禁煙と禅

禁煙して二カ月余りになりますが、禁煙は禅の思想と通じるところがあるような気がしてきましたので、ちょっとそのことについて述べてみたいと思います。

禁煙が推奨される理由は健康に良いからだと私は理解していますが、禁煙を成功させるためには、よほどの覚悟が必要というか、生き方に対する考え方を変えるくらいの気合が必要だと私は思うようになりました。

で、どれくらい生き方を変える覚悟が必要かというと、多分、禅寺に行くくらいの強い覚悟が求められるような気がします。

私は以前、禅寺の和尚様といろいろなことを突っ込んで話し合ったことがあるのですが、和尚様に教えていただいたことを自分なりに突き詰めて要約すると、禅とはよりよく生きるための実践的な方法論だというものだと言う結論に至りました。

例えば、精進料理は体に良いわけですよね。井戸の水を頭から被ったりするのも、あれをやると血行が良くなって健康に良いですし、禅寺では特にお掃除を大切にしますが、掃除することは生活環境が良くなるし、運動になるし、でとても良いわけです。礼儀作法のようなものも禅では重視しますが、礼儀作法はできるかできないかでは生活の質、QOLが違ってきます。そういったことを禅寺では修行として実践しているわけです。自分の欲望のままに生きたり、だらしなく生きたりするよりも、ストイックにきびきびと生きる方が、よりよく生きている感じがしますよね。そういうのが禅の基本みたいなものなのだなと私は理解しました。

で、タバコに戻りますが、タバコを吸うか吸わないか、という問題も、ストイックにきびきびと生きることに価値を感じるかどうかということと関連するように思います。タバコを吸わない方がストイックなことは、多分、議論の余地はありません。ストイックを追求することが楽しくなってくると、禁煙せざるを得なくなるし、それが楽しいことだ、それがより良い生き方なのだと思えることが、禅の考え方にも通じて来る。そんな風に最近は思います。



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禁煙して二カ月。人生に対する考え方の変化。

禁煙して二カ月くらいになります。便通の問題や禁煙うつの問題などいろいろ乗り越えて、今はやや安定、小康の状態を得ています。禁煙うつは波があるので調子のいい日とそうでない日がありますが、だんだん調子のいい日が増えて来たので、この調子で少しづつ良くなっていければいいなと思っています。コーヒーは今もたくさん飲みますが、少しづつ量が減ってきました。自然に、前ほどほしくないという感じで、食事も量も増やさずに来れており、体重は禁煙前まで戻りました。

さて、禁煙してから、自分はなぜ、以前タバコを吸っていたのだろうということを考えてみたのですが、要するにタバコを吸うといい気分になるので、人生を楽しみたいというある種の甘えた感情からタバコを吸っていたのだと考えるようになりました。タバコと一緒にコーヒーとか、タバコと一緒にお酒とか、そういう風に嗜好品を楽しんでいたのですが、もう、タバコを吸わないのでお酒が前ほど楽しくありません。

以前はおそらく、酒もたばこもない人生は味気ないくらいに考えていた面があるのですが、今は考え方が変わって来て、酒もタバコもなくても人生は楽しい、そういったものに頼らなくても人生を楽しめることが人生の達人への道。くらいのことを考えるようになりました。パラダイム変換が起きている感じで、人生に対する考え方、人生観ががらりと変化しています。自分でも考え方の変化に驚いていますが、むしろ変わっていくからこそ人生はおもしろいのだし、自分は今、変わっていくプロセスにあると思うと、そのプロセスを楽しもうと思えます。このようにして変わっていくことを楽しんだ時に、人生はよりよくなっていくのではないかというような気もするのです。




デジタル時代に紙の本は、いわばインテリア

職業柄、本はたくさん必要になる。以前、読書は趣味だったが、今となっては仕事の質を上げるための義務になっていると言えるし、全て図書館に頼るのは限界がって、ある程度は買わざるを得ない。というか、本を買う金があるとかないとか言っている場合ではなく、やむを得ず買う本もたくさんある。過去に買ってきた本の代金だけで家が一軒建つのではないかとふと考えて恐ろしくなるほどだ。

最近、本を捨てようと決心し、かなり本の量を減らした。仕事や論文に関係がある本、自分が気に入っている本、感銘を受けた本、お手本にしたい本などは残し、そうでない本は捨てて捨てて捨て抜いた。今まで何千冊も読んできた(途中で何冊読んだか分からなくなった)が、二度読む本はほとんどない。本と私は大抵の場合は一期一会だ。従って、今本棚に残っている本は、思い出のようなものに近いのかも知れない。ましてや現代は大抵の本は電子情報で読める。物理的な紙の本は相当部分不要であり、断捨離が流行している今、部屋を少しでもすっきりさせるために本の量も極限まで減らした。

ただ、断捨離のつもりで本を捨てまくった結果、ふと思ったのは室内に本があるというのは値打ちがあることだということだった。好きな本が並んでいる姿を見ると、なんとも言えないいい気分になる。kindleで本が買える時代に紙の本を敢えて持つというのは、ぬいぐるみが好きな人がぬいぐるみに囲まれたり、洋服が好きな人が洋服に囲まれたり、音楽が好きな人が楽器を置いたりして幸福な気分になるのと同じような感覚なのではないかと思った。要するに今の時代、紙の本を持つのは趣味や嗜好であり、紙の本は室内照明や楽器やソファと同じようなインテリアの一部なのだと言うことができるのではないだろうか。

今、厳選して本棚に残してある本を眺めて、とても気分がいい。私は自分がインテリアに興味がないし、インテリアの才能もないと思っていたが、仮に自分の好きなものに囲まれていい気分になることが、インテリアの出発点だとすれば、私は何十年も自分の気に入るようにインテリアしていたと言える気がする。本を読むことは素敵なことだし、本が読める環境があることも素晴らしいことだ。ただ、今は「あれも読まなくては、これも読まなくては…」で、読書に追われる日々を送らざるを得ない。大人になって読書に追われるというのは、幸福なことだと思うことにしたい。





【禁煙】ついにタバコの夢を見た

最近は喫煙衝動もなく、当初ひどかった便通の悩みも消えて順調かなあと思っていたのですが、ついに夢の中でタバコが登場しました。職場の人や古い友人が次々とあらわれてタバコをぷかぷか吸うという謎な夢でした。夢の中では「なんだ、みんな吸ってるんだ、僕だけじゃないんだ」と思いましたが、目が覚めて「やっぱりな…知ってたよ。そんなことは現実には起きないって、夢だってことをさ」というような感想を得ました。

禁煙に関することをインターネットでいろいろ情報を集めてから禁煙の決心をしたわけですが、時々タバコの夢を見るというのを見かけたので、自分も同じ経験をするのだろうか…と思いつつ、でも今まで夢に見なかったので、このままタバコを忘れることができるかなとも思ったのですが、ついに夢に出て来たというわけです。夢に見るということは、心理的な整理がついていく過程だと捉えることもできると思いますから、いよいよ本格的に卒煙できるということなのかも知れません。

禁煙うつの波があるので、後は禁煙うつがなくなればいいのですが、もう少し時間がかかるかも知れません。アレン・カー先生の『禁煙セラピー』では、禁煙して三週間以上経ったある時、ぱーっと明るい別世界に出会えるみたいなことが書かれているわけですが、私はまだそういった境地には辿り着いていません。一応、禁煙セラピーでは、タバコを我慢している間はそういう経験をすることはなく、本当にタバコがほしいと思わない、むしろノンスモーカーになれたことが嬉しいという時にそういう風になるそうです。心境としてはノンスモーカーになれて嬉しいと思っていますので、もう少しかも知れないなあ、だったらいいなと思います。





お茶の効用とは、こういうことだ【結論】(禁煙関連)

禁煙して50日ほど経った中で、私がもっとも酷い思いをしたのは便秘に関することで、最初は薬に頼り、その後は便秘解消に特化したお茶に頼るようになり、最近は普通にお茶、コーヒー豆乳、牛乳をバンバン飲むことでだいたい解消できている。便秘という想定外の体調不良に私は強い困難を感じたが、それを解決する過程でお茶についてある程度調べ、自分合うお茶は何かというようなことを考え、以下のような結論に至った。それは

お茶はだいたいどれでも同じなので、好きなのを選べばいい

ということだった。この世に紅茶、ウーロン茶、緑茶、プーアル茶、ジャスミン茶など様々な種類のお茶があり、ブランドがあり、高級品になれば偽物もあれば本物もある。しかし、要するに全てお茶の葉を使っているという点で同じであり、発酵の具合が少しづつ違っているということに過ぎない。中国のお茶の葉をイギリスに輸入する途中で発酵が進んで紅茶になったことは有名なエピソードだが、後は、よりおいしくするために、とか、より美しい色になるために、とかの嗜好に合うように研究されていろいろと種類が枝分かれしているというわけだ。

従って、茶カテキンはどのお茶にも入ってるし、タンニンだとかポリフェノールだとかビタミンとか抗酸化作用とかはどのお茶にもある程度含まれているのだと考えていい。そうすると、無理に濃いお茶を飲んで苦い思いをしたり、無理に濃いウーロン茶を飲んで苦い思いをしたり、無理にプーアル茶を買って財布に痛い思いをしたりする必要はなく、好きなお茶を紅茶でも抹茶でも粉茶でも自分に合うものを選べばいいという結論に私は至った。一応、はっきりと述べておかないといけないが、私は栄養学の素人なので専門家の意見ではありません(すみません)。

私の場合は最近はジャスミン茶を飲んでいるのだが、それはジャスミン茶がおいしいと今思うからなので、ジャスミン茶に飽きれば紅茶になるかも知れないし、ひたすらコーヒーということもあり得る。いずれにせよ、水分は採らないといけないので、お茶は好きなのをたくさん飲めば良いのだと思って飲むことにしているというわけです。





youtubeでの配信も始めてみました

匿名ゆっくり動画にしようかとも思いましたが、普通に顔出しでやってみました。音声など、改善の点はいろいろありますが、ちょっとがんばって実験的にいろいろやってみようと思っているところです。動画を一応二つ作ってみていて、一つは禁煙に関すること、もう一つは大学の教材に使えるかなと思って録画した【近代を構成する諸要素と日本】です。ちょっと貼り付けてみます。恥ずかしいことは恥ずかしいですが、まあ、せっかく生まれて来たので、おもしろそうなことをやってみたいので、これもその一環です。恥ずかしいですが。




禁煙して40日目くらい。声の調子は良くなった。

私は自分で言うことではないが、わりと声がいい。しゃべるのが仕事だと言ってもいいので、声がいいのは得していると思っている。元々良いままここまで来たので、喫煙者だったころは、タバコを吸うと声がいがらっぽくなるなどの弊害は特に感じていなかった。しかしタバコをやめて40日ぐらいたった今、最近やたらと思うのが、声がさらに良くなり、さらによく出るようになったということだ。声の音域も広がったと思う。高い声を出そうと思えば出せるし、低い声も出そうと思えば出せる。タバコをやめてこのような健康効果があるとは、実際にやめてみるまで想像もしていなかった。声の調子がここまでよくなったということは、体の内側、呼吸器、消化器もきれいになって調子が良くなっている可能性があるということを示唆していると考えることもできるだろう。

この一カ月ほどの間は禁煙に伴う体調不良で苦しんだが、ようやく禁煙のメリットを享受できる段階にまで来たようだ。教務の女の人にタバコをやめた話をしたら、かなり好感度があがったようなことを言ってくれたので、やはり社会の禁煙への流れはとても抵抗できるものではない。

タバコがないとお酒も楽しくないので、結果としてお酒も一切飲まない。以前は時々は飲んでいたのだが、「タバコのないお酒なんてつまらない」と思うようになってきたので、今後も本当にお酒もたばこもない人生ということになる。その分、研究のための本を買うお金に充てられるので、よかったと言えば、よかった。禁煙うつの波がまだあるので、時々はひどくふさぎ込んでしまいそうになるし、ぼんやりして何も手が付かない時がまだある。ただ、そういう心理的な不調も少しずつ改善されているのが分かるので、このまま禁煙を続けたい。一般に禁煙は3という数字と関連しているといわれる。最後の一本を終えてから3時間、3日間、3週間、3ヶ月、3年ということになるらしい。確かにやや長めの映画を映画館で観た後でタバコを吸うために喫煙所を探す場合、3時間後であり、一つの関門にはなっている。3週間経った時、私は体調が絶不調だったが、改善し始めたと実感してきたのはこのころからかも知れない。さて、次は3ヶ月である。心身はタバコを必要としなくなってはいるが、タバコを吸っていた時の充実感や幸福感を過去のものとして振り切ってしまえるのが3ヶ月後のころらしい。別れた恋人のことを思い出すのと同じだと考えるようにすれば、3ヶ月の壁も越えられるかも知れない。ようやく節約効果も少しは感じられるようになってきたので、今後も続けたい。




禁煙後の食事

禁煙前、私がもっとも心配していたのは体重の増加だったが、禁煙前の3-4キロ程度オーバーしたところを行きつ戻りつしているので、やや安心できたところだ。昨年10キロくらい落としたので、10キロ増えたら禁煙断念と考えていたが、許容できるところで推移している。以前、禁煙に挑戦した際は20キロ太って断念したが、今回はその最悪のケースを回避できそうなので、このまま生涯ノンスモーカーでいけるのではないかと思う。

あまり太らずに済ませることができている一番の要因はタバコがほしくなったらコーヒーを飲むようにしたことだ。前回は同様のシチュエーションでチョコレートやアイスクリームを食べていたので天井知らずに太ったが、コーヒーなら太らない。また、炭水化物にも注意は怠っておらず、少食を心掛け、生野菜プロテイン豆乳牛乳あたりで食事のローテーションを組んでいるのも正解だった。

禁煙後の便通不順にはかなり困ったため、一時期はヨーグルト生野菜とチーズのローテーションみたいなことをしていたが、便秘茶を飲むようにしてからはよくなったので、ヨーグルトとチーズはローテーションから外した。食費がかさみ始めたことに不安を感じたからだ。生野菜もやや値段が高いので、特に冬で体を冷やしたくないこともあってこの数日は手控えている。

というわけで今日の食事はプロテイン大匙二杯、豆乳を2リットル。おでんのタネを3品。コーヒーを数杯である。豆乳2リットルはやや多いと思われるかも知れないが、豆乳や牛乳は2リットルくらいでちょうどいいのではないかとも思うので、個人的には今日はわりと理想的な食生活を送ることができたように思う。プロテインは今使用しているものがなくなったらそれで終了。ローテーションからは外すことにしている。豆乳2リットル飲んでいれば大豆を粉にして作ったプロテインは多分要らないと思う。今日のおでんのタネは厚揚げと卵と魚の練り物だった。野菜が不足している感はなくもない。便秘茶のおかげで苦労はないが、便秘茶にやや飽きてきたので、もうしばらくしたら青汁に頼ろうと思う。ただ、山本漢方の青汁はあまり効果を感じなかったので、他社の青汁製品が自分に合うかどうかはやってみないと分からない。やってみてだめだったら、せっかく便秘茶が合っているのだから、便秘茶へ回帰することになるかも知れない。

禁煙うつはだいぶ良くなったし、体重の増加も許容範囲で、喫煙者を見てもタバコを吸いたいと思わないし、便秘も解決している。ということは、おー!今回の禁煙は成功だ!。今日は仕事で何時間もパソコンに食らいついていたが、喫煙欲求はなかった。代わりにコーヒーが飲みたくなった。コーヒーの方がタバコより高くつくが、時代というものがある。コーヒーを減らすのはまたしばらくしてから考えたい。




人生の満足度を上げる5ステップ

本来教養系のブログのつもりでやっているhistoriajaponicaだが、教養を突き詰めると人生とは何か、幸せとは何かへとやがて辿り着く。そこに辿り着かない教養は教養ではなく豆知識でしかない。ブログを書き続けることはそういった思考を突き詰めることにも役立つ。幸福とは何かという問に完全な正解はないが、少なくとも満足度を上げる方法論はある。以下に簡単にその原理から方法論を1、原理、2、初級、3、中級、4、上級、5、達人までの順で述べたい。人生について語るにしては短い文面になるはずだが、神がαにしてΩであるのと同様、ある意味では全てが入っている。

1、原理

人生は主観でできている。客観は存在しない。客観的数字は存在するが、それに意味を付与するのも主観である。従って、自分の人生の満足度も自分の主観の判断による。主観の判断をコントロールすることができれば人生の満足度を上げることは可能だ。物質的な満足度は結果としてついてくるはずである。なぜなら人は自分の主観的世界を生涯をかけて繰り返すようにできており、渇望している人間は更に渇望した人生を作り出し、満たされていると感じている人は更に満たされた人生を創造するからだ。

2、初級

ここで方法論を述べたい。その後に述べる中級、上級、達人の領域もこれから述べる方法論の応用である。方法論としては日記を書くことがお薦めだ。簡単に言うと「よかったこと日記」を、日々書き連ねるのである。嘘を書いて自分をだます必要はない。その手の自己啓発本を信用する必要もない。その日のできごとの中でよかったことを一つ取り上げて日記に記す。それだけで必要にして充分である。初級編なので分かりやすいのを入れるとすれば「好きな人からメールが来た」とか「天気が良かった」とか「おでんがおいしかった」などのようなことである。よかったことを毎日積み上げるようにして書いていくと、潜在意識が「私の人生はいい人生なのだ」と判断するようになり、よりよい人生を創造できるようになっている。逆に嫌だったことを書き連ねる日記を続けると潜在意識が「私の人生は最悪なのだ」と判断するようになり、最悪な人生を作り上げるような原理が働くのである。潜在意識は生き延びることが優先なので、今日まで最悪で生きてこれたのであれば、明日ももっと最悪にすることで生き延びられる確率を上げようとする。今日まで幸福に生きて来ることができたと判断すると、潜在意識を明日生きのびる確率を上げるために、より幸福な明日を作り出そうとするのである。

3、中級

初級を実践するだけで必要かつ充分で、短い人ならすぐに効果が出るし、どんなにひどい状態の人でも2-3年続ければ必ず効果を得ることができる。中級レベルでは「気づき」が効果的だと言える。何気ない、普通なこと、当たり前なことが実は「良かった」ことなのだと思えるという段階だ。今日食事できたのは私が労働した得た対価の結果だが、仕事がなければ対価が得られず、食事の対価を支払うこともできない。仕事ができてありがてえと思うレベルに達するのが望ましい。他にも公共の施設で働いてくれる人のおかげで自分の生活が便利になっていることへの感謝の気持ちが湧いてきたり、なんだかんだ言って付き合いをしてくれる友人に対する感謝の気持ちが湧いてきたり、暮らせる家があることに自分が恵まれていると感じることができたりすれば、中級である。キリスト教の教会に行って主に今日のパンを感謝するのと同じ感じだと考えてもらえれば分かりやすいだろう。

4、上級

過去に対して実は自分が恵まれていたのだと気づくことができるレベルである。日々「おでんがおいしかった」だの「チョコレートがおいしかった」だの書き続けていれば、自分にその程度の経済力が与えられたのは過去の様々な恵みの結果であることに気づけるはずである。大学に行かせてもらえたのは親のおかげであるとか、大学を卒業できたのは〇〇教授が手心を加えてくれて成績をなんとかしてくれたからだとか、会社で今の部署にいられるのは上司が受け入れてくれたからだとか、そういったいろいろな過去の蓄積があってチョコレートが食えるのである。つまり過去への感謝だ。これはわりと難しいが初級‐中級レベルの日記を繰り返し続けているとこの境地へはやがて辿り着くことができる。疑問に思う人は2-3年その日記をやってみてから疑ってほしい。効果は絶大であり、金はかからない。簡単に言うと過去に対する感謝ができるようになったら上級ということだ。

5、達人

ここはなかなか難しい。難しいが、初級から中、上級までこなすことができれば、やがてここへたどり着く。私の場合は最近やっとこの心境に時々なれる場合があるという程度なので、まだまだ達人ではない。ただ、続けることで「おー、そうか」と達人の心境がふと見えて来るのである。それは私自身に仇をなすものへの感謝である。災いに対する感謝だ。たとえば雨で嫌な気分になるとき、恵みの雨と言い換える。簡単そうだが意外とできない。私をイジメた人がいるから、イジメずにいてくれる人に対する感謝の気持ちが湧いてくる。私に災いをもたらす人からも学びを得ることができる。そう思うと、仇をなす人、災いをもたらす人もまた学びと恵みの一環なのだと気づくことができ、その相手に学ばせてくれてありがとうという心境になるのである。これは禅寺のお坊さんが言いそうなことだが、禅寺のお坊さんでもここまで来れる人に出会えるとは限らない。禅寺のお坊さんもここへたどり着くための修行中の人が多く、禅はここへたどり着くための技術論だからだ。ここまで来ると親に対する感謝が湧いてくる。親を赦せないという人はいると思う。私にも親を赦せない部分はある。だが、その親にしてその子でありである。そこを立脚点に親のことを考え直し、少なくとも感謝できる部分もあると考えるようになった。親を赦した時、大抵のことは赦せるようになるだろうし、結果として人生に対する満足度は上がる。上に述べた原理を理解するのに5-10年程度かかった。それから更に5-10年程度かけてようやく達人の域があるらしいと気づけるようになってきた。どういうわけか掃除も少しはうまくはなった。

以上が人生の満足度を上げる全てだ。主観的な満足度は必ず上がることは約束できるし、主観的な満足度が高い人は結果として物理的にも満足できる生活を送りやすくなる。一日一分なので、コストはかからない。スマートフォンやPCで日記を書いてもいいので、ノーリスクと言ってもいい。興味のある人はやってみてほしい。




子どもの虐待防止オレンジリボン運動に少額の募金をした話

子どもの虐待防止オレンジリボン運動に対して、Yahooの募金を通じて少額の寄付をした。家にいながら自分にとって負担に感じない程度に社会貢献できるのだから、今の時代は本当にいい時代だ。

私がこの運動に募金したい思ったのは、この運動は確かに必要な運動だと思ったからだが、具体的にどんなことがなされているかはよくは分からない。しかし、子どもの虐待を防止するための最も効果的な方法は「子どもを虐待することは許容されない」ということを様々な媒体にメッセージとして出すしかないだろうと思うので、私は自分のブログにも書くし、この運動にも募金するのである。

なぜメッセージを出す以外に方法がないように思えるかというと、子どもの虐待が家庭内で行われている場合、外の人々からは実際のところを目で見ることができないからだ。躾と称する虐待が無数に発生していることは容易に想像がつく。明白な暴力による虐待は防止されなくてはならないのは当然のことだが、言葉の暴力やネグレクトのようなものは線引きすら、やや難しい。そのため、親や大人の側が子どもを教育する際に、自分の躾が虐待の領域に入ってしまっていはしないかどうかをセルフエスティメートしなくてはならないのではないかと私は思うのだ。線引きが難しいことに第三者が介入することは尚難しい。そのため、虐待防止に効果があるのは大人や親の自己制御だ。とすれば、親が自分を省みるためのメッセージが様々な媒体で発信される以外に方法がないではないかと私は思うのだ。なので、オレンジリボン運動が存在するというメッセージ事態が有効だし、もし私の運が良ければこの私のブログの記事が何か効果が生むかも知れない。

もっとも、オレンジリボン運動は児童相談所や監視的な行動への支援もしているということらしいので、私の募金したお金はもう少し具体的なことに使われるのではないかとも思うが、いずれにせよ、私はこの運動の主旨に同意するので、募金したのである。動機としては私も小学生のころにちょっとえげつない目に遭わされたというのがあるのだが、最近はだんだん自分でも努力することで、ある程度は過去の出来事として済ませることができるようになっている。逆に言うと少年期の心の傷は当人を生涯にわたってさいなむことになりかねない。子どもが健やかに成長すれば、将来の日本からグーグルとかアップルとかソフトバンクみたいな会社を作る人材が出て来るかも知れないし、そうなったら社会へのリターンは大きい。仮にそのような大物が登場しなくても、子どもが少しでも幸福を感じることに貢献できれば私は自己満足できる。




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