河井案里議員の記者会見を論じる

昨年から、河合案里議員がウグイス嬢に多めの報酬を支払ったことが法律違反の疑惑を招いている。ウグイス嬢にちょっと多めに報酬を支払ったというだけで、議員辞職しろとか言われるのは、過酷すぎるようにも思えるので、そのあたりは気の毒だとも思う。他ではもっとうまくやっているのに、要するにやり方が下手だったということでしかない。自民党内のしがらみが見え隠れするので、河合夫妻を敢えて窮地に落とし込んでやろうという人々がいそうにも思えるし、こういったことは、そのあたりに黒幕がいそうな気もする。証拠はなくて気がするだけだが、ウグイス嬢に報酬多めというのは、巨悪にしては話が小さすぎるので、なんか陰謀のにおいがしないわけでもないのである。

そういうわけで、同情すべき点が多々あるようには思うのだが、その後の河合陣営の動きは非常にまずいものではあった。全然巨悪とかじゃないので、早い段階で謝罪会見とかしていればけっこう生き延びるチャンスはあったようにも思えるが、河合議員は貝の如くに押し黙り、結果として世論を敵に回すことになってしまった。貝のように押し黙ってしまったのは、どうすればいいか分からないからで、それだけ本来の性格は素朴なのだと見ることもできるだろう。様々な傍若無人伝説があるが、そんな風にしかできない不思議系なのであるということで、だいたい説明がつきそうにも思う。繰り返すが、ウグイス嬢への給料多めだったというだけだったので、巨悪でもなんでもないのに、下手を売ってしまった。一番まずかったのは、記者会見というか、記者との立ったままのブリーフィングがいろいろな意味で残念な感じになってしまっていたのである。

まず、年末年始、記者はきわめて悪い感情を河合夫妻に対して持つようになっていたことは容易に察することができる。真冬である。にもかかわらず、河合事務所の近くでひたすら記者たちは張り込みを続けていたらしい。となれば、体力的にも精神的にも記者たちは追い込まれる。私も張り込み取材の経験はあるが、あれは結構堪えるものだ。なぜ、こんなことをしなければならないのかと記者は考えるようになり、冬の冷たい風が吹きすさぶ中、暖かい部屋で休息しているであろう河合議員への憎悪は増幅されやすくなる。しかし、上司の命令があるので記者は帰るわけにもいかない。早く記者会見をしてくれよとの不満が湧いてくる。そしてようやく河合議員が登場したのだが、警察の捜査に協力しますを繰り返すだけで、何を考えているのか、どうしたいと思っているのか、本人の主張はなんなのか、とうとう、全く案里氏の声が届かない記者会見になってしまった。これでは文字にすることができない。従って、河合議員の立ち会見は空虚なものであったとする内容のことしか書けない。記者は何日も待たされた挙句に空虚なブリーフィングに立ち会わされたので、報道に悪意がどうしても滲んでしまうことになった。ブリーフィングを終えて、河合議員が屋内へと入っていったあとの満面の笑顔を撮影されてしまい、しっかり報道されてしまったのも、記者が悪意を持ったことの帰結である。

では、どうすれば良かったのかということになるのだが、窮地に立たされた際、生き延びよう、有利に物事を運ぼうとすると、人は欲が出てしまい、あれもこれもとなってしまう。結果、失敗する。そうではなく、一点に絞らなくてはならない。記者会見は単に追求を交わすためだけにやるものではない。開く側の言いたいことを存分に主張して、世の中に訴えるという場でもある。案里議員は、自分の言いたいことを言うべきだった。言いたいことというのは、ウグイス嬢に多めにお金を払ったことがそんなに悪いのか?ということに違いない。普通に考えてもそこまで悪いとは思えない。巨悪とは全然違うわきの甘さ故の違反に過ぎない。そう主張すればよかった。多くの怒りたいだけの人は反発するだろう。金額の問題ではない、違反したことが悪いのだと。だが、確かにそれもそうだなと思う人もいるはずだ。味方は現状よりは増える。好意的中立の人も増やせたかも知れない。記者会見はそんなに何度も開けるものではないから、案里議員は貴重な好機を逃してしまったことになる。いいブレーンがいないのかも知れない。今から巻き返すとすれば、記者会見はやらない方がいい。今度記者会見があれば、議員辞職する・しないの話になるだろう。そうではなく、どこか一社を選び、独占インタビューに持ち込むのがいい。そこで主張したいことを主張すれば、案里担当の記者たちは驚き、記事を熟読し、自分も同じコメントをもらいたいとそれぞれに動き出す可能性はある。記者はそんなに考えて行動しているわけではないし、上司は特落ちを怖がっているだけで動きがあれば、「とりあえず行ってこい」しか言わないので、上のようなやり方でも充分に釣れるはずである。

ただ、懸念材料としては、1億5000万円の話がある。普通は1500万くらい党から受け取れるらしいのが、案里議員は15000万円もらっていたというものだ。あの話が出てから、自民党議員が公然と批判するという場面も見られた。別に自民党の中のお金を自民党員が受け取ったという話なので、犯罪ではないが、もうここまで来ると、党内で守ってもらえなくなってしまい、居続けることができなくなるという恐れはある。

そうはいっても、安倍首相は案里議員の辞職は話がややこしくなるのであんまり辞職してほしくないらしいし、どうも自民党内の政争という観点からも案里議員を残したいとの思惑もあるとかないとか、といったところらしい。ならば、安倍内閣が存続する限りは大丈夫かも知れない。今は有権者もそっぽを向いているが、案里議員の任期は、あと5年あるのだ。有権者が忘れてくれる可能性はあるし、がんばって仕事をしたら赦してくれる人も出てくるはずだ。私は別に案里議員を助けたいとも応援したいとも思わないが、ウグイス嬢に多めにお金を払っただけでキャリアが台無しにされるのは人間の情としてちょっとどうかと思うので、ちょっと書いてみました。





社民党はいつ失敗したのか

ちょっと長く政治ウオッチをしている人にとっては、わりと当たり前の内容になるとはおもうのだけれど、今、社民党消滅が現実的な日程に入っているぽいので、一応、私も長く政治ウオッチをしてきた一人として、節目のためにもまとめておきたい。キーワードは、土井たか子、小沢一郎、村山富市、そして福島瑞穂だ。もしかすると辻元清美についても語るべきなのかも知れないのだが、私はかの御仁についてあまりよく知らない。語り得ないことについては沈黙せよとウィトゲンシュタインは書いた。従って、辻元清美については触れない。

社民党の前身は社会党で、長い間、戦後日本の非自民として求心力を維持してきた。55年体制が確立されて以来、自民党が議席3分の2を獲得するのを防いできたのが社会党だと言っていいだろう。自民が280前後くらいの安定多数を得続けて来たなか、社会党は100前後で推移し、政権はとれないものの、無視できないだけの勢力を常に保ち、自民党が嫌いな人たちへの受け皿となっていた。社会党が存在しなければ、自民党はあっさりと憲法を改正していただろうから、今のような護憲対自主憲法という不毛な政治対立もなかっただろう。社会党が現実的な左翼・リベラルを堅持し続けたので、共産党は安心して極端な理想主義を打ち上げ続けることができたのだと言うこともできるだろう。自民党が資本家と地主の利益を代表し、社会党は労働者と弱者を守るために戦い続けて来た。読書が好きな人、映画が好きな人は素朴に弱い人の味方をすることに共感する人が多い。そういう人から見て、社会党は魅力的な政党だったはずだ。

社会党が特にその存在感を発揮したのが土井たか子の時代だったと私がここで述べて、異論を唱える人は少ないと思う。土井たか子は様々な意味でインパクトの強い存在だった。今ではそこまでではないが、当時、女性が党首になるというのは、凄いことだった。時代が変化しているということを彼女は自分自身によって証明していた。多くの人が憧れたし、今も、土井たか子を心の中の理想としてがんばっている人は多いはずだ。そして何よりも、参議院で自民党を過半数割れに追い込んだことは、その後の日本の政治史に強い影響を与え、今日もその影響下にあると言っていいだろう。以後、自民党は20年にわたり参議院の単独過半数を回復することはなかった。衆参のねじれは政治の意思決定を致命的に鈍らせることになった。そして自民党は公明党であれ、どこであれ、他党の協力を得なければ、政権を維持できない政党になった。今は衆参ともに自民が単独過半数を握っているが、それでも他党の選挙協力なしにそれは無し得ない。自民党はアメリカからの要求の受け皿として機能しているが、アメリカからの種々の要求に対し、「政権与党の理解を得るのが難しい」というカードを手にすることになった。自民党は必ず、公明党の同意を得なければならない。アメリカのためのポチ度数のようなものは下がった言えるだろう。功罪あるが、土井たか子がそれを成し遂げたという、そのメルクマール度、エポックメイキング度は忘れられることはないに違いない。

土井たか子が自民党を過半数割れに追い込んだ、あの参議委選挙の時、確かにいろいろなことが追い風になっていた。自民党は竹下時代に消費税を導入し、当時は3パーセントという、今の10パーセントに比べれば可愛いものだったが、日本人の消費の足を引っ張り、日本経済を頭打ちにし、日本人の生活水準を明白に押し下げる第一歩が踏み出されていた。更にリクルート事件で竹下退陣があり、自民党の評判は最悪だった。更に加えて、次の首相が宇野宗佑である。宇野氏自身にオーラがなかっただけではない。誰がどう見ても、竹下復権までのリリーフであり、多くの人が宇野宗佑首相に納得しているわけではなかった。小沢一郎が竹下と金丸信に首相になれと説得されて、何が何でも嫌だと断ったのは、宇野宗佑みたいになりたくなかったからだ。宇野氏はもはや亡くなられているので、故人のことを悪く言うことは気が進まない。死者への敬意は大事にしたいので、具体的なことは述べないが、これから参議院選挙という時期に、宇野氏個人のスキャンダルが持ち上がり、宇野氏が選挙演説に行くとかえって負けるから来ないでほしいくらいの感じになった。宇野氏は気の毒である。竹下時代のリクルート事件と消費税という負の遺産の責任を引き受けさせられ、且つ、スキャンダルにしても、まず間違いなく意図的な狙い撃ちだった。彼は引責辞任するためだけに首相になったようなものだ。まあ、そういうわけで、土井たか子は運が良かった。敵失があまりにも凄まじかった。土井たか子も他界している。故人に敬意を表すという意味で、やはり、その功績により光を当てたい。55年体制という、アメリカの軛みたいな構造を叩き壊す、その始まりみたいなのは、やはり土井たか子の功績なのだ。

参議院で過半数を割った自民党は慌てた。当時の感覚としては、うまく説明できないが経済は底なしに悪くなり始めていて、国民に説明できない、にもかかわらず次の選挙があるし、どこから何に手を付ければいいか分からない。というあたりだったに違いない。自民党は党内の改革を模索するようになったが、30年間単独政権を続けていたため、変革のダイナミズムを失っており、何を改革していいのか分かる人はいなかった。党内の慣習とか人間関係の壁はあまりに厚く、動かしがたかった。マスメディアは、自民党には自浄作用がないと書き立てた。宇野退陣の後、その中で、宇野の次に首相になった宮澤喜一は相当な人材だったと私は思っている。当時の日本にとって宮澤喜一がいたことは救いだった。功罪あるし、評価は半ばすると思うが、少なくとも住専に公金を入れれば日本経済は復活するとする彼の見立てはかなり正確だった。だが、やはりマスコミが騒いだ。マスコミはまだ、日本が衰亡へのがけっぷちを歩いていることに気づいていなかったのだ。このような不毛なすったもんだが続く中、テーゼとアンチテーゼをぶつけ合って、ジンテーゼ、アウフヘーベン!イエス、高須クリニック!みたいな男が日本の政治の世界にパラダイムシフトを起こした。小沢一郎である。一応、ことわっておくが、宮澤喜一も故人であるものの、歴史の評価に耐え得る人物であると私は思うので、手心を加えるようなことはしない。その方が、より、宮澤に敬意を払っていることになるだろう。で、小沢である。

小沢は宮澤喜一に難癖をつけて、社会党が出した宮澤喜一不信任決議案に賛成すると脅しをかけた。宮澤喜一はサンデープロジェクトに出演し、生放送で田原総一朗に対し政治改革を必ず実現すると約束させられてしまった。日本の政治は、明らかに悪い意味でマスメディアのポピュリズムに浸食されていた。政治改革という言葉は濫用され、何をどうすれば政治改革が実現したことになるのか、誰にもよく分からなかったが、議論は選挙制度改革に矮小化され、宮澤は選挙制度改革の法律を成立させると田原に約束したのである。この法案については、特別委員会が設けられたものの、自民党内にも反発は強かった。政治家は長い年月をかけて地元の票を耕し続ける。選挙制度が変更されれば、これまでの票田開発は場合によっては無に帰するかも知れず、次の選挙で勝てるかどうかの保障もない、みんな嫌がっていたのだろう。宮澤の知らないところでクーデターが進み、委員長が廃案を宣言することで、この選挙制度改革は立ち消えになった。宮澤は田原総一朗との約束を守れなかった、嘘をついたと喧伝され、小沢がそれに乗った。小沢はおもしろい男だし、戦略的思考は匹敵するもののいないくらいの幅の広さを見せるが、いざ実行するとなると、その戦術はせこい。宮澤の知らないところで起きた、どちらかと言えば宮澤も被害者みたいな現象を宮澤の責任だと触れて歩き、社会党と協力し、小沢は一機に全てを手に入れようと画策したわけだ。小沢は政界全てを丸ごと呑み込もうとしたし、一時的にはそのような状態になった。小沢が宮澤を脅していた時、小沢の入っていた竹下派では小沢につくかどうかで人心が揺れていた。小沢は宮澤を脅してはいたが、真実の敵は宇野の次に宮澤を首相に指名した竹下だった。竹下派の議員たちは、竹下に忠誠を誓うか、小沢と新時代を作るか、どちらの方が現実味があるのか、或いはお得かについて悩んでいた。役者は竹下の方が上だった。小沢は衆議院竹下派の半分くらいを抑えていたし、もっといけそうだったが、参議院竹下派まで手が回らなかった。小沢と竹下の間で、参議院には手を突っ込まないとする紳士協定が結ばれたと言われているが、結果としては竹下は参議院竹下派を丸々自分の陣営に引き込み、小沢を孤立させた。小沢と心中してもいいという議員だけが残った。それでも40人ぐらいいた。羽田孜もいたし、奥田敬和もいた。自民党はリクルートと先の参議院選挙で傷つきまくっていたから、小沢一郎に希望を託せると思った人はそれなりにいたのだ。

宮澤喜一に対する不信任決議案は、小沢一郎とその仲間が社会党についたことで可決し、宮澤は総辞職ではなく解散総選挙を選んだ。もし、宮澤が総辞職をしていれば小沢は自民党内に残り、羽田首班内閣を成立させようと動いただろう。だが、総辞職になってしまったために、小沢一派はすぐに旗幟鮮明にする必要があった。自民党の首相に不信任の投票をしておいて、自民党に残ったまま選挙戦は戦えない。小沢は新政党を作り、羽田が党首になった。新政党は躍進したが、細川の日本新党の方が凄かった。細川一人で始めた日本新党は三十人以上の議席を獲った。小沢・羽田・細川連合に公明党や社会党など、非自民・非共産が全て糾合され、自民党は衆議院での過半数を失った。もちろん、結党以来初めてのことだ。宮澤の名誉のために述べておくが、自民党は一議席増やしている。しかし小沢たちが抜けたので、過半数には全く届かなかった。宮澤は気の毒なのは、宮澤以外の要因で政権の運命が決まったことだ。政治制度改革法案は宮澤の知らないところで廃案になり、その責任は宮澤が負わされた。選挙では議席を増やしたのに、小沢たちが抜けたことで、敗戦の責任を問われた。宮澤は辞任し、河野洋平が総裁になった。もちろん、河野洋平は首相にはなれなかった。

非自民の議員たちを抱え込んだ小沢は、人心糾合の策として細川護熙を首相に選ぶことにした。羽田を選ぶことが筋だが、羽田は地獄の底まで小沢と行動をともにするしかない。半面、細川は三十人以上の議員を持つだけでなく、新党さきがけとも気脈を通じていた。彼らに自由に動かれるのは困る。なら、首相にしてしまおうというのが小沢の考えだ。この時、密かに恨みを抱いたのが社会党だっただろう。この段階で、自民を除けば社会党が最も大きな政党だったし、小沢とも協力関係を築いているのだ。なぜ、社会党の党首を首相に選ばないのか?との疑問は持ったはずだ。小沢は初めから社会党を相手にしていなかった。おそらく、本音では嫌いだったのだろう。細川連立内閣は、バラバラの複数の政党の集合体だったから、いつ潰れるとも知れぬ不安定な状態だった。小沢は統一会派を作ることで、この不安定な状態を解消しようとしていた。それは小沢が自民党から渡辺美智雄を迎えるというもので、渡辺派議員の数が魅力だった。渡辺派を抱き込めば、社会党は必要ない。小沢が構想する統一会派には社会党は含まれていなかった。社会党議員は激高し、反発した。このころ、金銭スキャンダルで追い込まれ始めていた細川は予算を通していない段階で嫌になってしまい、首相の職を放り出した。小沢は羽田を次の首相にした。当時としては、他に駒がなかった。

羽田首班内閣が誕生したものの、この政権は足元から崩れようとしていた。羽田を支える政党の一つである社会党が仲間外れにされたことに憤慨して、小沢とたもとを分かとうとしていた。手打ちが模索され、社会党の要求を小沢は受け入れることにした。社会党はメンツの問題として羽田内閣を一旦総辞職させるよう要求した。このある種の詰め腹的儀式が行われれば、我々は一度は損ねた心境を回復し、気分よく小沢に協力する。というわけだ。羽田の総辞職は飽くまでも儀式だから、次の首班指名では、当然、羽田に投票すると社会党は約束した。しかし、話はこのようには進まなかった。

羽田辞任後に改めて行われた国会での首班指名はテレビでも生中継されたが、中継を見る日本人の多くが、何が起きているのか理解できなかったに違いない。自民党と社会党が協力し、自社連立で非羽田・小沢政権を作ろうとしていた。自民と社会が手を結べば、小沢は少数派だ。たった一日で、テレビの中継が行われている中、権謀術策が繰り広げられた。自社連立で社会党党首の村山富市が彼らの首相候補になった。テレビの前にいた市民は、こいつら本気か?と耳を疑った。つい先日まで、自民と社会とはあれほど激しく争い、罵りあい、不倶戴天の敵であるかのように批判し合っていたではないか。あれはやらせだったのか?政治はプロレスなのかと。小沢は自民党を切り崩すために、海部を起用した。もはやプロレスなのだから、何でもありなわけだ。中曽根は思想信条の問題として社会党党首に投票することはできないと記者会見した。社会党内部でも自民党と連立することによしとしない意見はあったようだが、赤松が「社会党の首相を誕生させよう」と説得し、村山富市が首班指名されることになった。海部や中曽根の離脱もあって、自民党からは村山指名しなかった議員もある程度いたが、秘密投票なので、はっきりとは誰がそうしたのかは分からない。海部は善戦したが、村山が勝った。日本中で、何が起きているのか分からない人が大勢いた。私もそうだ。

村山は自衛隊の行進にも出かけて行ったし、社会党本部の前にあった、消費税反対の看板は撤去された。阪神淡路大震災で後手後手に回ったことで、村山への批判は強まった。社会党に投票していた人たちの多くが、自民党の政策をそのまま受け入れる姿勢を示した社会党に再び投票するわけにはいかないと考え始めた。社会党の終焉は誰の目から見ても明らかだった。本当に社会党が終焉する前に手を打つ必要があった。細川護熙が「黒衣に徹する」と新党の立ち上げに動いていた。新しい政党は民主党だ。非自民・小沢抜きが細川の提唱していたもので、菅直人とか鳩山由紀夫とかが参加し、このまま社会党に残っていては生き残れないと、多くの社会党議員、たとえば赤松とかが民主党に飛び移り、生き延びた。社会党にとどまった人たちは、政党を社民党に変え、自民党とは手を切り、孤高の政党を目指せるかどうか、やれるだけやろうと決心したに違いない。私はこの段階で、社民党にとどまった人たちのことは、その志に於いて、見るべきものがあると思う。その中に福島瑞穂がいて、彼女は長く党首を務めた。

福島瑞穂は、原点に立ち返り、護憲を貫いた。だが党勢は回復しなかった。非自民に投票したい人の票が割れたことは大きいだろう。今思えば、福島瑞穂の時代に、もう一歩、ビジョンが見えることを有権者に語り掛けていれば、社民党はもうちょっとなんとかなったかもしれない。たとえば山本太郎は小沢一郎に拾い上げられて気づくと、日本で一番目立つ政治家になっている。たとえば山本太郎を社民党に引き込んでいれば、いろいろ違ったかも知れない。ただ、山本太郎は、社民党に入るより令和新選組の方がやりやすいと考えた。それくらい社民党は魅力がなかったのだろうか。福島瑞穂の時代は結構長かった。巻き返すための手段はいろいろあったのではないだろうか。気の毒である。

こんなに長くなるとは思わなかった。手が痛い。私は政治信条としては自由を強く支持するので、あまり社会党とか社民党とは相性は良くない。しかし、今、消滅しようとしているあの政党のことを考えた時、彼ら、彼女たちに、巻き返しのタイミングはなかったのだろうかというようなことを思うようになった。そして書いてみたら、そのタイミングが見えるだろうかと思ってはみたが、具体的に、こうすればよかったというのは見当たらなかった。社民党を悪く書くために書いたのではない。同情して書いた。ソ連の消滅とか、いろいろ社民党にとって追い風にならないことは続いた。小泉純一郎の時代があったのも、社民党にとっては不運だったかも知れない。小泉は最盛期には支持率90パーセント越えだったし、このような時に社民党が党勢回復するなど考えにくい。小沢の政党は自民には勝てなかったが、他の野党の議席を奪い続けていた。

ああ、これ以上長くなると、本当に私が倒れてしまうので、終わります。私は社民党への善意でこれを書いた。社民党の方々、支持者の方々にはご理解願いたい。
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レ―リンク判事の東京裁判に関する議論

東京裁判が行われた際、オランダ代表として判事の席に加わったレ―リンク判事が、カッセーゼなる法学者と東京裁判の是非や意義などについて語り合った『レ―リンク判事の東京裁判ー歴史的証言と展望』を読んでいるところなのだが、非常に興味深い内容なので急いでシェアしたいと思い、ブログに書き込むことにした。

簡単に言うと、レーリンク判事は、裁判そのものがアメリカのやらせみたいなもので、マッカーサーはもちろんヤラセにする気まんまんで、ぶっちゃけ真珠湾攻撃のことさえ日本に償わせればあとはどうでもいいくらいに思っていて、更にキーナンみたいな二流検察官が起訴を担当していたんだけれど、マッカーサーに言われた通りにしかできない男なので、東京裁判はつまんない裁判だし、不均衡だけど、世界平和のための前例や先例を残すという意味では全く無意味とも言えないんじゃない。というような内容だった。

もう少し詳しく掘り下げたい。

レーリンク判事曰く、ナチスドイツの侵略性や犯罪性を指摘して裁判にかけ、個人の悪意を立証して刑罰を与えるのはロジックとしてはわりとシンプルなものであったため、ニュルンベルク裁判はそんなに難しくなかったのだが、東京裁判の場合はどこまでが侵略でどこからが自衛なのかはっきりせず、犯罪性についても部下がやったことについて知らなかったのに責任をとらされるとかそういうのもあって後味はあんまり良くなく、被告人たちの意識では自衛戦争を戦っていたのだから、悪意の立証とかも無理ゲー。みたいなことになっていた。

たとえば山下奉文司令官はフィリピン戦での将兵の残虐行為について責任を取らされて絞首刑になったが、レイテ沖海戦の後のフィリピン戦では山下司令部と戦線では物理的な連絡手段がアメリカ軍の攻撃によって絶たれてしまっていたため、そもそも山下司令官は残虐行為が起きていたことを知らなかった可能性があって、それでも部下の不始末で有罪と断定されることが果たして正しいのかどうか、レーリンク判事は疑問を呈している。

東条英機は証言台で日本にとってアメリカとの戦争は自衛戦争だったと言ったことはまことに正しいとんの判断を示していて、アメリカ側が真珠湾攻撃に対する犯罪性の立証に熱心であったとしても、ハル国務長官は日本が絶望して戦争をしかけてくるのを待っていたふしがあるし、アメリカ側として日本が攻めてきてくれれば正々堂々と戦争できるとジリジリ待っていたにも関わらず、うっかりしていて真珠湾での対応に遅れが出た。日本の外交電報を全部解読しているのだから、日本が戦争の決心をしたことはもちろん分かっていたし、野村大使らがハルに対して宣戦布告するのが遅れたのは交通渋滞があったからだとしている。

パル判事の日本無罪論は有名だが、レーリンクの日本擁護はあまり知られていない。パルの場合はインドが植民地にされているという問題意識、郷土愛、アンチ欧米みたいな感情とロジックが入り混じって日本無罪論にたどり着くのに対し、レーリンクの場合は普通に考えて法理論的に言ってこうなんじゃない?という論法なので、もっと注目されても良さそうにも思える。とはいえ、冷徹なロジカルシンキングと感情をベースにしたロジックの形成の境界の線引きはそこまで簡単ではないので、私のような人文、歴史、政治を中心に勉強してきた人間が法学についてあんまり踏み込んでえらそうなことは言えないのだが、まあ、レーリンク判事の述べている内容に引っかかるものは感じなかった。野村大使が交通渋滞で引っかかったあたりを読みつつ、なら野村大使がハルに電話で「宣戦布告する。書類は後で持っていく」と一言あれば良かったのだろうかとか、東京でグルー大使を呼び出して宣戦布告すれば問題なかったのでは?とか考えてみたりした。だがこういった周辺的なifはレーリンク判事の議論とは関係のないことではある。門外漢なので、思考がそのようにあちこちへ飛んでしまうのだ。

レーリンク判事は、日本を無条件降伏まで追い込み、政治や社会を根底からアメリカの望むものに変革しようとしていたらしき様子について、やっぱアメリカ人ってそうだよな…的な発言もしていたのだが、このあたりにヨーロッパ人のアメリカ人に対する冷めた視線を感じないこともなかった。ヨーロッパ人と話せばわかるが、彼らは本心ではアメリカ人のことが大っ嫌いだ。ファッションセンスと料理に対する感性が絶望的なくせに世界の支配者だと思っているあたりが受け入れられないらしい。アメリカ独立戦争以来の旧世界対新世界の対立は今日まで続いている。私の場合は「お前の英語はアメリカ人みたいで気に入らねえ」みたいに言われたこともある。なかなか根深い。

アメリカは南北戦争の時に南軍は壊滅的な状態まで追い込まれ、南部社会そのものが解体されるところまで追い込んだ。一方が一方を完全に滅亡させる戦争という意味ではローマ対カルタゴみたいな戦争だったわけで、この発想法で日本と戦争したために、無条件降伏にこだわり、無差別爆撃や広島・長崎への原子爆弾の使用まで行ってしまったという感じのことを私は読みながら考えた。そうかも知れない。第一次世界大戦でロシア、ドイツ、オーストリア、オスマントルコの皇帝たちがいなくなったが、いずれも革命によるもので国内的な要因の結果であり、戦勝国が敗戦国の政治体制を解体したわけではない。日本の場合は天皇こそ残ったが、憲法を替えたので、政治体制には革命的な変革が起きた。占領地の法令を変えてしまうことは、むしろ第一次世界大戦後の戦争の法の厳密化の流れの中で忌避されるべきものでもあった。

このようなことを考えると、何が正義で何が間違っているのか、だんだん分からなくなってくる。レーリンクの日本無罪論を振りかざしたところで、中国の人は納得しないだろう。とはいえ、レーリンクの議論も筋は通っている。ちょっと疲れてはきたが、飽くまでも考える材料にするという意味では、東京裁判に対して如何なる考えかたを持っている人であったとしても、この書籍を読むことには価値があるに違いない。



JR藤沢駅構内のカレーステーション

中曽根政権期、国鉄が解体され、JRという新しい鉄道会社が誕生した。国鉄は国営だったが、JRは民営である。そのため合理的な経営が図られることが期待されるようになった一方で、それまで国鉄で働いていた多くの労働者が不要になるとの見通しがあり、まさか会社の経営が変わったのであなた辞めてくださいというわけにもいかず、人材をいかに活用されるかが議論の対象になった。国鉄には極めて協力な労働組合である国労があり、中曽根首相(当時)の狙いは、国労の解体にあったとの見立てもあって、それはそれで説得力のある見立てであるとは思うのだが、ここではそこには踏み込まず、人材活用の方に光を当てたい。

国鉄で労働者として勤務し、JRになってから行き場をなくしてしまった数万人規模の労働者の人たちは、JRの多角的経営というか、副業みたいな場へと異動させられていった。私の記憶が間違っていなければ、売店みたいなところとか、テーマパークみたいなところとかへ異動があったように思う。そして、そうしたJRの副業と人材活用の一環に、レストラン業があって、その一環としてJR藤沢駅にもカレー屋さんが作られたのである。

消費者の立場としては、カレー屋さんで働いている人が元国労かどうかということは関係がない。もともと鉄道の仕事をしていた人かどうか、そういったことはどうでもいい。問題はおいしいかどうかである。当時、まだまだ若かった私にとって、JR藤沢駅のカレーステーションは、ショッキングなくらいに私の心を揺さぶった。要するに、この駅のカレー事業は大当たりで、私は非常にこのお店を気に入り、一時は足しげく通ったものである。繰り返すが、私は決して、働いている人に同情して通ったのではない。駅で気軽にカレーが食べられるというコンセプトに感激し、実際にカレーもおいしいから、ますます感激の度を強め、通ったというわけだ。

最近、久々に立ち寄ったので、記念にカレーの写真を撮り、ブログでも記事として残しておきたい。安くておいしいカレーが通りますよ♪



大磯と近代

大磯を歩いてきた。大磯は興味深い場所だ。まずなんといっても風光明媚だ。天気が良ければ富士山が見えるし、そのような日は相模湾の向こうに伊豆大島も見える。景色に占める海と山、人の世界のバランスが絶妙で飽きない。海岸に出て右手を見れば伊豆半島で、左手を見れば江ノ島と三浦半島が見える。これほど贅沢な景色のあるところは日本中探してもそうはあるまい。

そしてもう一つ、おもしろいのは近代に入って別荘地として大磯は人気が高かったことだ。たとえば西園寺公望は大磯に本格的な洋館を建てた。もともとが幼少期のころの明治天皇の遊び相手で、明治・大正・昭和と政界に鎮座し、元老という実質最高権力者の位置に立ち、昭和天皇のアドバイザーというか教育係みたいな人物だった西園寺は、長いフランス生活から帰った後、しばらくの間、大磯で生活した。

旧西園寺公望邸

西園寺邸よりももう少し二宮方面へ歩くと、吉田茂邸もある。吉田茂は大磯で生涯を閉じた。彼の邸宅は見事なもので、まるで高級旅館である。このほか、原敬、大隈重信、西周、伊藤博文とビッグネームが並ぶ。そして私は山県有朋の名前がないことに気づいた。山県は小田原で別荘を構えていたが大磯には別荘を持っていなかったということなのだろう。で、漠然とではあるが、あることに気づいた。明治から昭和初期にかけての政界は、厳密にではないにせよ、ある程度、漠然とではあっても、小田原派と大磯派に分かれていたであろうと言うことだ。
旧吉田邸
小田原にいた山県有朋は政党政治を重視せず、超然内閣路線の支持者だった。戦前の帝国憲法では議会に勢力を持っていない人物が首相に指名されることは制度上可能だった。山県は議会の意向を無視した、すなわち、超然とした内閣が組閣されるべきとした政治思想を持ち、国民から嫌われまくって生涯を終えた。

一方、山県とはライバル関係にあった伊藤博文は党人派だった。伊藤の時代に政党政治はまだ、やや早すぎた可能性はあるが、伊藤の理想は現代日本のように、選挙で選ばれた議会の人物が首相になり、議会と行政の両方を抑えて政策運営をすることだった。イギリス型議会政治を目指したと言ってもいいと思う。この伊藤の理想を大正時代に入って実現したのが、初の平民宰相として歴史に名を遺した原敬であり、首相指名権を持つ元老は議会の第一党の党首を自動的に首相に指名する「憲政の常道」を作り上げた西園寺公望だ。伊藤博文、原敬、西園寺公望のような政党政治派の人材がこぞって大磯に別宅を構えたのは偶然ではないように私には思えた。おそらく一時期、大磯派の、即ち党人派の人物たちは東京から離れた大磯で密会して意思決定していたに違いあるまい。

もっとも、それはあまり長くは続かなかった。伊藤は暗殺され、原敬は鎌倉の腰越に別荘を移した。原はその後東京駅で暗殺されている。西園寺も大磯を離れ、昭和期は静岡県で過ごしている。東京から遠すぎるので、226事件の時、西園寺は無事だった。いずれにせよ、党人派はバラバラになってしまったわけだが、その現象と戦前の政党政治の失敗が重なって見えるのは私だけだろうか。もちろん、樺山資紀みたいな党人派とか超然内閣とか関係ない人も大磯に別荘を持っていたので、私に垣間見えたのは、そういった諸事のほんの一部だ。

大磯はそういった近代日本の縮図の一端を垣間見せてくれる土地であり、やはり風光明媚なことに変わりなく、都心からもさほど離れているわけではないということもあって、非常に魅力的な土地だ。できれば私も大磯に別荘がほしい。ま、それは夢ってことで。



聖徳記念絵画館に行ってきた

明治天皇の人生を日本画40枚と西洋画40枚で表現した聖徳記念絵画館は、知る人ぞ知る近現代史探求のおすすめスポットだ。ここでは3つの観点から、日本近現代史を理解・考察するための材料を得ることができる。まず第一は建物だ。大正中期に建設が始まり、大正末期、昭和が始まる直前に完成している。従って、日本近代がいよいよ成熟しようとする時代の息吹がこの建物には宿っていると言っていいだろう。どういうことかというと、明治時代の和洋折衷建築は木造が中心で、昭和の近代建築は鉄筋コンクリートみたいになっていくのだが、大正期は石を多用しており、昭和に近づけば近づくほど、コンクリートの要素が大きくなるが、この建物のような場合だとそのあたりの流行の変化を取り入れつつ、石もコンクリートも用いているわけで、日本郵船の横浜支店よりはやや古いと思うのだが、やや古い分、石の分量が多いというあたりに着目すればより興味深く観察することができるだろう。アイキャッチ画像では建物の中心部分のみ撮影している。検索すればすぐ出てくるが、多くの場合、この建築物は正面から撮影されており、左右対称のシンメトリーに注目が集まる。実際に行ってみて、正面から印象を確認してみるのもいい経験になるはずだ。

日本郵船歴史博物館の天井
日本郵船歴史博物館の天井

さて、次の楽しみ方としては、当然、絵の内容である。明治天皇の前半生は日本画で描かれており、生誕、元服、即位などの様子が宗教画の聖母子像の如くに神々しくかつ具体的に描かれている。これらの絵が描かれたのは後の時代になるものの、記憶している人が多くいる時代に描かれたものであるため、その記録性は高い。中には徳川慶喜が二条城で大政奉還をしたときの絵、教科書に出てくるあの有名なやつとか、勝海舟西郷隆盛の江戸薩摩藩邸での会見の様子を描いたものとかもあってとても興味深い。

徳川慶喜と大政奉還
徳川慶喜が二条城で大政奉還の意思決定をしている時の様子を描いた絵

実際に二条城に行ってみると、その時の様子が人形で再現されていて、それはそれでおもしろいが、かえってリアリティを損ねており、実感が伴わない。一方で、この絵の場合、実際の記録や関係者の記憶を集めて再現しているため、当時の様子を想像しやすい。司馬遼太郎は『最後の将軍』で、将軍という高貴な人が陪審と顔を突き合わせることはないから、慶喜は別室にいたとしているが、この絵を見る限り、思いっきりみんなの前に登場しているし、相当に情報収取して描いているに違いないのだから、おそらくこのような感じであったと考えて差し支えないのではなかろうか。慶喜が大政奉還したその日に薩摩・長州・岩倉グループによって討幕の密書を得たが、幕府が消滅したのでそれが実行できなくなったと言われていて、慶喜の智謀の深さを示すエピソードになってはいるが、当日は薩摩の重役小松帯刀が二条城に来ていて、積極的に大政奉還賛成を唱えたという話もあるし、小松帯刀は病死さえしなければ新政府の重鎮、場合によっては総裁にすらなっていたであろう人物だということも考えると、どうも慶喜によるフェイントで薩長立ち尽くした説にはなんとなく信用できない面があるのではないかという気もしてくる。こういったことは記録的な面で信憑性の高いこの絵画をじっと立って見つめることで気づいてくることなので、その一事をとってみても、実際に足を運ぶことには大きな意味があると言えるだろう。

西郷隆盛と勝海舟の会見は三田の薩摩藩邸で行われたため、三田に近い田町駅には両者のレリーフを見ることができる。このレリーフは聖徳記念絵画館の絵を参照して作られたものに違いない。西郷隆盛の顔は写真の顔によく似ており、一部に流れる西郷隆盛の写真は別人説を吹き飛ばす威力を持っている。繰り返すがここの絵は記録性を重視しているため、描き手は登場人物の顔について、相当に情報収集しているに違いなく、顔を見て知っている人からも情報を得た上で描いているのだ。田町駅のレリーフはそのうち写真を撮ってくるのでしばしお待ち願いたい。

さて、3つ目の楽しみ方だが、それはなぜ、このように明治天皇の人生を記録することを目的とした美術館が存在するのかについて推理することだ。実際に訪問して見てみれば分かるが、明治天皇の人生を辿るということにはなっているが、その辿り方はあたかも福音書のイエスの生涯を描く宗教画の如くにドラマチックで威厳に満ちており、記録性と同時に物語性も重視して描かれた絵が並んでいる。

伊藤博文や山形有朋のような元勲たちは、明治天皇を新しい日本という神聖な物語の主人公に置くことによって、新しい日本神話的帝国を建設しようとしたことと、それは無縁ではない。伊藤たちは新しい神話を必要としていた。それは古事記・日本書紀をベースにしていはいるが、西洋のキリスト教の如き原理原則・プリンシパルを堅持することのできるパワーを持つものでなくてはならず、それだけの説得力を持ち合わせるのは、彼らの持つカードの中では明治天皇しかなかった。従って、新しい都市である「東京」では、明治天皇の神話をもとに国民国家の首都になる必要があったため、皇居・明治神宮・靖国神社などの神聖スポットを建設することにより、近代東京が天皇の首都であるとする演出の舞台になっていったのだと理解することができるだろう。皇居に行った時、近代天皇制は徳川の遺産の上に近代的官僚制度が作り上げた幻影みたいなものだという印象を得たが、幻影を担保するために周辺諸施設が建設されたと考えても間違っているとは言えないだろう。一応、誤解のないように申し述べておくが、私は近代天皇制度は支持している。

いずれにせよ、以上のような理由で近代日本を理解するのに、非常にお勧めなのが聖徳記念絵画館なのである。



皇居に行って、大嘗祭のお宮を参観してきたよ

12月初旬は前の天皇陛下、要するに今の上皇陛下の時代に、より市民に開放された皇室づくりの一環として、皇居が解放され、皇居の中の紅葉を人々が見られるようになった。今まで行かなかったのだが、今年は特別だ。今年は皇居で大嘗祭が行われたので、新築の大嘗宮が今も皇居に立っており、そのお宮を参観できるというのだから、実物を見る絶好のチャンスなのだ。というわけで、千代田線の二重橋前で下車し、坂下門から入って皇居の乾通りから大嘗宮まで、さらに二の丸あたりを歩いて大手門から出てきたことについて、なるべく要点を絞って書き残しておきたい。

まず戸惑ってしまうのは、お堀の内側から石垣を見ると言う点だ。いつも外側からしか見ないので、内側がどうなっているのかあまり考えたことがなかったし、一生見る機会もないんじゃないかくらいに思い、要するに、まあ、別にいいやと想像力を膨らませることもしていなかったのだが、内側から見ると石垣は極めて巨大である。安土桃山式の大阪城の石垣のように石が整列している場所もあれば、もうちょっと古い戦国風のギシギシ石を詰め込んだ石垣もあった。建造時期の違いによるのかも知れない。太田道灌が江戸城を作った部分が残っていて、その上に徳川家康が増築させて、場合によってはその後の将軍による回収部分などもあって、その時代、その時代の特徴のようなものが残されているのではないかと私には思えた。フランスバルビゾン村近くにあるフォンテーヌブローの城が増築時期によって建築様式が異なり、ここに来ると建築史が分かるというのが観光客を誘う文句になっているのだが、ちょっとそれに近いものを皇居=千代田のお城に見出すことができそうに思えたのだ。

皇居の内側から見た石垣

皇居内の冬桜

では、どんな風にいろいろなものが重なっているのかというと、まずは太田道灌の土地の匂いがふんだんに残る田舎城、敢えて言えば豪族風。森が鬱蒼としていて、森の中に城主が暮らしている感じ。そしてその上に、ドカーンと徳川幕府の武家風が乗っかっている。今回訪問してみても、基本は徳川時代の造りや区画が皇居の雰囲気を決める最大の要素だということがよく分かった。江戸時代の武家風、特に将軍とか大大名とかは雄大なものを好む。巨大な松。巨大な池。中国の古典にインスパイアされて再構成された自然・宇宙。のようなものだ。皇居のそれはとてつもなくでっかいのだが、もうちょっと分かりやすいのは京都の二条城のお庭とか、名古屋の徳川美術館のお庭とか、福岡の大濠公園とか、そういったところを歩いてみると分かる。お殿様一人が「うーむ。よい気分である」と言うためだけにとことん凝った庭造りがなされている。江戸城の庭造りも凝ってはいるが、広すぎてやや持て余しているようにも見えた。そしてその上にあるのが近代天皇の世界だ。近代天皇は非常に安定した政治的アクターだが、江戸城内の土地建物ベースで見る限り、それは徳川氏の巨大な遺物の上に乗っかっている程度のものに見えた。現代の天皇陛下が活動される御所の範囲はそんなに広くなく、今回は遠くからなんとなく見える程度の距離で見せてもらえたが、鉄とコンクリートで京都の御所っぽいものを外国人にもおーっと思わせる程度に権威主義的に作ってあるという印象で、正直に言ってあまり素敵ではなかった。誤解のないように言っておくが、私は現代の天皇制度を支持している。

太田道灌の時代を連想させる皇居内の豊かな自然

京都御所は桜の季節に一般開放されたときに中を見たことがあるが、江戸城に比べれば手狭なものの、庭の造り込みが素晴らしく、いい意味で異世界であり、なるほど殿上人の浮世離れした世界という印象で、このような芸術作品みたいな空間が大切に維持・継承されることの意義はよく感じることができた。今の京都御所は幕末に燃えたものを再建したものだが、これは確かに再建する価値おおいにありというか、再建しなければもったいないと思えた。天皇様が京都御所でお暮しになる方が日本人の感性には会うのではないだろうかとも思える。それぐらい江戸城はだだっぴろい。
皇居内のすばらしい自然。美しい紅葉。

そのだだっぴろいものを管理しやすくするためにコンクリートやアスファルトが使用されている。たとえば徳川時代のものと思しき建物の壁もコンクリートで固めてあるし、プレハブみたいな建物もあって、管理しやすければOK感が半端ない。道もコンクリートかアスファルトだ。江戸城がだだっぴろくて管理に困るというのはすぐに想像がつくが、なので効率よくやっちゃおうという、近代日本の官僚制度の特徴がよく分かるように思えてならなかった。この発想法で、日本は北から南までコンクリートとアスファルトで敷き固められ、どこへ行っても似たような風景が広がることになったのだろう…という感想を持った。
御所の遠景

宮内庁近景

とはいえ、まだまだ見どころはある。なんといっても大嘗宮の現物が見えるのだ。柳田国男先生とか、折口信夫先生が書き残したものを読み、後世の者は「ふーん。そうなのか」と思うしかなかったが、儀式は見れなくとも儀式が行われた建物を見ることができれば、より本質に迫った理解ができるようになるはずだ。で、そのお宮なのだが、想像していた以上に大きい。新しい白木の建物。伊勢神宮みたいだなあと思った。驚きだったのは、太陽の光を反射する白木の建物は、まるで黄金のようにキラキラしていたのだ。なるほど、最初にこのような建築を思いついた2000年ぐらい前の人(もし天武天皇が最初だったら1300年ほど前ということになる)は、白木が黄金色に輝くことを狙ってこんな風にしたのだと私は気づくことができた。伊勢神宮が20年に一度立て直されるのも、建物の耐用年数というよりも、黄金色に反射できる年数が考慮されてのことではなかろうか。
大嘗宮を正面から撮影した写真。壮絶な人ごみだった。警察の人も大変そうだった。

そして最後に休憩所に立ち寄ってのどが渇いて疲れていたのでジョージア微糖のガンダムコーヒーを飲んだ。運がいいことにシャアとララァの絵の入ったのがでてきた。
皇居二の丸を過ぎたあたりにあった休憩所で買ったジョージア微糖のガンダムコーヒーの缶に描かれたシャア

シャアの反対側に描かれているのはララァだった

もう二度と皇居に入ることはないかも知れないが、私は単に皇居に入ったけの人物ではない。ジョージア微糖のガンダムコーヒーを飲んだことで、私は皇居でコーヒーを飲んで帰ってきた男になれたのである。なかなかおもしろい経験ができました。

安全と秩序維持のため、警察官のほか、多くのスタッフの方々が寒空の下を立っていた。多くの人がこごえて震えていたし、独り言をつぶやいてやや壊れかけている人もいた。参観客は珍しがってよく歩くからそれでいいが、じっと立ってしごとするスタッフの方々は大変に違いない。ねぎらいの気持ちを持ちたい。




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天智系と天武系

横浜の日本郵船歴史博物館

荒井屋万国橋店のすぐ近くに、日本郵船歴史博物館がある。たまたま通りかかって、おっこれはややマニアックでおもしろそうと思い、迷わずはいってみた。建物の中に入ると受付があり、受付の向こう側の展示品の撮影は禁止だが、受付の手前の建物の雰囲気とか天井とか撮ってもいいと言ってもらえたので、天井を撮ってみた。悪くない。大正の終わりくらいから昭和の初め頃の雰囲気の天井だ。明治時代の和洋折衷は基本木造で、大正に入るとフランク・ロイド・ライトのデザインした帝国ホテルみたいにレンガ造りが増えてくるのだが、昭和の初め頃には巨石風、コンクリート風みたいなのが増え、やや重厚長大になる。特に関東大震災の後の復興ラッシュで、東京から横浜にかけてのエリアは急速にモダンで頑丈な西洋建築が増えていったのである。たとえば日本橋の高島屋もクラシカルモダンの雰囲気を残すいい建築物だが、昭和の初期のものだ。建築史をきちんと勉強している人であれば、もうちょっと詳しいことが言えるのだと思うけれど、私は自分で歩いて見聞した範囲のことしか言えなくて誠に申し訳ない。

で、展示の内容なのだが、これもなかなか面白い。日本の船舶による流通の近代史みたいな話になっていた。幕末、西洋の圧力から日本は海外との人・物・金の交流を始めることになるのだが、当初は欧米の船会社が日本にやってきてぼろ儲けして帰るというモデルが確立されたものの、日本資本のナショナルフラッグキャリアーがやっぱほしいよねということになり、三菱の岩崎弥太郎が日本郵船を作って日本資本の貨客船の交通網が世界中で次第に確立されていくことになったというわけだ。飛行機ならJAL、お船なら日本郵船という感じだろうか。

日露戦争の時は官民一体で戦争にあたっていたわけだが、たとえばロシア艦隊の母校である旅順港の入り口に船を沈めて通行不能にするという作戦が行われた際、沈められた船は日本郵船から提供されたものだった、というような豆知識も手に入ったりするのである。日本海海戦の直前、迫りつつあったロシアバルチック艦隊を発見したのも日本郵船の船だったみたいな話もあって、東郷平八郎の感謝状も展示されていた。

日本郵船は日本の近現代史を支えたという誇りがあって、それでこのような博物館も作ったのだろう。日本郵船で働く人は、うちにはこんな歴史があるんだ。と得意な気持ちになるだろうし、職場を誇れるのであれば、それは素晴らしいことだ。

建築も興味深く、近代史の一端に触れることができ、企業の心にも触れることができたるような、素敵な博物館だった。




張学良をやや深読みして日中関係を語ってみる

毛沢東の率いる中国共産党の打倒に王手をかけていた国民党の蒋介石を誘拐し、国共合作を約束させ中国人が一挙団結して抗日を目指すようになった西安事件は、その後の中国の運命にも日本の運命にも大きな影響を与えたできごととして記憶されている。しかし、事情が複雑すぎるためそれを簡潔に、或いは要点だけを絞って語るのは案外に難しい。当該事件の本質にかかわると思える点について少し述べ、そこから導き出せる現代史の一側面に切り込んでみたい。

事の本質は張学良氏が生き永らえたという一点に絞ることができるだろう。張学良は楊虎城と共謀して蒋介石の誘拐を決心したが、決心する過程においては中国共産党とも密に連絡を取り合い、周恩来の全面的なコミットメントがあったことも知られている。張学良が共産党のエージェントであったと指摘する人もいるが、それは事件が起きるまでに張学良・楊虎城サイドが周恩来と信頼関係を築くことに相当な努力を積み重ねたらしいからである。この三人が何を語り合い、どの程度の合意に達し、いかほどに信頼しあっていたかは不明だと言えるが、事件の前に何度も会っていることは確かなのだ。更に言うと、蒋介石が国共合作の決心を固めたのは監禁されているときに周恩来との会談をしてからのことのように見受けられるので、張学良よりも実は周恩来が事件の黒幕だったのではないかとすら勘繰る人もいるわけである。今となっては誰が黒幕だったのかというのはあまり大きな問題ではない。仮に張学良が全て自発的に企てていたとしても、或いは周恩来が黒幕であったにしても、起きた結果は同じなので、今さらそれを変えることはできない。ただ、そのあたりについて考えることを通じ、未来志向的に物事を見ることができるかどうかの思考実験をやってみたいのだ。

そしてその本質は、繰り返すが張学良が生き延びたという一点に絞り込むことができるのである。蒋介石が国共合作の決心を固めた後、張学良は中国人としての愛国心に突き動かされ、内戦の拡大を予防するためにも蒋介石とともに西安から南京へと移動し、南京で逮捕され軍法会議にかけられたというのが時間軸的な流れなのだが、楊虎城は蒋介石の解放には慎重であり、様々な保証を求めるべきだとして張学良と対立した。張学良と楊虎城はどちらも事件後に監禁される運命をたどるのだが、楊の方は1949年に国民党の特務機関によって家族とともに惨殺された一方で、張学良は台湾で半世紀にわたって監禁され、最晩年はゆるされてハワイで過ごした。

何が両者の運命を分けたのだろうか。張学良は蒋介石とは以前から盟友関係にあり、事件を起こした動機も愛国的民族主義的な近代的理想的中国人の心情によるものであり、蒋介石に対しても誠実であろうと務めたために命だけは助けられたと見ることはできるかも知れない。それはある程度、本当なのだろうと思う。事件が起きる前、張学良は蒋介石に次ぐ地位にあったし、蒋介石は台湾で時々張学良を訪問して語り合っていたらしいので、二人には人間関係が構築されていた。このような張学良神話に触れると、おくびょうな楊虎城は私利私欲がどうしても出てしまってぎりぎりのところで蒋介石にゆるされず殺されたかのような印象が残ってしまうのである。

楊虎城は1949年まで生きていたのだが、国民党が台湾に去る際に行きがけの駄賃みたいに殺害されたようにも見える。蒋介石と周恩来の間で合意されていたことが、1949年には破綻し、それまで命を保障されていた楊虎城の保護条件が失われたために殺されたと見ることもできるだろう。一方で張学良は最後まで命の保障条件が生きていたために生き延びたのかも知れない。だとすれば全てのシナリオを描いたのは周恩来だったと想像することもできる。

張学良は現代中国では英雄である。彼が張作霖から受け継いだあらゆる遺産と権利をかなぐり捨て、西安事件を起こし、その後の監禁生活に甘んじたことは、結果として中国を日本の侵略から救ったとして歴史の教科書に載るくらい立派な人物ということになっている。もちろん、それは嘘ではない。ただ、楊虎城と張学良の運命の違いは何だったのだろうかと多くの人には疑問に残るはずである。蒋介石と周恩来は何を話し合ったのだろうか。

以上のような疑問を提起はしたが、解決する術はない。張学良もこの点は特に秘匿し誰にも話さなかった。張学良を知る人は多いが、上の疑問に答えられる人物はいない。おそらく張学良本当に誰にも話さなかったのだろう。話が上手な人で、客好きで学問もある人だったと言われているが、彼は核心に関わる話題は慎重に避けたようだ。NHKのインタビューでもインタビューする側がそのあたりで非常に苦労したことは後の著作で述べられているし、中国人の大学教授が張学良にインタビューしたものも読んだことがあるが、事件以外の思い出話に終始していて、当時の中国の様子を知ると言う意味では面白い内容だったが、事件の核心を知りたい人にとっては全く役に立たない内容だった。

しかし、そのように情報が限られているからこそ、張学良が無私の人で、愛国心だけに突き動かされて西安事件を起こしたとする神話には磨きがかかり、多くの中国人の尊敬を集めるに至っているのである。晩年の張学良は多くの人の訪問を受けていて、台北に友人は多かったようだが、そのような厚遇を受けたのも張学良愛国神話が生きていたからではなかったかと思える。私は張学良氏をdisるつもりはないので、張学良氏本人の人間的な魅力も多いに彼を助けたに違いないということは付け加えておきたい。彼が西安事件を起こした背景の全てを知ることは不可能だが、動機の一つとしては張作霖の後継者として奉天軍閥の長として認識されるより、より近代的な愛国的行動者として記憶されたいというものがあったはずだ。愛国的行動はモダンでファッション性があったのだ。張作霖は日本の歴史で言えば斎藤道三のような実力主義的戦国大名みたいな感じだが、張学良はそれよりも織田信長のような見識のある、かつ繰り返しになるがファッション性のある存在になりたかったのではないだろうか。それについて私には悪い意見はない。愛国主義的行動にファッション性があると認識できただけでも、彼はモダンな中国人だったと言うことができるし、それを実践したのだから、氏の行動力も抜群である。

さて、このようにみていくと、日中関係史を考える上で極めて重要な点、そして日本ではあまり語られていない点が浮かび上がってくる。中国は1840年のアヘン戦争からその後100年にわたり列強の侵略を受けて弱体化した。多くの日本人が、世界の強国が中国を侵略したにもかかわらず、なぜ日本人だけ永遠に憎まれ続けるのかよく分からないと首をかしげるのは、このような歴史的展開があったからだ。だが、1840年ごろの中国と1940年ごろの中国では全く違うことが一つだけある。1840年ごろ、中国の支配者は満州人であったため、中国愛というものはあまり重要ではなかった。清朝は朝廷を守るという発想法のもとに外交をしたかも知れないが、中国を守るという発想はなかった。一方で1940年ごろの中国は愛国に目覚めた人々が増加していた。文化革命では愛国無罪という言葉多用されたらしいのだが、愛国主義がさほど大きな説得力を持つようになったのは1920年代から40年代にかけてのことである。もうちょっと言うと、第一次世界大戦後の世界は中国に対する不侵略で合意し、9か国条約によって中国の領土保全などが決められた。列強はそれ以上の侵略には二の足を踏むようになった。一方で日本は第一次世界大戦で戦勝国と認められ、ようやく列強の仲間入りを果たしたところである。対象が中国であれシベリアであれ国際法によって拡大に制限がかけられることには不満があった。袁世凱政府に対し日本は対華21か条の要求というものをして世界中からドン引きされてしまったが、そのような動きの背景には第一次世界大戦後の新しい国際秩序の存在があったのである。日本は新世界秩序の抜け穴を探そうとし、列強は新世界秩序に馴染もうとしない日本を警戒するようになった。中国人の目からすると、愛国主義が盛り上がる中、日本だけが中国侵略をいつまでもやり続けようとする最大の敵に見えるようになったのだと言ってもいいだろう。

従って、中国にとって、反日・抗日は中国の近代的愛国主義にとっては最大のテーゼであり、現代中国を語る上では国民党であれ共産党であれ、愛国主義とその絶対的な敵としての日本を語らないことは不可能なのだと言えるだろう。

このような事情について日本人が同意するか同意しないかは別の問題なのだから、異論を唱えることは自由だ。しかし、事情を知らなければ異論を唱えることもできないどころか永遠に解けない疑問の前に立ち尽くすしかなくなってしまうのである。

以上のようなわけで、その愛国主義の最大の功労者が蒋介石に国共合作を決心させた張学良ということになっている。そしてこの愛国主義は今も生きている。昨今の香港での出来事は、共産党サイドからすれば愛国主義的統合が絶対的な正義だと信じるが故に、妥協なく香港の中国化を推し進める動機になっているわけだし、実は多くの香港人も愛国主義を主張されるとたじろいでしまうのだ。そのような中国的ナショナリズムに対抗しようとすると、台湾で以前よく見られたように「我々は中国人ではない」と主張しなくてはならなくなる。自分が中国人だと認めれば愛国主義と民族主義の理想から北京政府との統合・統一に異を唱えることができなくなってしまうからだ。

以上のようなことを知っておくと昨今の中国事情とか香港事情とか台湾事情もより見えやすくなると思うので、ご参考にしていただきたい。




広島と原子爆弾について最近考える時間を持ったので、それについて

実は来月、広島に一泊二日で出張にでかける。せっかく広島に行くのだから、少しでも多く広島のことを勉強して、より実りのあるものにしたい。そのように思い、私は広島に関連する本を何冊か読むことにした。広島と言えば、浅野40万石とか、平清盛の厳島神社とかもあるのだが、やはり原子爆弾を避けて通ることはできない。以前、三田文学傑作選で原民喜の『夏の花』を読んで、難しい内容だとは思ったが、過去に触れた原子爆弾に関して書かれたものの中で特別冷静で且つ具体的に書かれているのがこの作品なのだと気づき、それだけにショックも大きく、私は深く考えさせられた。どんなに考えても起きてしまったことを変えることができないのが悲しいところではあるのだが、考え続ける以外にレクイエムの方法がないので、やはり考えることを放棄してはならないと思う。

最近読んだのは、NHKのディレクターの人が広島で原子爆弾を使用されることを、陸海軍の情報処理部門は気づいていたのではないかとの疑惑に迫るものを一冊。それから、米軍捕虜が広島で被爆したことについて調査した本を一冊。あと、京都が原子爆弾の目標になっていたのに、いつの間にか京都の目標順位が下がり広島が目標として上がってきたことの事情を調査した本が一冊だ。

これは書籍ではなくNHKスペシャルのDVDだが、内容は同じものだ。日本の陸海軍は、アメリカ軍の暗号を解くことはできていなかったが、熱心な傍受により、米軍機が発するコールサインを聞き分けることで、テニアン島に通常の爆撃機とは違った動きを見せる爆撃機戦隊が到着していることに気づいていたとするものだ。これは大いにあり得る話だし、全く疑いを感じなかった。アメリカ、ドイツ、日本が核兵器開発にしのぎを削っていた当時、特殊な任務を帯びているであろう爆撃機が原子爆弾を使用するためのものだということは容易に察知できただろうし、にもかかわらず、なぜ日本側は持てる航空機を総動員して当該爆撃機を落とすことができなかったのかとの問題提起になっている。大いに疑問だと私も思う。特に長崎の場合、既に広島で原子爆弾が使用された後なのだから、不可解な行動をする敵機は原子爆弾を使用する可能性が高いとみて、落とすことはできたのではないかとの疑念は残る。長崎の場合、当時近くに源田実さんの航空部隊がいたのだ。怠慢とか無能とか言われても反論できない事態であろうと言えるだろう。

広島で被爆して命を落としたアメリカ軍捕虜に関する調査も興味深かった。

昭和20年、無数の爆撃機が日本に飛来し、日本の各地を燃やしたが、これは同時にそれだけ米軍将兵を危険にさらすことでもあった。たとえば紫電改みたいな飛行機に狙われれば、爆撃機は足が遅いので落とされる可能性は決して低くない。そういう戦闘行動で落とされた場合もあれば、エンジンの不調みたいなことで不時着する場合もある。一度に千機とか飛来するのだから、整備不良で落ちるのもいるのである。更に、運が悪いのだと高射砲に撃ち落されることもある。高度1万メートルから落とすため、射程距離が数千メートルの高射砲では当たらないことにはなっているが、多分、うっかり高度を保つのを忘れて当たってしまうのもいたかも知れない。名古屋の岡田資中将が捕虜を略式裁判で断罪し、戦後に戦犯に問われたのも、このような落ちてきた捕虜の扱いを巡ってのことだ。

そのような事情から、日本各地では米軍捕虜が増加傾向にあった。日本は戦争が始まった時に東南アジア各地で英米蘭の捕虜を大勢捕まえることになり、彼らは終戦まで捕虜として過ごしたのだが、それとは別に新しい捕虜が入ってきていたというわけなのだ。新しく捕まった捕虜は、最近の敵の事情に詳しい。尋問の対象になった。広島は軍都として栄えていたから、捕虜が広島へ連れて来られる場合もあったのだ。そして、有名な話なのだが、とある捕虜が「おそろしい。おそろしい」と言うので、何が恐ろしいのかと聞いてみると、広島は原子爆弾の目標になっているので、ここにいたら確実に死んでしまう、どこか別の場所に移動させてほしいと懇願したという話である。事実であるとすれば、いかに日本側が情報戦で負けていたとしても、この捕虜の口を通じて広島への原子爆弾使用の計画が日本軍に漏れたことになるので、結果として何もしなかった日本軍の罪は重い。私も海軍にいた祖父が事前にだいたいのことは知っていたとファミリーヒストリー的に聞かされたことがあるので、米兵捕虜のこの言葉は、納得できる。

さて、最後の一冊は果たして京都を目標から外したのは誰の力なのかについて調査・論考したものだ。

著者が京都大学の先生なので、恩人探しみたいなっているところがあり、そのかわりに標的にされた広島の人にとってはたまったものではないだろう。だが、アメリカ軍内部での意思決定過程の一端を窺い知るという意味では興味深い。諸説あるようなのだが、スチムソンが京都はやめた方がいいと言い続けたことが大きいようだ。日本人はバブル期、アメリカ人が燃やさなかった京都の町屋を地上げのために一度ほぼ滅亡させた。今ある京都の町屋の多くが最近になって再建されたもののようだ。よく見て歩けば分かる。

今回は以上なのだが、広島は第二次世界大戦でも特別に残酷な惨禍を経験した土地であるということは間違いがない。広島について考えたり述べたりするときは、敬意や慎みを忘れないようにしたい。