レ―リンク判事の東京裁判に関する議論

東京裁判が行われた際、オランダ代表として判事の席に加わったレ―リンク判事が、カッセーゼなる法学者と東京裁判の是非や意義などについて語り合った『レ―リンク判事の東京裁判ー歴史的証言と展望』を読んでいるところなのだが、非常に興味深い内容なので急いでシェアしたいと思い、ブログに書き込むことにした。

簡単に言うと、レーリンク判事は、裁判そのものがアメリカのやらせみたいなもので、マッカーサーはもちろんヤラセにする気まんまんで、ぶっちゃけ真珠湾攻撃のことさえ日本に償わせればあとはどうでもいいくらいに思っていて、更にキーナンみたいな二流検察官が起訴を担当していたんだけれど、マッカーサーに言われた通りにしかできない男なので、東京裁判はつまんない裁判だし、不均衡だけど、世界平和のための前例や先例を残すという意味では全く無意味とも言えないんじゃない。というような内容だった。

もう少し詳しく掘り下げたい。

レーリンク判事曰く、ナチスドイツの侵略性や犯罪性を指摘して裁判にかけ、個人の悪意を立証して刑罰を与えるのはロジックとしてはわりとシンプルなものであったため、ニュルンベルク裁判はそんなに難しくなかったのだが、東京裁判の場合はどこまでが侵略でどこからが自衛なのかはっきりせず、犯罪性についても部下がやったことについて知らなかったのに責任をとらされるとかそういうのもあって後味はあんまり良くなく、被告人たちの意識では自衛戦争を戦っていたのだから、悪意の立証とかも無理ゲー。みたいなことになっていた。

たとえば山下奉文司令官はフィリピン戦での将兵の残虐行為について責任を取らされて絞首刑になったが、レイテ沖海戦の後のフィリピン戦では山下司令部と戦線では物理的な連絡手段がアメリカ軍の攻撃によって絶たれてしまっていたため、そもそも山下司令官は残虐行為が起きていたことを知らなかった可能性があって、それでも部下の不始末で有罪と断定されることが果たして正しいのかどうか、レーリンク判事は疑問を呈している。

東条英機は証言台で日本にとってアメリカとの戦争は自衛戦争だったと言ったことはまことに正しいとんの判断を示していて、アメリカ側が真珠湾攻撃に対する犯罪性の立証に熱心であったとしても、ハル国務長官は日本が絶望して戦争をしかけてくるのを待っていたふしがあるし、アメリカ側として日本が攻めてきてくれれば正々堂々と戦争できるとジリジリ待っていたにも関わらず、うっかりしていて真珠湾での対応に遅れが出た。日本の外交電報を全部解読しているのだから、日本が戦争の決心をしたことはもちろん分かっていたし、野村大使らがハルに対して宣戦布告するのが遅れたのは交通渋滞があったからだとしている。

パル判事の日本無罪論は有名だが、レーリンクの日本擁護はあまり知られていない。パルの場合はインドが植民地にされているという問題意識、郷土愛、アンチ欧米みたいな感情とロジックが入り混じって日本無罪論にたどり着くのに対し、レーリンクの場合は普通に考えて法理論的に言ってこうなんじゃない?という論法なので、もっと注目されても良さそうにも思える。とはいえ、冷徹なロジカルシンキングと感情をベースにしたロジックの形成の境界の線引きはそこまで簡単ではないので、私のような人文、歴史、政治を中心に勉強してきた人間が法学についてあんまり踏み込んでえらそうなことは言えないのだが、まあ、レーリンク判事の述べている内容に引っかかるものは感じなかった。野村大使が交通渋滞で引っかかったあたりを読みつつ、なら野村大使がハルに電話で「宣戦布告する。書類は後で持っていく」と一言あれば良かったのだろうかとか、東京でグルー大使を呼び出して宣戦布告すれば問題なかったのでは?とか考えてみたりした。だがこういった周辺的なifはレーリンク判事の議論とは関係のないことではある。門外漢なので、思考がそのようにあちこちへ飛んでしまうのだ。

レーリンク判事は、日本を無条件降伏まで追い込み、政治や社会を根底からアメリカの望むものに変革しようとしていたらしき様子について、やっぱアメリカ人ってそうだよな…的な発言もしていたのだが、このあたりにヨーロッパ人のアメリカ人に対する冷めた視線を感じないこともなかった。ヨーロッパ人と話せばわかるが、彼らは本心ではアメリカ人のことが大っ嫌いだ。ファッションセンスと料理に対する感性が絶望的なくせに世界の支配者だと思っているあたりが受け入れられないらしい。アメリカ独立戦争以来の旧世界対新世界の対立は今日まで続いている。私の場合は「お前の英語はアメリカ人みたいで気に入らねえ」みたいに言われたこともある。なかなか根深い。

アメリカは南北戦争の時に南軍は壊滅的な状態まで追い込まれ、南部社会そのものが解体されるところまで追い込んだ。一方が一方を完全に滅亡させる戦争という意味ではローマ対カルタゴみたいな戦争だったわけで、この発想法で日本と戦争したために、無条件降伏にこだわり、無差別爆撃や広島・長崎への原子爆弾の使用まで行ってしまったという感じのことを私は読みながら考えた。そうかも知れない。第一次世界大戦でロシア、ドイツ、オーストリア、オスマントルコの皇帝たちがいなくなったが、いずれも革命によるもので国内的な要因の結果であり、戦勝国が敗戦国の政治体制を解体したわけではない。日本の場合は天皇こそ残ったが、憲法を替えたので、政治体制には革命的な変革が起きた。占領地の法令を変えてしまうことは、むしろ第一次世界大戦後の戦争の法の厳密化の流れの中で忌避されるべきものでもあった。

このようなことを考えると、何が正義で何が間違っているのか、だんだん分からなくなってくる。レーリンクの日本無罪論を振りかざしたところで、中国の人は納得しないだろう。とはいえ、レーリンクの議論も筋は通っている。ちょっと疲れてはきたが、飽くまでも考える材料にするという意味では、東京裁判に対して如何なる考えかたを持っている人であったとしても、この書籍を読むことには価値があるに違いない。



JR藤沢駅構内のカレーステーション

中曽根政権期、国鉄が解体され、JRという新しい鉄道会社が誕生した。国鉄は国営だったが、JRは民営である。そのため合理的な経営が図られることが期待されるようになった一方で、それまで国鉄で働いていた多くの労働者が不要になるとの見通しがあり、まさか会社の経営が変わったのであなた辞めてくださいというわけにもいかず、人材をいかに活用されるかが議論の対象になった。国鉄には極めて協力な労働組合である国労があり、中曽根首相(当時)の狙いは、国労の解体にあったとの見立てもあって、それはそれで説得力のある見立てであるとは思うのだが、ここではそこには踏み込まず、人材活用の方に光を当てたい。

国鉄で労働者として勤務し、JRになってから行き場をなくしてしまった数万人規模の労働者の人たちは、JRの多角的経営というか、副業みたいな場へと異動させられていった。私の記憶が間違っていなければ、売店みたいなところとか、テーマパークみたいなところとかへ異動があったように思う。そして、そうしたJRの副業と人材活用の一環に、レストラン業があって、その一環としてJR藤沢駅にもカレー屋さんが作られたのである。

消費者の立場としては、カレー屋さんで働いている人が元国労かどうかということは関係がない。もともと鉄道の仕事をしていた人かどうか、そういったことはどうでもいい。問題はおいしいかどうかである。当時、まだまだ若かった私にとって、JR藤沢駅のカレーステーションは、ショッキングなくらいに私の心を揺さぶった。要するに、この駅のカレー事業は大当たりで、私は非常にこのお店を気に入り、一時は足しげく通ったものである。繰り返すが、私は決して、働いている人に同情して通ったのではない。駅で気軽にカレーが食べられるというコンセプトに感激し、実際にカレーもおいしいから、ますます感激の度を強め、通ったというわけだ。

最近、久々に立ち寄ったので、記念にカレーの写真を撮り、ブログでも記事として残しておきたい。安くておいしいカレーが通りますよ♪



大磯と近代

大磯を歩いてきた。大磯は興味深い場所だ。まずなんといっても風光明媚だ。天気が良ければ富士山が見えるし、そのような日は相模湾の向こうに伊豆大島も見える。景色に占める海と山、人の世界のバランスが絶妙で飽きない。海岸に出て右手を見れば伊豆半島で、左手を見れば江ノ島と三浦半島が見える。これほど贅沢な景色のあるところは日本中探してもそうはあるまい。

そしてもう一つ、おもしろいのは近代に入って別荘地として大磯は人気が高かったことだ。たとえば西園寺公望は大磯に本格的な洋館を建てた。もともとが幼少期のころの明治天皇の遊び相手で、明治・大正・昭和と政界に鎮座し、元老という実質最高権力者の位置に立ち、昭和天皇のアドバイザーというか教育係みたいな人物だった西園寺は、長いフランス生活から帰った後、しばらくの間、大磯で生活した。

旧西園寺公望邸

西園寺邸よりももう少し二宮方面へ歩くと、吉田茂邸もある。吉田茂は大磯で生涯を閉じた。彼の邸宅は見事なもので、まるで高級旅館である。このほか、原敬、大隈重信、西周、伊藤博文とビッグネームが並ぶ。そして私は山県有朋の名前がないことに気づいた。山県は小田原で別荘を構えていたが大磯には別荘を持っていなかったということなのだろう。で、漠然とではあるが、あることに気づいた。明治から昭和初期にかけての政界は、厳密にではないにせよ、ある程度、漠然とではあっても、小田原派と大磯派に分かれていたであろうと言うことだ。
旧吉田邸
小田原にいた山県有朋は政党政治を重視せず、超然内閣路線の支持者だった。戦前の帝国憲法では議会に勢力を持っていない人物が首相に指名されることは制度上可能だった。山県は議会の意向を無視した、すなわち、超然とした内閣が組閣されるべきとした政治思想を持ち、国民から嫌われまくって生涯を終えた。

一方、山県とはライバル関係にあった伊藤博文は党人派だった。伊藤の時代に政党政治はまだ、やや早すぎた可能性はあるが、伊藤の理想は現代日本のように、選挙で選ばれた議会の人物が首相になり、議会と行政の両方を抑えて政策運営をすることだった。イギリス型議会政治を目指したと言ってもいいと思う。この伊藤の理想を大正時代に入って実現したのが、初の平民宰相として歴史に名を遺した原敬であり、首相指名権を持つ元老は議会の第一党の党首を自動的に首相に指名する「憲政の常道」を作り上げた西園寺公望だ。伊藤博文、原敬、西園寺公望のような政党政治派の人材がこぞって大磯に別宅を構えたのは偶然ではないように私には思えた。おそらく一時期、大磯派の、即ち党人派の人物たちは東京から離れた大磯で密会して意思決定していたに違いあるまい。

もっとも、それはあまり長くは続かなかった。伊藤は暗殺され、原敬は鎌倉の腰越に別荘を移した。原はその後東京駅で暗殺されている。西園寺も大磯を離れ、昭和期は静岡県で過ごしている。東京から遠すぎるので、226事件の時、西園寺は無事だった。いずれにせよ、党人派はバラバラになってしまったわけだが、その現象と戦前の政党政治の失敗が重なって見えるのは私だけだろうか。もちろん、樺山資紀みたいな党人派とか超然内閣とか関係ない人も大磯に別荘を持っていたので、私に垣間見えたのは、そういった諸事のほんの一部だ。

大磯はそういった近代日本の縮図の一端を垣間見せてくれる土地であり、やはり風光明媚なことに変わりなく、都心からもさほど離れているわけではないということもあって、非常に魅力的な土地だ。できれば私も大磯に別荘がほしい。ま、それは夢ってことで。



聖徳記念絵画館に行ってきた

明治天皇の人生を日本画40枚と西洋画40枚で表現した聖徳記念絵画館は、知る人ぞ知る近現代史探求のおすすめスポットだ。ここでは3つの観点から、日本近現代史を理解・考察するための材料を得ることができる。まず第一は建物だ。大正中期に建設が始まり、大正末期、昭和が始まる直前に完成している。従って、日本近代がいよいよ成熟しようとする時代の息吹がこの建物には宿っていると言っていいだろう。どういうことかというと、明治時代の和洋折衷建築は木造が中心で、昭和の近代建築は鉄筋コンクリートみたいになっていくのだが、大正期は石を多用しており、昭和に近づけば近づくほど、コンクリートの要素が大きくなるが、この建物のような場合だとそのあたりの流行の変化を取り入れつつ、石もコンクリートも用いているわけで、日本郵船の横浜支店よりはやや古いと思うのだが、やや古い分、石の分量が多いというあたりに着目すればより興味深く観察することができるだろう。アイキャッチ画像では建物の中心部分のみ撮影している。検索すればすぐ出てくるが、多くの場合、この建築物は正面から撮影されており、左右対称のシンメトリーに注目が集まる。実際に行ってみて、正面から印象を確認してみるのもいい経験になるはずだ。

日本郵船歴史博物館の天井
日本郵船歴史博物館の天井

さて、次の楽しみ方としては、当然、絵の内容である。明治天皇の前半生は日本画で描かれており、生誕、元服、即位などの様子が宗教画の聖母子像の如くに神々しくかつ具体的に描かれている。これらの絵が描かれたのは後の時代になるものの、記憶している人が多くいる時代に描かれたものであるため、その記録性は高い。中には徳川慶喜が二条城で大政奉還をしたときの絵、教科書に出てくるあの有名なやつとか、勝海舟西郷隆盛の江戸薩摩藩邸での会見の様子を描いたものとかもあってとても興味深い。

徳川慶喜と大政奉還
徳川慶喜が二条城で大政奉還の意思決定をしている時の様子を描いた絵

実際に二条城に行ってみると、その時の様子が人形で再現されていて、それはそれでおもしろいが、かえってリアリティを損ねており、実感が伴わない。一方で、この絵の場合、実際の記録や関係者の記憶を集めて再現しているため、当時の様子を想像しやすい。司馬遼太郎は『最後の将軍』で、将軍という高貴な人が陪審と顔を突き合わせることはないから、慶喜は別室にいたとしているが、この絵を見る限り、思いっきりみんなの前に登場しているし、相当に情報収取して描いているに違いないのだから、おそらくこのような感じであったと考えて差し支えないのではなかろうか。慶喜が大政奉還したその日に薩摩・長州・岩倉グループによって討幕の密書を得たが、幕府が消滅したのでそれが実行できなくなったと言われていて、慶喜の智謀の深さを示すエピソードになってはいるが、当日は薩摩の重役小松帯刀が二条城に来ていて、積極的に大政奉還賛成を唱えたという話もあるし、小松帯刀は病死さえしなければ新政府の重鎮、場合によっては総裁にすらなっていたであろう人物だということも考えると、どうも慶喜によるフェイントで薩長立ち尽くした説にはなんとなく信用できない面があるのではないかという気もしてくる。こういったことは記録的な面で信憑性の高いこの絵画をじっと立って見つめることで気づいてくることなので、その一事をとってみても、実際に足を運ぶことには大きな意味があると言えるだろう。

西郷隆盛と勝海舟の会見は三田の薩摩藩邸で行われたため、三田に近い田町駅には両者のレリーフを見ることができる。このレリーフは聖徳記念絵画館の絵を参照して作られたものに違いない。西郷隆盛の顔は写真の顔によく似ており、一部に流れる西郷隆盛の写真は別人説を吹き飛ばす威力を持っている。繰り返すがここの絵は記録性を重視しているため、描き手は登場人物の顔について、相当に情報収集しているに違いなく、顔を見て知っている人からも情報を得た上で描いているのだ。田町駅のレリーフはそのうち写真を撮ってくるのでしばしお待ち願いたい。

さて、3つ目の楽しみ方だが、それはなぜ、このように明治天皇の人生を記録することを目的とした美術館が存在するのかについて推理することだ。実際に訪問して見てみれば分かるが、明治天皇の人生を辿るということにはなっているが、その辿り方はあたかも福音書のイエスの生涯を描く宗教画の如くにドラマチックで威厳に満ちており、記録性と同時に物語性も重視して描かれた絵が並んでいる。

伊藤博文や山形有朋のような元勲たちは、明治天皇を新しい日本という神聖な物語の主人公に置くことによって、新しい日本神話的帝国を建設しようとしたことと、それは無縁ではない。伊藤たちは新しい神話を必要としていた。それは古事記・日本書紀をベースにしていはいるが、西洋のキリスト教の如き原理原則・プリンシパルを堅持することのできるパワーを持つものでなくてはならず、それだけの説得力を持ち合わせるのは、彼らの持つカードの中では明治天皇しかなかった。従って、新しい都市である「東京」では、明治天皇の神話をもとに国民国家の首都になる必要があったため、皇居・明治神宮・靖国神社などの神聖スポットを建設することにより、近代東京が天皇の首都であるとする演出の舞台になっていったのだと理解することができるだろう。皇居に行った時、近代天皇制は徳川の遺産の上に近代的官僚制度が作り上げた幻影みたいなものだという印象を得たが、幻影を担保するために周辺諸施設が建設されたと考えても間違っているとは言えないだろう。一応、誤解のないように申し述べておくが、私は近代天皇制度は支持している。

いずれにせよ、以上のような理由で近代日本を理解するのに、非常にお勧めなのが聖徳記念絵画館なのである。



皇居に行って、大嘗祭のお宮を参観してきたよ

12月初旬は前の天皇陛下、要するに今の上皇陛下の時代に、より市民に開放された皇室づくりの一環として、皇居が解放され、皇居の中の紅葉を人々が見られるようになった。今まで行かなかったのだが、今年は特別だ。今年は皇居で大嘗祭が行われたので、新築の大嘗宮が今も皇居に立っており、そのお宮を参観できるというのだから、実物を見る絶好のチャンスなのだ。というわけで、千代田線の二重橋前で下車し、坂下門から入って皇居の乾通りから大嘗宮まで、さらに二の丸あたりを歩いて大手門から出てきたことについて、なるべく要点を絞って書き残しておきたい。

まず戸惑ってしまうのは、お堀の内側から石垣を見ると言う点だ。いつも外側からしか見ないので、内側がどうなっているのかあまり考えたことがなかったし、一生見る機会もないんじゃないかくらいに思い、要するに、まあ、別にいいやと想像力を膨らませることもしていなかったのだが、内側から見ると石垣は極めて巨大である。安土桃山式の大阪城の石垣のように石が整列している場所もあれば、もうちょっと古い戦国風のギシギシ石を詰め込んだ石垣もあった。建造時期の違いによるのかも知れない。太田道灌が江戸城を作った部分が残っていて、その上に徳川家康が増築させて、場合によってはその後の将軍による回収部分などもあって、その時代、その時代の特徴のようなものが残されているのではないかと私には思えた。フランスバルビゾン村近くにあるフォンテーヌブローの城が増築時期によって建築様式が異なり、ここに来ると建築史が分かるというのが観光客を誘う文句になっているのだが、ちょっとそれに近いものを皇居=千代田のお城に見出すことができそうに思えたのだ。

皇居の内側から見た石垣

皇居内の冬桜

では、どんな風にいろいろなものが重なっているのかというと、まずは太田道灌の土地の匂いがふんだんに残る田舎城、敢えて言えば豪族風。森が鬱蒼としていて、森の中に城主が暮らしている感じ。そしてその上に、ドカーンと徳川幕府の武家風が乗っかっている。今回訪問してみても、基本は徳川時代の造りや区画が皇居の雰囲気を決める最大の要素だということがよく分かった。江戸時代の武家風、特に将軍とか大大名とかは雄大なものを好む。巨大な松。巨大な池。中国の古典にインスパイアされて再構成された自然・宇宙。のようなものだ。皇居のそれはとてつもなくでっかいのだが、もうちょっと分かりやすいのは京都の二条城のお庭とか、名古屋の徳川美術館のお庭とか、福岡の大濠公園とか、そういったところを歩いてみると分かる。お殿様一人が「うーむ。よい気分である」と言うためだけにとことん凝った庭造りがなされている。江戸城の庭造りも凝ってはいるが、広すぎてやや持て余しているようにも見えた。そしてその上にあるのが近代天皇の世界だ。近代天皇は非常に安定した政治的アクターだが、江戸城内の土地建物ベースで見る限り、それは徳川氏の巨大な遺物の上に乗っかっている程度のものに見えた。現代の天皇陛下が活動される御所の範囲はそんなに広くなく、今回は遠くからなんとなく見える程度の距離で見せてもらえたが、鉄とコンクリートで京都の御所っぽいものを外国人にもおーっと思わせる程度に権威主義的に作ってあるという印象で、正直に言ってあまり素敵ではなかった。誤解のないように言っておくが、私は現代の天皇制度を支持している。

太田道灌の時代を連想させる皇居内の豊かな自然

京都御所は桜の季節に一般開放されたときに中を見たことがあるが、江戸城に比べれば手狭なものの、庭の造り込みが素晴らしく、いい意味で異世界であり、なるほど殿上人の浮世離れした世界という印象で、このような芸術作品みたいな空間が大切に維持・継承されることの意義はよく感じることができた。今の京都御所は幕末に燃えたものを再建したものだが、これは確かに再建する価値おおいにありというか、再建しなければもったいないと思えた。天皇様が京都御所でお暮しになる方が日本人の感性には会うのではないだろうかとも思える。それぐらい江戸城はだだっぴろい。
皇居内のすばらしい自然。美しい紅葉。

そのだだっぴろいものを管理しやすくするためにコンクリートやアスファルトが使用されている。たとえば徳川時代のものと思しき建物の壁もコンクリートで固めてあるし、プレハブみたいな建物もあって、管理しやすければOK感が半端ない。道もコンクリートかアスファルトだ。江戸城がだだっぴろくて管理に困るというのはすぐに想像がつくが、なので効率よくやっちゃおうという、近代日本の官僚制度の特徴がよく分かるように思えてならなかった。この発想法で、日本は北から南までコンクリートとアスファルトで敷き固められ、どこへ行っても似たような風景が広がることになったのだろう…という感想を持った。
御所の遠景

宮内庁近景

とはいえ、まだまだ見どころはある。なんといっても大嘗宮の現物が見えるのだ。柳田国男先生とか、折口信夫先生が書き残したものを読み、後世の者は「ふーん。そうなのか」と思うしかなかったが、儀式は見れなくとも儀式が行われた建物を見ることができれば、より本質に迫った理解ができるようになるはずだ。で、そのお宮なのだが、想像していた以上に大きい。新しい白木の建物。伊勢神宮みたいだなあと思った。驚きだったのは、太陽の光を反射する白木の建物は、まるで黄金のようにキラキラしていたのだ。なるほど、最初にこのような建築を思いついた2000年ぐらい前の人(もし天武天皇が最初だったら1300年ほど前ということになる)は、白木が黄金色に輝くことを狙ってこんな風にしたのだと私は気づくことができた。伊勢神宮が20年に一度立て直されるのも、建物の耐用年数というよりも、黄金色に反射できる年数が考慮されてのことではなかろうか。
大嘗宮を正面から撮影した写真。壮絶な人ごみだった。警察の人も大変そうだった。

そして最後に休憩所に立ち寄ってのどが渇いて疲れていたのでジョージア微糖のガンダムコーヒーを飲んだ。運がいいことにシャアとララァの絵の入ったのがでてきた。
皇居二の丸を過ぎたあたりにあった休憩所で買ったジョージア微糖のガンダムコーヒーの缶に描かれたシャア

シャアの反対側に描かれているのはララァだった

もう二度と皇居に入ることはないかも知れないが、私は単に皇居に入ったけの人物ではない。ジョージア微糖のガンダムコーヒーを飲んだことで、私は皇居でコーヒーを飲んで帰ってきた男になれたのである。なかなかおもしろい経験ができました。

安全と秩序維持のため、警察官のほか、多くのスタッフの方々が寒空の下を立っていた。多くの人がこごえて震えていたし、独り言をつぶやいてやや壊れかけている人もいた。参観客は珍しがってよく歩くからそれでいいが、じっと立ってしごとするスタッフの方々は大変に違いない。ねぎらいの気持ちを持ちたい。




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天智系と天武系

横浜の日本郵船歴史博物館

荒井屋万国橋店のすぐ近くに、日本郵船歴史博物館がある。たまたま通りかかって、おっこれはややマニアックでおもしろそうと思い、迷わずはいってみた。建物の中に入ると受付があり、受付の向こう側の展示品の撮影は禁止だが、受付の手前の建物の雰囲気とか天井とか撮ってもいいと言ってもらえたので、天井を撮ってみた。悪くない。大正の終わりくらいから昭和の初め頃の雰囲気の天井だ。明治時代の和洋折衷は基本木造で、大正に入るとフランク・ロイド・ライトのデザインした帝国ホテルみたいにレンガ造りが増えてくるのだが、昭和の初め頃には巨石風、コンクリート風みたいなのが増え、やや重厚長大になる。特に関東大震災の後の復興ラッシュで、東京から横浜にかけてのエリアは急速にモダンで頑丈な西洋建築が増えていったのである。たとえば日本橋の高島屋もクラシカルモダンの雰囲気を残すいい建築物だが、昭和の初期のものだ。建築史をきちんと勉強している人であれば、もうちょっと詳しいことが言えるのだと思うけれど、私は自分で歩いて見聞した範囲のことしか言えなくて誠に申し訳ない。

で、展示の内容なのだが、これもなかなか面白い。日本の船舶による流通の近代史みたいな話になっていた。幕末、西洋の圧力から日本は海外との人・物・金の交流を始めることになるのだが、当初は欧米の船会社が日本にやってきてぼろ儲けして帰るというモデルが確立されたものの、日本資本のナショナルフラッグキャリアーがやっぱほしいよねということになり、三菱の岩崎弥太郎が日本郵船を作って日本資本の貨客船の交通網が世界中で次第に確立されていくことになったというわけだ。飛行機ならJAL、お船なら日本郵船という感じだろうか。

日露戦争の時は官民一体で戦争にあたっていたわけだが、たとえばロシア艦隊の母校である旅順港の入り口に船を沈めて通行不能にするという作戦が行われた際、沈められた船は日本郵船から提供されたものだった、というような豆知識も手に入ったりするのである。日本海海戦の直前、迫りつつあったロシアバルチック艦隊を発見したのも日本郵船の船だったみたいな話もあって、東郷平八郎の感謝状も展示されていた。

日本郵船は日本の近現代史を支えたという誇りがあって、それでこのような博物館も作ったのだろう。日本郵船で働く人は、うちにはこんな歴史があるんだ。と得意な気持ちになるだろうし、職場を誇れるのであれば、それは素晴らしいことだ。

建築も興味深く、近代史の一端に触れることができ、企業の心にも触れることができたるような、素敵な博物館だった。




張学良をやや深読みして日中関係を語ってみる

毛沢東の率いる中国共産党の打倒に王手をかけていた国民党の蒋介石を誘拐し、国共合作を約束させ中国人が一挙団結して抗日を目指すようになった西安事件は、その後の中国の運命にも日本の運命にも大きな影響を与えたできごととして記憶されている。しかし、事情が複雑すぎるためそれを簡潔に、或いは要点だけを絞って語るのは案外に難しい。当該事件の本質にかかわると思える点について少し述べ、そこから導き出せる現代史の一側面に切り込んでみたい。

事の本質は張学良氏が生き永らえたという一点に絞ることができるだろう。張学良は楊虎城と共謀して蒋介石の誘拐を決心したが、決心する過程においては中国共産党とも密に連絡を取り合い、周恩来の全面的なコミットメントがあったことも知られている。張学良が共産党のエージェントであったと指摘する人もいるが、それは事件が起きるまでに張学良・楊虎城サイドが周恩来と信頼関係を築くことに相当な努力を積み重ねたらしいからである。この三人が何を語り合い、どの程度の合意に達し、いかほどに信頼しあっていたかは不明だと言えるが、事件の前に何度も会っていることは確かなのだ。更に言うと、蒋介石が国共合作の決心を固めたのは監禁されているときに周恩来との会談をしてからのことのように見受けられるので、張学良よりも実は周恩来が事件の黒幕だったのではないかとすら勘繰る人もいるわけである。今となっては誰が黒幕だったのかというのはあまり大きな問題ではない。仮に張学良が全て自発的に企てていたとしても、或いは周恩来が黒幕であったにしても、起きた結果は同じなので、今さらそれを変えることはできない。ただ、そのあたりについて考えることを通じ、未来志向的に物事を見ることができるかどうかの思考実験をやってみたいのだ。

そしてその本質は、繰り返すが張学良が生き延びたという一点に絞り込むことができるのである。蒋介石が国共合作の決心を固めた後、張学良は中国人としての愛国心に突き動かされ、内戦の拡大を予防するためにも蒋介石とともに西安から南京へと移動し、南京で逮捕され軍法会議にかけられたというのが時間軸的な流れなのだが、楊虎城は蒋介石の解放には慎重であり、様々な保証を求めるべきだとして張学良と対立した。張学良と楊虎城はどちらも事件後に監禁される運命をたどるのだが、楊の方は1949年に国民党の特務機関によって家族とともに惨殺された一方で、張学良は台湾で半世紀にわたって監禁され、最晩年はゆるされてハワイで過ごした。

何が両者の運命を分けたのだろうか。張学良は蒋介石とは以前から盟友関係にあり、事件を起こした動機も愛国的民族主義的な近代的理想的中国人の心情によるものであり、蒋介石に対しても誠実であろうと務めたために命だけは助けられたと見ることはできるかも知れない。それはある程度、本当なのだろうと思う。事件が起きる前、張学良は蒋介石に次ぐ地位にあったし、蒋介石は台湾で時々張学良を訪問して語り合っていたらしいので、二人には人間関係が構築されていた。このような張学良神話に触れると、おくびょうな楊虎城は私利私欲がどうしても出てしまってぎりぎりのところで蒋介石にゆるされず殺されたかのような印象が残ってしまうのである。

楊虎城は1949年まで生きていたのだが、国民党が台湾に去る際に行きがけの駄賃みたいに殺害されたようにも見える。蒋介石と周恩来の間で合意されていたことが、1949年には破綻し、それまで命を保障されていた楊虎城の保護条件が失われたために殺されたと見ることもできるだろう。一方で張学良は最後まで命の保障条件が生きていたために生き延びたのかも知れない。だとすれば全てのシナリオを描いたのは周恩来だったと想像することもできる。

張学良は現代中国では英雄である。彼が張作霖から受け継いだあらゆる遺産と権利をかなぐり捨て、西安事件を起こし、その後の監禁生活に甘んじたことは、結果として中国を日本の侵略から救ったとして歴史の教科書に載るくらい立派な人物ということになっている。もちろん、それは嘘ではない。ただ、楊虎城と張学良の運命の違いは何だったのだろうかと多くの人には疑問に残るはずである。蒋介石と周恩来は何を話し合ったのだろうか。

以上のような疑問を提起はしたが、解決する術はない。張学良もこの点は特に秘匿し誰にも話さなかった。張学良を知る人は多いが、上の疑問に答えられる人物はいない。おそらく張学良本当に誰にも話さなかったのだろう。話が上手な人で、客好きで学問もある人だったと言われているが、彼は核心に関わる話題は慎重に避けたようだ。NHKのインタビューでもインタビューする側がそのあたりで非常に苦労したことは後の著作で述べられているし、中国人の大学教授が張学良にインタビューしたものも読んだことがあるが、事件以外の思い出話に終始していて、当時の中国の様子を知ると言う意味では面白い内容だったが、事件の核心を知りたい人にとっては全く役に立たない内容だった。

しかし、そのように情報が限られているからこそ、張学良が無私の人で、愛国心だけに突き動かされて西安事件を起こしたとする神話には磨きがかかり、多くの中国人の尊敬を集めるに至っているのである。晩年の張学良は多くの人の訪問を受けていて、台北に友人は多かったようだが、そのような厚遇を受けたのも張学良愛国神話が生きていたからではなかったかと思える。私は張学良氏をdisるつもりはないので、張学良氏本人の人間的な魅力も多いに彼を助けたに違いないということは付け加えておきたい。彼が西安事件を起こした背景の全てを知ることは不可能だが、動機の一つとしては張作霖の後継者として奉天軍閥の長として認識されるより、より近代的な愛国的行動者として記憶されたいというものがあったはずだ。愛国的行動はモダンでファッション性があったのだ。張作霖は日本の歴史で言えば斎藤道三のような実力主義的戦国大名みたいな感じだが、張学良はそれよりも織田信長のような見識のある、かつ繰り返しになるがファッション性のある存在になりたかったのではないだろうか。それについて私には悪い意見はない。愛国主義的行動にファッション性があると認識できただけでも、彼はモダンな中国人だったと言うことができるし、それを実践したのだから、氏の行動力も抜群である。

さて、このようにみていくと、日中関係史を考える上で極めて重要な点、そして日本ではあまり語られていない点が浮かび上がってくる。中国は1840年のアヘン戦争からその後100年にわたり列強の侵略を受けて弱体化した。多くの日本人が、世界の強国が中国を侵略したにもかかわらず、なぜ日本人だけ永遠に憎まれ続けるのかよく分からないと首をかしげるのは、このような歴史的展開があったからだ。だが、1840年ごろの中国と1940年ごろの中国では全く違うことが一つだけある。1840年ごろ、中国の支配者は満州人であったため、中国愛というものはあまり重要ではなかった。清朝は朝廷を守るという発想法のもとに外交をしたかも知れないが、中国を守るという発想はなかった。一方で1940年ごろの中国は愛国に目覚めた人々が増加していた。文化革命では愛国無罪という言葉多用されたらしいのだが、愛国主義がさほど大きな説得力を持つようになったのは1920年代から40年代にかけてのことである。もうちょっと言うと、第一次世界大戦後の世界は中国に対する不侵略で合意し、9か国条約によって中国の領土保全などが決められた。列強はそれ以上の侵略には二の足を踏むようになった。一方で日本は第一次世界大戦で戦勝国と認められ、ようやく列強の仲間入りを果たしたところである。対象が中国であれシベリアであれ国際法によって拡大に制限がかけられることには不満があった。袁世凱政府に対し日本は対華21か条の要求というものをして世界中からドン引きされてしまったが、そのような動きの背景には第一次世界大戦後の新しい国際秩序の存在があったのである。日本は新世界秩序の抜け穴を探そうとし、列強は新世界秩序に馴染もうとしない日本を警戒するようになった。中国人の目からすると、愛国主義が盛り上がる中、日本だけが中国侵略をいつまでもやり続けようとする最大の敵に見えるようになったのだと言ってもいいだろう。

従って、中国にとって、反日・抗日は中国の近代的愛国主義にとっては最大のテーゼであり、現代中国を語る上では国民党であれ共産党であれ、愛国主義とその絶対的な敵としての日本を語らないことは不可能なのだと言えるだろう。

このような事情について日本人が同意するか同意しないかは別の問題なのだから、異論を唱えることは自由だ。しかし、事情を知らなければ異論を唱えることもできないどころか永遠に解けない疑問の前に立ち尽くすしかなくなってしまうのである。

以上のようなわけで、その愛国主義の最大の功労者が蒋介石に国共合作を決心させた張学良ということになっている。そしてこの愛国主義は今も生きている。昨今の香港での出来事は、共産党サイドからすれば愛国主義的統合が絶対的な正義だと信じるが故に、妥協なく香港の中国化を推し進める動機になっているわけだし、実は多くの香港人も愛国主義を主張されるとたじろいでしまうのだ。そのような中国的ナショナリズムに対抗しようとすると、台湾で以前よく見られたように「我々は中国人ではない」と主張しなくてはならなくなる。自分が中国人だと認めれば愛国主義と民族主義の理想から北京政府との統合・統一に異を唱えることができなくなってしまうからだ。

以上のようなことを知っておくと昨今の中国事情とか香港事情とか台湾事情もより見えやすくなると思うので、ご参考にしていただきたい。




広島と原子爆弾について最近考える時間を持ったので、それについて

実は来月、広島に一泊二日で出張にでかける。せっかく広島に行くのだから、少しでも多く広島のことを勉強して、より実りのあるものにしたい。そのように思い、私は広島に関連する本を何冊か読むことにした。広島と言えば、浅野40万石とか、平清盛の厳島神社とかもあるのだが、やはり原子爆弾を避けて通ることはできない。以前、三田文学傑作選で原民喜の『夏の花』を読んで、難しい内容だとは思ったが、過去に触れた原子爆弾に関して書かれたものの中で特別冷静で且つ具体的に書かれているのがこの作品なのだと気づき、それだけにショックも大きく、私は深く考えさせられた。どんなに考えても起きてしまったことを変えることができないのが悲しいところではあるのだが、考え続ける以外にレクイエムの方法がないので、やはり考えることを放棄してはならないと思う。

最近読んだのは、NHKのディレクターの人が広島で原子爆弾を使用されることを、陸海軍の情報処理部門は気づいていたのではないかとの疑惑に迫るものを一冊。それから、米軍捕虜が広島で被爆したことについて調査した本を一冊。あと、京都が原子爆弾の目標になっていたのに、いつの間にか京都の目標順位が下がり広島が目標として上がってきたことの事情を調査した本が一冊だ。

これは書籍ではなくNHKスペシャルのDVDだが、内容は同じものだ。日本の陸海軍は、アメリカ軍の暗号を解くことはできていなかったが、熱心な傍受により、米軍機が発するコールサインを聞き分けることで、テニアン島に通常の爆撃機とは違った動きを見せる爆撃機戦隊が到着していることに気づいていたとするものだ。これは大いにあり得る話だし、全く疑いを感じなかった。アメリカ、ドイツ、日本が核兵器開発にしのぎを削っていた当時、特殊な任務を帯びているであろう爆撃機が原子爆弾を使用するためのものだということは容易に察知できただろうし、にもかかわらず、なぜ日本側は持てる航空機を総動員して当該爆撃機を落とすことができなかったのかとの問題提起になっている。大いに疑問だと私も思う。特に長崎の場合、既に広島で原子爆弾が使用された後なのだから、不可解な行動をする敵機は原子爆弾を使用する可能性が高いとみて、落とすことはできたのではないかとの疑念は残る。長崎の場合、当時近くに源田実さんの航空部隊がいたのだ。怠慢とか無能とか言われても反論できない事態であろうと言えるだろう。

広島で被爆して命を落としたアメリカ軍捕虜に関する調査も興味深かった。

昭和20年、無数の爆撃機が日本に飛来し、日本の各地を燃やしたが、これは同時にそれだけ米軍将兵を危険にさらすことでもあった。たとえば紫電改みたいな飛行機に狙われれば、爆撃機は足が遅いので落とされる可能性は決して低くない。そういう戦闘行動で落とされた場合もあれば、エンジンの不調みたいなことで不時着する場合もある。一度に千機とか飛来するのだから、整備不良で落ちるのもいるのである。更に、運が悪いのだと高射砲に撃ち落されることもある。高度1万メートルから落とすため、射程距離が数千メートルの高射砲では当たらないことにはなっているが、多分、うっかり高度を保つのを忘れて当たってしまうのもいたかも知れない。名古屋の岡田資中将が捕虜を略式裁判で断罪し、戦後に戦犯に問われたのも、このような落ちてきた捕虜の扱いを巡ってのことだ。

そのような事情から、日本各地では米軍捕虜が増加傾向にあった。日本は戦争が始まった時に東南アジア各地で英米蘭の捕虜を大勢捕まえることになり、彼らは終戦まで捕虜として過ごしたのだが、それとは別に新しい捕虜が入ってきていたというわけなのだ。新しく捕まった捕虜は、最近の敵の事情に詳しい。尋問の対象になった。広島は軍都として栄えていたから、捕虜が広島へ連れて来られる場合もあったのだ。そして、有名な話なのだが、とある捕虜が「おそろしい。おそろしい」と言うので、何が恐ろしいのかと聞いてみると、広島は原子爆弾の目標になっているので、ここにいたら確実に死んでしまう、どこか別の場所に移動させてほしいと懇願したという話である。事実であるとすれば、いかに日本側が情報戦で負けていたとしても、この捕虜の口を通じて広島への原子爆弾使用の計画が日本軍に漏れたことになるので、結果として何もしなかった日本軍の罪は重い。私も海軍にいた祖父が事前にだいたいのことは知っていたとファミリーヒストリー的に聞かされたことがあるので、米兵捕虜のこの言葉は、納得できる。

さて、最後の一冊は果たして京都を目標から外したのは誰の力なのかについて調査・論考したものだ。

著者が京都大学の先生なので、恩人探しみたいなっているところがあり、そのかわりに標的にされた広島の人にとってはたまったものではないだろう。だが、アメリカ軍内部での意思決定過程の一端を窺い知るという意味では興味深い。諸説あるようなのだが、スチムソンが京都はやめた方がいいと言い続けたことが大きいようだ。日本人はバブル期、アメリカ人が燃やさなかった京都の町屋を地上げのために一度ほぼ滅亡させた。今ある京都の町屋の多くが最近になって再建されたもののようだ。よく見て歩けば分かる。

今回は以上なのだが、広島は第二次世界大戦でも特別に残酷な惨禍を経験した土地であるということは間違いがない。広島について考えたり述べたりするときは、敬意や慎みを忘れないようにしたい。

香港理工大学の陥落と香港人権法

香港理工大学に学生たちが立てこもり、それを警察部隊が包囲殲滅したことは記憶に新しい。細部が分からないため、安易な独断は避けたいが、一部報道では実弾が使用されていたとも言われているし、逮捕された学生たちがその後どうなっているのか定かではないということも気がかりでならない。香港理工大学の学生たちからの情報発信が極端に少なく、オンラインで探しても彼らの直接のメッセージが見つからないので、不可解ではあるが情報が限定的になってしまい、もどかしい思いをした。一部では相当数の命が失われたのではないかとの不安をかきたてる内容のものがインターネットで出回ってはいるが、一方で辛くも脱出した学生たちの姿もあったようなので、助かった人がいるということは大変にいいことなのだが、全体像が見えないのでもどかしい。最後まで残った少数の学生たちが降伏する様子はyoutubeでみることができた。一時は千人にも上る学生たちが立てこもっていたにもかかわらず、降伏した学生の数が極端に少ないように見えたが、そこもはっきりとしたことは分からないのである。

香港理工大学が「戦場」になり、事実上の包囲戦が行われたことは世界中に知れ渡り、多くの人が不安や恐怖を感じたはずである。そのような中、アメリカではマルコルビオと確かもう一人の協力者の二人の上院議員が提出した香港人権法が通過した。香港の一国二制度を揺るがせにした場合は相応しいペナルティを与えるとする内容のもので、中国側は激しく反発しているらしい。アメリカの中華圏へのコミットメントを考えてみた場合、台湾に対しては長年、台湾関連法によって武力行使を名言する形で厚い支持を与えていたと言えるが、香港の場合は中英が同意した一国二制度があるため、やや距離をとった傍観のようなところがあり、台湾に対する態度と香港に対する態度には温度差があった。また、香港人権法も、ペナルティを与える程度のことであって、武力行使などは全く選択肢に入っておらず、コミットメントの意思・度合い、ともに台湾に対するそれと比べればやはりやや低いと言えるだろう。ただ、私がオンラインでマルコルビオの演説の動画を見たところ、中国語の熱い感謝のコメントが多くみられ、香港のことで心を痛めている多くの人が、マルコルビオたちの今回の行動に支えられているということが分かったような気がする。

香港の一連の騒動は、双方関ヶ原のつもりで臨んでいることは間違いないのだが、互いに出口戦略らしきものが見当たらず、予断を許さない。このまま旧正月までもつれ込めば、北京政府が最終的な問題解決を選ぶことも決して非現実的な想像ではない(慎重に言葉を選んだつもりです。ご了解いただきたい)。一方、香港経済は明らかな落ち込みを見せており、1パーセントあまりのマイナス成長と言われているが、実際にはそのようなものではすまないだろう。主たる産業である観光は壊滅状態で、回復するのに10年20年かかるだろう。というか、回復しないかもしれない。金融はシンガポールへ脱出しているらしい。一般消費は当然目も当てられないことになっていると推量できる。今後彼らはどうするのだろうか…と心配になるし、同情を禁じ得ない。香港ほどおもしろい土地はそうは存在しないと私は思っている。とても素敵で美しく、食事がおいしい素晴らしい都市なのだ。東洋の真珠は守られなければならない。

香港の騒乱について、私なりの考えがまとまったので、備忘のために書いておきます

11月に入り、香港の事態は予断を許さぬ、はっきり言えば楽観的な結末を想像しにくい事態に陥っている。

香港市民側の死者が出たこと。自殺か他殺か分からない死者が急増していること、香港理工大学では戦争と形容したほうがより適切と思える包囲戦が行われ、果たしてどの程度の犠牲者が出たのか、測りがたい事態に立ち至っており、それでもデモの鎮静化の様子はないことなど、いずれにせよ、市民側がひくことはなさそうに見える。

一方で、北京政府が引くこともなさそうだ。当初、行政長官の辞職や問題の発端になった送中法案の撤回などで、北京政府は妥協して事態を収めることを考えていたことは間違いないように見える。だが、香港市民の要求が更に大きなものになり、特に普通選挙の実施で両者は全く相容れることができなくなってしまい、最近は北京政府側も考えを改め、場合によっては強制的鎮圧を現実的な選択肢として考えているように見えるのだ。なぜそう見えるのかというと、私は新唐人テレビ、アメリカの声中国語版など、西側プロパガンダ系中国語メディアを見て情報収集をしているのだが、その映像を見る限り、警察側の行動に遠慮がなくなっていることが見て取れるし、個々の隊員は香港市民のデモに対して怒りを感じているように見受けられる。つまり、警察側は暴力的に市民を制圧することにためらいはないのである。当然、より上層部からの示唆なり指示があってのことと推察することができる。

香港は東洋の真珠とも呼ばれた世界の憧れの都市である。文明的でおしゃれで民度の高い香港市民が、たとえば第二の天門事件のようなことが発生してその犠牲になることは、想像するだけでも忍び難い。そのようなことは発生してほしくない、なんとか避けてほしい。しかし、事態はどうもそこまで進まなければ収まる様子はないようだし、市民、警察の双方がそこまで行ってもいいと腹をくくっているように見えてならないのだ。

最近、香港の人民解放軍の兵士たちがマスメディアの前に登場することがあった。彼らは路上のバリケードを片付けるというわりとあっさりとした任務を終えて去っていったのだが、世界に与えたインパクトは重大なものがある。北京政府には香港の人民解放軍を動員することもできるのだということを無言で示したのだ。どうなっているかは分からないが、広州、深圳あたりに戦車が集合するようなことにでもなれば、武力による鎮圧が現実的な日程にのぼってきたということができるだろう。もちろん、戦車が集合しているかどうかを確認する術はないので、全ては事が終わってからわかることになるだろう。

複数のメディアが一日に何度も香港からライブ放送しているのは、一つにはアクセスを稼げるということもあるだろうが、ライブ放送することで秘密裏に処分されることを避けようとする意図があるのではないかとも思える。カメラがオンになっている前で、戦車が遠慮なく進むというのはやりにくいに違いない。だが、このようなことまで話として出てくるということは、事態がそれだけ切迫しているということだ。これほど歴史が緊迫することは、あまりない。私個人も最近は情報収集に忙しく、疲労困憊した。

今後、香港はどうなるのだろうか?普通選挙が実施されるようになれば、やがては世論を背景にした独立政府が目指されるだろう。もちろん、北京政府は認めないだろうから、事態は泥沼化する。最悪の場合、香港はシリアのような混乱状態が常態化することも考えられる。東洋の真珠は守られなければならない。