満鉄調査部事件とゾルゲ

一般に、ゾルゲ事件はよく知られている。同盟国ドイツからやってきた大の親日家として名が通り、日本の名士たちの間でも信頼を勝ち得ていたゾルゲが、実はソビエト共産党のスパイだったということが分かり、逮捕され、死刑の判決を受け、執行された一連の事件だ。

この事件と並行するようにして満州国で関東軍の憲兵隊が捜査を進めた同様の事件に、満鉄調査部事件というものがある。ゾルゲ事件と満鉄調査部事件は尾崎秀実という人物を通じてつながっている。戦争が終わるときに、ソ連軍が満州国の憲兵隊の資料を押収し、そこにゾルゲ事件関連の記述を見つけたと言うことからも、ゾルゲ事件は日本と満州をつないでいたことは分かるだろう。

で、今回の主題は満鉄調査部事件の方がメインだ。満鉄調査部はもともと、後藤新平が、台湾で調査組織を作ったことの経験から、満州でも同じことをしようと思って始めたのがきっかけで生まれたものだ。後藤新平は児玉源太郎に説得され、台湾の民政局長から満州鉄道総裁に栄転し、満鉄調査部を作ったというわけだ。長い歴史があるため、組織の人物や主な仕事などは紆余曲折があり、私もまだいろいろと手を付けることができていない部分もあるのだが、満鉄という国策会社のシンクタンクとして機能し、関東軍とも連携しつつ、関東軍とは張り合ってもいた。意外だが、満鉄は関東軍よりも権威ある組織として認められていて、必ずしも関東軍の言いなりになっていたわけではないらしい。傍若無人で知られた関東軍からすれば、満鉄はなんとなく嫌な連中の集まりに見えたかも知れない。というのも、満鉄の方が歴史が長いのだ。満鉄は日露戦争が終わってすぐに設立されたが、関東軍の設立は第一次世界大戦が終わるまで待たなくてはならない。その差が、権威の差として敗戦まで残った。一方、権力は言うまでもなく関東軍の方が強かった。そのねじれた感じもある種のひずみを生んだのかも知れない。

関東軍憲兵隊は、満鉄調査部の中に共産主義者が紛れ込んでいるのではないかとの疑いを抱き、内々に捜査を進め、満鉄調査部の職員たちを二度にわたり大量逮捕するに及んだ。取り調べが行われ、裁判にもかけられたが、獄中死を迎えた人たち以外は執行猶予がついた。全員に執行猶予がついたということは、関東軍が充分な証拠固めをできていなかったことをなんとなく匂わせるもので、今でも関東軍による満鉄憎しの感情が先走った自作自演的事件ではなかったかとの疑いは晴れない。

とはいえ、満鉄の嘱託として日本で働いていた尾崎秀実は、本当に共産主義者で、しかもスパイだった。思想弾圧や政治弾圧はあってはならない。共産主義者だというだけであれば、政治犯であり、現代の日本には政治犯は存在しないため、尾崎がそのことで死刑になったとすれば、事態が重大すぎ、そのようなことも時にはあるさ、などと気楽なことを言うことはできない。尾崎は更にゾルゲのスパイ組織に参加していた。満鉄調査部への捜査が進むうちに尾崎の名が上がったのであろうとの推測は成り立つが、その点についてトレースできている研究を見たことがないし、書類があまり残っていないので、不可能なのかも知れない。なので、多くの想像や類推、憶測を呼んだし、今後もそうだろう。私の今回のブログ記事もその手の文章の一つということになる。スパイだからといって死刑も考え物である。現地の戦場でスパイがいたら、すぐに仲間の生死にかかわるため、これは重大問題になると思うが、ゾルゲ・尾崎のスパイ組織は、長い目で見て日本帝国に影響力を発揮し、ソ連と戦争しないように仕向けようとする地下政治団体の性格も強いため、やはり死刑は重すぎるのではないかとも思える。ゾルゲ・尾崎の話題はどうしても暗くなる。

ゾルゲ事件という重苦しい副産物を伴ってはいるが、満鉄調査部事件そのものは、どうってことはなかった。実態のない事件だった。獄中死した人は本当に気の毒だし、獄中死の責任は関東軍にあると思う。責任者はどうしたのだろうか。シベリアに抑留されたのだろうか。因果は巡るのかも知れない。

起承転結の少ない内容で申し訳ないのだが、備忘のめに付け加えることにした。



宮澤賢治‐図書館幻想

宮澤賢治の『図書館幻想』は、500文字あまりの掌編ながら、宮沢賢治の世界観をよく表していると言えます。彼の作品は、たとえば『注文の多い料理店』のように、時にややグロテスクです。また『銀河鉄道の夜』は友愛や家族愛を描こうとしていますが、むしろその限界に注目しており、冷静になって読み返せば残酷な物語であるとすら言えます。そういった要素が『図書館幻想』には盛り込まれています。大した筋はありません。500文字ですから。教訓があるのかとか、主張があるのかとか言えば、何もなさそうにすら思えます。ただ、そこには宮沢賢治という稀代の書き手の心の中の世界が存在します。それはただ、存在しているだけであり、意味があるのかないのかすらよく分かりません。しかし、このような世界の存在が好きな人にとっては、たまらなく素晴らしい世界ではないかと思います。私個人としても嫌いではありません。不思議で興味深い世界です。宮澤賢治の作品の特徴として、ところどころに自然科学の知識が入れ込まれているということがありますが、この短い作品でもそれは貫かれています。宮澤賢治らしいと言えるでしょう。人の愛を描く前に、どうしても物理を書きたくなるのが彼の本当の姿だったのではないか、私は今回、この作品を朗読してみて、そのように思いました。一つの作品を朗読するためには、何度か練習をします。練習を重ねる過程は、作者との対話のようなものです。なぜここに句読点があるのだろうか、どうしてこの単語を選んだのだろうかというようなことを考えながら朗読の練習をします。そうすると、作者の息遣いのようなものが感じられ、書き手の心の中に少し触れることができるように思えます。小説やエッセイを読む際、作者の心に触れることほど贅沢な読書経験はないかも知れません。下に朗読動画を貼っておきますので、ご関心のある方はどうぞ聴いてやってください。最近、体調不良が続き、舌の呂律がやや不安定です。申し訳ありません。




坂口安吾‐復員

坂口安吾の掌編小説『復員』は、終戦間もないころに朝日新聞に掲載された傑作だ。安吾の最も著名な作品である堕落論とも通底する問題意識を、非常に短い、原稿用紙一枚以内の長さで端的に表現している。

物語の内容は簡単だ。ある男が復員してくる。彼は片手と片足を戦争で失っていた。家族や友人たちは、帰ってきたその時こそ、ちやほやしてくれるが、それ以上、あまりかかわろうとはしてくれない。家族にとって彼のような復員兵は働くこともできないただの厄介者でしかない。彼には恋人がいた。恋人に会いたいと思った。家族に話してみると、その女性は既に結婚しているし、そもそも厄介者のお前がガールフレンドのことを気にかけるなんて、ちょっと立場が分かってないんじゃないのか?というような表情をされる。結婚しているという話にもショックを受けるし、家族も全然同情してくれないことにもどかしさを感じる。そのような消化不良な感情もしばらくすれば少しは落ち着いてきたので、彼は会いに行くことにした。彼の内面では、どのみち彼女も長い目では自分とかかわろうとしてくれないであろうことはわかっている。しかし、会いに行ったその日だけはちやほやしてくれるのではないかというある種の下心がうごめいている。短い時間だけでも昔のガールフレンドにちやほやされれば、少しはいい気分になれそうだという刹那的な下心だ。実際に行ってみると、彼女はもっとそっけなかった。冷たくはされなかったが「よく生きて帰ってkたわね」とあまり感情のこもらない感じで言われた。彼女には赤ちゃんがいた。彼が戦場で死んでいようと生きていようと、子どもは生まれてくるという事実を知った彼は、かえっていろいろなものがふっきれて、むしろこれからの人生を生きるエネルギーが湧いてくる。というような物語だ。

帰ってきた時、彼には甘えがあった。お国のために片手片足を失ったのだから、みんな、俺によくしてくれよという甘い期待があった。それは打ち砕かれた。彼にはそれは理不尽なことのように思えた。彼はある種の自暴自棄の心境になり、過去のガールフレンドに会ってその自暴自棄さを深める、ある種の自傷衝動のようなものに突き動かされて、要するに自己嫌悪を確かめるために彼女に会いに行った。しかし彼女は彼が立ち直るために最も必要なものを提供してくれた。それは、あなたが戦場で手足を失うほどの重傷を負ったとしても、この世は回っているのよという冷然たる事実だった。彼はその事実を受け入れることにより、当初抱いていた甘えをかなぐり捨てて、そのぶん、人間的に成長する。そういう物語だ。わずか400文字程度で、人の成長の一側面を描いたのである。敗戦と重傷と失恋の合わせ技だ。安吾は想像を絶する才能の持ち主だ。私はふと、やはり女は男を成長させるという気になった。過去のガールフレンドではあるが、その男に最も必要なものを、適切に見せてくれたのである。女の人はやっぱりすごい。

安吾は後に堕落論を書くが、これはこの掌編小説と同じ問題意識を持っている。日本は負けた。日本帝国の美学とか、武士道とか日本精神とかそういったものは打ち砕かれた。今やそのような過去の美学にすがろうとするものは、甘えである。もし甘えを捨てることで、美学を失い堕落してしまうと、そのことを怖れるのであれば、それは間違っている。とことん堕落してこそ、再出発は可能になると安吾は日本人につきつけた。これは復員兵の彼が昔のガールフレンドに現実をつきつけられ、ふっきれることで成長することと同じ構造を持っていると言える。youtubeに朗読したものをアップロードしたので、よければ聴いていただきたい。もう何十本も朗読ファイルをアップロードしたが、自分の下手さに泣けてくる。

坂口安吾‐復員の朗読




太宰治‐青森

太宰治は弘前中学へ進学したことをきっかけに、親戚の家に寄宿する。寄宿先は豊田家というその土地の名士で、遠い親戚だったらしい。太宰はその豊田家の家長を「お父さ」と呼び慕っていたことの思い出が、この『青森』という短いエッセイで述べられている。言葉をあまり選んでいるという印象は受けず、素直に心に浮かんできた言葉をそのまま書きつけているように感じられる。それだけ素直な愛情関係がったのだろう。棟方志功の初期の仕事に触れられている部分があるが、太宰は彼の仕事を非常に高く評価していることが分かるのと同時に、棟方が出世した後の雰囲気についてはやや違和感を感じているらしいことが分かる。そのようなちょっとした心の機微のことについては、もし目で追って読んでいるだけなら読み飛ばしてしまいそうなものなのだが、朗読していると一字一字をきちんと読もうと努力するので、より文章への理解が深まり、些細な機微にも近づけるように思える。既に20本以上朗読音源を上げているが、だんだん朗読もうまくなってきたし、エッセイに込められた些細な筆のトーンの違いから、より敏感に書き手の心の動きを察せられるようになってきたと思う。まだしばらくは【朗読】という新しい試み、個人的にはふと思い立って気づいたフロンティアを前進していきたい。




関連朗読音源

九鬼周造‐伝統と進取

九鬼周造の最も知られている著作は「いき」の構造であろう。彼はそこで日本の伝統社会の中で「いき」と考えられているものの構造を解き明かそうとしたが、それによって時に九鬼は頑迷な伝統主義者であるかのような、或いは自国文化崇拝主義の国粋主義者であるかのような批判を受けることがあった。それに対する九鬼の反論が、伝統と進取と題されたエッセイだ。九鬼は日本の文化文明を理解するために、西洋哲学の手法を用いた。そのため、彼は人生の多くの時間を西洋哲学への学びに割いている。従って、自国文明崇拝の国粋主義的な人物との非難は当たらないと九鬼は明瞭に論じている。その上で、彼は伝統への愛も隠さない。彼はここで詳しくは述べてはいないものの、過去の出来事、文物・歴史に関する知識、知見、より深い理解を得たいと貪欲に学び著述にも取り組んでいたことが短い言葉で述べられている。著作・著述を愛するものにとって、九鬼のそのような人生哲学の告白は気持ちのよい、すがすがしいくらいのまっすぐなもので、政治、文芸、哲学に関する立場がどのようなものであったとしても、九鬼のそのまっすぐな姿勢は共感できるものではないだろうか。

以上のように真面目な九鬼周造の人物像を述べてはみたが、祇園で遊びぬいたと噂されるのも彼のもう一つの一面である。一度離婚した後、次にもらったお嫁さんは祇園の芸妓さんだし、いきの構造も遊郭で何がかっこいいとされているかについて論じたものだ。相当遊ぶのが好きだったに違いない。九鬼周造は東京生まれで京都大学で活躍した人ではあるが、分かりやすく、かつおもしろく論じるために、遊ぶのが大好きな著述の巨人ということで、西の九鬼周造、東の永井荷風ということにしてみたい。

九鬼周造‐伝統と進取【朗読】




臨時軍事費特別会計の功罪を考えてみる

日中戦争から太平洋戦争にかけての時期の戦費の調達について議論されている書籍やドキュメンタリーの類はあまり多くない。読者や視聴者も戦場でのエピソード、または近衛文麿、木戸幸一、東条英機などの人物像や政治的な動きなどに関心が向きやすいし、私もそっちの方から入ったので、分かりやすいとも思うから、やむを得ないのだが、じゃあ、戦費のことはどうなってたのよ?という疑問は常にあった。しかも、戦費に関する説明があったとしても、一側面だけ切り取ったもので、全体像のようなものが分からず、かえって理解に苦しんだこともある。私は過去に1940年代の国家財政に占める軍事費の割合が7割~9割程度にまでのぼったとする記述を見たことがあるが、いろいろなことに疎いため、では限られた税収の大半を軍のために使ったとして、それで他の官僚機構は機能していたのだろうか?地方自治体とかどうなっていたのだろうか?と素朴な疑問を抱き、どこにもこたえが見つからないことに煩悶したりもした。

そういった私の疑問にすぱっと答えてくれたのが、臨時軍事費特別会計に関する知識だった。恥ずかしいことに最近になって、ようやく、そういうのがあったということを知った。臨時軍事費特別会計がなんなのかというと、要するに一般会計とは別に組まれる戦争するときに必要な予算のことを指す。一般会計は年度との関係で毎年3月31日までに国会で成立させる必要があり、歴代の首相はそれを最優先の政治課題として取り組むのだが、戦争はそのような日本の会計年度に合わせて始めたり終わらせたりできるようなものではない。しかも、タイミングを逃すといろいろ困るので、一般会計とは別に必要に応じて予算を組み、事実上執行しつつ議会に事後承認を求めるというやや乱暴なものだ。野党の政治家が予算を人質にして内閣を追い詰めようとするのは今も昔も変わらないのだが、軍事特別会計に関することでそれをやったら統帥権の干犯問題に抵触する恐れがあるし、そのようなことになったら場合によっては暗殺されてしまうため、政治家たちも敢えてそこに手を突っ込むことはなかったらしい。つまり事実上ノーチェックで軍事費は承認されたというわけだ。

では、その財源はどうしたのだろうか?日本帝国政府が戦時公債を発行すると日本銀行がそれを買い取り、それら公債を各金融機関に売る。各金融機関はそれを個人・法人などの客に売り込むという仕組みになっていたらしい。日本銀行が国債を引き受けるのは今も当時も同じというわけだ。各金融機関は日本銀行の公債を買い受けるために涙ぐましい努力をした。たとえば郵便局の場合、国債購入を促す広告を出しまくり、国債を買うことは資産の購入と同じであり、人生設計に役立つし、しかもお国が戦争するのに貢献できるのだから、立派なご奉公ですというようなロジックで一般消費者への説得が行われていた。植民地でも公債の購入は熱心に促されたのだが、皇民化運動の重要な動機付けとして、皇民なんだから戦争に協力しましょうね。戦争に協力するというのはどういうことかというと、お金ですよ。お金。ぶっちゃけ国債を購入することですよ。というようなロジックが働いたと見て、まず間違いがない。

このような戦費調達システムは、末端の国民が全てをはぎ取られるというリスクはあったが、国家というレベルで見れば無限に資金調達が可能であるということを示したものだ。政府は日本銀行が全て買ってくれるので安心して公債を発行することができたし、臨時軍事特別会計のための資金は基本的に公債で賄われた。日本がどのようにして戦費を調達していたのかという私の疑問に対する回答は極めてクリアーなものになった。軍事費がいかに膨大なものになろうと、一般会計が圧迫されることはなく、従って、戦争中に国家の会計の9割が軍事費だったとしても当面は困らなかったのだった。

さて、とはいえ、軍が動けば単なる金融ゲームの話ではなくなる。実際に鉄や銅や石油が消費され、食料が消費され、お金と物資の交換が起きる。これはハイパーインフレの要因になった。終戦直後に新円に切り替えられたのは、巨額の公債発行残高をなんとか処理するために、円を思いっきり低く切り下げることで、借金の額面は同じでも実質的に棒引きにするという知恵が用いられたからだ。

あれ?どっかで聞いたなと思うと、それは今のリフレ派が主張していることと同じである。日本の借金は1000兆円あるかも知れないが、金融政策を用いればどうにでもできるというわけだ。

戦争中、日本銀行の買い取った国債を他の金融機関が買い取り、更に個人に売りつけるという仕組みは、金本位制の名残があったために、本当に日本銀行がお金さえ発行すればすむことなのかどうなのかの見極めが当時の人につかなかったからだ。対米戦争が始まったとき、日本はとっくに金本位制ではなくなっていたが、やはりお金には実質的な裏付けがなければ値打ちがあるとは信じることができないとの関係者たちの想いがあって、とにもかくにも日本銀行の経営を安定させるために末端に売りさばいた。現代では、日本銀行が無限に円を発行できるという前提で、更に国債を金融機関などに売りつける必要はなく、日銀が持っていればそれでOK。というような話にまで認識は煮詰められている。

というようなわけで、お金を無限に生む仕組みによって日本軍の戦費が支えられていたということを今回は述べた。但し、繰り返すが、マネーゲームではなく、実際に戦争に必要な物資と円の交換があったのだから、無限の公債発行は円の暴落をもたらし、国民生活のレベルで言えばハイパーインフレを招く。これは短期的に相当な混乱をもたらすだろう。このハイパーインフレを恐れる人と、まだまだそれを恐れる段階ではないと考える人との間で、今の日本では政策決定の綱引きが行われている。当時はたとえ恐れがあろうとなんであろうと、とりあえず戦争に勝ってから考えようという感じで滅亡まで走り切った。やはりそれは教訓にした方がいいだろう。


北大路魯山人の世界‐美食と芸術の珠玉のエッセイ

北大路魯山人のエッセイはとても分かりやすい。読み手に分かるように書いているという著者の才能はもちろんあると思うが、更に本人のプラクティカルな生き方、現実的、具体的な生き様、物事の理解の仕方などが関係しているのではないかとも思えてくる。北大路魯山人の著作を朗読し、繰り返し聴いていると、彼の人となりの一端にでも触れられるようにも思えるし、そのように思えることこそ魯山人芸術という大きな山を登る読み手の楽しみだ。

北大路魯山人‐美食と芸術に関する珠玉のエッセイ朗読音源









折口信夫‐沖縄舞踊にみる三要素

この文章は1936年に発表された。日中戦争の始まる前年のことであり、国際連盟から脱退した後の時代で、日本人は自分たちの方向性に迷っていた。一方に於いて西洋化、モボ、モガのようなライフスタイルへの憧れがあったが、荒木貞夫が非常時日本という映画でアジテーション演説をしたように、日本精神、大和魂が吹聴された時代でもあった。そして現実は、モボ、モガを排除し、荒木貞夫の狙った通りの大和魂を尊しとする民族国家ができあがっていったのだった。しかし、ここで日本と日本人はふと立ち止まらざるを得なくなる。当時の日本は既に多くの植民地を獲得していた。北の樺太にはツングース系住民がいたし、北海道にはアイヌ、沖縄には琉球の人々、台湾の漢民族と様々な少数民族。朝鮮半島と南太平洋の島々にも日本民族ではない人たちが暮らしていて、事実上の植民地の満州国でもっとも流通しているのは北京語だった。満州国も五族協和をうたっているのだから、なかなかの多民族国家であり、当時の日本は、第一次大戦で消滅する前のオーストリア・ハンガリー帝国のような多民族帝国だった。そこへ、大和魂である。言葉は勇ましいが、実際に浸透させるとなると様々な困難があったことは言うまでもないだろう。大和魂という言葉を聞いて何かをイメージできる人は日本人しかいない。これは民族の物語だ。従って、台湾人とか朝鮮人とかといった人々が同じイメージを喚起されなければならないという筋合いのものではない。だが、イメージさせたいという帝国の願望がある。ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』みたいな話になってしまうのである。当時の日本という国家は、想像の共同体帝国を建設することの方に賭けた。植民地の人たちに、自分は日本人だとの意識を持ってもらおうとする努力が始まっていく。

植民地の人々に、実は私たちは日本人と同祖である、と思ってもらうためには、ストーリーを作り出さなくてはならない。1941年の夏休みに、柳田国男は東京帝国大学の農学部の学生たちに向けての集中講義を行い、日本各地の民俗的風習がいかなるストーリーに支えられているかといったことを論じた。その最後の部分で、今は朝鮮半島や台湾の人たちも、自分たちはかつて日本人であったということを思い出そうとしていると述べた。柳田国男本人が本気にしていたかどうかはかなり疑わしいのだが、そういうことにしなければならなかったのだという苦衷を察することはできる。日本は当時、そのような新しい伝統とそれを支えるストーリーを必要としていた。ドズル・ザビが、「俺は軍人だ。ザビ家の伝統を作る軍人だ」と言っていたのと同じである。ザビ家に伝統はなく、これから作っていかなくてはならなかったのと同様に、日本帝国には帝国を束ねる物語はなく、なんとか大和魂を納得してもらおうと新しい説得材料を作り上げようとしていた姿はある意味では涙ぐましい。言うまでもないが、涙ぐましいからと言って、支持しているわけではない。

折口信夫の『沖縄舞踊にみる三要素』では、沖縄の踊りが果たしてどこから影響を受けているのかということを論じた短い文章だ。この文章からは、上に述べたような、沖縄の人たちへの、実はあなたたちは日本人なのだ。大和魂を持ってくれとする日本側からの説得材料を作り出すための過程のようなものを垣間見ることができる。沖縄はちょっとは日本の影響もあるし、ちょっとは中国の影響もあるし、どこから来た人たちなのかよく分からないから日本人とまとめてしまっていいものかどうか悩ましいところではあるけれど、かと言って、大久保利通が力づくで日本の領域内に編入したのだから、沖縄の人は日本人とするストーリーも作りたい。さて、どうしようか…という中で、歴史的経緯から実際に見られる現象までをざっくりと総覧して、なんとか日本の文化の影響下にあると論じている。もちろん、折口は沖縄舞踊には日本の影響はもちろんあるが、南方諸島の影響も強く受けているとして、一方的な沖縄は日本の一部だ論を唱えるような浅はかなことはしていない。ただ、やや穿ってみるとすれば、中国の影響が見られないとしている点で、日清戦争まで続いた沖縄帰属問題は日本の勝ちという枠組みを守り抜いた形になっているし、南方の島々とはサイパン島のような南洋諸島のことで、第一次世界大戦のあとで日本の領域になった地域を連想させるから、それら地域の広い連帯という物語を生み出す前哨戦のような位置づけにこの文章はあるのかも知れない。もちろん、折口は慎重に言葉を選んでいて、安易に日本・琉球同祖論のようなことは述べていない。

僅かに話はずれるが、日本は数年後に大東亜共栄圏の建設を目指して東南アジアを席捲する。これまでの手法が植民地の人々の日本人化だったのだから、東南アジアの人々にも同じ手法が用いられた可能性は高い。だが、どうやって説得できただろうかと考えると、結構、難しい気がする。ビルマやインドネシアの人たちに日本人と君たちは同祖なんだよと言ったところで、あまり信頼性のある話にはならないだろう。そのような話になる前に日本が戦争に敗けて行ったので、神話制作担当者はある意味ではほっとしかも知れない。




岡本かの子‐女性崇拝

岡本太郎の母としても知られる文筆家の岡本かの子が、読売新聞紙上において『女性崇拝』という題の論評を発表したのは、1936年の1月20日だ。この年、その一か月後に226事件が起きていることを思えば、日本はいよいよ動乱へと国を挙げて飛び込んでいこうとする不安な時期でもある。かの子の『女性崇拝』にも、その不安はかすかに投影されている。ただ、太宰治の私信ほど、切迫したものではない。満州事変以降、日本は世界の孤児になり、それでも世界の干渉を振り切るだけの体力を持っていた。たとえ国際連盟から脱退していたとしても、日本を押さえつけることができる国などなかった。1936年となれば、まだ盧溝橋事件も起きていない。だからこそ、日本人は迷っていたと言うことができる。果たして以前のように国際秩序へ帰って行くべきだろうか。それとも、日本独自の路線を追求するべきだろうかと。どちらを選ぶかについて、まだ辛うじて時間が残されていた。そういう時期だったのだ。

では、辛うじて日本独自の路線を歩むとして、それはどんな路線なのだろうか。岡本かの子は女性崇拝のありようをイギリス、フランス、日本で比較している。案外と、イギリス人は女性を尊重していそうで、文章などを読めば女性に対する嫌味が強い。フランス人は女房の言いなりになるのでちょうどいいと思っている。さて、日本だが、日本はいわゆる武士道の国だ。だが、たとえば秀吉が淀殿に入れ込んでいるときでも、正妻の北政所の権利が侵害されることはなかった。日本版女性崇拝も捨てたものではない。かの子はそう述べている。当時の世相から考えれば、かの子は秀吉と北政所のことを例に出し、日本が独自路線を進み得ることを暗に示した。

結果、日本帝国は滅亡したわけだが、昭和11年の段階でそれが分かる人などいるはずがない。詩人でフランスから派遣されたクローデルでさえ、日本は賢明な選択をすると本国へも訴えていた。そのような時代背景を考えてかの子の文章を読めば、より深いものも見えてくる。フェミニズムは尊重するべき思想だが、そのフェミニズムも国際政治の影響を強く受けるということを、かの子の文章から見出すことができるだろう。尤も、戦前といえば暗いイメージが強いが、かの子のようなフェミニストの文章が新聞に掲載されるということは、大正デモクラシーの成果は失われていないわけなので、そのあたりは歓迎すべき材料のように思う。




太宰治‐私信

1941年12月2日、太平洋戦争の始まる直前に、太宰の書いた叔母さん宛ての手紙が都新聞に掲載された。ここで太宰は自分が必ず文芸で成功すると信じているので、無用な心配はしないでほしいと「叔母さん」に頼んでいる。表面的には、これは太宰の将来への展望を述べた宣言、21世紀風に言えばセルフアファメーションみたいなもの読めるかも知れないが、実際にはやや異なるのではないかと私は朗読しながら気づいた。太宰はこの文章で戦勝祈願をしているのである。

この文章が発表された時期は、日米戦争はいつ勃発してもおかしくない段階に入っていた。日米もし戦わばというたぐいの言論はいくらでもあったが、それよりも踏み込んで、日米はいつ戦争になるのかというようなことも囁かれていた時期でもある。日本の南部仏印進駐以降の英米からの経済封鎖は日本人の心理に大きな不安を抱かせていた。経済封鎖は戦争状態とほぼ同義だ。日米関係は既に相当に切迫していたと言い切って間違いない。当時を生きた人々にとって、対米開戦は決して寝耳に水ではなかった。大川周明は満鉄調査部の出版していた雑誌、『新亜細亜』で、ABCD経済封鎖を恐れる必要はないと明言している。ABCDの、米英蘭中のうち、有効な経済封鎖ができるのはアメリカだけだ。イギリスはドイツとの戦争に忙しく、日本に手を出す余裕はない。オランダは本国がドイツに飲み込まれており、オランダ領インドネシアが日本を脅かすことなど考えられない。中国もそうだ。日本にとって恐るべき敵はアメリカだけだが、アメリカとさえことを構えなければどうということはないと大川周明は楽観的かつかなり正鵠を射た議論をしている。日本はそのアメリカと全面戦争に突入したのだから、大川周明のような戦後にA級戦犯として起訴されるような人物でさえ、忌避すべきと考えた選択をしたのである。このころの歴史のことは、知れば知るほど暗澹たる心境にさせられる。

太宰の手紙に戻る。当時の日本人は、アメリカと戦争をして本当に勝てるのだろうか…。という不安の中を生きていたに違いないが、そこで人気作家の太宰が、私は成功を信じて文芸をやると宣言する文章を発表したのは、実のところは日本人は勝てると信じて戦争すれば勝てるという裏の意味を潜ませている。私ですら気づいたのだから、当時の読者の多くはそのことに気づいただろう。マッカーサーが戦後に読んでも気づかないかも知れないが、私たちには分かる。太宰は、イエスキリストが明日のことを思い悩むなと弟子たちに話したことを引用し、日本帝国も思い悩まず、目の前のことに信じて取り組めと発破をかけた。この文章の真意は戦意高揚だ。東条英機が読んだかどうかは知らないし、既に日本の空母艦隊は択捉島の単冠湾を出港してハワイへ向かっていたわけだから、太宰のこの文章が何らかの影響力を発揮した痕跡を認めることは難しいだろう。だが、当時の日本人の気分をよく代弁した文章だ。さすがは太宰だ。




関連朗読動画 太宰治‐海