2年後の30の歳にワーホリへ行く決断をしました。2年間で準備することを教えてくださいませんか?

ワーホリのいいところは新しい経験ができることですが、デメリットとしてはキャリアの中断があると思います。会社での社歴の中断はやむを得ないことですから、デメリットとして受け入れるしかないでしょうけれど、今後の社会復帰の手段を考えておくべきですから、私は意外と資格でもとっておくのがいいんじゃないかなと思います。行政書士みたいなお堅いのでしたら帰国後に食いはぶれる不安がないと思いますし、何があっても大丈夫と思えることでワーホリをより真剣に楽しめるんじゃないかなと思います。



昔名作と評判だった映画「戦場のメリークリスマス」をアマプラで見ました。わたしには作品の素晴らしさが全く理解できなかったのですが、勉強不足な点があればご教示くださいませんでしょうか?

私は戦場のメリークリスマスが好きなんですけど、考えてみるとなぜ好きなのか説明できないなあと思いました。で、ちょっと考えてみたんですね。主題は確かにどうということはなさそうな気もします。じゃ、何がいいのかなと。

1つには、坂本龍一さんの音楽が良すぎるので、実際以上にドラマチックに感動的に感じられるという仕掛けになっているということはあると思います。ですが、音楽も映画の一部ですから、それはそれで演出の勝利ではないかなとも思います。

次にカメラワークもあるかなと。たとえば最初の方でたけしさんがローレンスを呼び出してジャングルの中を歩く場面がありますけど、ロングショットの長回しで彼らの歩いている姿を撮影しているんですが、背景はジャングルですから、ずいぶんと遠いところなんだなとも思うのですが、同時に、こんな遠いところでも人間の考えることや感じることは同じなんだなというような不思議な心境にさせられるんですね。で、それだけだと大したことは表現してないんですけど、坂本龍一さんの音楽が流れてますから、凄い場面みたいに思えてしまうんじゃないかなと。

それから、たけしさん(原軍曹)の演技ですよね。実直そうな表情で、この人はきっと心がきれいなのに違いないという印象を与えます。ローレンスに対して時々見せる人間愛。ローレンスは敵の将校で捕虜なのに、原軍曹は昔から親しい友人であったかのように時に本音を語るんですね。

次に簡単に触れますけど、デビッドボウイのかっこよさもあるでしょう。

それから、物語の良さとして登場人物たちの成長というのがあるんじゃないかなと思います。一番わかりやすいのは原軍曹です。彼は死刑の執行を待つ身でありながら英語を学ぶんですね。それだけでも心境の変化を想像すると感動できるというか、原軍曹は死ぬ前に敵のことをよく理解しようと思ったんだなと思うと、ちょっと泣けてくる気がするんです。で、ローレンスが会いに来るわけですが、原軍曹は非常に礼儀正しいわけです。あの捕虜を殴りまくっていた下士官と同じとはとても思えないような穏やかな表情と洗練された身のこなしを観客は見せられることになるわけですけど、当然、果たしてこの人は本当に死刑にされなければならないのだろうか?との疑問も抱かせる演出になっていると思います。ローレンスは「もし私に決められるのなら、あなた方を今すぐ解放し、家族のもとへ帰す」と言うのですが、これもまた、捕虜収容所で殺されたかけて経験を持つローレンスが、敵に赦しを与えるいい場面ではないかなと思います。赦しは人間的成長の一つの証であると私は思います。で、坂本龍一さんのヨノイ大尉ですけど、彼は地中に顔だけ出して埋められて死を待つジャック・セリアズに敬礼し彼の髪を切り取ることで、愛を表現します。それまで捕虜収容所長としての威厳を用いて恫喝する形でしか愛を表現できなかった人が、ようやく穏やかに自分らしいやり方で愛を表現できるようになったという場面なわけですね。

最後に、日本人と白人が対等に渡り合うという点で、世界史・国際社会という観点から重要な作品ではないかなとも思います。この作品は間違いなく『戦場にかける橋』に影響されていますが、あの映画では男同士がぶつかり合い、意地を張り合い、認め合うということを日本人と白人がやり合うわけですね。これは人種差別の克服という観点から言っても我々が気に留めておくべき主題ではあると思うんですね。大島渚さんは更に同性愛という要素を入れて『戦場のメリークリスマス』を作ったとことで、もうちょっとウエットな作品になったと言えると思います。

ウエットが良いのか悪いのかという論点はあり得ますが、より深く観客に刻印される映画になったのではないかと思います。私は同性愛者ではないですが、恋愛感情を抱いてしまった時にどう振る舞うかというのは人類共通のテーマなんだなというようなことも思います。

というわけで長くなりましたが、気づくとあの映画がどんなにいい映画なのかを語るご回答になってしまいましたが、多少なりともご納得いただければご回答したかいがあったかなと思います。



映画「ノルウェーの森」を観た人に質問です。アマゾンのレビューでは、小説を読んだ人もそうでない人も酷評が多いように思います。あなたは観てどう思いましたか?

ノルウェーの森という小説は、そもそもかなりグロテスクな気持ちの悪い作品だと思うのですが、以前の日本人にはそういった表現を受け入れる余裕のようなものがあったと思うのです。人の心の中にある、非常にしんどい、一歩間違えれば死に足を踏み入れてしまいそうな危うい繊細さを村上春樹さんは描こうとしたのではないかなと思うのですが、世の中にはそういった正解のないこと、考えれば考えるほどわからなくなってきて疲れてしまうようなことに小説を読むことで向き合ってみるだけの余裕があつたから、いろいろな意味でノルウェーの森は成立したのではないかと思います。

今はそういったグレーなものを存在させる余裕や遊びのようなものがないような気がします。例えば吉野家の常務さんがかなり酷い失言をしましたけど、20世紀であれば、あの人は口が悪いね、くらいで終わったかも知れないんじゃないかなと思うんです。しかし今は通信技術が発達していますからオンラインで拡散し国民的に批判するのが普通の状況になってきたということもあるし、グレーなものがなくて、正しいか正しくないのか〇か×かということに焦点が合わされていて×なら即退場が今のスタンダードになっていると思うのです。

このような時代に、ノルウェーの森のように、死んだ親友の恋人で精神疾患に苦しんでいる女性と関係を持っていながら、彼女が施設に入っている間もせっせとナンパに励み、直子がいなくなつたからミドリを本命にしようかなと思って電話する主人公は当然アウトなわけです。女性をモノとしか見れてないから、直子と関係を持ちつつナンパに励むわけで、そのような作品は存在するだけで多くの人を不快にするはずですから表現の自由があるとは言え、社会的な評価なども含めて考えてみるとやはり成立しないと言うことだと思います。

主人公はミドリに「で、あなたは今どこにいるの?」という深くて鋭い質問を受け、公衆電話という世界の中心にいながら、それをうまく答えられないままに物語が終わりますから、これこそそんな風に生きてしまう悲しい男がいて、そいつは大学生のころからそうなんだという話を書こうとしたんだと思うんですけど、現代的に言えば、そんな酷いやつが主人公なのがもう非常に気持ち悪いということになるのではないかなと。

で、映画なんですけど、監督はタイ人の人だったと思いますけど、原作の雰囲気をとても大切にしていて、作品の持つグロテスクさも繊細さも再現しようとしていると私は思ったんですが、原作が時代遅れなので、結果として映画も時代言うことだと遅れなものになったと思います。

村上作品は世界中で売れましたけど、欧米では廃退的なデカダンス小説として消費されていようにわたしには見えます。また、アジアに人たちには新しいライフスタイルが提示されているように受け取られたようにも思うのですが、日本社会はその段階を通り過ぎたということなのかも知れません。



台湾ドキュメンタリー映画『日常対話』を通じて考える、虐待の過去と向き合うとは

映画の主たる内容

黄惠偵監督の母親であるアヌさんは、台湾での葬儀に呼ばれる道士という特殊な職業についている人だ。そして同時に夫から激しいDVを受けた過去を持ち、またレズビアンであもる。一見、普通の明るいおばあちゃんのように見えるアヌさんは非常に複雑な人生を送ってきたのだということが、映画が進むにつれて次第に明らかになって行く。観客が強い衝撃を受けずにいられないのは、黄監督とアヌさんが、彼女たちが日常生活で使うダイニングテーブルを挟んで向かい合う場面だろう。黄監督は涙をぬぐおうともせずに、父親から性的な虐待を受けていたと告白する。監督は母親に命じられ夜ごと父親の寝室へと行き、性的虐待に耐えなくてはならなかった。アヌさんは「知らなかった」で押し通した。

私の過去とアヌさん

人は誰でも多かれ少なかれ、心の傷を抱えて生きているはずだ。映画でDVを続けた夫のことが語られた時、私は私自身の父親のことを思い出さずにはいられなかった。私は父と過ごしたことがほとんどないのだが、父は帰ってくると深酒を煽り、母に対して執拗な暴力を加え続けた。ギャンブル狂で、借金がかさみ、暴力団員からの借金の取り立ても執拗に続いた。アヌさんの夫は家族に見捨てられ自殺したのだが、私の父は肝臓を悪くして死んでいる。私は幼少期から、自分が父親と同じような人間になるのではないかとのある種の恐怖とともに生きた。母からは私が父の血をひいているという理由で罵られた。それは今も続き、母はメールで罵ってくる。アヌさんは恋人たちに対して、自分の娘のことを「養子だ」と話していたことが映画で語られるが、もしかすると私の母と同様に、自分の子どもは夫の血を引いているために、その存在を受け入れがたいという気持ちがあったのではないかと私には感じられた。

アヌさん自身のことも、私には母とオーバーラップして見えざるを得なかった。あまり人に話したことはないが私は姉から継続的な虐待を受けていた。このことを過去に数人のごく親しい人に話したことがあるものの、あまりよく理解してもらえなかった。おそらく、姉から弟への虐待というものは一般的に語られる虐待の構造と合わないため、うまく想像してもらえないのではないかと考えている。私が母に対して、なぜ姉から私を救ってくれなかったのかと問い詰めた時、母は「知らなかった」で押し通した。母は私が苦痛で顔をゆがめ、茫然自失している姿を見ている。だが、現場を見ていないから知らなかったと言うのである。私は、私の母も、アヌさんも、逃げ切ろうとしているという点で共通しているように見えてならなかった。やや執拗になって申し訳ないが、アヌさんが恋愛に対して積極的に生きてきたことも私には母とオーバーラップするものだった。黄監督はアヌさんが恋愛に対して積極的であるにもかかわらず、家族に対してはあまり深く関わろうとしていないことにもどかしさを感じてる。私の母は、私が初めて社会人として勤務した職場近くのアパートの鍵を持っていて、ある時私が帰宅すると、母は私の知らない男性との性行為の最中であったということがある。アヌさんがそこまで酷いとは思わないが、何かが壊れてしまっている点が共通しているような気がしてならなかった。

性被害を受けたとある女性とアヌさん

私は、私の学生だった女性にこの映画に関する意見を求めてみた。彼女は以前、私に対し、彼女がレイプされたことがあるとの経験を語ってくれたことがある。彼女は熱心に、繰り返し、そのことについて語った。私は彼女の語る内容を理解する努力は続けたが、一、二度聞いただけでは深く理解することはできなかった。何度も繰り返し耳を傾けることによって、ようやく少しずつ理解は深まって行った。飽くまでも私の理解だが、彼女が私に訴え続けたことは、そのことによる心の傷は生涯続くもので、被害者は苦しみ続けるということだった。彼女のアヌさんに対する評価は厳しいものだった。アヌさんはレズビアンであるために、本当は男性のことが好きではないのかも知れない。しかし、社会的な圧力のために一度は結婚し、娘を生むところまでは耐えた。だが、それ以上、夫の要求にこたえることができないために、彼女は自分の娘を差し出したのではないかと言う見立てを彼女は私に述べた。尚、このことをブログに掲載することについては、彼女から了承を得ている。

生きることの難しさ

もしアヌさんがあのダイニングテーブルの前でシラを切らなければ、私はもっとアヌさんのことを好きになれただろうと思う。人は過去の過ちを受け入れ、反省するならば、いわゆる悔い改めというプロセスを経るならば、救済され赦されなければならないと私は思うからだ。

アヌさんを断罪すればそれで良いというものではもちろんない。アヌさんは多くを語らなかったが、簡単には語れない複雑な事情もあるはずなのだ。おそらくアヌさんはその多くを墓場まで持っていくつもりなのではないだろうか。

人は誰でも完全ではない。私は私が受けた被害について述べたが、私が加害者にならないとは限らない。人は誰もがアヌさんの立場になる可能性と黄監督の立場になる可能性の両方を秘めているに違いない。

アヌさんと黄監督の今後の人生がどのように展開するのか、私は知りたい。監督はいずれ、アヌさんとの関係をある種の高みへと昇華させてくれるのではないかとの期待が私にはある。また映画作品にまとめられる日が来れば、映画館に足を運びたい。

立花隆さんが亡くなりました。彼の著書で感銘を受けたもの、もしくはおすすめなどありますか?

私は『臨死体験』ですね。立花さんはその書籍の最後のところで、死後の世界については死んでから心配すれば良いのだと結ばれていました。

この著作で立花さんは臨死体験は、そのほとんどが脳内の作用で説明が着くのだけれど、でも、ではなぜ人に精神が宿るのか(即ちなぜ私たちには心があるのか)は説明できないと述べています。全てが脳内の作用であれば臨死体験は夢みたいなものであり、脳の作用を超えた精神が存在するのであれば、臨死体験の先には神様に会える世界があるのかも知れないということになるわけです。

後に立花さんはインタビューに答えて、自分の人生の最後の望みは穏やかで充分な臨死体験をすること、即ち、満足できる死出の旅を経験することだと述べていました。どうも言葉の節々から、立花さんは臨死体験は脳内作用であろうと判断されていることが感じられましたが、このたび最期を迎えられたことが分かった今、立花さんの望み通りの臨死体験が経験されたことを祈りたくなります。

私は村上春樹さんの『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』で書かれた人が死を迎える時の内面的な時間の感覚と立花さんの探求した臨死体験は非常に似ているのではないかと思っています。それはどういうものかというと、脳内ではほんの短い時間、臨死体験が起きているのだけれど、死にゆく本人の主観的な時間の流れは1000年に匹敵する可能性があるということです。

例えば死後の世界に得られる永遠の命、神の千年王国みたいな表現がされることがありますけど、上に述べたように物理的時間が数分でも、主観的時間が千年であれば、人は誰もが死を迎えた時、永遠とも思える、千年の内面的時間を経験するのかも知れません。ですから死に際が大事、布団の上で安らかに死を迎えることが重要なのではないかと思うのです。安らかに死を迎えれば、主観的千年も安楽なものであるということがあり得るからです。

死を迎える時に神様によって審判されるとか、閻魔大王によって審判されるとかというのも、同じ理屈で昔から表現されてきたことなのではないかとも思います。ですから、あんまり外道な生き方をしてろくでもない死に際を迎えることのないようにすることは極めて重要なことではないかと考えています。

私がまだ疑問に思っていることとして、臨死体験は果たしてどれくらい続くのだろうかというものがあります。立花さんの著作では、マウスは命を失う直前のほんの短い間に非常に強い脳波が出ることが観察されることが述べられています。この生命が尽きる直前の激しい脳波が放出されている時間、臨死体験が起きている可能性があると。しかし脳波が出終わった後、本当に完全な死を迎えたと言えるのだろうかと私は思うのです。極めて微弱な、計測不能なくらいに微弱な電気信号はまだ出ていて、マウスは引き続き臨死体験をしているということはあり得るのではないだろうかという疑問が私には残って居ます。

脳死後に臓器提供の意思を示している人の体が臓器摘出中に動くことがあるというのも聞いたことありますし、体が抵抗して暴れ出すというのも読んだことがあって、それが誇張された表現なのかどうかは分かりませんけれど、脳死と判定された状態というのは実はまだほんのわずかに命の電気信号は通っているにもかかわらず、完全に死んだと判定されてしまうということではないのかと思えなくもないのです。脳死後に臓器を摘出されたり、死後に行政解剖されている時、死者は臨死体験を断ち切られている可能性はあると思うのです。ですから首を切る処刑法なんかも、臨死体験を断ち切るという意味で残酷な刑なのかも知れないとかも思うのです。

で、ですね、じゃあ、臨死体験が完全に終わるまでどれくらいかかるのかって話になるんですけど、もしかするとその期間が49日なんじゃないかなと。死者の魂は49日間この世にとどまると言わていることの真実の意味は、それだけの期間、人はかなりゆっくりと完全な死に向かって行くということであるとすれば、その間、臨死体験が継続されていないと誰に断言できるでしょうか。

そう考えると、火葬って結構やばい気がするんです。私、最近、死後は土葬がいいなあと思うようになって、どうすれば土葬してもらえるのか、キリスト教圏への移住も含んで考えるようになっています。



5chとyoutubeならどちらの情報が信用できると思いますか?

「5chとyoutubeならどちらの情報が信用できると思いますか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

youubeは偽名やなりすましも可能であるとはいえ、一応はアカウントを晒して利用しますから、それだけ責任も問われます。ですので5chよりも情報の信用性は高いと思います。匿名だからこそぶっちゃけることも可能という考え方もあるでしょうけれど責任を負わなないわけですから、信用という点では評価は下がると思います。



まだアメリカンドリームはあると思いますか?

「まだアメリカンドリームはあると思いますか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

アメリカンドリームは定義がやや曖昧です。ある人はドナルドトランプみたいな大金持ちになることだと言うかも知れません。しかしある人はヨーロッパで農奴みたいな扱いを受けていた人たちがアメリカで自由な独立自営業者になることをアメリカンドリームだと言うでしょう(Catsで歌っている、I like to be in America!というのは、基本的にこれです)。ある人はマコ岩松さんみたいなハリウッド俳優になったりすることだと言うかも知れません。即ちアメリカでなんらかの成功を収めれば、なんでもアメリカンドリームということになります。従いまして、幾らでも定義を変えていけるアメリカンドリームは今も存在します。



部下に木村という者がいます。ある時その木村がそのまた部下に「木村拓哉でもないあなたの指示に何故従う必要があるの?」と言われました(実話)が、これは指示を拒否するのに正当な理由となり得るでしょうか?

「部下に木村という者がいます。ある時その木村がそのまた部下に「木村拓哉でもないあなたの指示に何故従う必要があるの?」と言われました(実話)が、これは指示を拒否するのに正当な理由となり得るでしょうか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

軍には統帥の体系があって、誰が誰に命令する権利があるのか極めて明確です。自分が所属する部隊の上官の命令に従わない場合は軍法会議にかかられますが、命令権はかくも重大な力を持つため、たとえ軍歴が長かろうと、或いは階級が上であろうと、所属していない部隊の司令官に命令されるいわれは無く、仮にそのようなことが起きれば統帥権の干犯に当たります。以前の日本軍であれば、天皇は全ての軍人に命令する権利がありましたが、陸軍の参謀総長に海兵に命令する権利はありません。師団長は指揮下の連隊に命令する権利はありますが、他師団の連隊に命令する権利はありません。更にその下の、、、以下略を説明したらわかってくれないものでしようか、、、



痛い中年にならないようにする方法とは?

「痛い中年にならないようにする方法とは?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

若者と交流しようとしたり、若者に慕われる人気者のおじさんになろうとすると、痛い中年になると思います。若者はデフォでおじさんを警戒していますから、よほどうまくやらない限りは煙たがられます。さらに年上風にアドバイスしたら説教したと思われかねず、嫌われます。

ですから、その逆をやるべきです。

要するに黙って自分のやりたいことをするのです。旅行が好きなら黙って一人で行きましょう。読書が好きなら黙ってそうしましょう。なるべく若者が「こんなことをたっぷりやりたいなあ」と思いそうなことをやりましょう。ただし、ゲームやマンガ、パチスロ、カップ酒のようなチープなことはやめましょう。ファッションセンスはそれなりに注意し、デブらないようにがんばりましょう。

そうしていると、若者の方が勝手に「あのおじさんは普通のおじさんとは違うかも知れない。知識や経験が豊富で、もしかしたらアドバイスをくれるかも知れない。俺もあんな風に趣味のいい中年になれるだろうか」と思ってくれる場合があります。若者は知識と経験がないことがコンプレックスなので、そこを刺激される場合があるわけです。

常にそうなるというわけではなく、たまたま、そういうツボに入る若者が現れることがあるので、そういう若者が現れたら少し話す。話してやってもいいけど、俺は好きなことをやるのに忙しいからね。という姿勢を保つ。決して「ありがとう!僕、君としゃべりたかったんだ!話し相手になってくれて嬉しい!」などと言わない。そして深入りしない。

以上っすかねえ。ということは、痛くないおじさんになるためには、孤独に耐えられるようになるということですかね。



これまでも結構な就職難だったのにコロナで追い討ち…今後更なる就職率低下が予想されますか?日本はどうなるのでしょうか?

「これまでも結構な就職難だったのにコロナで追い討ち…今後更なる就職率低下が予想されますか?日本はどうなるのでしょうか?」とのquoraでの質問に対する私の回答です。

就職の概念を変えるべきと思います。経団連にとって都合のいい新卒一括採用終身雇用にこだわる必要はありません。大企業総合職になりたいという価値観が実はもう機能しないのではないかと思います。ですから好きなことをするためのキャリアプランを個々人でデザインするべきで、人によっては資格の勉強の方が良かったり、或いはボランティア、アルバイト、いきなりフリーランス、いきなりベンチャー社長など、様々な選択肢が誰にでも提供されることが望ましいと思います。でなければ、就職活動での成否で人生が固定されちゃうってあんまりじゃないですか。