吉宗のリアルホラー権力闘争

徳川幕府第八代将軍の徳川吉宗は、本来、徳川家の中での将軍継承順位が非常に低かったため、将軍になれるはずの人ではありませんでした。ところが、我々が知っているように八代将軍になったわけなのですが、今回は彼がどんな風に権力ゲームで勝ち残っていったかを確認してみたいと思います。よく見てみると、実に血なまぐさいというか、驚くほど恐るべき闘争が行われていたことが分かるのです。

吉宗は紀州徳川家の第二代藩主である徳川光貞の四男としてこの世に生を受けました。紀州徳川家はたくさんある徳川家の中では、本家、尾張徳川家に次ぐ、三番目の家柄になりますけれど、吉宗が産まれてきたときは本家には徳川綱吉がいて、当時はまだ綱吉も若かったですから安泰でしたし、その次に尾張徳川があるわけですから、紀州徳川に将軍の順番が回ってくるなど考えられませんでした。ましてや、吉宗は四男ですから、紀州藩主になることすら本来は無理だったはずなのです。

ところが、吉宗の一番上の兄の徳川綱教が紀州藩第三代藩主の座にありながら、病死します。吉宗には更に二人の兄がいましたが、その二人も同じ年に相次いで病死し、四番目の吉宗に藩主の座が回ってきました。これだけでもちょっと怪しんですが、本番はむしろこれからとすら言えます。

五代将軍の綱吉に後継者たるべき男子がいなかったため、次の将軍候補を誰にするかが焦点になってくるんですけれど、江戸の幕府官僚たちは尾張か紀州から将軍が来るのを嫌がっていました。たとえば尾張藩主が将軍になれば、尾張藩の家臣たちが大量に江戸にきて、江戸城の行政を乗っ取ってしまうことは明らかで、そういうことを幕府官僚はいやがったわけです。ですから、尾張や紀州のような大量の家臣を抱える徳川家の人物ではなくて、もうちょっと言うことを聞きそうなのを選ぼうとします。で、白羽の矢が立ったのが甲府徳川家の徳川家宣でした。御三家の人物でもない彼がなぜ選ばれたのかと言うと、第三代将軍家光の孫だからというのが幕府官僚たちの説明でした。家康が設定した御三家よりも、家光の血筋の論理が優先したということで注目すべきことなわけですが、甲府徳川家は歴史も浅く、幕府官僚組織に組み込めば、飲み込まれて消えてしまうのでやりやすかったというわけです。

ですが、おもしろくないのは、紀州と尾張です。特に尾張は、綱吉の次は尾張からと思って張り切っていたのに、本来傍流とみなしていた徳川家宣が六代目になって、つまらないこと甚だしいわけですよね。しかも、六代目以降は順調にいけば家宣の子孫が将軍職を継承していきますから、下手をすると未来永劫、尾張にも紀州にも将軍の順番が回ってきません。ところが、どういうわけか家宣は将軍に就任してから僅か3年で病没してしまいます。家宣には新井白石、間部詮房という側近がいたのですが、彼らは急いで家宣の息子の家継を第七代将軍に据えました。本来、将軍はせめて元服をしている人物から選ぶという慣例になっていましたが、家継は非常に幼い男の子だったために元服をすませておらず、そこは慣例破りで推し進められました。家宣の血筋を将軍家として残すためにはそれしかないとの判断が働いたというわけです。そのうえ、新井白石も間部詮房も、紀州なり尾張なりに将軍の座をとられると、失職してしまいかねませんから、利害損得を考えても、ここは家宣の息子でということになります。しかし、幼少の息子さんが将軍になったということは、これから何十年か将軍をやるということですから、尾張の人も紀州の人も自分が生きている間に将軍の順番が回ってくることをあきらめなくてはならないということをも意味するわけで、もはや万事休す。むしろ新しい徳川将軍の血筋を祝福し、自分は領国経営を一生懸命やったほうがまだみんなが幸せになるというものです。ところが七代将軍家継も3年後に病没してしまいます。

ここまで述べただけでも、吉宗に将軍の順番が回ってくるまで何人病死したのかと数えるのがちょっと大変な気がしますが、更に加えて、ちょっと省略しますけど、尾張徳川の方でも将軍にふさわしそうな男子がばったばったと死んでいきます。

七代将軍家継が亡くなったとき、まがりなりにも吉宗は直系の紀州徳川藩主でしたが、尾張藩主は本家が滅亡してしまっていて、分家の人が藩主になっており、すでに吉宗リードな状態でした。更には大奥への工作と新井白石たちへの工作も功を奏して、吉宗が晴れて八代将軍に就任という次第になったというわけなんですね。長い!実に長い!吉宗が将軍になるまでを述べるだけでここまで長いとは!

さて、ここまで、いったい何人が毒殺されたのかついつい疑いの目で吉宗を見たくなってくるのですが、更に吉宗の凄いところは、後世も自分の血筋で将軍職を独占できるように設定しておいたことです。吉宗は徳川三卿と呼ばれる3つの家を自分の息子たちに創設させました。田安・清水・一橋と呼ばれる三つで、将軍はこの三つの家から選ばれることになったわけです。徳川三卿は養子を融通しあって絶えないように調整され続けましたから、本来、徳川の親戚筋で一番高貴だったはずの尾張徳川に出る幕はありません。しかも紀州徳川家も存続したため、尾張は一機に傍流へと転げ落ちてしまったというわけなんですね。幕末、尾張徳川は早々に官軍の側についてますけど、吉宗の時の経緯を知っていれば、そりゃそうだと、そこまでして江戸に義理を尽くす理由はないと尾張の人が思っていたとしてなんら不思議はありません。幕末の長州征伐の時は、幕府軍司令官を尾張の徳川慶勝が担当しましたが、彼のやる気がなかったのは有名な話で、それもさもありなんと勘ぐってしまいます。徳川滅亡の要因の一つは、吉宗一人勝ち現象があったからと言えなくもなさそうに思えます。

尚、最後の将軍である徳川慶喜は一橋の人でしたから、一橋慶喜と呼ばれましたが、もともとは、絶対に将軍になれるはずのない水戸徳川の人でした。その彼が一橋に養子に入ったことで、大きな番狂わせが起き、徳川の団結が乱れたこともまた事実で、なるほど成功の中に失敗の種があるのかと、人間の営みの不思議のようなものをついつい考えてしまいますねえ。



徳川綱吉「殺処分ゼロは可能である。しかもわりと簡単に」

徳川幕府五代将軍徳川綱吉といえば、生類憐みの令という、人間より動物の方が偉いみたいなおかしな法律を作った人で知られています。しかし、ちょっと見方を変えると、実は十分に現実的な動物愛護政策だったことがわかります。動物の殺処分ゼロは現代の私たちにとっても切実な問題と思いますから、今回はそのヒントを綱吉から得ようというわけです。

生類憐みの令が制定された背景には様々なことが語られてはいるのですが、以前は無駄に信仰心の厚い綱吉と彼の生母の桂昌院が、動物に対する殺生を辞めれば後継者を授かれるという、かなりとんでもな考えにとりつかれ、病的に突き進んだかのような説明がされることが多かったように思いますけど、最近は全然違っていて、信仰心が篤い故に、動物愛護の精神を人々にもってもらうための啓蒙活動に近いものだったというような説明が増えているように思えます。

犬を殴った人は島流しとか、犬を殺した人は死刑とか、というのが本当だったとしたらかなりとんでもな法律なんですけれど、でも、犬も人も傷つけないための解決策がきちんと設けられていたというのが、徳川幕府の人道的なところであるとも思います。その解決策というのは、犬を人とは隔離して飼育するというものなんですね。犬が天下の往来を闊歩していると人とトラブルを起こしかねませんけれど、隔離してしまえば人ともめることはありませんから、結果として人も犬も安全というわけです。野良犬は捉えられて隔離施設に入れられます。あと、犬を飼っている人でも、しつけのために犬をたたいたらどんな問題になるかわかったものではないですから、犬を隔離施設に預けに来たそうです。隔離施設ではちゃんと餌を与えて死ぬまで面倒を見たらしいんですね。結果、江戸の町から犬がいなくなったそうです。犬のオスとメスをちゃんと分けて飼育していれば増えることはないですし、死ぬまで飼育するわけですから、殺処分よりは遥かに穏やかな政策であると自信を持って言うことができると思います。

徳川幕府にできたのです。今の日本国政府にできないはずがありません。経済規模は遥かに大きく、世界有数の豊かな日本で、犬や猫を殺処分にしなくとも、飼えばいいのです。全国の殺処分施設を改良して飼育施設にすればいいのです。原子力廃棄物を大量に貯蔵する巨大な施設を巨額な資金で作ることができるのが、経済大国日本なのです。おそらく、六ケ所村の中間処理施設よりも遥かに遥かに低い予算で飼育施設は設置可能なはずです。そりゃ、飼うのは大変かも知れませんし、餌代は税金かよ!という突っ込みはあるでしょうけど、税金で殺処分するよりは、飼う方がよほど人間にとって後ろめたくない解決法だと言えるのではないでしょうか。殺処分の方が幾分か安くつくかは知れませんけれど、そんなことのために犬や猫を殺すことの方がよほど人間への精神的なダメージはあると思うんです。野良犬を捕まえて飼育施設で隔離して飼うということを続けていると、そのうち、野良犬はいなくなります。時間はかかるかも知れませんけれど、いいじゃないですか。時間がかかったって。殺すよりよっぽどいいです。金額的にも十分に実現可能と思いますから、どうでしょう。行政のみなさま、ぜひ。



家光の平和‐意味深な新秩序

徳川時代は260年という長い寿命を誇ったわけですが、徳川幕府の全盛期は第三代将軍家光の時代で、わりと早い段階で迎えています。その後ピークアウトした徳川幕府は諸大名とうまく折り合いをつけたり、適当に互いにご機嫌を取り合ったりしながら、なあなあで物事が進められたわけですが、家光の時代は全然、なあなあではありませんでした。問題を起こした大名は平気で潰したのは有名なことですが、後世まで最も大きな影響を与えたことは、カトリックの追放と、徳川氏の血筋の論理の変更でした。今回は家光に関係するカトリックの話題と血筋の話題をやりたいとは思っているんですが、その前に、なんで家光はそんなにパワフルだったのかということをちょっと述べておきたいと思います。

まず第一に、家光には非常に高い権威がありました。家光が生まれた時、すでに徳川幕府が存在していましたので、彼は生まれた時から将軍家の人間なわけで、生まれながらにめっちゃ高貴な人ということになるわけなんですね。家康は確かにすごいんですが、成り上がっていった人であるということは同時代人なら誰でも知っています。秀忠も家康と一緒に成り上がり人生を歩んで来たということを、やはり同時代人は知っているんですね。豊臣氏をなぶり殺しにして手に入れた天下じゃないかと誰も言わないけど、それも知っているわけです。一方で家光はそういう泥臭い面を抱える必要がないので、堂々たるものなわけですね。

次に強大な軍事力も挙げることができます。徳川家康の時代、家康と一緒に戦った連戦連勝の三河武士軍団が無傷で家光を支えていました。当時の彼らの凄いところは実戦経験及びその成果に於いて日本一だったことです。徳川家臣団が戦争に負けたのは三方ヶ原の戦いだけで、後は全て勝っています。まだ戦国の空気を覚えている人も大勢いて、日本一強い彼らが何かあったら勝負するというわけですから、諸大名はしらけちゃって、もういいや。逆らいませんというような感じになっていたんですね。

で、やはり経済力です。徳川家康が豊臣氏から奪いつくした利権によって蓄財された莫大な遺産が家光を支えていました。四代将軍の時に明暦の大火によってそういった経済的アドバンテージは失われたともいわれますが、家光の時代はまだ明暦の大火は起きていませんから、経済的にも大丈夫だったというわけですね。

で、彼の時代に非常に熱心に行われたことの一つが、カトリック勢力の完全追放でした。遠藤周作さんの『沈黙』という作品でも、カトリック司祭のロドリゴがイエミツってやつがひどいんですよと手紙を書いていますが、家光の時代に徹底的にカトリックが取り締まられました。カトリック信徒が最後の力を振り絞り、信仰の自由だけでなく農民の生活の安定を求めて島原の乱を起こしましたが、幕府軍は乱の参加者を全員殺害するという極めて凄惨な方法で鎮圧しています。天草四郎たちはローマ・カトリックの援軍が来るのを待っていたと言われていますが、そのような援軍は来ませんでした。アルマダの海戦で真剣なカトリック国であるスペインの無敵艦隊が全滅していましたから、既に日本まで援軍を送る力が残っていなかったとも言えますが、援軍に行ったところで当時、戦国時代を勝ち抜いた世界最強徳川軍と戦う羽目になりますから、勝てるわけないので、諦めたというのもあると思います。今もローマ・カトリックでは島原の乱を聖戦とは認めていないそうなのですが、これはおそらく、力不足で信徒を見捨てざるを得なかったという事情があったのからではないかと想像してしまいます。

ちなみに、カトリック勢力が追放された一方で、イギリスとオランダという非カトリックの新教の国家は徳川幕府との交易が認められていたわけですが、結果的にオランダだけが交易を続け、イギリスはそうではありませんでした。なぜそのようになったのかというと、オランダとイギリスの間で東洋の貿易の独占権を巡る争いが激しくなり、インドネシアのオランダ東インド会社の傭兵たちが、アンボイナという土地にあったイギリス東インド会社の商館を襲撃し、全員殺害するというショッキングな事件が起きていて、これをアンボイナ事件と呼ぶんですが、全員殺害されために事件がイギリスに伝わるまでちょっと時間がかかったという恐ろしいできごとではあったんですけれど、これによってイギリスはしばらくの間、東洋からは撤退せざるを得なくなり、オランダが残ったというわけなんですね。ちなみに攻めるオランダ側の傭兵は日本人で、守るイギリス側の傭兵も日本人だったそうです。日本で戦国時代が終わってしまったため、日本で生活の糧を得られなくなった野武士のような人たちが東南アジアへ渡って傭兵という稼業をしていたからなんですが、強くて勇敢なことで有名だったそうです。タイで活躍した山田長政なんかもそうですね。この山田長政のことも遠藤周作さんが『王国への道』という作品で書いてますから、ご興味のある方はお読みになっていいのではないかと思います。

で、家光の凄いところは、以上のようなことだけではないんですね。なんといっても、家康が遺言した血の論理に家光の影響力が発揮されたんです。家康は徳川直系の徳川宗家が途絶えた場合、徳川御三家が徳川宗家を継承すると遺言しました。もうちょっと細かく言うとですね、尾張徳川家が最もランクが高いですから、彼らが宗家を継承する。もし尾張徳川家に事情が生じてダメになった場合は紀州徳川家が継承するとなっていました。残りの一つである水戸徳川家には実は継承権はありませんでした。四代将軍家綱の後継者が育たなかったため、五代目将軍を誰にしようかという話になった際、本来なら御三家、はっきり言えば尾張家が継承するのが筋なんですけれど、五代目の綱吉は御三家の人じゃないんですね。綱吉は家光の息子の一人ではあるんですけど、徳川の分家を創設して、松平を名乗って館林藩主になってました。徳川じゃなくて、松平を名乗っていたわけですから、要するに徳川家臣の身分になっていたんです。幕臣たちはそれでも尾張徳川家の人物じゃなくて、松平綱吉を将軍に据えます。理由は家光の息子だから。要するに家光の血統が家康の遺言を凌駕したというわけなんです。この家光の血統が優先されるという論理は7代将軍まで貫かれました。もちろん、そのようなことになった理由は、もし尾張徳川の人物が将軍になった場合、尾張から新しい人材がどんどん入ってくることを幕府官僚たちが恐れたからに違いないのですが、それでも、家光の血筋優先という論理が説得力を持つと考えられたあたりに、家光の影響力の絶大さを垣間見ることができると言えると思います。

とはいえ、家光はその最期は急病で倒れて、そのまま逝去していますから、なんというか、ちょっと疑わしいところがなくもないというか、やっぱり強権政治を貫いたので恨まれてしまったのかな、などのような想像力が働く余地がないわけでもありません。また、家光の日光のお墓は非公開だそうなのですが、それもなんで?という意味深な印象を与えます。家光には人格的に問題があったとか、病的な性格だったとかの伝説も残っていて、そういったことがどこまで本当かは分からないし、家光の評判を落としたい人が始めたネガティブキャンペーンの可能性もありますから、そんなことを真に受ける必要はないかも知れませんけれど、今述べたような事情を考えると、いろいろ、やっぱり、要するに意味深なものがあったのかも知れませんね…。



家康の死に方

徳川家康は通常、1616年、即ち大坂夏の陣の翌年に亡くなったとされています。私は長年それについて疑いを持たずに来ました。しかし、世間には様々な家康替え玉説が存在しています。たとえば桶狭間の戦いの直後、家康は今川氏から独立しますが、その時に本物は殺されて替え玉が家康になったのだとする説があります。ガンダムオリジンでシャア・アズナブルの本物が死んでキャスバルがシャアになるようなものですが、この場合、どちらかといえば替え玉が歴史の重要な部分に登場しまくることになるので、替え玉が本物ということでもいいのではないかというような気もしてきます。他には関ケ原の戦いのちょっと前だとする説もあります。女性に対する好みが変わったというんですね、それ以前の家康は未亡人の女性を好んでいたのですが、関ケ原の戦いの前からは突然、極端に若い女性を好むようになったというのです。女性の好みってそんなに簡単には変わらないのが一般的と思いますが、なんとなく胡散臭いし根拠薄弱というか、必然性のようなものに欠けるというか、イマイチだなあと思わなくもないんです。家康はその後、執拗に豊臣氏をなぶり殺しみたいにしていきますけれど、これが果たして戦国武将の中でも格段に高い教養があることで知られる家康のやることか、との指摘もあり得ますが、今川を武田と協力して滅ぼす時とか、武田を織田と協力して滅ぼす時の様子を考えると、弱いものをなぶり殺しにするのは家康の真骨頂と言えなくもありません。同じようなメンタリティで、多分、穴山梅雪という武田の遺臣も謀殺しています。小早川秀秋も、やはり同じようなメンタリティで、推測ですけど、毒殺しているっぽいですよね。

で、そんな家康なんですが、性格が陰湿というか、日本で一番有名な陰キャ風の性格らしく、非常に用心深くて、保身のためなら嫁さんも息子も殺すような人生を送るような人物ですから、うっかりやられる可能性は極めて低いと思うんですね。なので、大抵の替え玉説は信用できないなあとどうしても思うんです。

ところがですね、ある時、ふと気づいたんですが、家康の死に方って全然、家康らしくないんですね。家康は健康オタクで知られていて、自分で生薬を配合するし、食事だって一口四十八回噛むとか、徹底して長生きのためになんでもやった人なわけです。にもかかわらず、彼の最期は鯛の天ぷらの食べ過ぎで、食中毒を起こして死んだということになっているんですね。もちろん、司法解剖とかできてないですから、本当に食中毒なのか、胃がんなのか、毒殺なのかなんてことは分からないままですが、いずれにせよ、直接の死因が食あたりとかって家康に限って絶対にないと思えるんです。ですから、実は徳川の天下になったので替え玉が不要になったために、食中毒で死んだことにしたか、本当に毒でも盛って殺したかということだったとしても、そこまで不思議ではないような気がするんですね。そう思うと、死んだ時期も怪しいですよね。大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡した翌年ですから、いかにも都合良く、やっておきたい仕事だけやり終えて死んだのように見えるわけですよ。もしも、もしもですよ、本当に1616年に死んだ家康が替え玉だった場合、本物の家康はいつ死んだのかということになりますけど、仮にそうだとした場合、やはり家康は大坂夏の陣で死んだ可能性はあって、それ以前ではないと思うのです。

たとえば家康は徳川幕府を江戸に開いた後、すぐに隠居して駿河城に入り、駿河城から政治の命令とか出しています。二代目将軍徳川秀忠とはある種の二重権力状態になっていて、徳川家臣もどっちが正統な命令権者なのか判断に悩んだという話もあるようですから、駿河城に入っていた家康は間違いなく本物と思います。偽物の家康が本物の秀忠に勝てるわけないからですね。

じゃ、家康が死んだのはいつなのかなってことになりますけど、大坂夏の陣で真田幸村が家康の本陣に突っ込んだ時、家康は自害を覚悟したともいわれているほどですから、本当にぎりぎりまで追い詰めたはずなんですけど、実はそのときに家康は戦死していて、ぶっちゃけ9分9厘徳川勝利で進んでいたわけですから、幸村を殺して家康は生きていることにし、家臣たちがとりあえず戦後処理を終えたと考えるとすれば、それなりに辻褄は合うように思います。

ただ、私のごく個人的な感想なんですけど、家康が日本史に残した足跡は確かに大きいものの、人間的におもしろそうな人かと言えば、超つまらなさそうな人のような気がするので、まあ、わりとどうでもいいと言えばどうでもいいような気もしますが、今、日本史をずーっと下っている最中なので、一応、今回みたいな話題も挟み込んでみました。



豊臣氏滅亡‐最後の悲痛な母子の物語

関ケ原の戦いの後、徳川家康は豊臣氏最高クラスの家臣として、豊臣氏家中の行政を司りました。以前なら年上の前田利家が家康をけん制することもあり得ましたし、石田三成が家康の真意を見抜いて妨害してくることもあったわけですが、この戦いの後は家康に対抗できる武将はいなくなっていました。機動戦士ガンダムで言えば、ララアが死んでアムロに対抗できるニュータイプがいなくなったのと同じような状態になったわけです。ガンダムではアバオアクーへ進撃するわけですが、家康の場合は大坂城を狙うことになったということになります。

で、豊臣氏内部の行政を自由に処理できる立場になった家康が何をしたかというと、彼は豊臣氏領地の解体を始めました。関ケ原の戦いで戦功があったと認められる人物に対し、豊臣領地から恩賞としての土地が与えられたわけです。200万石以上あった豊臣氏の領地は60万石くらいまで削られました。合法的にです。秀吉が織田氏の領地を解体したのと手法としては同じですから、因果応報、親の報いが子に出たとすら思える展開です。

家康は将軍宣下を受けて江戸で幕府を開きましたから歴史的にも稀に見る二重武家政権状態が生まれたと言うことができます。家康は将軍であるため武士としての立場は豊臣氏に対して優越しており、豊臣氏は武士と公家の両方の性格を持っていたわけですが、武士としての豊臣氏には徳川は命令する権利を持っています。一方で豊臣氏は五摂家と同格ですから、極めて高級な公家でもあり、関白世襲ができる家柄ですから、家康が日本人だというだけで、豊臣氏は家康に対して命令する権利を持つという複雑な状態です。筆頭株主が支店長だったりするみたいな、ちょっとあんまり聞いたことのないような状態になったわけです。当時の人々も果たして豊臣と徳川ならどっちが格上なのか判断できないという感じだったのだと思います。

家康は早々に将軍職を秀忠に譲り、自分は駿河城に入って大御所という立場で政務を続けました。二代目将軍を誕生させたことの意味は、徳川政権は世襲するということを全国の武士に目に見える形で宣言したという風に考えられています。で、この二代目秀忠なのですが、非常にいい人なんですね。家康が豊臣を滅ぼそうと狙っていたのに対して、秀忠は東は徳川、西は豊臣で全然OKという穏やかな政権構想を抱いていました。秀忠の奥さんのお姉さんが淀殿で、秀頼のお母さんなわけですから親愛の情を抱いていたのではないかとすら見えます。しかも秀忠の娘の千姫が豊臣秀頼の奥さんになってますから、秀頼の立場からすると豊臣氏はガチの親戚なわけです。家康と秀忠は今後の豊臣氏をどうするかについて相当に意見が食い違っていたようなのですが、なにしろ家康は羊の皮をかぶって実は大狸というのを何十年も続けてきた人ですから、誠実なだけで育った秀忠では勝ち目はなかったのでしょうね。家康は少しづつ、豊臣滅亡のための準備を進めていきます。

家康は一度、成人した後の秀頼に京都の二条城で会っています。秀頼は体格が非常に良く貫禄があったため、家康は秀頼を殺さなくてはならないと決心したのではないかと言う人もいます。この時は関ケ原の戦いには参加しなかった加藤清正が秀頼のサポート役で二条城に入っていました。当時、家康が豊臣氏を潰そうと狙っていることはかなりの人に見抜かれていましたから、加藤清正も石田三成のことが嫌いだという理由で関ケ原の戦いの時に西軍に参加しなかったことを後悔していたに違いないと思います。家康から贈られたお饅頭を見て清正が「私は甘いものが大好物なのです」と言ってお饅頭を全部食べたという話があります。秀頼に毒が盛られているかも知れないので咄嗟の行動だったはずですが、それから三か月で清正は病死していますので、本当に遅効性の毒が入っていたのでは、というような話になるわけです。歌舞伎の題材になっているため、虚実が入り混じっていて、何がどこまで本当なのかはよくわからないというところでもありますけれど。私が清正に言いたいのは、大局を見失ったことのつけはかくも大きいのだ。うつけめ。ということです。このような私の批判は清正本人も同意するはずです。

加藤清正、福島正則、石田三成、前田利家のような豊臣氏を心から守ろうとする人々が次々といなくなり、気づくと淀殿と秀頼の母一人息子一人状態になっており、心細い感じになっていったとは思いますが、豊臣氏は秀吉の遺産がとてつもなく大きく、金銀財宝ざっくざくだったため、あんまり困ったことは起きなかったみたいです。問題が起きたのは方広寺というお寺に秀頼が釣り鐘を寄付した時でした。

方広寺は秀吉が建てさせたお寺で、豊臣氏の氏寺みたいな感じになっているお寺だったのですが、そのお寺に寄付した釣り鐘に、国家安康、君臣豊楽の言葉が彫り込まれていることを徳川サイドが問題にしたのです。釣り鐘には無数の文字が彫られていて、それから文字を拾い出し、国家安康が家康を呪い、君臣豊楽が豊臣政権復活を祈るというこじつけは、よくもまあ、言いがかりにもほどがあると思いますけど、儒学者の林羅山がこれに気づいて家康に伝達し、多分、家康はこんなことで本当にいいのだろうかと思いつつ、GOサインを出したということのようです。こんなことしか批判の材料がないということは、秀頼がいかに誠実かつ正直に生きていたかの証明みたいなものだと私は思います。家康は苦労人で知られていますし、武田氏の遺臣に見せたような寛大な心を持ち合わせていたりもするのですが、豊臣氏に対してだけはひたすら苛烈でした。

家康は大坂城を包囲し、大坂冬の陣が始まったのですが、淀殿と秀頼が大坂城を放棄して郡山城に移転することが講和条件でした。淀殿は拒否し、大坂城への籠城を続けます。秀吉が作った日本で一番攻めにくい城ですから、家康もやりようがありません。昼夜分かたず大砲での砲撃を続け、心理的な揺さぶりを狙いました。ひたすら砲声が響くため、豊臣方は眠れなかったそうです。大砲の音がうるさいのは誰にとっても同じですから、徳川軍でも眠れなかったのではないかと思いますが、それについては誰かが指摘しているのを聞いたことはないですねえ。広大な大坂城に対して、大砲の射程距離が足りないため、天守閣には届きません。豊臣側としては家康の出方を高見の見物していればよく、家康としては兵糧の確保、兵隊の士気の維持などの観点から早く決着をつけたいとの焦りが生まれてくるため、実は圧倒的に豊臣有利な状況で戦況が推移します。ところが一発だけ本丸に砲弾が届いてしまい、精神的に参ってしまった淀殿が講和を求めたのでした。その時の徳川サイドの条件は大坂城の外堀を埋めるという、豊臣氏の無力化を狙う気まんまんな内容でしたから、普通だったら断るべきですが、淀殿はそれを受け入れてしまったんですね。とにかく早く大砲が撃ち込まれない生活がほしかったんでしょうね。淀殿と秀頼の責任については追及しないとの条件も取り決められましたから、それで安心したのでしょうか。

そしてさっそく大坂城の外堀を埋める作業が始まったわけですが、大坂城の内堀まで勢いで埋めようとする徳川サイドと豊臣サイドが衝突し、講和決裂となって大坂夏の陣になります。講和条件を破ったのは徳川だろーが。とも思うのですが、徳川としては、そんなことは知ったことではないわけです。大阪では今でも徳川家康は極めて不人気ですが、それはこのような言いがかりで大阪人のシンボルである豊臣氏をいじめ殺したというのが大きいわけですね。

真田幸村と彼の親友の木村重成は家康本陣に突入し、家康の首を獲ることで逆転勝利という作戦案を考えます。おそらくは信長の桶狭間の戦いのことが頭の中にあったはずです。大坂城の外堀が埋められてしまった以上、外に打って出るしかなく苦肉の策でもあったのでしょうね。幸村は秀頼出陣を要請しました。巨大な大坂城天守閣の前に鎧姿の秀頼が姿を現した場合、1、味方の兵隊の士気があがる。2、実は豊臣氏をいじめ殺そうとしていることへの罪悪感でいっぱいな徳川に味方している諸大名の士気が下がる。3、徳川本体は秀頼の首を狙って正面に殺到する。4、家康の本陣はがら空きになる。といいことづくめなわけですね。もちろん秀頼出陣は実現しませんでした。淀殿は秀頼を一刻も見えないところに行かせたくなかったんでしょうね。形式だけの総大将で安全なところにいますから。と言われたとしても、宮本武蔵だって幼い形式だけの敵の大将を殺して勝利したこともありますから、万が一ってことがありますものね。不安だったんでしょうけど、気の毒なのは、もはや後がない以上、効果がありそうなことはすべてやるべきとの認識を淀殿が持てていなかったことのように思います。淀殿のことは結構、悪く描かれることは多いと思いますけど、少女時代に実家の小谷城が信長に攻められて陥落し、大人になったら嫁ぎ先の大坂城が家康に攻められるんですから、本当に気の毒だと思います。

有名な話ですが、真田幸村と木村重成は別動隊を動かして家康本陣を直接襲撃することに成功しましたが、家康が辛くも脱出に成功し、幸村の作戦は成功しませんでした。本当にぎりぎりだったと言われていますから、秀頼出陣があれば、家康が戦死していた可能性は高かったかも知れません。

結局のところ、そんな風にはならず、大坂城に火が放たれます。大坂城が陥落しつつある中、秀忠の娘であり家康の孫である千姫が大坂城から移送されてきます。千姫は秀頼と淀殿の助命嘆願をしますが、圧倒的勝利を目前にしていた家康は当然のごとくそれを拒否しています。助命の請願が受け入れられなかったため、淀殿と秀頼は徳川軍に包囲される中、土蔵みたいなところで自害します。大野治長が秀頼を介錯し、全てを見届けてから自害したそうです。この場合、徳川軍は外で待っていたわけですが、自害する時間的猶予を与えるのが武士の情けということだったんでしょうね。これで戦いは終わりましたが、全く何も悪いことをしていない淀殿と秀頼親子を殺したのですから、この大坂城包囲戦争は日本の歴史上でも極めて後味の悪いできごとであったと私は思います。

大坂城陥落の後、京都に潜伏していた秀頼の息子の国松がつかまり、斬首されています。国松のお母さんが千姫ではなかったので、家康としても躊躇する理由はなかったのかも知れません。当時八歳だった国松を殺すことは人道からは外れていますが、家康の利害にはかなうわけですね。実は国松は生き延びたのではないかとの都市伝説は確かに流布しました。なにしろ、誰も国松の顔を知りません。ですから別人がつかまって殺されたのではないかというわけです。ただ、私は国松は本人だったろうと思います。というのも国松が斬首される時、国松の身辺の世話をしていた田中六郎左衛門という人物が自らの意思で一緒に斬首される運命を選んでいます。徳川はこの田中さんを殺す必要を感じておらず、逃げてもいいよと言われたらしいのですが、田中さんは一緒に死ぬことを選んだんですね。国松が別人だったら、田中さんはそんなことしませんよね。田中さんが死ぬのも目くらましだという風に考えることも可能ですが、ダミーの国松のために死ねるかっていうことを個人のレベルで考えると難しいと思うのです。ですから、田中さんが進んで命を差し出したわけですから、あのときの国松は、きっと本人だったのでしょう。

長い長い殺し合いの時代がこれで終わり、もっと長い平和な徳川時代が始まります。徳川時代がいかに平和とはいえ、その始まりはかくも血塗られていたとも言えます。合掌です。



関ケ原の戦い‐家康勝利の理由

明治時代、軍事指導のために日本に来たドイツ人のメッケルは、関ケ原の戦いの布陣の図面を見た瞬間、西軍の勝利であると発言したと言います。最近は諸説あって、本当に陸軍大学などに伝わった、古典的な関ケ原の合戦図面が正しいかどうかについては議論がありますが、それでもそこまで大きく実態から離れてはいなかったでしょうし、伝統的に伝わる図面では西軍が家康の陣地を挟み撃ちする形になっていますから、挟み撃ちされたほうが負けるという絶対的な戦いの定理に照らし合わせて、メッケルは迷わず西軍の勝ちであると発言したわけですね。

もちろん、我々は西軍は負けたことを知っています。しかも半日で西軍は総崩れになり壊滅的な敗北を喫したわけです。なぜ、そうなったのか、今回はそれを確認しておきたいと思います。

関ケ原の戦いでは、徳川秀忠の軍が真田の領地で足止めされてしまい、東軍の戦力が整わないままに戦いが始まっています。西軍でも毛利輝元が大坂城の大部隊を連れてこないまま戦いが始まっていますから、どっちもどっちとも言えますが、実は陣地の構成や兵隊の数とは関係のないところで、戦いの結果は決まっていたということができるのです。

というのも、家康は関ケ原の戦いでは、関係者全員を騙す、最後まで騙しぬくとの覚悟を決めて戦場に臨んでいます。そして目論見どおりにみんなが騙されまくって家康勝利になったのです。家康は心理戦で勝利したというわけです。ここで家康がどんな風にだましたのかを見てみましょう。

最大の騙しは、家康があくまでも豊臣秀頼の家臣としての言動を決して崩さなかったことです。これにより、福島正則のような豊臣家への忠誠心が極めて厚い武将を東軍に取り込むことに成功しました。もし家康が秀頼に対して反旗を翻していると考えられたとすれば、多くの武将の支持を失っていたことは違いありません。すでに天下統一がなされた後の時代ですから、誰も戦乱の世に逆戻りしたいとは思っておらず、家康に協力すれば謀反人の汚名も着なければならぬとなれば、みんな嫌がって逃げてしまいます。しかし、家康は関ケ原の戦いを徳川vs豊臣の戦いではなく、徳川vs石田であるとの演出をすることに成功しました。福島正則は石田三成のことが殺したいほど憎んでいましたから、秀頼に反抗するのではない限り、家康の味方についたというわけです。福島正則はこの点について徳川家康に確認する手紙を送っていますから、やはり本心では不安に感じていたのでしょう。まあ、ここは見事に家康に押し切られてしまいました。福島家は戦争が終わった後は言いがかりをつけられてつぶされていますから、ここはかわいそうですが、頭脳戦に負けてしまったというわけです。

次の家康の騙しは毛利輝元に向けてなされたものです。毛利輝元は石田三成に依頼されて西軍の名目上の総大将になり、大坂城に入っていました。家康は毛利輝元に手紙を送り、戦争が終わったら大幅に毛利氏の領地を増やすから、大坂城から動かないでくれと頼んでいます。毛利輝元はそれを受け入れ、大坂城から動きませんでした。

関ケ原の戦いの布陣図を見ると、徳川家康の背後をつくことができる位置に、毛利秀元、安国寺恵瓊、吉川広家の部隊が存在しましたが、この3人は毛利氏の武将なわけですね。家長の毛利輝元が戦争に参加するふりをするだけなのですから、彼らも戦うふりをするだけで本気で家康を攻めるつもりにはなりませんでした。要するに図面の上では西軍が家康を挟み撃ちできる状態でしたが、実際には家康の背後の西軍はやる気がなかったのです。家康の陣地の背後は安全だったというわけです。

戦争が終わった後で毛利は領地を増やしてもらえるどころか領地を削られています。毛利氏はこの恨みを250年忘れず、幕末の動乱の時代にひたすら討幕運動をするわけですから、本当にいろいろなことが因果応報みたいになってます。安国寺恵瓊に至っては斬首されていますから、だまされて斬首って本当に気の毒です。

さて、最後に小早川秀秋ですが、彼は騙されたというよりもいろいろ考えて、西軍を見捨てることにしたわけですが、かといって本当にぎりぎりまで悩んでいたかというと、そうとも言い難いところがあります。というのも、家康とは密約が成立してはいたのですが、その密約の実行を担保するために家康から監視役が送り込まれていました。ですから、秀秋がぎりぎりまでどっちが勝ちそうなのか旗色をうかがっていたというのは、後世に脚色されている可能性があります。とはいえ、もし本当に家康が負けそうなら、家康から送られてきた監視役なんて殺してしまえばいいわけですから、やはり戦場で家康有利と判断したというのはあるでしょうね。また、小早川秀秋には、あまり秀頼に肩入れする義理はなかったんです。もともと秀秋は将来、秀吉の後継者になることを期待されていた時期がありました。秀秋は秀吉の妻のねねのお兄さんの息子として生まれ、幼少期に秀吉の養子になりました。秀吉とは直接の血のつながりがなかったものの、当時、秀吉の姉の息子である秀次が秀吉の後継者と目されていて、秀次にもし何かあれば、秀秋が後継者になると見られていたのです。

ところが秀頼が生まれてきます。秀次は殺され、秀秋は小早川家に養子に出されました。秀秋の場合、まだ養子に出されただけで済んでよかったとすらいえますが、秀頼が生まれてきたおかげで、豊臣氏から冷遇されたわけですから、秀頼に対して処理しきれない感情があったに違いありません。ですから、家康から甘い言葉で誘われると、だったらそうしようかな。という揺れる気持ちが常にあって、そこを家康に付け込まれたとみるべきかも知れません。関ケ原の戦いが終わって2年ほどで病死していますが、20代の若者で、一番健康な時期ですから、毒殺のような気もしてしまいますが、いずれにせよ裏切者にはろくな未来がないようです。

さて、石田三成はどうすればよかったのでしょうか?実は三成は秀頼の出馬を狙っていたようなのです。もし、秀頼が戦場に出てきて、後方でいいので座って戦いの行く末を見守っていたとします。もちろん、秀頼を擁立しているのは石田三成ですから、果たしてどちらが正規軍は明らかになります。徳川家康の味方をすれば、謀反人扱いされてしまうわけですね。福島正則は反転して家康を狙ったでしょう。その状態で毛利輝元だけ大坂城にこもっているわけにもいきませんから、秀頼の隣に毛利輝元が座るという図になります。その場合、家康の背後の毛利の兵力が家康に襲いかかることになりますから、西軍勝利は間違いなかったでしょう。家康は殺されていたはずです。

豊臣氏が滅亡したのは、家康が様々な陰謀を巡らせたからですが、秀頼を外に出す勇気を淀殿が持っていれば、後の悲劇を回避することは十分可能なことだったと思います。陰謀はしょせん、正面切った、正々堂々としたものに対抗することはできないのですから、もし、淀殿と秀頼の母子に同情するとすれば、この時に出馬していれば…ということを悔やんでしまわざるを得ません。

というわけで、次回は豊臣氏の滅亡の話になります。



石田三成襲撃事件

豊臣秀吉が亡くなった後、豊臣家臣の間での対立が激しくなっていきます。「対立」と言うよりも、憎悪のぶつかり合いと呼んだほうがいいかも知れません。対立の主軸になったのは、加藤清正や福島正則を中心とする豊臣家武闘派家臣のグループと、石田三成や小西行長のような文系官僚タイプのグループによるやはり利害関係というよりは、感情的な対立と呼ぶべきものが表面化していきました。

加藤清正派も石田三成派もどちらも秀吉子飼いの武将であり、幼少年期から一緒に育ったような間柄なのですが、それゆえに感覚の合わない者同士、憎悪の深さも半端なかったらしいのです。

特に朝鮮半島での戦争の時は、石田三成のような文系官僚は輸送などのロジスティクスを担当し、秀吉に視察の結果を報告する役割を担った一方、清正は前線で体を張ったわけですが、自然、三成が秀吉にどのような報告をするかで、いろいろなことに違いがでてきます。今でも人事査定は誰がやるかで違いが出ます。まあ、そのようなことだと思えば、小さなことの積み重ねでついにゆるせなくなってしまったと加藤清正の感情が理解できないわけではありません。また、まじめに仕事をこなしただけの三成が、なぜ憎まれるのか、知るかそんなこと、迷惑な。と思ったとしても全く理解できないわけでもありません。要するにどちらにもそれなりの理があるということになります。

前田利家が生きている間は、まだ双方に対する置石みたいな役割を担うことができていて、対立の暴発を押しとどめることができていたようなのですが、前田利家が死ぬと、もう止まらないとばかりに加藤清正や福島正則たちが軍隊を組織して大坂の石田三成の屋敷を襲撃しようと動き始めます。

察知した三成は急ぎ伏見へと逃げるのですが、清正たちは伏見へ追っていき、遂には伏見城を包囲するという事態まで発展します。このとき、三成は伏見のいずれかの場所にいたはずですが、一説には伏見の自分の屋敷にいたともいわれますし、他には徳川家康の屋敷にかくまわれたともいわれています。真実はどうかはわかりませんが、徳川家康にかくまわれたとしても不思議ではありません。

というのも、当時の徳川家康は豊臣家臣の頂点である五大老の一人として伏見城で政務をこなしていましたから、要するに伏見城とその城下は家康のテリトリーであり、家康としては伏見城界隈で加藤清正と石田三成が個人的な恨みを理由に殺し合いをすることは止めさせる必要がありますから、家康が宿敵三成をかくまったとしても、家康の立場なら十分にあり得るのです。仮に家康の屋敷ではなく、伏見城内にかくまわれたのだとしても、家康の意思が働かなければ三成はかくまわれませんから、家康が三成を助けたという構図に違いはないのです。

当時、前田利家がいなくなった後では、家康の天下取りの構想を押しとどめるものはいませんでした。秀吉は大名が個人的に訴訟を取り扱ったり、婚姻関係を取り扱ったりすることを禁止すると遺言しましたが、家康はそういうのは無視して自由に動き始めていました。豊臣政権が家康に乗っ取られるとの危機感を持った石田三成とはすでにバチバチの対立関係にありましたから、事実上の敵同士でありながら家康が三成をかくまうというところに歴史のおもしろさがあるとも言えると思います。

加藤清正や福島正則は家康に説得されて石田三成を殺害することをあきらめます。石田三成もそのまま佐和山城へと帰り、引退の身になりますから、まあまあ、痛み分けといったところかも知れません。関ケ原の戦いが起きた時、加藤清正は九州の領国にいて動きませんでした。福島正則に至っては東軍に参加し、その先鋒になっています。

加藤清正と福島正則は石田三成同様に豊臣氏に絶対の忠誠心を持っていたことは確かなようなのですが、三成とは違って家康の野心に十分に気づくことができず、家康の老獪な手練手管で骨抜きにされてしまい、豊臣氏を守ることができなかったことを思うと、なかなか残念な家臣たちのようにも思えます。あるいは、家康の野心に気づかないわけではなかったけれど、三成への憎悪が優先してしまい、三成が采配を振る西軍には参加しようとしなかったというわけですから、彼らの大局を見る目のなさは気の毒なほどです。

福島正則は関ケ原の戦いの直前に家康にあてて出した手紙の中で、家康がこの戦いに勝った後も豊臣秀頼に対して反逆しないよう約束してほしいと求めています。家康はいくらでも約束したでしょうが、そのような空手形みたいな約束にすがりつつ、彼は結果として主君筋の豊臣氏を滅ぼすのに一役買っていたわけです。

加藤清正も福島正則も家康が天下をとったあとでいろいろ理由をつけられて家をつぶされています。だいたい、本来西軍につくのが筋な武将で東軍の側について長持ちした大名家はほとんどありません。やはり、そういうタイプの武将は家康からすれば敬意を払う対象ではないので、つぶしていいやと思うのではないでしょうか。小早川秀秋なんかもそうそうに不審な病死を遂げています。

武田勝頼が滅ぼされたときに、穴山梅雪が徳川家康に協力して武田氏を裏切っていますが、ほどなく不審な死を遂げています。家康は実家が弱小なので相当な苦労をした人ですし、三河武士の忠誠心以上の宝はないと気付いていたでしょうから、そのあたりがの倫理がちょっと怪しいやつには容赦なかったように思えます。

さて、石田三成は一応は家康のおかげで命拾いし、佐和山城で関ケ原の戦いのための構想を練ります。誰を引き込み、誰が裏切るかというようなこと、どこで決戦するかというようなことをいろいろと考えたと思います。現代風に言えば自民党総裁選挙の票読みみたいなことだったのだろうと思いますが、当時は負ければ殺されますからもっと真剣なものだったかも知れません。

しばらくしてから家康は会津地方の上杉氏を討伐するという理由で上方を離れて出発します。石田三成は上杉氏と気脈を通じて家康の出撃をうながしたわけですが、家康も自分が上方にいない間に三成が挙兵するであろうことを知った上で三成の動きを見つめいました。双方、分かったうえで、それぞれに騙されたふりをしつつ、だましあうという心理戦、駆け引きを経て、戦国日本の最終決戦である関ケ原へと突き進んでいくことになります。



秀吉の朝鮮出兵を知るとわかる、友達にしてはいけないタイプの男-小西行長

天下統一をなしとげた秀吉は、次の目標として東アジア制服を計画するようになりました。この段階ですでに秀吉はご乱心状態だったとみるべきですが、天下統一をしてしまった後で、武将たちももう戦争とかやるのが嫌になってきていましたから、どうでもいいからとにかく豊臣政権で行こうよ、という空気もあって、しかもみんなが空気を読んだものですから、秀吉ご乱心でも豊臣政権は続きました。

で、秀吉の計画では、明王朝を征服したのちに、当時の後陽成天皇には北京にお引越しいただくという壮大なもので、東南アジア各地の王様にも服属命令の手紙を出してますし、朝鮮半島の李王朝には、北京までの道先案内人をするようにとの要請の手紙を出しています。東南アジアから返事が来なかったのはもちろんことですが、朝鮮の李王朝からもはっきり断られたものですから、秀吉はおかんむり、激おこぷんぷん丸になってしまって、朝鮮半島を武力で征服すると決心してしまいます。

で、諸大名も秀吉様の新たなドリームにおつきあいしなくてはいけなくなったわけで、福岡にお城をつくって前線基地とし、諸大名を集めて、パーティやりながらじっくり長期戦ということになりました。

このとき、朝鮮半島で実際の戦争をしたのが加藤清正と小西行長です。加藤清正は武闘派タイプでソウル・ピョンヤンどころかさらに北上して満州地方に入り、満州族と交戦したと記録されています。極めて旺盛な戦闘意欲を持っていたらしく、虎を退治したなどの話も残っています。

一方の小西行長は実家が商人ということもあって、戦闘行為そのものよりも、戦闘を支えるロジスティクス、要するに兵站の方に関心があって、商人ですから、そういうことにも長けていて、物資の輸送や敵との交渉に才能を発揮していったみたいです。

で、武闘派の加藤清正からすれば、正面切って勇敢に戦うわけではない小西行長に対して非常に悪い感情を持つようになったそうです。小西行長の方も加藤清正のことは嫌いだったみたいです。二人の性格や肌合いはあまりにも違いすぎたというわけですね。小西行長は、同じく文系タイプの石田三成と仲が良かったですから、後の関ケ原の戦いと、朝鮮半島での秀吉家臣の武将のいざこざは陰に陽に影響しています。

加藤清正がいけいけどんどんで北へ北へと攻め進んでいった一方、小西行長は平壌まで来たところで動きを止め、李王朝及び明王朝との交渉を始めようとしています。このあたりの事情は遠藤周作さんの『鉄の首枷』という作品に詳しいですが、小西行長はどのみち秀吉が北京を征服することなんかできっこないと見定めた上で、和平交渉を行い、戦後の主導権を自分が握るというなかなかこすい考えを持っていたようなのですね。なぜこすいのかというと、現場が独自の判断で戦略を立てるようになってしまうと、後方の指令基地と必ず齟齬が生まれるため、戦争そのものがガタガタになってしまうからなんです。

それでも小西行長は独自路線を突き進みました。で、ついに和平交渉の使者が日本へ送られるところへと漕ぎつけます。小西行長は明王朝・李王朝に対しては豊臣秀吉が降伏するということで使者を出させ、秀吉に対しては戦法から降伏の使者が来ますと伝えることで、要するにどちらも自分たちが勝ったと思わせることで戦いを終わらせようと画策しました。途中で行長の打算に気づいた清正が慌てて帰国して、その和平交渉に異議あり!と言おうとしましたが、一歩間に合わず、和平交渉が進んでしまいます。ところが、秀吉を日本国王に任ずるとの文言が出てきたので、あ、これは明の冊封体制に入れられるんだな。あれ?なんで?日本勝ってないの?と日本側が気づきすべてが台無しになります。秀吉も小西行長に騙されていたことに気づき激怒しましたが、行長は特に罰せられることもなく、朝鮮半島の戦争が再開されました。

小西行長は李王朝側に加藤清正の動きを細かく伝えるようになります。まるでスパイです。当初は李王朝サイドも、まさか小西行長が加藤清正をはめようとしているとは思いませんでしたから、日本側からもたらされる情報は嘘なのではないかとの疑いを持ったようなのですが、いつも正確な情報が届くため次第に信用するようになったそうです。これってどういうことかというと、小西行長は加藤清正が戦死すればいいのなあと思って、どうも先方に情報を流していたらしいんですね。こんなことで殺されたら加藤清正としてはたまりませんよね。途中で加藤清正もこのことに気づき、これで両者の反目は決定的になったらしいです。

私、思うんですけど、小西行長みたいなタイプを友達にするのだけは絶対に避けるべきだと思います。中学とか高校で、こういうタイプに出会うと、たとえば自分の秘密を話すと、他の人に言って歩きかねません。密かに裏切るタイプですから始末に負えません。そうだと気付けばすぐにでも手を切るべきタイプだと思います。加藤清正もそうしたかったのかも知れませんけれど、同じ秀吉の家臣というポジションですから、なかなか完全には手を切れなかったのでしょう。

朝鮮半島の戦いの後半戦では蔚山の戦いが行われ、加藤清正が籠城して非常に困難な戦いを強いられました。のちに秀吉が報告を聞いて、武勇が足りない!みたいな感じで関係する武将たちが叱責されています。加藤清正は秀吉に余計な告げ口をしたのは石田三成だと考えるようになり、豊臣家臣は加藤清正を中心とする武将グループと、石田三成や小西行長を中心とするお奉行様系グループに分断されていきます。これが家康につけいるすきを与えることになっていったのでした。

朝鮮半島の戦争は秀吉が死ぬまで続きましたが、秀吉が亡くなると停戦になり、本物の和平交渉へと外交の課題が変わっていきます。もともと日本が朝鮮半島で戦争しなければならない理由はなかったため、秀吉がいなくなればあっさり停戦が成立したというわけです。徳川幕府はこのような負の遺産から李王朝との外交を始める必要があったため苦労が多かったようです。李王朝からすれば、一方的に被害にあったため、簡単には妥協してくれないとか、そういうこともあったと思います。

朝鮮半島での戦争は歴史のあだ花のようなものでしたが、ここで様々な人間関係が決まっていき、状況は関ケ原の戦いへとなだれ込んでいきます。



秀次事件‐秀吉の乱心

秀吉の姉の息子さんに秀次という人がいました。近代以前は血縁が極めて重要ですし、今でも親戚が出世したら頼もしいものですが、当時のことですから、親戚のおじさんが天下統一をした武将で関白にまでなったのなら、自分は何も努力しなくても素敵な人生が送れると期待してしまうものです。ところが豊臣秀次に限っていえば、それは仇になりました。彼と彼の家族の命を奪う結果になってしまったのです。なぜ、そのようなことになったのか、手短かにご説明しましょう。

そもそもの要因は秀吉に男の子ができなかったことにあります。実際には秀吉は生涯で男子を3人得ていますが、うち2人が早世してしまい、自分の直接の子孫を後継者にすることをあきらめた秀吉は、姉の息子さんの秀次を後継者に指名して関白にも就任するのですが、なんとそこまで来て、淀殿が秀頼を出産します。よくある後継者争いの悩ましいところにはなるのですが、実におそろしいことに、秀吉は秀次を殺すことで問題を解決しようとします。1595年6月、秀吉は秀次が謀反を計画していると主張し始めました。秀吉は秀次を呼びつけましたが、秀次の方はすぐには参上せず、どちらかと言えば自分は何も悪いことをしていないのだから、慈悲を請う理由すらないというような姿勢で事態に臨んでいたようです。ところが秀吉から再三の参上の命がくだり、秀次はやむを得ず伏見城の秀吉のもとへ行きましたが面会できず、高野山へ入るようにとの命令だけが届きました。秀次はそれを受け入れて剃髪し、高野山へ向かいます。これで一生お坊さんの身になるのであれば、それも受け入れるとの姿勢を示したと言えるでしょう。

おそらく、謀反の疑いがあると言われた当初は反発心が湧いたものの秀吉に対抗して勝てるわけがないと観念し、以上の過程のいずれかの段階で、すべて秀吉の言うがままにすることにした、いろいろな意味で秀次があきらめたのだろうと思います。

高野山に入ってからも秀吉からの使者として福島正則がやってきて、遂に切腹の命令がくだされます。秀次をかばうお坊さんもいたようなのですが、もはやこれまでと秀次は秀吉の命を受け入れ、お小姓さんたちとかが殉死したそうです。想像するに大勢の人々、お坊さんとか、福島正則みたいな秀吉から派遣された監視役とかが見守る中、順番に殉死していったのかと思うと、その壮絶な死のセレモニーに戦慄せざるを得ません。そして、高野山で殺生を強制したという事実が、私はキリスト教の洗礼を受けていますので、仏教の因果応報とか、そんなに真剣に信じているわけではないですけれど、やはり、後の豊臣氏に降りかかった惨劇を招くことになったのではないかというようなことをついつい思ってしまいます。

このようにして秀吉の本当の甥である秀次は命を失いましたが、事態はそれで終わりませんでした。秀吉は秀次の家族を全員根絶やしにすることに決めたのです。本当に阿鼻叫喚というか、当時の人々も秀吉の過酷さに対して厳しい目を向けたに違いないですし、秀吉がなぜそこまでやるかと言えば、秀頼を自分の後継者にするために、要するに私利私欲で何も悪いことをしていない人たちをまとめて殺すというわけですから、誰一人、心情的に秀吉の側に立つ人はいなかったのではないでしょうか。だからこそ、後に淀殿と秀頼が家康に追い詰められたときに、十分な援助をしようとする武将をあまり得ることができなかったのではないかとすら思えてきます。

秀次の子供たち、その母親たち、乳母、側室、侍女など39人がことごとく同じ日、同じ場所で殺害され、現場はそれは凄惨な様相を呈していたと言われています。そりゃ、そうでしょうね。あまりに残酷すぎますから。しかも、繰り返しますが、秀吉の私利私欲のためなんです。

秀次と関係者一同がこのように根絶やしにされているとき、秀吉は朝鮮半島と戦争状態にありました。正確には秀吉が侵略戦争を始めていて、秀次が死んだときは、和平交渉が行われてはいましたが、それはのちに決裂して第二次出兵につながっています。

当時の秀吉は誰も戦争したいと思っていないのに、朝鮮半島に大量の軍隊を送り込んで不必要な戦争をし、国内では甥とその家族を殺しつくすということなわけですから、はっきり言って常軌を逸しており、乱心していたとみるしかありません。

私は豊臣政権に対する人望が失われていったことが、家康につけこむ隙を与えた遠因の一つなのではないかと思っています。たとえば天下分け目の関ケ原ですが、誰もが豊臣だけが日本の武士を号令できる特別な家柄なのであって、家康はそうでもないと思っていれば、あのように天下が二分されないと思うのです。家康は表面上、豊臣の家臣としての言動を保ってはいましたが本音ではそうではないということを誰もが気づいていました。それでも家康の側につく武将があれだけ大勢いたというのは、単に家康の策略のうまさだけで片付けられることではなく、やはり晩年の秀吉のことを誰もが批判的な目で見ていたために、どうしても秀頼と淀殿を守ろうとする心理的なアクセルを踏み込めなかったということもあったのではないかと思えてなりません。

私、だいぶ秀吉に対しては批判的です。天下統一後の秀吉は主君の権力を解体し、お茶の先生を切腹させ、甥っ子を切腹させ、外国を侵略しているわけですから、このような人物に理解を示すことはできないというか、どうしても好きになれません。子供のころは太閤記とかも読みましたけれど、美化されすぎていて読み返したいとかも思いませんね。明治政府ができたときに、徳川政権への回帰運動を封じ込めたいといの考えから、豊臣政権を持ち上げる言説が生み出され、それによって秀吉はかなり美化された部分がありますが、最近のドラマや映画ではそうでもないようです。やはり時代によって歴史的人物に対する評価は変遷するものなのですね。秀頼と淀殿には非常に同情していますから、家康による大坂城包囲戦に関する回になったら、今度は豊臣氏に対して同情的な内容になると思います。

今回は秀次とその家族の方々に同情した内容でした。日本史を改めてたどっていくこのシリーズもだいぶ来ました。近代まであと少しです。



秀吉と利休

堺の商人の息子である千利休は大人になってからお茶の神様みたいな存在へと変貌していきましたが、そうなっていく過程に於いて織田信長のことを語らないわけにはいきません。利休が政治の世界に登場する第一歩は、信長が堺方面を手中に収めたことをきっかけに、信長のお茶の家庭教師になったことと関係があります。もうちょっと踏み込んで言うなら、利休は信長のお茶担当官僚であって、信長にお茶を教える一方でお茶会を管理監督し、信長の社交を支えたのだと捉えることもできると思います。お茶顧問とも言えるかもしれません。

今でもお茶を飲んで人と交流することは普通の行為ですが、それを教養や芸術の域にまで高めて緊張感を持たせることにより、交流しつつ自らを高めるという非常に興味深い分野へと昇華させていったのは利休であると言われています。

利休本人の芸術性のようなことに関しては、三千家のような非常に格式の高い方々が継承し、研究されていますから、私がここで偉そうなことは何も言えません。

今回の主たるテーマは秀吉と利休です。

信長でお茶の家庭教師をしていた利休は、信長が本能寺の変で倒れた後、秀吉のお茶顧問になります。秀吉にパトロンになってもらいながら、利休は茶道具の開発に力を入れました。その活動は評判が評判を呼び、利休が認めた茶器にとてつもない高値がつくという現象が起きたことはつとに知られています。利休が商人の息子であるということと、このような新しいビジネスを生み出したということは、あるいは関係があるのかもしれません。私は経済が発展した現代に於いて、ビジネスが生まれることはいいことだと思いますが、当時はまだ経済に対する考え方が現代ほど整備されていないので、もしかすると眉をひそめる人もいたかもしれません。野上弥生子さんの『秀吉と利休』という作品では、冒頭で利休がそろばんを弾いています。これは、芸術家としての利休だけではなく、金銭的な利益に敏感な利休の姿も描こうとしたわけであり、芸術性とビジネス性の両方の面を見なければ利休を知ることはできないとの作者の考え方があらわれているのだと思います。

正親町天皇と秀吉の茶会を仕切ったり、秀吉が京都に築いた聚楽第の中に居住したりと、彼は秀吉の取り立てによって商人としてはほとんど極限と言えるのではないかと思えるほどの出世道を歩きます。極めて成功した人生でした。正親町天皇と秀吉の茶会では、有名な黄金の茶室が用いられています。

有名な話ですが、秀吉の弟の秀長が、九州の大大名である大友宗麟に「公式な要件は私に言ってください。ちょっとプライベートな要件の場合は利休に相談してください」と言ったという話があります。利休はそれだけ、秀吉の個人的な心の隙間に入り込んでいたということが想像できます。おそらく利休と秀吉は共依存の関係になっていたのではないでしょうか。遠藤周作さんの作品では、大友宗麟と利休が対面したとき、利休の表情がほんのわずかにゆがむことで、内心、彼が秀吉を見下しているらしいという含みを持たせる場面が描かれています。『王の挽歌』という作品です。

後に利休は秀吉によって切腹させられるわけですが、その原因は未だによくわかっておらず、利休の秀吉に対する軽蔑が、その底流にはあったのではないかとの推測から遠藤周作さんはそのような作品を書いたのだと思います。

さて、ここからは秀吉と利休がどのように仲たがいすることになったのかということについて、考えてみたいと思います。私は利休の弟子である山上宗二の死と関係があるとみるべきなのではないかなあと思います。山上宗二は利休の弟子の中でも極めてランクが高かったそうなのですが、秀吉と口論になり、追放されています。宗二は前田利家のところへ行き、ついで小田原へ行って北条氏に仕えるのですが、秀吉が天下統一の仕上げのために小田原へと来たことで、まるで腐れ縁みたいに両者は再開することになります。

利休が秀吉に宗二と面会するように頼み、その場で彼を赦免してほしいと期待していたのですが、秀吉と宗二は再び口論になり、激高した秀吉の命によって宗二は殺されたのでした。宗二は秀吉のことが嫌いだったのでしょうね。推測ですが、秀吉が織田氏の政権を簒奪して天下統一に動いていたことは誰もが知っていることです。ですから、当時の政治の動きをよく知る人であれば、秀吉に対して批判的な目を向けることは十分にあり得ることです。おそらく宗二もそうだったのではないでしょうか。秀吉もそういう目で見られていることはよく知っていたはずですから、宗二の批判的な目に過剰に反応してしまい、殺してしまったのかもしれません。

このようなことは利休にとって深い心の傷になったに違いありません。なぜなら、たとえ口論になったとしても、それを理由の殺すなどということは人の倫理として受け入れることはとてもできないからです。戦国の武将たちは互いに殺し合いましたが、そこに大義名分があったり、そうせざるを得ない深い理由があったりして、戦いにも作法やルールがあります。飽くまでも武将たちの事情によって戦争が行われていたのであって、武将ではない宗二が、犯罪をおかしたわけでもなく、単に口論したというだけで殺していいということには、たとえ戦国の世であっても、それでいいということなるわけがないのです。ですから、利休の心中としては、秀吉にはパトロンになってもらって世話になってるから、感謝もしているけれど、だけれど、そんな理由で自分の大切な弟子を殺した秀吉を心理的にゆるす気にはどうしてもなれなかったのではないでしょうか。

ですから、記録には残ってはいませんけれど、利休は秀吉を二人きりのときに批判するということもあったかもしれません。あるいは、芸術論議の中にさりげなく皮肉や嘲笑を交えて秀吉を侮辱し、ついに秀吉はそれに耐えられなくなったのかもしれません。秀吉は利休に受け入れてもらえないことへの苦しみがおかしな形で爆発し、利休に死を命じることになったのではないかと思えてなりません。

山上宗二が死んだ次の年に利休は切腹させられていますが、秀吉が利休に切腹を命じた理由として、大徳寺の山門に利休の木像が置かれて、大徳寺を参拝する人は利休の像の足の下をくぐらなくてはならなくなったから、とか、いろいろな茶器に高値をつけて暴利をむさぼったからとか、秀吉の朝鮮出兵に反対意見を持っていたからとか、いろいろ言われていますが、どれも切腹させるようなことではありません。こじつけや言いがかりの類であり、むしろそんな話しかないということが、利休は何も悪いことをしていないということを証明しているとも言え、秀吉との心理的ないさかいに要因があったのであろうと推測することがもっとも理にかなった解釈なのではないかと思えます。

後に徳川家康は、豊臣秀頼が奉納したお寺の鐘の文言に問題があるとして、要するに言いがかりで大坂城包囲戦を行い、豊臣氏を滅亡させました。歴史のめぐりあわせの皮肉さを思わずにいられません。