日本古代においていつ頃から太陽神信仰が中心になったのでしょうか?高松塚古墳とかキトラ古墳とかの壁画を見る限り、中国影響下なのか北極星信仰が優勢だったのかと素人的には思ってしまうのですが。

道教では北極星のことを天皇星と呼びますので天皇という呼称はまず間違いなく道教に由来していると考えて良いと思いますし、天皇という称号を最初に使用した天武天皇は天皇星が星空を支配するが如くに自身がヤマトを支配するようなイメージを持っていたものと思います。とはいえ太陽神であるアマテラスを祀る伊勢神宮を天皇家の氏神みたいな位置づけにしたのもやはり天武天皇なわけですね。

彼は仏教僧としての一面も持っており陰陽道にも通じていました。また聖徳太子を神がかった伝説的な人物として記述されることになったのも彼の意思であり聖徳太子が馬小屋で生まれたとかみたいな話になっている辺りはまず間違いなくイエスのイメージからヒントを得ていると思いますので天武天皇はキリスト教に関する知識も持っていたと私は思います。

つらつら考えるに、天武天皇がそれ以前の素朴なアニミズムを淘汰し北極星信仰と太陽信仰+聖徳太子のような超人信仰の合わせ技を使ったということではないかと思います。

非常にプロパガンダに長けた人物であったに違いありません。



ガンダムに出てきたデキン公王のギレン総帥へのヒトラーの尻尾と揶揄したセリフのヒトラーの尻尾とはどのような意味合いだったのでしょうか?

ギレンはデギン公王に対し「私とてジオン・ダイクンの革命に参加した者です」と述べています。ギレンは新時代を築く側の人間であると自負していることがその一言で分かるわけですが、ヒトラーが自らの原点をドイツ革命に見出している点に於いて両者は共通しています。そして優生思想を信じ劣等と判定した人々を抹殺すると決心している点でも共通しています。しかしヒトラーが時間軸的に先でありギレンはその真似をしているに過ぎない。即ち頭ではなく尻尾の方であるということではないでしょうか。私としてはデギンが「ヒトラーは身内に殺されたのだぞ」と述べているのがひっかかります。その言葉はギレンの運命を予言してはいますが実際のヒトラーは自殺しているからです。デギンにはそのギレンに殺される運命が待っていますから、これがアニメじゃなかったら忌まわしさにぞっとしますね。



太平洋戦争の転機はミッドウェー海戦とガダルカナル島にあったんかなぁ?と勝手に思っているんですが他に何かありますでしょうか?

思いつくままに挙げてみたいと思いますね。

1,緒戦でインドに行かなかった。当時のイギリス軍の装備は劣弱であったため、本気で攻略したら十分に可能であったかも知れないが、末期になってやってみたら強力な装備を持つイギリス軍にはばまれ、多大な犠牲を出して撤退せざるを得なかった。初期にインド攻略を成し遂げていたらなら、イギリスの戦意喪失→日英講和→アメリカとも講和はあり得た。

2,シンガポール陥落直後に講和しなかった。日本圧倒的優位な戦況下でなんとかして講和のチャンネルを開いていれば、当時はアメリカも何年も戦争するのとか疲れるとか嫌だなあと考えていたかも知れないので、アメリカに満州国を承認させて太平洋を不可侵条約の対象エリアにして講和はあり得た。その場合はイギリスも乗ってきた。

3,サイパン島陥落。大本営はサイパンに大軍を送り込み、ガチガチに陣地を構築させて、これならアメリカ軍も突破できまいと考えていたらしいのだが、どんなにガチガチな陣地も艦砲射撃で木っ端みじんに。とはいえ、サイパン陥落後はまだフィリピン攻略が残っていたので、東條退陣と引き換えに講和のチャンネルを開き、日本は全ての植民地を諦め、中国から完全撤退するという条件で講和できたかも知れない。その場合、戦後の占領はされずにすんだ。

4,近衛上奏文が出されたタイミング。このタイミングで近衛の言う通り講和に持ち込んでいれば、その後の空襲も原子爆弾もソ連の参戦もなく、日本人の命は100万人くらい助かったかも知れない。問題は、そもそもあの段階で講和が可能だったのかどうか。降伏以外にもはや手はなかったかも知れない。

くらいでしょうかね。



大阪府にまつわる体験、エピソード、雑感、知識、トリビア等をお聞かせ下さいませんか?

大阪市役所が淀屋橋にあるわけですけど、そのすぐ近くに適塾跡があるんですね。で、淀屋橋ってどういうところかというと、江戸時代は日本中の諸藩の蔵屋敷がひしめき合い、諸藩の御用を請けるための商人がひしめき合い、流通のために舟がぎっしりとひしめき合う日本経済の中心であったわけですよね。福沢諭吉の父親も蔵屋敷で働くお侍さんで、諭吉はその空気を吸って育ち、すぐ近くの適塾で学んだということになります。戦前は大阪の方が東京よりもモダンでおしゃれで発展していたと言われていますが、それは江戸時代からの経済的な基礎があったからで、しかも適塾はまさしく日本近代を支える人材を育てた場所だったわけですから、私は先日適塾跡を歩き、ふと「全てはここから始まった」とつぶやいてしまいました。



なぜ天皇は敗戦後も、民衆の支持を維持することができたのですか。またそれは戦前の国家神道や戦後のGHQと何か関係はありますか。ドイツ皇帝やロシア皇帝、清皇帝は天皇と違ってなぜ民衆の支持を失ったのですか?

皇帝の存続と民衆の支持は関係ありません。軍が支持するかどうかです。ドイツ革命は絶対に死ぬ命令を拒否した海軍の将兵たちの反乱から始まったとされますが、要するに軍の支持を失ったことによりウイリヘルム二世は亡命せざるを得なくなりました。ロシア革命の場合、やはり第一次世界大戦であまりに無謀な動員をニコライ二世が命じ続けた結果、軍が彼を見放し、民衆が宮殿に乱入するのを傍観した結果起きたことですので、やはり軍の支持を失ったからだと言えます。清の皇帝の場合、幼少だった溥儀個人に落ち度があったとは言えませんが、清の軍部を握っていた袁世凱が臨時大統領になれることを条件に清王朝を裏切って孫文と結んだことで辛亥革命が成功するわけですのね。ですので、やはり軍を握る袁世凱の私利私欲の結果ですから、清王朝は軍の支持を失った結果、滅亡したと言えるわけです。日本の天皇の場合は軍の支持を失ったことがなく、戦後は軍が解散したものの、アメリカ軍がその代わりをしましたから安泰だったのです。確かに昭和天皇は国民的に人気があったと思いますが、もしアメリカ軍が昭和天皇を支持しなければ、天皇制は消滅していたに違いありません。



歴史上、主君を裏切って相手方についた人の忠誠は信用されましたか?

裏切り者が信用されるわけないというのがお答えになると思います。蘇我馬子を裏切った蘇我石川麻呂は後に中大兄に難癖をつけられて自害。義経を裏切って殺しその首を頼朝に差し出した奥州藤原氏は、義経をかくまっていた罪があるとして滅ぼされました。室町幕府六代将軍足利義教を殺害した赤松氏は周囲から見捨てられて滅亡。応仁の乱はオセロゲームみたいに裏切りまくってますけど、結果として室町幕府の実体が失われていく勝者なき戦いで、もちろん誰も誰のことも信用しないカオス状態になり、十三代将軍義輝を殺した三好三人衆も早々に滅亡していますが、これも周囲に見捨てられた結果と思います。武田勝頼を裏切った穴山信君は家康と一緒に近畿地方を回り、その最中に本能寺の変のしらせを聞いて三河への脱出を図りますが、どういうわけか家康と別行動をとって殺されたか自害しており明らかに家康から信用されていません。明智光秀も本能寺の変の後、味方を得られず孤立したのもやはり誰からも信用されていなかったからで、関ケ原の戦いで西軍を裏切った諸大名たちはことごとく家を潰されていますが、これも家康が彼らを一切信用せず、重用もしなかった結果と思います。特に小早川秀秋に至っては暗殺の可能性が濃厚です。大坂夏の陣の直前、織田有楽斎が豊臣を見限って徳川についていますが、彼は信長の弟であって、そもそも主筋の人なので別格ですからお咎めなし。というより秀吉が織田氏を裏切った結果天下を獲ったと言えなくもないので、織田有楽斎には豊臣に対して実は使える義理がないのです。

という感じですから、やはり裏切ってはいけないのです。



甲府を歩いて解けた武田信玄の謎

少し前のことになるが、甲府で三泊ほど旅行をした。国内旅行で、しかも沖縄や京都のような国際的な観光地ならともかく、そこまで観光地としての印象が強いわけではない甲府で三泊はややや大げさに思われるかも知れない。だが、じっくり甲府の街を歩くことで武田信玄の人物像の一面について、それも戦国史理解に深く関わるであろう一面について気づくことができたので、ここに書き記しておきたい。やはり現地を歩くというのは非常に重要な経験をもたらしてくれるものなのだ。

武田信玄に関わる大きな謎として、彼がいつ天下取りを目指すようになったのかというのがある。彼は最晩年になって大軍を率いて上洛を目指して動き出した。その時、京都の支配者は織田信長で、武田信玄が上洛するということは、信玄が信長を殺して京都を制圧し天下を獲る決心をしたことを意味する。信長はびびりまくったに相違ないし、後に武田勝頼を完全に滅ぼすところまで滝川一益に攻め抜かせたような徹底した冷酷さが発揮されたのも、武田信玄上洛の時の恐怖心があまりに強すぎ、甲斐源氏の武田氏が二度と復活しないようにと念押しのつもりだったのではないかとすら思える。ローマがカルタゴを滅ぼしたのと同じくらいの周到さや執念深さを感じさせる逸話である。

だが武田信玄は決心するのがやや遅すぎたためにあと少しのところで信長を殺す前に病没してしまった。信玄ほどの男が自分の死期を悟ることもできず、病身を引きずるようにして上洛を目指したことから、信玄には京都を制圧して天下を獲るという発想はそもそもなかったのではないかと考える人は多いし、実際、信玄の上洛の大義名分は将軍足利義昭から送られた信長打倒の檄文であったため、信玄本人の自発的意思であったと言い切ることも難しく、信玄の性格を説明する際も、信長が近代人であったのに対し信玄は中世の人というような表現がなされることもあるし、信長がある程度の力を得たらまっすぐ京都を目指したのに対して、信玄は無目的に周囲に領土を広げて行った人、自分の縄張りを少しづつ広げるという発想法で生きていた人というような説明がなされているのも読んだことがある。

私も以前はそういう感じの人なのではないかと考えていたが、実際に甲府を歩くと、その考えは全く間違ったものであったと思うようになった。以下にその理由を述べておきたい。

武田氏の痕跡を見たかった甲府駅を下りてから北側の方へと出た。そこには北へと延びる武田通りと呼ばれる真直ぐな道があって、その終点には武田神社がある。武田神社はかつて武田氏の居館だった躑躅ヶ崎館があった場所に鎮座しており、甲府が武田氏と深いかかわりがあったことを私たちに教えてくれている。甲府という都市は武田信玄の父親の信虎が開いた都市で、この街を歩くと信虎の発想法が都市デザインによく反映されていることに気づくことができる。ちなみに信玄が亡くなった後に家督を継いだ勝頼は甲府から少し離れたところに新府城を築いたが、これは甲府に対して新しい街なのだという意味で新府と呼んだのだと考えて差し支えない。

さて、武田神社を参拝した後、神社を後にして駅の方へ向かおうとするとある光景に気づく。それは第一に、武田神社の標高がやや高い場所にあるため、甲府の街が一望でき、この場所に居館を築いたものが甲府の支配者であるということが無言のうちに分かるようにデザインされているということだ。そして第二に、武田通りを中心してその左右に家臣たちの屋敷が並んでいたため、当時、居館が甲府の最北端であったことから、武田氏家臣たちは居館に対して北面する形になっていたということだ。このことは即ち、甲府が平安京をモデルにしてデザインされたことを意味している。平安京では当初、最も北に位置するところに大極殿があり、天皇が南に向かって座るのに対し、朝臣たちは天皇に向き合う時には北面した。これと同じことを信虎はイメージしていたのである。武田神社を最北端にして、周辺の家臣宅のあったエリアを歩くと、道路が碁盤の目になるように整備されていることも分かるし、街の東側に東光寺という美しいお寺も配置されていることから、甲府が平安京の東側に清水寺があったり平城京の東側に東大寺や興福寺があったりしたのと同じ構図を持っていることにも気づくことができるのである。

これらのことが何を意味するのかというと、甲府は小京都になるべくデザインされた都市であり、甲府に暮らす者は京の都を意識して生活せざるを得ないということだ。ましてや武田信玄の正室は公家の三条家のお姫様であったため、信玄は若いころから京都を連想する記号に囲まれて生きていたに違いないことが容易に想像できるのである。おそらくは信虎は信玄に対していずれは京都を制圧し天下を獲らなくてはならぬと言い続けていたのではなかろうか。信虎は信玄に追放された後、しばらく今川氏のところで暮らし、後に京都に滞在するようになるが、信虎の亡命先をそのようにチョイスしたのも、常々から京都を意識していたことの現われであるということもできるだろう。

とすると、武田信玄がただひたすら領土を周辺に拡大していくことしか考えていなかった、或いは、信玄は京都を制圧して天下を獲るという構想を持たない人であったとの前提で人物像を描くことにはやや問題があるのではないかという気がしてくる。上に述べたようなことから信玄は常に京都を意識して生きていたに違いなく、京都へ進撃して天下を獲るということは何度となく念頭に浮かんだのだが、上洛を夢見ていた父親のことは追放するほどに深く憎んでいたために、自分は父親とは違う価値観で生きるのだと強く自分自身を説得し続けた結果、京都進撃だけは最後の最期まで避け続けたというのが真相ではないだろうかと思えてならない。そして自分の人生に決着をつけるために果たして自分に京都を獲れるかを試してみたい、この眼で本物の京都を見て死にたいと思うようになり、実際に上洛に着手したのではないだろうか。そのように思うと、エディプスコンプレックスのような近代心理学で説明される心理的葛藤を抱え続け、最終的に自我との折り合いをつけようとした信玄は、中世的な人であるどころか、自分の内面と常に向き合うという、近代的な人間像を持っていた人物であったと言うことができるのではないかと私は思うようになった。やはり現地を訪問するということは非常に勉強になることが多いとつくづく思うのだ。





隠している情報をひょんなことから誰かに知られてしまった場合、それを直接確かめるための質問文は「…知ったか?」ですか?

その情報を知っていなければわからないことを何らかの手段を用いてしゃべらせるのが正しいやり方です。

例としてぱっと思い浮かぶのはミッドウェー海戦の時のアメリカ側のやり方です。彼らは故意に「ミッドウェーは真水が足りない」との無線通話を発信し、それを傍受した日本側が「AFは真水が足りない」との通信をしていることを傍受することで、日本側の暗号ではミッドウェーをAFと呼んでいることをキャッチしたわけですね。

ついでになりますが、イギリスがナチスの暗号に解読した直後、ナチスの次の空爆目標が分かったのですが、迎撃は見送られました。もし迎撃していたら暗号の解読に成功したことをナチスに知られてしまい、暗号が変更されてしまう恐れがあったからです。

以上のことを実生活に生かすことができれば、まさしく賢者は歴史に学ぶということになるのではないかなと思います。



昔名作と評判だった映画「戦場のメリークリスマス」をアマプラで見ました。わたしには作品の素晴らしさが全く理解できなかったのですが、勉強不足な点があればご教示くださいませんでしょうか?

私は戦場のメリークリスマスが好きなんですけど、考えてみるとなぜ好きなのか説明できないなあと思いました。で、ちょっと考えてみたんですね。主題は確かにどうということはなさそうな気もします。じゃ、何がいいのかなと。

1つには、坂本龍一さんの音楽が良すぎるので、実際以上にドラマチックに感動的に感じられるという仕掛けになっているということはあると思います。ですが、音楽も映画の一部ですから、それはそれで演出の勝利ではないかなとも思います。

次にカメラワークもあるかなと。たとえば最初の方でたけしさんがローレンスを呼び出してジャングルの中を歩く場面がありますけど、ロングショットの長回しで彼らの歩いている姿を撮影しているんですが、背景はジャングルですから、ずいぶんと遠いところなんだなとも思うのですが、同時に、こんな遠いところでも人間の考えることや感じることは同じなんだなというような不思議な心境にさせられるんですね。で、それだけだと大したことは表現してないんですけど、坂本龍一さんの音楽が流れてますから、凄い場面みたいに思えてしまうんじゃないかなと。

それから、たけしさん(原軍曹)の演技ですよね。実直そうな表情で、この人はきっと心がきれいなのに違いないという印象を与えます。ローレンスに対して時々見せる人間愛。ローレンスは敵の将校で捕虜なのに、原軍曹は昔から親しい友人であったかのように時に本音を語るんですね。

次に簡単に触れますけど、デビッドボウイのかっこよさもあるでしょう。

それから、物語の良さとして登場人物たちの成長というのがあるんじゃないかなと思います。一番わかりやすいのは原軍曹です。彼は死刑の執行を待つ身でありながら英語を学ぶんですね。それだけでも心境の変化を想像すると感動できるというか、原軍曹は死ぬ前に敵のことをよく理解しようと思ったんだなと思うと、ちょっと泣けてくる気がするんです。で、ローレンスが会いに来るわけですが、原軍曹は非常に礼儀正しいわけです。あの捕虜を殴りまくっていた下士官と同じとはとても思えないような穏やかな表情と洗練された身のこなしを観客は見せられることになるわけですけど、当然、果たしてこの人は本当に死刑にされなければならないのだろうか?との疑問も抱かせる演出になっていると思います。ローレンスは「もし私に決められるのなら、あなた方を今すぐ解放し、家族のもとへ帰す」と言うのですが、これもまた、捕虜収容所で殺されたかけて経験を持つローレンスが、敵に赦しを与えるいい場面ではないかなと思います。赦しは人間的成長の一つの証であると私は思います。で、坂本龍一さんのヨノイ大尉ですけど、彼は地中に顔だけ出して埋められて死を待つジャック・セリアズに敬礼し彼の髪を切り取ることで、愛を表現します。それまで捕虜収容所長としての威厳を用いて恫喝する形でしか愛を表現できなかった人が、ようやく穏やかに自分らしいやり方で愛を表現できるようになったという場面なわけですね。

最後に、日本人と白人が対等に渡り合うという点で、世界史・国際社会という観点から重要な作品ではないかなとも思います。この作品は間違いなく『戦場にかける橋』に影響されていますが、あの映画では男同士がぶつかり合い、意地を張り合い、認め合うということを日本人と白人がやり合うわけですね。これは人種差別の克服という観点から言っても我々が気に留めておくべき主題ではあると思うんですね。大島渚さんは更に同性愛という要素を入れて『戦場のメリークリスマス』を作ったとことで、もうちょっとウエットな作品になったと言えると思います。

ウエットが良いのか悪いのかという論点はあり得ますが、より深く観客に刻印される映画になったのではないかと思います。私は同性愛者ではないですが、恋愛感情を抱いてしまった時にどう振る舞うかというのは人類共通のテーマなんだなというようなことも思います。

というわけで長くなりましたが、気づくとあの映画がどんなにいい映画なのかを語るご回答になってしまいましたが、多少なりともご納得いただければご回答したかいがあったかなと思います。



大東亜共栄圏についての質問ですが、現在の視点から見れば、満州国は大日本帝国の占領地ですか、それとも植民地ですか?

植民地のバリエーションの1つであったと言えると思います。植民地には様々な形態があり得てですね、必ずしも直接的な占領・支配をしている必要はなく、たとえばイギリス国王がインド皇帝を兼ねていた時代、たまたまインド皇帝がイギリス王だというだけで、インドは独立国だと理屈を並べることもできるわけですね。保護国という名称が使われたり、自治領と呼ばれたり、委任統治領と呼ばれたりいろいろあると。

日本帝国も多くの植民地を持ちましたが、各地域の位置づけはバラバラでした。沖縄・北海道・樺太あたりは普通に日本の行政区として組み込まれ、台湾は直轄支配の地域、朝鮮半島は名目上はなんと日本との対等合併だったりしたわけです。遼東半島は租借地であり、南洋諸島は国際連盟委任統治領で、日本が国際連盟を脱退した後もその地位は変わらないという謎な事態も生じたわけです。

なんでこんなことになるのかというと、日清戦争のころは19世紀的な弱肉強食の論理で勝てば正義だという感じでわかりやすかったのですが、第一次世界大戦が終わると国際社会に侵略戦争の禁止とか住民自決とかの新しい概念が導入され、日本帝国としては版図を拡大するのに国際社会の波に合わせた方便が必要であったということでだいたい説明ができると思います。

で、満州国なわけですけれど、石原莞爾なんかは満州地方はソ連から日本を守るための拠点と考えてましたから、できれば日本領に組み込みたいと、そのほうが自由にやりたいことができると考えていたようなのですけれど、それでは国際社会に対して言い訳できないわけですね。日本は侵略戦争をしたとして非難され、最悪の場合は経済制裁されることもあり得ると。石原莞爾は満州事変は日本の自衛行動だと言い張ろうとしたかも知れませんが、だったら戦闘が終われば日本軍は撤退すべきだと言われてしまう。で、蒋介石と満州地方に関する協定を結ぶことができれば「租借地」にすることもできたかも知れませんが、蒋介石はそういうのは断固拒否して国際連盟に提訴していた状態でしたから、そういうのもできないわけです。で、日本としては住民自決の概念を使うことにして、満州地方住民の自発的な意思により独立国家が誕生するという体裁を選ぶことにしたわけです。もちろんリットン調査団は本気にはしませんでしたけれど。

そういうわけですので、ご質問に対するお答えとしては、植民地には多くのバリエーションがあり、満州国は日本帝国が版図拡大のために採用した1バリエーションでしかない。ということになります。