大阪は東洋一の工業都市だった

 谷崎潤一郎は『春琴抄』で、大阪の街を「東洋一の工業都市」と表現しています。『春琴抄』は昭和初期に書かれた作品で、確かに当時の大阪は工業力に於いては東京に勝っており、他の東洋のどの都市よりも工業化が進んでいたことを疑う必要はなさそうに思います。

 東京が経済力で大阪を追い抜いたのは1970年代のことであり、そのため20世紀は東の東京、西の大阪がそれぞれ中心地だという人々は認識していたに違いありません。

 ただ、どうもバブル経済崩壊後は東京が一進一退で、文化芸術面ではある種の昇華を見せたとも言える一方で大阪はそのまま音を立てて崩れてしまったように見えなくもありません。

 私は東京と大阪が混じっていますのでどちらのこともよく知っている反面、どちらのことも中途半端にしか知らないのですが、大阪が勢いを失ったことは大阪を訪問する度にじわっじわっと感じないわけにはいきません。

 大阪は世界的な都市として勝負できるだけの潜在力を十分に持っているはずですので東京人がどうとか大阪人がどうとか言う前に日本人としてそういう力を十全に発揮できないことに対して「ああ、もったいない」という気持ちをどうしても持ってしまいます。

 大阪復活策として掲げられた都構想ですが、なんだかんだとこねくり回したからか回されたからなのか話が単なる行政の統廃合の話になってしまい、迫力をなくしてまった感じがしなくもありません。

 リニア新幹線が大阪に開通するのが2047年(最近少し早まったようですが)で、しかもぶっちゃけ京都に通すか奈良に通すかも決まらないらしいので、これからは名古屋という意見が強いのも頷けます。実際、名古屋駅前の発展ぶりは目覚ましいものがあります。

 大阪は歴史もあり、京都奈良にも近く、その存在意義は計り知れない都市です。何か良い方法はないもんかいな?とちょくちょく一人考えるのですが、なかなかうまい方法というのは思いつきません….

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小沢一郎を分析する

 90年代から2010年ごろまでの20年近く、政治に関する報道で小沢一郎氏は欠かせない存在でした。自民党の剛腕幹事長として知られ、選挙の当選請負人とまで言われ、政党を作っては壊す壊し屋としてもよく知られた人物です。

 私が気になるのは、彼はどうしても事が最終的にダメになってしまうという現象を自分から生み出しているのではないかと思える点です。特に人間関係が破綻し何もかもダメになり、一からやり直すを繰り返しているように見えます。

 自民党幹事長時代、今から思えばあの時こそ小沢氏の黄金期だったような気もしますが、彼が重用された背景には金丸信氏の強い後ろ盾があり、竹下登氏もそれを容認していたからだと言えます。しかし小沢氏は竹下氏に強く反発し、金丸信を見捨てて自民党から離脱します。小沢氏が自民党復帰を望んでいたことは、自自公連立政権期に自民党との合併を模索していたところからも分かりますが、心中、自民党が懐かしかったのではないかと私は思っています。

 小沢氏はその政治人生で多くの政治家と協力関係を結びますが、彼の協力者になった人物はたいてい、ろくな目に合っていません。小沢氏だけが悪いのではなく、相手の人物との相互作用でいろいろなことがダメになっていくのですが、悉く人生が狂っていきます。今の段階は、そして誰もいなくなったといった感が漂います。

 小沢氏は少年時代、父親と過ごしたことがほとんどなかったそうです。私も同じなので分かるのですが、父親との関係が希薄だった場合、全てではないにしても同性との関係がうまくいかなくなることが多く、寂寥感を紛らわせるために女性に依存するというパターンが生まれやすいように思います。そのような依存はあまりいい結果を生みませんので、最終的には同性からも異性からも孤立するということに立ち至ることもあるでしょう。女性であれば母親と仲良くしてそれでOKなところもありますが、男の子は母親からは飛び立たなくてはいけません。

 小沢氏が自民党から離脱して新政権を作ったとき、テレビニュースを見ながら高揚感を得たことを今も覚えています。今思えば私も青かったですが、それだけの夢を見せてくれたという意味で、同情する心も込めて、小沢氏の心理的面での分析をしてみました。

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プラザ合意のこと

1985年、ニューヨークのプラザホテルで行われたG5会合でドルの全面安の容認の合意がされたことをプラザ合意と呼ぶことは大変有名な話です。

ベトナム戦争以降、国力の疲弊から立ち直ることに苦慮していたアメリカが自国製品の輸出を振興するための手段としてのドル安をG5諸国に持ちかけたということなのですが、当時の空気としては、世界の資金がドルから円へと移動することが確実視されており、日本側から見れば事実上の円全面高への移行という理解になります。

交渉に臨んだ竹下大蔵大臣は、プラザ合意は実質的に日本とアメリカの二国間の協議で決まったとして、「とうとう日本はアメリカと肩を並べた」と周囲の人に話したと言います。

プラザ合意後、日本円は一機に値上がりし、言い換えるなら市場の判断する適切な価値がつけられるようになりました。一方で、生産拠点が海外へと流出するようになり、産業空洞化という言葉が使われるようになっていきます。

日本銀行の金融緩和により、国内でキャッシュがだぶつく事態となり、バブル経済が発生しますが、投機の過熱を懸念した日銀が金融引き締めに政策を転じたため、バブルの崩壊といつ終わるとも知れぬ不況へと日本は迷い込んで行くことになってしまいます。

プラザ合意はアジア諸国への産業移転、バブルの発生と崩壊という日本のその後を決定する極めて重大な出来事であったと言うことができますし、アジア諸国が世界の工場と呼びうるほどに生産力を高めることに弾みをつけ、日本から部品を輸出して海外で組み立て、再び日本に輸入する(或いは更に他の国へと輸出する)という経営モデルを定着させる契機となった、今の世界を形作った第一歩になったとも言えそうです。

当時、人々はいずれ日本はアメリカを凌駕する経済大国になるとすら囁き合ったものですが、ちょっと調子に乗り過ぎていたところもあったかも知れません。

経済の調子が上向き続ける時、人は浮かれます。下降が続くと人は内省的になり、思索を深める面もあるようにも思えます。そのような意味では、日本人は経済的には厳しい時代を迎えてしまいましたが、世の中に揉まれることで人格的には向上したというプラスの面もあったのではないかという気もしないでもありません。