日本映画の最盛期は、昭和25年(1950)から昭和40年 (1965) 位までではないか、と思いますが、如何でしょうか?異論をお聞かせ下さい。

私もそれくらいなんじゃないかなあと思います。黒澤明、溝口健二、小津安二郎あたりの人たちが生き生きと仕事をしていた時代ってそれくらいですよね。

異論を入れるとすれば、もう少し後の時代になると大島渚とか北野武の時代になってくると思うのですけれど、仮に黒澤・溝口・小津と大島・北野に区分した場合、前者はある種の耽美的映像主義者たちで後者はエモいのを追求するロマン派的映像主義者のような気がします。で、やはり私は甘いので、後者の方が心に残ります。



モンゴル帝国の最大版図を見て気が付いたのですが、現在の先進国の地域はモンゴル帝国の支配から逃れています。何か関係がありますか?

あると思います。皇帝が多民族を支配する地域では国民国家の形成が困難になりやすいですから、モンゴル人に長く支配された地域が近代国民国家の建設に乗り遅れるのは理解できることです。

近代国家は国民皆兵をやりたがりましたが、見ず知らずの人のために死に行く兵士を量産するには、国民国家の方が都合がいいのです。

そういうのを英仏日独伊は一定地域を同一言語で統一できていましたから、うまくやれていたということではないかなと思います。

アメリカとカナダは少し事情が異なるものの、憲法で押し切ったと言えます。

東欧はスラブ、匈奴、ムスリムがモザイクのように隣り合って暮らしていると思います。多民族共生は大切なことですが、国民国家の建設には不利で、そなような社会になつた理由の一つはモンゴル人の支配にあつたかも知れません。

中央アジアでも、トルコ人、ロシア人、コサック、ツングース、満州人、モンゴル人がひしめきあい、国民国家の建設に出遅れたという面はあると思いますが、これもモンゴル帝国の長い支配と関係あるかも知れません。



歴史If質問です。豊臣秀頼と淀君が大阪城を開城して家康に恭順し、辺境の一大名となった場合、その後の歴史に影響はあったと思いますか?

家康の孫の千姫が子どもを産んでいた場合、豊臣と徳川は血縁になります。何代もかけて養子と婚姻を繰り返せば、豊臣と徳川は外戚同士という関係になって、明治維新を迎えた可能性は充分にあると思います。家康が1603年に征夷大将軍の宣下を受けてから大坂の陣まで10年以上ありますけれども、これほど時間をかけたのは徳川サイドとしても豊臣を潰すのと共存するのはどちらが良いかについて悩んだ証拠であり、豊臣が完全恭順していると確信できれば家康は何もわざわざ互いに良く知る秀吉の嫁さんと息子さんを殺すというような選択をしなかったような気がしてなりません。戦国研究で高名な小和田哲男先生は家康はしばらく淀殿の出方を見ていたと書いているのを読んだことがありますが、私もそんな風に思います。豊臣ほどの格があれば、徳川としても敵対するより縁を結ぶ方を選ぶメリットもありますし、稀に見る残虐行為として未来永劫非難されることが分かり切った大坂の陣をやる必要はないとの判断はあり得たと思います。



歴史の中でいつから中華帝国とヨーロッパ諸国のテクノロジーの強さが逆転したのでしょうか?また、現代はどうでしょうか?

17世紀前半ごろ、日本が未来永劫カトリックを追放すると決心しスペインとポルトガルを拒絶し、オランダとイギリスに対して管理貿易のみを許可するという強気の態度で臨んだ結果、ヨーロッパは反抗できませんでした。蛇足ですがイギリスが日本との貿易から姿を消したのはオランダとの勢力争いに敗れてしばらく太平洋で活動できなかったからです。それぐらい当時のヨーロッパは弱かったのです。

で、19世紀前半ごろ、イギリスはでアヘン貿易を好き放題やりたかったのでアヘン戦争を起こして勝利したわけですが、日本の幕閣たちはアヘン戦争の報に接しヨーロッパは強いという認識を持つようになったそうです。

ということはこの200年の間に何かが起きていたわけですけれども、言うまでもなく産業革命がヨーロッパで始まったことが大きいと思います。日本も追いかけるように産業革命に成功し、列強入りしていきます。

さて、今起きていることですが、20世紀、中国は何度か産業革命を起こそうとして果たせず、21世紀に入り、新時代の産業革命をやっているところだと思います。

さて、中国と欧米のどっちが先を行っているかということですけれども、多分、まだしばらくの間は欧米が先を行っていると思いますが、その先はやっぱり雌雄を決することになるのではないかなあと思います。言うまでもありませんが、中国対欧米であって、日本が出る幕はないですね。



京都にまつわる体験、エピソード、雑感、知識、トリビア等をお聞かせ下さいませんか?切り口はお任せします。

坂本龍馬が殺された3日後くらいに伊東甲子太郎が殺されていますけれども、殺された場所が油小路という場所なんですね。前回京都に行ったときに、伊東が殺された場所を確認しようと思ってホテルから油小路まで歩いて行ったんですけど西本願寺の目と鼻の先だということが行ってみて分かったんです。西本願寺は新選組の屯所で、伊東を殺した新選組にとって油小路は宿舎に近い戦いやすい場所であったというようなことにも気づくことができました。

近藤勇が伊東を自宅に呼んで酒宴を催し、伊東はほろ酔い気分で帰っていたところを襲われているのですが、私は近藤の京都の自宅がどこにあったのか分からないのですけれども、西本願寺の屯所の近くということは間違いないのだろうというようなことも分かってですね、そうすると、伊東を狙った新選組の面々の当日の心境とか、そういうのがいろいろ想像できて、なかなか興味深い経験になったのですね。

地理的なことを考えてみます。伊東は新選組から分かれて孝明天皇の御陵を警備する御陵衛士という武士グループを形成したわけですが、この御陵衛士の屯所は高台寺に近いあたりにあったはずですから、京都市街の東の隅の方に伊東たちが暮らしていて、西の隅の方に新選組が暮らしていたという構図になります。伊東配下の面々が伊東の死を知り、遺体を引き取るために油小路まで出向いて待ち伏せしていた新選組と死闘になります。

時間的なことを考えると、酒宴が終わって伊東が殺されて、知らせが御陵衛士の屯所に届き、彼らが新選組が待ち伏せしているのも覚悟の上で遺体を引き取りにいこうと決心を固め、油小路へ出向いていったとなると、油小路での斬り合いは深夜から早朝にかけてなされたのであろうと推察できます。夜が明けて近所の人が外に出てみたら指がいっぱい落ちていたとの証言が残っていますから、戦いは朝になる前に終わっていたはずです。

旧暦の11月の京都の深夜から明け方にかけてですから凍えるほどに寒かったに違いなく、伊東の血で濡れた仙台袴がカチカチに凍っていたそうですが、御陵衛士を待っている間の新選組隊士もガクガク震えながら待ったのか、或いはアドレナリンが出まくって寒さを感じなかったか、などというようなことも想像を巡らせることができ、文字通り彼らの息遣いのようなところまで自分の脳内で迫っていける感覚になれてなかなかよかったです。



昭和天皇の関わった人物、側近は誰でしょうか?

昭和天皇が最も信頼した、側近中の側近は鈴木貫太郎であっただろうと思います。鈴木貫太郎は奥さんが昭和天皇の元お世話係をしていた女性であったということもありますが、鈴木貫太郎自身も昭和天皇の侍従長を務めたことがあったほか、226事件では殺されかけていますので、軍の暴走に対する警戒感は昭和天皇と共有していたに違いありません。昭和20年に入り、軍が本土決戦を主張する中、「こいつらヤバいから早く戦争を終わらせなければならない」と昭和天皇は考えたわけですが、終戦を実現するための首相に鈴木貫太郎が指名されます。憲政の理念では天皇に指名権はありませんが、鈴木が高齢を理由に首相を辞退しようとした際、天皇直々に頼んでいますから、鈴木内閣だけは天皇自身の意思が反映されて組織されと見て良いと思います。で、天皇の周辺を取り巻く、虚々実々の情報を持ち寄って天皇を操ろうとする魑魅魍魎みたいなやつらとは違い、鈴木は天皇の希望通りに戦争を終わらせ、終戦と同時に総辞職という綺麗な身の処し方もしていますから、天皇からの信頼・感謝は厚いものがあったに違いありません。

それとは別に、天皇本人の本音や愚痴のようなものをいろいろ聞いていたのは木戸幸一だと思います。内大臣として天皇と内閣のつなぎやくをしていたのが木戸幸一ですが、戦後、A級戦犯として終身刑を言い渡され、日本が主権を回復するまで服役します。戦争中、天皇は皇居内に建設した防空壕での生活を続けましたが、戦後も天皇は同じ場所での生活を続けました。周囲からもっと快適なところで生活するのはいかがかと提案された際、「木戸がまだ入っているから」と言って提案を退けたそうです。天皇自身が木戸のことを非常に近い人間関係であると認識していて、木戸に気を遣っているのが分かります。木戸の方も自分だけムショに入れられて天皇は全く何の被害もなかったことについて頭に来ていたらしい節もあるので、この2人に関してはやや友達のような、悪友とか同級生みたいな感覚があったのではないかなと思います。木戸は釈放されたのち湘南地方で暮らしましたが、昭和天皇が葉山御用邸に静養に来た際には、木戸はご近所の吉田茂と一緒にお呼ばれしていたそうです。



日本の文化は他の国とはどのように異なりますか?

柳田国男は日本各地の様々な風習を収集しましたが、じっくり読んでいくうちに気づきますけれど、彼は日本の領域の限界がどこにあるのかを見定めようとしていたように思えるのですね。稲作に関わるお祭りについて、概念や儀式・儀礼・語彙などは東西南北どこまで共通しているのか、それはアイヌにも片鱗は見られるのか、琉球はどうか、台湾の原住民の場合はどうなのかと、国境とは関係なく、本当に根気よく探し歩いたわけですね。なぜこんなことをしなければならないかと言えば、実は日本と外側の境界線というのは曖昧なもので、アイヌや琉球とヤマトとの境目はそんなに明確なものではないし、戦前であれば日本帝国は皇民化を進めていましたから、たとえば台湾や朝鮮半島で共通する祭礼を見つけることができれば、帝国主義を正当化する根拠にできるかも知れないと言うこともあったわけですね。

というわけですから、日本文化の特徴として、どこまで広がり、つながっているか、実は意外とはっきりしないというのがあると思います。民族意識・国民国家のような概念は19世紀まで明確ではなかったと思いますから、日本と日本以外の境界線が不明確であることにそこまで強い違和感も昔はなかったのかも知れません。

もう一つ、興味深い例として、日本の古い舞踊である幸若舞の題目として知られる『百合若大臣』についてもちょっと述べておきたいと思います。百合若という武者が元寇のために出征し、裏切られて帰れなくなり、死んだと思われていたら生きていて、裏切り者が自分の妻を狙っていたのですけれど、百合若が帰ってきて復讐を果たすというものなのですが、明治に入り、坪内逍遥が『早稲田文学』で百合若はユリシーズのことではないかとの指摘をします。戦争に行って死んだと思われていたら帰ってきて妻を寝取ろうとする男をやっつけるというあらすじが共通しており、名前も百合若とユリシーズですから、ユリつながりであるということを指摘するわけですね。で、大航海時代にユリシーズのお話が日本に入ってきて、幸若舞が採り入れたのだろうという議論になるわけです。

実は純日本風と思われている文化である千利休の茶道も大航海時代の影響を受けたのではないかとの指摘があります。利休はお茶会の参加者にお茶碗をシェアさせてお茶を飲ませましたが、これがカトリックのミサとそっくりだというわけですね。

とするとですね、日本は飛鳥・奈良時代は中国の影響をもろ受けていますけれども、戦国時代にはヨーロッパの影響をがっちり受けていたということがよく分かるわけです。

ですので、日本文化のもう一つの特徴として、海外の文物を上手に採り入れ、自分たちのものにしてしまうのに大変に長けているということもあるのではないかなと思います。明治維新以前より、日本人はそういうのがうまかったという感じですかね。

むしろ近代化後の方が、永井荷風みたいな西洋帰りを中心に「外国のマネなんかするな!」という人を多く輩出していると考えた方が、実際に近いかも知れません。



儒教⽂化圏の問題提起が近代化に与えた影響は何ですか。また、 それは現代のアジア社会において有効だと思いますか?

北京大学で起きた反日的愛国運動を五四運動と呼び、その中心になつたのは北京大学関係者たちで作った新青年という雑誌でした。魯迅の弟の周作人が、与謝野晶子の貞操論と呼ばれるエッセイを中国語に翻訳し、それが新青年に掲載されます。このエッセイでは、親に決められた結婚相手と一生暮らし、心の中でほかの相手を想っているのは、とんでもない浮気者で、自分の意思で結婚し、好きな人と一途に結ばれることこそ真の貞操観念で、仮に相手のことを好きではなくなつたら離婚した方が当人たちのためであるというような内容だったのですけれど、編集サイドは読者に意見を求めました。中国社会も与謝野晶子の言うような価値観を採用すべきかどうか誌上で討論しようと言うわけです。私は掲載された投書を全て読みましたが、その大半は自由恋愛は家制度の維持という観点から望ましくないと言うものでした。中華圏は家制度について日本人よりも遥かに深刻に考えていますが、実際、近代化された後の中華圏の様相を観察する限り、台湾香港もシンガポールもご本家中国も出生率は1程度に落ち込んでおり、家制度の維持などとてもおぼつかない状態になっています。儒教的家制度と近代化は両立しないと思います。どちらが正しいのかというより、どちらを選ぶかと言うことかなと思います。



様々な時代背景の話で、日本の場合は“明治”“近代化”がキーワードとして登場する事が多いのですが、結局のところそこで無理やり文化が接木されその恩恵も弊害もごちゃ混ぜな今という事なのでしょうか?

そんな風に言えそうな気もしますねえ。関東大震災が起きた日、永井荷風は山之上ホテルでランチするのですが、日本人が西洋人の猿真似ばかりをして、似非西洋人になっていることへの天罰だ、というようなことを書いています。石原慎太郎さんが東日本大震災を「天罰だ」と言って批判されましたが、おそらくは永井荷風をぱくったんだと思います。で、江藤淳さんが若いころの評論で日本の文芸作家たちはフランス自然主義を採り入れて、近代文学者に「なりおおせた」というような表現を使っていたと思いますが、以上述べたように、日本の近代化が無理に無理を重ねた自己否定と猿真似の複合物なのだということについては、それに対する批判があたかも伝統でもあるかのように繰り返されてきました。とはいえ、私たちは近代人としての思考が身についていますから、今さら封建社会に戻ったところで適応できず、近代的な生活がしたいとの希望はもちろんあります。ですから、おっしゃる通り、弊害も恩恵もごちゃ混ぜな今なのだと思います。



権力構造の分析は困難であり、単純なものではないのにも関わらず、ロシアによるウクライナへの侵攻の発端となった原因はプーチンのみであると見做し、理解する人間がいるのは何故だ?国際政治学を学んでいないのか?

太平洋戦争が終わってから、GHQは戦争犯罪人の指名作業に入りましたけれども、彼らは日本の複雑な権力構造の理解に注力していきます。たとえば木戸幸一に対する尋問調書が出版されていますけれども、そういうものを読むと、アメリカ側が御前会議にどのような機能があったのか、統帥部にはどの程度の権限があったのか、誰が、どこで、どんな風に権力を使用したのか、或いはしなかったのかというようなことについて、非常に事細かに繰り返し、念押しするようにして木戸幸一に質問していることが分かるわけですけれども、読んでいる側も段々混乱してくるくらいに複雑ですし、人物も入れ替わりますし、慣例・暗黙の了解など、木戸幸一も厳密にどういうものかを説明できないものがいろいろ出て来て、それが日本の意思決定に最終的に大きな影響力を持ち、天皇ですら抗うことができないことがあったということがいろいろと述べられています。取調官が尋問しながら、どうして天皇も政治家も戦争したくないと思っていたのにあれだけの大戦争になったのか訳が分からないと思いながら質問している、その息遣いのようなものも感じられて、非常に興味深いのですけれども、結果、取調官が理解していったことは、真珠湾攻撃・対米開戦はどうも天皇の意思ではないらしいということのようだったのです。木戸は自分が書いていた日記を提出し、その日記の英訳を元に尋問が続けられましたが、木戸日記は東京裁判の起訴状の作成や共同謀議の成立の可否などについて大きな影響を与えたということが、尋問調書を読むととてもよく分かります。

そういうわけですので、おっしゃる通り、プーチンがどういう権力構造の中で意思決定したのか、彼に影響を与えていたのはどんなグループの誰なのか、ウクライナ侵攻を決意させるロシアの内部的要因にはどんなものがあったのか、などのことを分析していく必要はあると思いますけれども、戦後にならないと出てこないんじゃないですかね。