでしょうか?

後の祭りとは、祇園祭の後半の行事を指します。今はどうか知りませんが江戸時代ごろの京都の人は祇園祭の前半を前の祭りと呼び、後半を後の祭りと呼んだらしいのですが、前の祭りが派手で楽しく盛り上がるのに対し、後の祭りは厳かで慎み深くあまり盛り上がらないらしいのです(私は見たことがないので…)。祇園祭りを見物したくて各地の人が京都を目指し、前半の前の祭りに間に合った人は楽しいけれど、後半の後の祭りしか見れなかった人はおもしろくもなんともない。ということが後の祭りの語源なのだそうです。



坂本龍馬のイメージは全て司馬遼太郎先生によって作られた物ですよね?

そうとまでは言えないと思います。近藤勇には坂本龍馬暗殺の嫌疑がかけられましたが、これは当時でも重要人物だと認識されていたことを示します。日露戦争の時に坂本龍馬が皇后の枕元に立ち、バルチック艦隊との戦いは日本が勝つから安心せよとお告げしたと言う話が無理無理にでもまかり通ったのも、ある程度は知名度があったのが前提です。とは言え、神様みたいに祭り上げられるようになつたのは、司馬遼太郎の龍馬か行くからではないかなと私も思います。



イエズス会の世界宣教という方針に従い、ザビエルたちは日本まで宣教しにきました。 イエズス会の方針やザビエル自身の動機について、世界情勢や彼らの境遇と関連付けて詳しく教えていただけないでしょうか?

イスラム教徒がヨーロッパを脅かすようになったことと、ヨーロッパ内部でプロテスタント勢力が大きくなったことの2つの要因により、ローマカトリックは危機感を抱くようになり、かつて東方へ行きキリスト教の王国を築いたといわれるプレスタージョンの伝説がもし本当であれば、地球を西へと進んで反対側の東洋に辿り着くことができれば、その王国と出会えるのではないか、もし出会えたとすれば、同盟してイスラム勢力を挟撃できるのではないかとの甘い期待からイエズス会の司祭たちにヨーロッパの外へ行くようにとの任務が与えられ、実際に行ってみたらプレスタージョンの王国などどこにもなかったものの、スペインとポルトガルの露払い役になり、世界が植民地化され、宣教師たちからすれば、宣教はできるは王は喜ぶはでウハウハになり、もっともっとと世界の隅々にまででかけていったということだと思います。



黒船来航と明治維新の組み合わせに匹敵する事象は、日本以外の国ではどんな例がありますか?

日清戦争と辛亥革命の組み合わせはそれに匹敵すると思います。日清戦争以前、清は眠れる獅子と呼ばれ西欧列強も簡単に手出しできないと思われていました。日本が清に対して戦争を始めた時も世界は日本が勝つとは思いませんでした。実際、清の北洋艦隊はドイツから世界最大の戦艦を二隻持っていて、日本の艦隊よりも強いと考えられていました。陸戦でも清はドイツのクルップ社製の鉄の大砲を装備していたのに対して日本側は国産の青銅の大砲を使っていて、射程距離は清有利でした。兵隊の傘については、わざわざここで述べる必要もないでしょう。

にも関わらず、日本が局地戦が連勝し、下関条約で清は台湾を割譲したり、賠償金を支払ったりさせられて清は負けたわけですね。

これにより、世界の列強は、清弱いじゃんと気づき、弱いやつには何をしてもいいという鬼畜の発想で清分割へとひた走って行くようになります。

結果、反作用として清国内で外国憎悪が増大して義和団事件が起きて、西太后の判断ミスもあって北京が列強に占領される展開となり、清の権威が落ちて、一機に辛亥革命の機運が高まって行きます。

おそらく孫文と袁世凱と日本の諜報が結びついたことで、清朝瓦解が決定的になつたと言って良いと思います。後に袁世凱が皇帝即位を宣言した時、私の記憶では有賀某という男が顧問として袁世凱の近くにいたはずですが、日本は早い段階から孫文と袁世凱を後押しすることで、大陸への利権を拡大しようとしたと見て良いと私は思っています。

対華21か条の要求は、日本から、前に援助した時の密約守れよなということを言い出したのを袁世凱が暴露したのが真相であったろうと私は考えています。

少し脱線しましたが、日清戦争から辛亥革命またざつくり15、6年くらいで、タイムスパンとして黒船来航から明治維新までとよく似た感じだと思います。

徳川と清は外国勢力が来たことで滅亡したことが共通点ですが、徳川は慎重に外国との戦争を避けたのに対し、清は外国との戦争を選んだためにより大きな混乱を招いてしまつた点で大きく異なると言えます。徳川後の日本は統一された政府による近代化に成功したのに対し、大陸ではその後何十年も戦乱が続き、日本とは全く異なる運命を辿りました。その理由について考えるとまた長々と述べなくてはなりませんが、日本には様々な幸運が味方をしたと言うことはできるかなと思います。で、残念ながら、最近はそうとも言いにくくなつてきているように思います。

ドイツ語を修得すると、ドイツ人と会話できることを除いて、具体的にどのようなメリットがありますか?

ゲーテのようなドイツ文藝を直読みでき、ヘーゲルのようなドイツ哲学を直読みできるため、ナチスのプロパガンダを直読みすることにより彼らがいにしてドイツ人民をペテンにかけたのかを分析できるようになります。ナチスは頭の悪い大衆を騙したのではなく、優れたインテリを騙したのであり、博士号を持つゲッペルスか巧みにドイツの人文知識の伝統を利用したナチス宣伝を推し進めたのだということにも気付くことができるはずです。それはたとえば、ドイツはマルチンルターの宗教改革が始まった土地であり、皇帝や教皇、貴族の支配を受けない自由都市の気風を重んじる土地であり、要するに伝統を打破することを良しとする伝統があると言えるようなことろがあって、だからこそ、リーフェンシュタールの意志の勝利というタームがウケたりしたというようなことです。



ソクラテスの解く無知の知とは何でしたか?

デルフォイの神託で、一番賢いのはソクラテスと言われたので、ソクラテスはおかしいなあ、僕は何も知らないんだけどなあ、と疑問に思います。で、いろんな人と議論してみたら、僕よりよく知っている人に出会えるかも知れないなあと思い、街ていろいろな人に議論をしかけます。そして次々論破します。結果、なるほどなあ、僕は自分が知らないことを知ってるけど、みんなは知らないことに気づいてないんだなと言うことを発見します。デルフォイの神託は正しかったというわけです。

この真実に気づくために議論をやりすぎたソクラテスは、嫌われまくり、意味不明の理由で死刑を宣告されます。

同情者もいて、逃走の手はずも整いますが、ソクラテスも意地になっていて、悪法も法だと言って与えられた毒を飲んで、率先して死を選びます。

実はこれにはソクラテスの慧眼が働いていて、ソクラテスの死後に、アテネ市民は、自分たちがなんと愚かな決定をしてしまったのかと、今さらになつて死刑に票を投じたことを嘆くものが続出し、そのように後悔したものたちが、ソクラテスを告発した3人の男たちをリンチにかけて殺します。おそらくソクラテスはそうなることを見越した上で自分の命と引き換えに復讐したのです。

なるほどデルフォイの神託通りです。ソクラテスを告発した男たちはそれが理由で最後になぶり殺しにされるとは考えもしなかったでしょう。アテナ市民たちはソクラテスと告発者たちの間で右往左往していただけですし、無駄に人殺しを重ねて行きますから、愚かであるとしか言えません。ソクラテスだけが、全てを見通していたのです。

気の毒なのは、デルフォイの神託に振り回されて、わざわざ他人を論破しまくった挙句に自ら死を選ぶことになるとは当初、見通せていなかったことだと言えるかも知れません。

ソクラテスに対する嫌疑の一つはギリシャの神を信じないと言うものでしたが、ソクラテスはデルフォイの神託をかくも真剣に受け止めるほど信心深い男だったのです。

ここまで書いて、シェークスピアのマクベスのモデルはソクラテスだつたのではないかという気がして来ました。マクベスは魔女の予言をまにうけて身を滅ぼします。

もしそうだとすれば、ソクラテスの人生は修羅の道であったと言えますね。



歴史の定義は何ですか?

ヘーゲルであれば、歴史とは社会変動であると言うのかも知れませんが、フランシスフクヤマの歴史の終わり以後も私たちの営みが続くことを目撃した21世紀人の私としては、ヘーゲルぽくない定義をしてみたいと思うのですが、私は、歴史とは記憶の共有であると定義してみたいと思います。従いまして、たとえ実際に起きたことであっても、記憶として後世に残されていなければ、それは歴史ではありません。仮にどこかで記録が発見され、共有されれば、歴史になります。また、事実と異なって記憶されていたとしても、記憶が共有され、事実だと信じられていれば、それは歴史であると言えます。神話などはその類に入るかも知れません。



ドイツがソ連侵攻をしなければドイツは勝てましたか?

勝てた可能性はあると思います。日独同盟がむすばれた時、日本では多くの人がヨーロッパの戦争でドイツが絶対に勝つと考えられていましたが、それはソ連と戦争していなかったからですね。で、ソ連とも戦争を始めたと知り、これでヒトラーは敗けたと嘆いた人がいたそうです。それくらいソ連との戦争は潮目を変える出来事であったと思います。二正面戦争をしながらアメリカ軍までやってきて、それでも3年持ちこたえたわけですから、如何にドイツ軍が凄かったかということだとは思います。

当時、ポール・アインチヒという経済記者みたいな人がいて、彼はドイツは必ず敗けると予言していました。なぜなら、資本力のある方が勝つのが近代戦争だからだと。で、当時のイギリスは世界一の金持ちですから、ドイツがどれほど素晴らしい戦術と技術力で攻めてこようとも最終的には金の力で幾らでも戦車や飛行機を準備できるイギリスが勝つであろうと述べていたわけです。

但し、当時の状況を考えるに、イギリスの富の源泉である植民地は日本軍に侵攻に脅かされていて、実際、しばらくしたら怒涛の勢いで日本が取って行ったわけです。

ですので、仮にドイツが本当に対英戦争だけに集中していた場合、1942年、43年あたりでドイツがようやくイギリス上陸ロンドン占領みたいなことはあり得たと思います。

それをヒトラーが待ちきれなかったのが枢軸国滅亡の要因ではないかなと思います。

ヒトラーには日本の居合を教えてあげた方が良かったかも知れません。



大日本帝国敗戦後のソ連による日本四分割案について、中国に四国地方があてがわれていますが海峡、水道を他国が押さえている分割状況でそんな所だけ渡されても中国も困りませんか?どういう意図だったんでしょうか?

思うに、蒋介石は英米ソに助けられて戦勝国入りできただけなので、実力が認められたわけではないですし、蒋介石の側にも日本統治にどうしても参加しなければならない必然性もなかったんだけれど、一応、蒋介石も仲間に入れてみようか。というような感じで案が作成されたような気がします。なので、蒋介石にとっての利便性とか需要とかは最初から考えていなかったのではないでしょうか。結局この案は立ち消えしてますから、机上の空論に過ぎなかったのではないかなとも思います。



日本映画の最盛期は、昭和25年(1950)から昭和40年 (1965) 位までではないか、と思いますが、如何でしょうか?異論をお聞かせ下さい。

私もそれくらいなんじゃないかなあと思います。黒澤明、溝口健二、小津安二郎あたりの人たちが生き生きと仕事をしていた時代ってそれくらいですよね。

異論を入れるとすれば、もう少し後の時代になると大島渚とか北野武の時代になってくると思うのですけれど、仮に黒澤・溝口・小津と大島・北野に区分した場合、前者はある種の耽美的映像主義者たちで後者はエモいのを追求するロマン派的映像主義者のような気がします。で、やはり私は甘いので、後者の方が心に残ります。