日中戦争9 西安事件‐蒋介石と張学良

満州事変とそれに続く満州国建国の宣言が蒋介石の国際連盟への提訴により国際問題化し、日本はリットン報告書の採択を拒否し、「国際連盟から脱退すれば連盟の規約にしばられず、経済制裁を受ける理由もなくなるから、脱退しまえばいいんじゃね?」という奇怪のレトリックを思いついて日本は国際連盟を脱退してしまうことになります。現代日本人から見ると、実にもったいないの一言に尽きますが、当時の日本の意思決定担当者たちの考えの甘さ、取り返しのつかないほどの大きなミスがあったことは認めざるを得ません。

ですが、奇妙なことにその後しばらくの間、日本と蒋介石政府との間での友好関係が深まっていくことになります。短い期間のことですので、すっとばしてもいいくらいなのですが、なぜ友好関係が深まったかを考えることは、当時の東アジアの事情がどうなっていたかを理解するのに役に立つと思いますから、ちょっとここでがんばって考えてみたいと思います。ま、結論から述べるとと、要するに日本は満州地域から外へ出て行って占領地を広げたりするつもりはないということを行動から明らかにしていき、蒋介石は共産党との戦いを先に終わらせたかったので、ま、取り敢えずそれでいっか。ということになり、喧嘩する理由がなくなってしまったわけです。

で、張学良という人がいて、この人は関東軍の協力を得ながら満州地方を支配していた張作霖の息子さんになるわけですが、関東軍の河本大作大佐が張作霖を殺害し、張学良氏は張作霖氏の後継者ということになるわけですけれど、満州事変で満州という土地も張学良から奪いとって溥儀を擁立して満州国を作ったという流れになっており、張学良からすれば、親父が殺され領地が奪われたわけですから、最大の敵はやっぱり日本になると思います。

その張学良氏は蒋介石氏の部下の立場として蒋介石軍に参加し西安方面で共産党軍との戦いをやっていたわけですが、戦いが遅々として進まず期待通りの戦果の報告が蒋介石のところへ届きません。で、彼は督戦、するために、要するにもっとまじめに戦争しろとハッパをかけるために西安に行くんですけれど、1936年12月12日、蒋介石の予想を超えた事態が起こります。張学良氏に逮捕監禁され、共産党との協力を約束させられるというわけです。蒋介石氏は西安で、昔、楊貴妃が遊んでいた温泉施設が残っている建物を臨時の執務室に使っていたそうなのですが、張学良が掴まえに来たと知ると急いでそこから逃げ出そうとして果たせず、捕まったそうです。私もその現場を見に行ったことがありますが、唐の時代の楊貴妃と、20世紀の蒋介石のイメージが上手に重ならずに、頭の中での処理にやや苦労した記憶があります。

で、蒋介石氏が逮捕監禁されている時、果たしてどのようなやりとりがなされていたのかということは今も謎であり、推察はできても確認できない流言飛語もいろいろあって分からないことだらけなできごとだったわけですけれど、その後は完全にというわけではないですが、中国は原則として挙国一致で日本と戦うという方針を示すようになり、十五年戦争の歯車が大きく動き出すことになります。日中戦争が本格的に始まる盧溝橋事件と第二次上海事変は西安事件が発生した翌年のことです。第二次上海事変は相当に大規模な激戦だったことは知られており、日本側の死傷者も多く、双方が充分に準備をして本気でぶつかり合ったことは関係資料をぱらぱらっと見るだけでも分かります。繰り返しになってしまいますが、西安事件で事情が変わったのだということがよく分かります。せっかくの短い日中デタントは喜ばしいことだとは思うのですが、残念ながら日本には戦争を止める装置が機能停止になっているような感じで戦争をやめようとする意思決定できない状態になってしまっていたことも災いして、戦火は広がって行ったと言えます。

私は張学良氏のインタビュー動画やインタビュー本などをある程度目を通しましたが、そこはかとなく感じるのは、実は蒋介石と張学良との間にある互いに理解し合う友情のような関係があったのではないかということです。蒋介石氏がどのように話していたかは私は知りませんが、張学良氏は蒋介石氏に対して、わりと理解のある言葉を発しています。張学良氏は残り人生のほとんどを国民党に軟禁されて過ごしたのですが、だからといって憎悪の言葉が出て来ることが言えば、全くそんなことはありません。この辺り、日本人の我々にはもはや理解不可能な中国的な人間関係の築き方の難しいところをはらんでいるのかも知れません。西安事件にはいわゆるコミンテルン陰謀説みたいなものもあって、それについては半分は本当で半分は伝説みたいなものではないかと重います。コミンテルンが絡んでいたのは本当かも知れませんが、蒋介石氏と張学良氏の相互理解の関係はコミンテルンとは関係ありません。そしてなぜ、おそらくは逮捕監禁中にとんでもない目に遭わされたであろう蒋介石氏と、残り人生を軟禁された張学良氏の間にそこはかとない友情が感じ取れるのかということは、もっと別の奥深い繰り返しになりますが、日本人には理解し得ない何かがあるような気がします。ただし、中国語のインタビュー本を読んだ際、張学良氏が若いころは随分もてたと自慢していていて、実名を出して〇〇に住んでる〇〇さんと付き合ってたとか書いてあったんですけれど、そんなことをしゃべったら相手が迷惑するのではないかとそっちの方が心配になってしまいました。

今後の予定としては、盧溝橋事件、第二次上海事変、そして論争多き南京事件へと回を重ねて進めて行きたいと考えています。




日中戦争8 日本の国際連盟脱退

満州事変について調査したリットン報告書については前回触れましたが、日本にとっては必ずしも不利な内容のものと言えるものではありませんでした。敢えて言えば、リットン卿は名を捨て実を得るという提案を日本にしたわけですが、日本は名も実利も両方もらわないと納得できないとごね始めたわけです。想像が入りますが、世界は日本帝国の強欲さにドン引きしてしまったのではないかと私には思えます。

ジュネーブの国際連盟本部では松岡洋右が熱弁を振るい、日本軍の行動の妥当性を主張しました。当時の世界情勢は第一次世界大戦後の平和志向の時代へと移行していましたので、あからさまな侵略戦争は国際法違反と認定されていましたが、松岡は満州事変は侵略戦争ではなく、ウッドローウイルソンの提唱した民族自決の精神に基づき、地元住民の自発的な独立運動であると強弁し、これは満州国の建国はその帰結であるとして一歩も譲ろうとはしなかったわけですね。しかしながら、国際連盟で議論されている最中に関東軍は熱河作戦を行って占領地を広げようとしましたから、日本の侵略意図に対する疑念は更に深まり、松岡の立場はますます厳しいものへと変わっていきます。

一方で、裏側でイギリスから国際連盟とは別の交渉テーブルを用意しないかと打診されていたことが最近の研究で分かっているようです。国際連盟のようなお上品な場所では、日本は正しいと言い続けるしかない。日本国内からの訓令もあるでしょうから、松岡さん、あなた板挟みで辛いでしょう。イギリス、フランス、日本などの世界の強国が本音で話し合える裏交渉の場を設けて、みんなでちょっとづつ得をすることについて具体的に考えましょうと持ちかけて来たというわけです。松岡はこの提案に乗り来だったようです。松岡洋右というと、ちょっと申し訳ないのですが、ややヒステリックでエキセントリックで独善的な人物という印象があるのですが、イギリスとの裏交渉に乗ろうというのは、なかなかに現実的です。ワシントン体制で日英同盟は解消されましたが、イギリスとしては元同盟関係国である日本への手心ということもあったかも知れません。ところが、日本からは裏交渉なんかせずに国際連盟脱退の覚悟も辞さずで押し切れないかと訓令が来ます。当時、日本の内閣行政の中核的な役割を果たしていた内田康哉がそういった趣旨の訓令を発していたようです。

松岡はそれに対する返信として「外交は腹八分目でなければならない」と述べているのですが、外交官は飽くまでも本国の代表者。本国から訓令がくれば、外交官一人の思想や判断よりも訓令が優先されます。そしてとうとう松岡は国際連盟の脱退を発表し、世界を愕然とさせヨーロッパを出発します。松岡の日記にはその時の外交的失敗に対する後悔の念が記されているそうですが、上に述べたような経緯を見ると、確かに外交的な敗北感に苦しむことになってしまいそうに思います。

当時の日本では国際連盟からの経済制裁に対する不安感が強く、国際連盟から抜ければ経済制裁されなくてもすむではないかというほっとしたというような声もあったようですから、当時の日本がかなりの近視眼的な意思決定に捉われていたように思えます。いつかこのブログで述べることになると思いますが、太平洋戦争もかなりの近視眼的な発想で始められたように私は考えています。

で、いずれにせよ日本は以上の経緯を辿り、世界から孤立するようになり、札付きの悪であるナチスドイツしか相手にしてくれなくなったので同盟関係を結ぶほどのずぶずぶの関係になり、それ以外の諸国、要するに連合国は敵は日本とドイツなりという感じでちょうどいい感じに結束し、日本帝国は滅亡の穴へと落ち込んでいくことになります。述べていて暗い心境になってきましたが、もう何回か日中戦争について述べたいと考えており、引き続いて太平洋戦争に入るかと言えば、そのように考えてはおらず、ポストコロニアル的な視点から台湾についてしばらく研究してみて、それからできれば満州国のこともやって、太平洋戦争に入ってみたいと思います。認めます。私、日本近現代史のマニアなんです。お付き合いいただければ幸いです。




日中戦争7 リットン調査団

満州事変が起き、満州国が誕生して溥儀が執政に就任するという流れが東洋で起きている一方で、西洋では中華民国から満州国は国際法違反によってつくられたものだとする提訴が国際連盟に対して行われ、日本側でも国際法に違反していないことは証明できるという姿勢を貫き、要するに諸方面が同意した上でイギリスのリットン卿を団長とするリットン調査団が組織されます。

実際に満州地方を歩いた期間はそこまで長かったわけではなく、東京や北京なども訪問し、日中双方の要人、その他当事者そのものと言える溥儀とも面談するなどしてリットン卿は実際のところを判断しようとしたわけです。調査と言っても諜報活動のようなことをしたというよりは、公正明大且つ貴族的優雅さを忘れぬ態度でジャッジしようとしたのがリットン調査団の仕事で、その成果がリットン報告書というわけです。

リットン報告書は北京で書かれ、当時の知識人らしく「満州とは」くらいの大上段から始まっています。リットン卿はインド総督もした人ですから、東洋についてはよく知っているという自負もあったのでしょう。カエサルの『ガリア戦記』で「ガリアは3つに分けられる」から書き出しているのを理想とする人が多いので、どうしても、ついつい、満州とは、中国とは、日本とは、みたいな大袈裟な話から入っていきたくなるのかも知れません。また、リットン卿としても自分の知性を発揮する絶好のチャンスでしょうから多少気負った感じもあったのだろうと思います。

リットン報告書では歴史的経緯を説明した上で、満州国は国際法違反であると結論しています。当時の国際法は、国際連盟の精神と連動して整備されたようなものだと言っていいと思うのですが、19世紀的な弱肉強食の世界、国益のために戦争をする世界、侵略戦争を是とする世界を辞めましょうという精神で構成されています。ウッドロー・ウイルソンの民族自決もその精神の一部であり、侵略戦争ダメ絶対!=諸民族は自分たちで意思決定する権利がある。他民族に意思決定されない(注意 民族とは何かという問題は今回はちょっと置いておきます。またいずれ議論できる日も来ることでしょう)。という思想が当時は特別重視されていました。第一次世界大戦でヨーロッパが荒廃し、科学技術の進歩が良かったのか悪かったのか大量破壊が可能になってしまい、もはや戦争はできない、戦争やってたら人類の文明が滅んでしまうという危機感が出発点になっています。この考え方は第二次世界大戦後の国際法にも影響していて、たとえばポツダム宣言でも日本の将来の政治形態は日本人が自分で決めると書かれてありますし、東京裁判でキーナン主席検事が「人類の文明を守るための裁判」と主張したのも、第一次世界大戦で世界は戦争には懲り懲りだと思ったのにも関わらず、また世界大戦をやってしまったので、第三次世界大戦を予防するための裁判だ!と言っているわけです。ここでは、その是非善悪を問うているのではなく、そういう考え方で彼らが仕事をしていたということを理解するために議論しています。東京裁判については考え方が分かれるでしょうが、一応、私はここに述べているような視点で理解しています。

で、以上のような国際法の観点から言って、満州国は国際法違反だとリットン卿は判断しました。満州地方は日本軍によって占領されていて、溥儀は傀儡に過ぎない。従って、溥儀を君主と仰ぐ満州地方人民の自発的分離独立運動と認めることはできないので、民族自決の精神にも合致しないと判断したわけです。さて、ここからがさすがは世界一の二枚舌の国であるイギリスらしい解決方法が提案されます。日本側はリットン卿に対し、主として2点を強調していました。

1は満州国は民族自決の理念に合致している。
そして2番目に、満州地方を手に入れるために、日本はめちゃめちゃ苦労したんだ。

ということです。1と2の言い分は完全に矛盾していますが、日本側は両方言い張りました。日露戦争で10万人の兵隊が死に、20億円の借金を作った。今もポンド建てで借金を返済している最中だ、そこを汲んでくれよと情に訴えたわけですね。で、リットン卿は日本側の主張1を認めてしまうとヨーロッパに帰ってあいつは馬鹿だと言われるのが嫌なので、1については明確に否定します。しかし、二枚舌が普通なので、日本が情に訴えて来た部分は受け入れてあげましょうという提案がなされました。満州国を独立国として認めることはできないが、日本に権益追求の優先権があることを認め、ついでに国際管理ということにして、ま、細かいことはこれから考えることにして、国際連盟の強い国でうまく分け合いましょうよ。日本は多めに獲ってもいいから、その他の国にもちょっとづつ分けてよ。そしたら、矛盾してるところとか、目をつぶってあげないわけでもないよ。というわけです。

満州地方がもし国際管理になっていたら、ロシアの南下も心配しなくていいし、国民党にも手が出せません。そして利権は日本に優先権がある。こんなにいい話はちょっと考えられません。なんとおやさしいイギリス様と思ってしまいますが、日本側は「満州国は民族自決の精神に合致する独立国だと認めろ」と強弁して話をまとめようとはしませんでした。ああ、これがニッポンの悲劇と思わず天を仰ぎたくなってしまいます。

次は国際連盟で松岡洋右が強弁している最中に起きた熱河作戦についてやってみたいと思います。




日中戦争6 満州国の溥儀

1932年3月1日、第一次上海事変の停戦協定もまだ結ばれていない最中、満州国の建国が宣言されます。満州国の政治的なトップに溥儀を執政として据えて、事実上の関東軍の傀儡国家を成立させたことになります。

満州地方を関東軍が占領した後、日本領にするか、どこかの軍閥と手を組んで自治領みたいにするか、独立国家にするかは意見が割れたようですが、結果としては溥儀を利用した独立国家にする道を関東軍は選びました。第一次世界大戦を経験した後の世界秩序の中で、露骨に日本領を拡大することは既に憚られる状態だったこともありますが、溥儀は満州民族の君主ですから、満州地方の住民の自主独立運動、民族自決の帰結として満州国が建国されたのだと強弁する材料にすることができたことや、溥儀は自前の軍隊を持っていませんから、一度取り込んでしまえばとことん傀儡として利用できる、溥儀に抵抗するだけの力はないと見抜いたということもあると思います。

溥儀は紫禁城から追放された後、天津の租界で、特にやることもなく適当に遊んですごしていたわけですが、関東軍からの満州行きのオファーに対し、共和制だったら行かない、帝政だったら行くとの条件を出し、関東軍サイドが帝政だと約束したことを信用して満州へと秘かにわたって行きました。

で、どうなったかというと、皇帝ではなく執政という最高行政官みたいな肩書を与えられたわけですから、ちょっと騙された感はあったのではないかと思います。溥儀は徹頭徹尾、清朝の再建のために日本を利用しようと考えていたところがあるようですが、日本側は清朝の再建は全然考えていなかったという温度差、不協和音を感じてしまい、溥儀についつい同情してしまいます。

溥儀は二年ほど執政としての立場を真面目にこなし、念願かなって満州国の皇帝に即位します。関東軍から見れば、満州国の皇帝で、溥儀の主観では清朝の復活です。やはり温度差、不協和音はあったと思いますが、溥儀としては皇帝に返り咲くことができたことで、それなりに満足はしたかもしれません。中国のドラマで溥儀を扱っているのを見ると、わりと日本が戦争に敗け始めて大変なことになっている時期に、何も知らず呑気にタバコを吹かしてご機嫌に遊んでいる溥儀が描写されていたりしますので、当時はご満悦だったというのが定説になっているのかも知れません。ベルトリッチの『ラストエンペラー』を見ると、ずっと悲劇的な人世で、そんなご満悦どころではないのですが、まあ、溥儀本人の主観を想像するに、天国から地獄へのジェットコースターを何度も経験していますから、相当に疲労困憊する人生だったのではないかと思います。

溥儀は正確には三度、皇帝になっています。一度目は光緒帝が亡くなった後に三歳で指名されて即位した時です。その後、辛亥革命で廃位されますが、袁世凱が亡くなった後で張勲のクーデター的策略で再度皇帝の座に座り、二週間にも満たない短い期間ですが、清朝が復活しています。そして三度目が満州国皇帝即位というわけです。

実に大変な人生です。その後、満州国建国についてはリットン調査団が入っていろいろ調べて、民族自決ではないと結論されてしまったり、日本の国際連盟離脱につながったり、ソ連邦参戦の時には口に出すのも憚られるような酷いことが起きたりと重苦しい歴史の出発点になったというか、満州地方に固執したために日本はほろんだみたいなところもありますから、満州は日本の重苦しい過去の中心みたいな場所なのだなあと、ブログを書きつつ、改めてためいきをついてしまいます。




日中戦争5 第一次上海事変‐世界の中心と川島芳子

1931年の満州事変以後、中国に於ける対日感情は極めて悪くなっていきます。日本製品排斥運動も盛んになり、日本の対中輸出は相当に下がって行ったようです。さて、そのような一触即発が続いている最中の1932年、上海という世界の中心都市で日中両軍の軍事衝突が起きてしまいます。世に言う第一次上海事変です。

なぜ私が上海を世界の中心と呼ぶのかというと、当時は日本を含む列強の租界が上海にあって、列強の利権が上海に集中していたからですね。たとえば上海を失うと金融面で支障をきたすとか、貿易面で支障をきたすとか、そういうことがあるので当時の列強は上海で面倒が起きるのをとても嫌がっていたわけです。日本はこの段階ではまだ国際連盟脱退という最悪の選択をしてはいませんでしたが、列強から煙たがられる要因はこの段階で既に生まれていたと言っていいのではないかとも思えます。

いずれにせよ、その上海で日本人のお坊さんが襲撃されて命を落とすという事件が起きてしまいます。一説には日本軍に操られた川島芳子が引き起こしたという話もありますが、真偽のほどは分かりません。田中隆吉という陸軍の人物が川島芳子と深い関係になっていて、田中隆吉の意向を受けて川島芳子がお坊さんの襲撃を謀略したという話なわけですが、それを言っているのが田中隆吉さん本人で、他に証拠があるわけでもなく、第一次上海事変で一番仕事をしたのは海軍陸戦隊ですから、なんで陸軍の田中さんが謀略したのかと言う風に考えると、やや、解せないところもないわけではありません。当時に日本軍は統帥という究極的に融通の利かない制度があって、陸海軍は別々の命令系統で動いていて、協力しあうというのは滅多にありませんから、陸軍の田中さんが川島芳子を使って謀略して海軍が戦争するという構図そのものが、ちょっとリアリティに欠ける部分はあるように思えてならないわけです。

そうはいっても、第一次上海事変が起きたことそのものは事実で、日本軍が戦いの初期段階で海軍陸戦隊と投入し、慌てて陸軍の師団も投入し、物量で中国側を圧倒していきます。

ここは私もよく分かっているわけではないのですが、中国側は第19路軍が上海までやってきて日本軍と衝突するわけですけれど、どうも蒋介石氏の本部と現場の司令官の間での意思の疎通がそこまでうまくいっていたわけでもなさそうなんです。蒋介石氏としても、世界の利権の集まっている上海で大規模な戦闘とか、本音ではやってほしくないんだけれど、第19路軍という下部組織の司令官がやる気まんまんで突っ走ってしまったところがあるみたいなんですね。1926年に蒋介石氏が上海クーデターというのをやってますけど、これは治安維持的な意味で、むしろ蒋介石氏は列強から歓迎されたみたいなところがあるんですが、第一次上海事変では日中双方がちの戦闘で、列強の市民が巻き添えを食うという構図ですから、だいぶ性質が違うものだと言えると思います。

で、繰り返しになりますけど、日本側に圧倒されて中国側は撤退することになります。撤退はしたけれど、善戦したということで、第19路軍は賞賛されたそうです。ただし、司令官の人物は第二次世界大戦が終わった後は蒋介石を離れて、中国共産党に参加していますので、やっぱりそもそも両者の関係はあまりいいものではなかったのかも知れません。

以上が、第一次上海事変のあらましということになるのですが、この時に日本側が勝ちすぎて、便衣兵狩りもやったらしく、中には中国人じゃないのに巻き添えになった外国人もいたらしくて、日本に対する警戒論がやたらと強くなっていったようです。そういう意味では上海の治安を維持する蒋介石氏対上海で派手にやらかす日本軍、みたいな印象が欧米諸国に刻印される大きなきっかけになったとも言えそうですから、将来の日本の運命を左右するできごとだったとも言えるように思います。




日中戦争4 満州事変‐石原莞爾と張学良

張作霖氏が殺害される事件が起きた後、息子の張学良氏‐この人は20世紀の東アジア関係史で最も謎に包まれた人物と言えるかも知れないですが‐が張作霖氏の軍隊と地盤を継承します。張学良氏にはいくつかの選択肢がありました。一つは南下の機会を模索するソビエト連邦と連携すること、もう一つは大陸での権益の拡大を模索する関東軍と連携すること、三つ目は軍閥が群雄割拠する中、力を伸ばしてきた蒋介石氏と連携することです。

で、結果として張学良氏が蒋介石氏との連携を選びます。普通に考えて、当時、張作霖氏が関東軍によって命を奪われたことは既に知れ渡っていましたから、人情の問題としても関東軍との連携はさすがにないだろうと思います。一部には実は張学良氏はソビエト連邦の工作員で、それで蒋介石氏に近づいたんだとする説もあるようですが、私は噂で聞いたことがあるだけなので、まあ、そういう噂もありますよ、くらいに留めておきたいと思います。張学良氏の回想インタビューは音声、動画、書籍など複数ありますが、私が中国語で発行された最近の回想ものの書籍では、若いころにどんなガールフレンドと付き合っていたかを張学良氏がいきいきと語っているような内容で、しかも実名を出していますから、本当にこんなものを外に出していいのかとも思いましたが、後に起きる西安事件については一切の口を閉ざしているあたり、墓場まで重大な何かを持って行ったことは確実で、それが何なのかは永遠の謎になると思います。

さて、張学良氏が満州地方で実力を保ちつつ蒋介石氏と連携することは、関東軍にとってはなかなか面倒なことだったと言えると思います。関東軍が割って入る隙のようなものがありません。全ては張作霖氏を殺害した河本大作大佐が悪いのですが、そっちの方は放置したまま、どうやって割って入るかということを考え抜いた石原莞爾が柳条湖事件を立案します。当時、中村大尉が諜報活動中に張学良麾下の部隊に殺害されたこともあって、現状をなんとかしようと関東軍が模索していた様子も感じ取れます。繰り返しになりますが、河本大佐の件をうっちゃってなんとかするというのは、ちょっと難しいことではなかったかとも思えます。

いずれにせよ、1931年9月18日、板垣征四郎大佐や石原莞爾中佐らが柳条湖での南満州鉄道を破壊し、それを国民党の軍の仕業であると自作自演して先端を開きます。土肥原賢二、甘粕正彦が奉天占領に動き、関東軍は満州地方全域を手に入れる方向で動いていき、天津で亡命生活を送っていた愛新覚羅溥儀を迎え入れて独立政権の確立を目指します。日本領にせず、独立傀儡政権の確立へと動いて行ったことは、パリ不戦条約のような第一次世界大戦後の新しい国際秩序の中で、あからさまな侵略行動がとれない時代に入ったからだと説明することもできると思います。




日中戦争3 張作霖事件‐昭和天皇と田中儀一と関東軍

昭和3年、1928年の6月4日、北京から満州方面へ脱出してきた張作霖の列車が爆破され、張作霖が死亡するという事件が起きます。列車が爆破されて転覆するという大事故ですから、かなりの人が命を落としたようです。

張作霖がどういう人かというと、日露戦争の時にロシア側のスパイとして活動していたんですが、日本軍に捕まり、以後、日本軍への協力者に立場を変え、辛亥革命で清朝が倒れた後は少しづつ力をつけて満州地方を支配する軍閥を形成するようになった人です。関東軍の協力を得ていたので、当時の満州地方ではかなり有力かつ有利な立場にいた人物と言ってよいでしょう。彼は北京まで乗り出していき、当時バラバラに分裂していた中国の真実の支配者は自分であると宣言します。これが張作霖の全盛期だと思いますが、反共産主義活動に熱心で、ソ連大使館内を捜索して共産主義活動関係者の逮捕に及ぶなどが過激すぎたためか、列強からの支持を少しずつ失って行きます。列強はむしろ、国民党軍を率いる蒋介石を中国の正統なリーダーとして認める方向へと舵を切って行くことになりました。蒋介石の国民党軍が上海から北京へと迫り、戦いに敗れた張作霖が奉天へと帰る途上で列車爆破事件が起きたというわけです。

蒋介石が日本側に対して、満州地方へは進出しないとの言質を与えており、「だったらいいんじゃね」と関東軍関係者は考えるようになったらしく、どっちかと言えば溥儀を擁立して満州国を作る構想の方が魅力的なので「張作霖が帰って来ても困るよねー」という空気が関東軍にあったことは事実のようです。

この事件を起こしたのは関東軍の河本大作大佐と少数の協力者によるものだということは、すぐに分かったのですが、誰も処罰されることもなく、事件の犯人は隠ぺいする方向で日本政府部内でも大体の意思統一がなされました。当時、まだまだ若い昭和天皇は、田中儀一首相に対し、事件の真相の公表を指示しましたが、田中首相が言を左右にして言う通りにしないので、昭和天皇がキレまくり、叱られた田中内閣はそれを理由に総辞職することになります。『昭和天皇独白録』では、昭和天皇が当時のことを回想し「田中首相に辞表を出してはどうかと言った」と述べていますが、田中首相辞任から、当該の回想がなされるまで20年近い年月が流れています。それで「辞表を出してはどうか」と言ったことまで覚え居てるわけですから、当時は相当な剣幕で切れまくったのではないかと私は推察しています。

この出来事をきっかけに、昭和天皇は、天皇が政治に口を出し過ぎると内閣が潰れて混乱が生じるということを学び、立憲君主として意思決定に口を挟まないというポリシーを貫くことにしたと一般に言われていますが、田中内閣が潰れた後で、昭和天皇は西園寺公望から立憲君主のあり方みたいなことでお説教されたようです。

張作霖の事件は日本帝国の戦争の長い歴史から見ると、どちらかと言うとあまり目立たない事件だとも思いますが、一連の出来事を眺めてみると、日本帝国の特質のようなものがよく見える出来事ではないかと思えます。まず第一に、張作霖が邪魔になったので殺すという短絡的かつ倫理性ゼロの発想法が関東軍でまかり通っていたことが分かります。更にそのような独断専行が批判されないという特殊な空気が日本政府には濃厚に流れていたということも分かります。また、昭和天皇の政治に対する考え方を知る上では、この事件を語ることは不可欠だとすら言えるように思います。これからも少しずつ、日中戦争史、できる範囲で続ける予定です。




日中戦争2 用語解説→関東軍とは

関東軍について、簡単に説明しています。関東軍は知ってる人にとっては常識で説明の必要はないんですが、知らない人にとっては「なんじゃそりゃ?」な用語だと思いますので、一応、やっておいた方が網羅的にやっておいた方がいいかなと思って動画にしていました。よろしくお願いします。




日中戦争1 日中戦争前史‐北京議定書

日中戦争は言うまでもないことですが、1937年に突如として起きたものではありません。そこへ至るまでに何十年もかけて蓄積された圧力のようなものが存在します。

以前、学生から「一体、いつから日本が中国に侵略していくようになったのか?」という趣旨の質問をされた時に、はて、どこから話せばいいのだろうかと考え、私はやっぱり北京議定書から始めるのがいいのではないかと考えるようになりました。

日清戦争から始めても決して間違ってはいないとは思います。ただ、日清戦争はその後の日本の浸食とは性質がやや違うように思います。日清戦争が起きた時、中国は既にアヘン戦争を経験した後の時代で、欧米からの浸食を受けてはいましたが、それでも東アジアの覇権国だという位置づけに違いはありませんでした。日本は新興国の挑戦者であり、両者が朝鮮半島に対する影響力を巡って争ったわけですから、覇権争いの戦いだったと言えます。

一方で、日中戦争は日本側から一方的にフルボッコをかましていこうという戦争をして、まあ、最終的には日本がフルボッコされたわけですけれども、いずれにせよ、日本がいつから中国をフルボッコにして利権を得ようと言うようなことを始めたかということをずっと辿って考えてみると、1900年の義和団の乱がその始まりなんじゃないかという気がします。義和団の乱はわざわざ説明する必要はないと思いますけれども、日本と欧米からどんどん浸食されている中国で、排外的な勢力が叛乱を起こし、普通だったら清朝がそれをなんとか取り締まるはずなんですが、清朝の西太后なんかはこれは外国人をやっつける好機だと思って列強に宣戦布告してしまうという、かなり行き当たりばったりで無計画な戦争状態が中国内部で始まってしまいます。

列強は一致して事態の収拾に臨み、清朝の皇帝と西太后とかは父祖の地である熱河まで避難して、取り敢えず列強が義和団の乱を抑え込んで、清朝とも講和しようという流れになります。『北京五十日』という古い映画があって、この映画でこの一連の事件のことを描いていますが、伊丹十三さんが日本軍の指揮官をやっているんですが、今思い出すと、中国人に対する偏見丸出しで、あんな映画を本当に作っていいのかという疑問もわいてくるんですが、それはともかく、この講和の際に、列強の兵力が中国に進駐すること、海岸地帯の租界から北京まで外国人が安全に通行できるように、そういった辺りにも外国の軍事力が進駐することなんかが決められるんですね。

これが、中国に対して侵略的に日本が入っていった第一歩なんじゃないかなと思いますし、当時、学生にはそんな風に説明しました。

その後、対華21か条要求とか、九か国条約とか、張作霖事件とか、満州事変とか、そういうのが折り重なって複雑怪奇な状態になっていくんですが、それはまた次回以降について考えてみたいと思います。




第一次世界大戦と日本

第一次世界大戦は、勃発した当時、世界大戦とは認識されず、日本では欧州大戦と呼ばれていました。また、この戦争はロシア、ドイツ、オーストリア、イギリスのロイヤルファミリーが血縁同士でもあったため、いとこ同士の戦争というような表現がされることもあるようです。

当初日本は当事者ではありませんでしたが、日英同盟の関係からイギリスから援助の要請があり、海軍はその要請にこたえて護衛艦を地中海に派遣したことが知られていますが、陸軍は「日本兵はお米を食べるが、ヨーロッパではパンしか手に入らない」という、耳を疑うような理由で断っています。本音を言えば、ヨーロッパに兵隊をおくっても特に利益があるとは思えず、単に危険なだけなので断ったというわけですね。

この構図は欧米諸国からは奇怪なもののように見えたのではないかと私には思えます。というのも、通常、軍の派遣については内閣が意思決定するはずで、陸海軍も協調路線をとるのが自然なはずです。しかし日本の場合は内閣ではなく、海軍、陸軍という単位で意思決定しており、しかも協調していない。こんなことってあるのだろうかと謎に思えるのが自然ではないかと思います。あまりに複雑怪奇なため、この現象については日本でもよほどの専門書でない限り、適切な説明がなされていないように私には思えます。

要するに陸海軍には独立指揮権、いわゆる統帥権が存在し、それが憲法上天皇に直属しているため、内閣が陸海軍に指揮命令を行うことができない、そして天皇は実務的には何もしないため、陸海軍は自営業者みたいに自由に行動できる。こんな複雑な構造は現代人の我々にとっては複雑怪奇ですし、もはや過去のことですから、あまり真剣に説明される場面も多くないのかも知れません。

さて、私はイギリスが日英同盟を理由に日本への協力要請を陸軍が断ったことが、後々の日本の運命に暗い影を落としていったように思えます。というのも、陸軍はヨーロッパ派兵を断っている一方で、中国と太平洋のドイツ利権はしっかり奪い取っており、火事場泥棒的な利益を得ています。国家に真の友人はいないという表現がないわけではありませんけれど、同盟国の目から見れば、困っている味方のことは忘れて自己中心的な利益の追求が露骨過ぎて、同盟維持のモチベーションを失う理由になったのではないかと思えてならないのです。

更に日本はヨーロッパ諸国が戦争で疲れ果て、東アジアでの利権追求をする余裕がない間隙を縫うようにして袁世凱政府に対し、対華21か条の要求というものを行っています。主たる内容は日露戦争でロシアから得た利権の継続の確認、今回の戦争で日本が得たドイツの利権の継承の確認などでしたが、中国政府内部に日本人顧問を送り込むことを要求した点には世界はドン引きです。現代人の私が、当時のことに関する書物を読んでもやっぱりドン引きです。世界が不安定な状態になっていることに付け込んで、中国を属国化してしまおうという魂胆が露骨過ぎて、やり過ぎ感がとことんあるわけですね。

戦争が終わった後、戦争の傷跡があまりに深かったことの反省から、パリ不戦条約が結ばれたり、国際連盟が創設されたりして、二度と戦争のない世界を作ろうとする努力が行われるようになります。この際、日本は常任理事国として迎え入れられたわけですが、ヨーロッパの列強が深い傷に苦しむ中で国際連盟を創設したのに対し、日本はほとんど代償らしいものを払うことなく、果実だけを手に入れていますので、第一次世界大戦後の世界の変化についていけなかったのではないかと私は思います。言い方はよくありませんが、世界から甘やかされて、日本は我がままの度が過ぎたまま敗戦まで走り切ったのではないかと説明できるような気がするのです。

第一次世界大戦が終わった後の世界は、不戦の誓いが常識になろうとしていたにも関わらず、大国の中で日本だけが、露骨な弱肉強食の19世紀的な世界が続いていると誤認してしまい、際限のない拡大主義を選び続けました。表現は悪いのですが、当時の日本について、私にはビギナーズラックでロトに当たった人がその後もロトを買い続けて破産してしまう人と同じような印象を抱いてしまいます。例えば満州国の創設や、汪精衛国民政府の創設について、日本帝国は民族自決の精神にのっとったものだと強弁しましたが、民族自決の理念をレトリックとして利用することしか考えることができなかったことなどに、当時の日本人の近視眼的な発想法を見出すことができるように思います。

今回は以上になります。次回以降、日中戦争を詳しくやっていきたいと考えていますが、体力と精神力の兼ね合いがありますので、無理のない範囲でこつこつ積み重ねていきたいと思います。