新型コロナウイルスのパンデミックは起きようとしているが、希望は捨てずにがんばろう。

もはや、パンデミックは起きようとしていると考えた方がいいでしょう。

もちろん、マスク、消毒、手袋、手洗い、うがいなどの一般的なインフルエンザ対策と同じ対策はできるわけですし、それである程度は防げると思います。とはいえ、今さら、パンデミックを予防しましょうとか、ナンセンスです。もはやあちこちで経路不明の人が現れ始めていて、飛沫感染で、もう、結構、厳しいことになってきているわけです。

まさか、これで日本終了とかは思いませんし、いずれ収束するとは思いますが、自分が感染する可能性は充分にあるという前提に立ち、感染したとしてもどのように対処するかという腹をくくった姿勢が大切なのではないかと思います。

新型コロナウイルスの辛いところは、潜伏期間がばらばらで、無症状で突然倒れるという人もいるという得体の知れなさです。また、肺炎が治っても抗体ができず、また同じ肺炎を発症する可能性が充分にあるという不気味さです。これは、一度感染すると、症状が治まっても、体調不良を起こせばまた肺炎になるかもしれず、一生続く持病みたいな感じになるわけですから、なんだか飛沫感染するhivみたいで知れば知るほど驚愕してしまいます。

とはいえ、もはや感染拡大は止まらないでしょうから、やむを得ません。この事態を受け入れて、希望の持てる部分もあるわけですから、負けずに対応しなくてはいけません。

希望がもてるところとは、致死率は低いというところです。武漢の場合、医療従事者と感染者のバランスがとれず、ばたばたとお亡くなりになっているとのことですが、武漢で致死率5パーセントとのことですから、日本で健康的に生きている人であれば、致死率は1パーセントくらいまで抑え込めるのではないかと思います。とすれば、感染したからと言って、絶望する必要はないのです。もちろん、コロナウイルスが持病というのはあまりいい気持ちはしません。しかし、hivがコントロール可能な疾病であるのと同様、コロナウイルスもコントローラブルな疾病としてそれを抱えてでも生きていくことができるわけですから、コロナウイルスとともに生きるという覚悟を持ってちょうどいいかも知れません。

サーズもマーズも収まったのです。いずれコロナウイルスも収まるでしょう。希望を持って、がんばりましょう。助け合いましょう。信じましょう。

北大路魯山人の世界‐美食と芸術の珠玉のエッセイ

北大路魯山人のエッセイはとても分かりやすい。読み手に分かるように書いているという著者の才能はもちろんあると思うが、更に本人のプラクティカルな生き方、現実的、具体的な生き様、物事の理解の仕方などが関係しているのではないかとも思えてくる。北大路魯山人の著作を朗読し、繰り返し聴いていると、彼の人となりの一端にでも触れられるようにも思えるし、そのように思えることこそ魯山人芸術という大きな山を登る読み手の楽しみだ。

北大路魯山人‐美食と芸術に関する珠玉のエッセイ朗読音源









西田幾多郎‐アブセンス・オブ・マインド

人の意識と禅の関係を追求した西田幾多郎が、ぼんやりとうわのそらになってしまう、うっかりしてしまった瞬間について述べたものです。西田の思想が日常のどのような場面に適用され得るかについてのヒントを得ることができるように思います。青空文庫に収録されているものを朗読しました。

アブセンス・オブ・マインドというエッセイは、西洋哲学を日本人の感性でも理解できる、腑に落ちるものにしようともがいた西田の呼吸のようなものも感じられるものです。また、明治以降の日本の学問の蓄積の深さが西田を生んだことへの驚きも否定できません。日常のほんのちょっとしたところから考える、私とは何か、人間とは何かという思考の片鱗を感じ取ることができます。




新渡戸稲造‐「死」の問題に対して

国際連盟で活躍して奥さんも西洋人で英語ペラペラの新渡戸稲造は、『武士道』を書いた人としても世界的に著名な人物だ。武士道といえば葉隠で、葉隠と言えば、武士道とは死ぬことと見つけたりとなるため、新渡戸稲造も死について考察を深めようとしていたことが分かるのが、中央公論に掲載された新渡戸の『「死」の問題に対して』とするエッセイということになる。

彼の教養の深さが示されるのは、ソクラテスとイエス・キリストという二人の西洋の巨人が、私利私欲ではなく大義のために自ら進んで死を選んだということ、そしてルソーもその両者の共通点に気づいていたことへの指摘など、さすが新渡戸稲造とうなってしまうし、興味深い。ついでに言うと、私もソクラテスとイエスの共通点には気づいていて、もしイエスが実在せず、伝説上の人物だと仮定した場合、そのモデルはソクラテスに違いないと何年も前にこのブログで書いている。新渡戸は武士道が死を恐れないとしても、軽挙妄動による死を戒めている。後の東条英機の戦陣訓の登場を牽制しているかのようにすら思える内容で、そのような点からも興味深い。今回、このエッセイを読んで新渡戸稲造先生と私が同意見だということが分かり、嬉しかった。

下の動画は、青空文庫に収められている当該エッセイを私が朗読したものです。




Someone Like You(抜粋)【歌ってみた‐Adele】

何年も前に友達に教えてもらって、ドラマチックないい歌だなあと思い、時々練習してました。




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This little light of mine(抜粋)-【歌ってみた‐Gospel】

前世の記憶を持つ子供とキリスト教とユング的無意識の世界

アマゾンプライムビデオで、死者の記憶を持つ子供たちというドキュメンタリーを見た。見たのは全六回あるうちの一回だけなのだが、前世があるとしか考えることができない内容だったため、大変に驚いた。前世がアメリカ軍のパイロットで、太平洋戦争の時に父島で撃墜されて戦死したとする男の子の話は大変有名で、このドキュメンタリーでも取り上げられていた。父島を守備していた日本軍は司令官が米軍捕虜を食べたことで起訴され、アメリカ軍の兵士にぼこぼこにされて半死半生で処刑されたと読んだことがあるのだが、米軍の飛行機が攻めてくると、時々飛行機が落ちてくるため、当該の司令官は酒の肴が降ってくると楽しみにしていたという話を思い出し、前世のパイロットは食われなかったのだろうかと余計な心配もしたのだが、この子供の場合、前世の自分の名前、配属された空母の名前、愛機の種類など実際に裏が取れる情報を話し出したため、両親が努力した結果、前世はこの人だったのだと思しき人物も特定でき、その家族にまで会うという驚きの展開に至っている。父親は輪廻転生などないとの立場から、別の原因があるはずだと考えていたが、以上のような情報がいちいち当たっているため、息子は本当に前世を語っていると確信するようになったそうだ。安易にスピリチュアルに走らず、実際に確かめようとする父親の合理精神を私は歓迎するが、それだけに、息子の前世は本当に米軍パイロットとする結論も重みをもつ。

日本では仏教の輪廻転生思想と近代合理主義が同居し、共存共栄しているため、前世の話題が出ても、割り切って受け入れていくことができるように思えるのだが、キリスト教圏に於いてはこれはかなり難しい。イエス・キリストが輪廻転生があるよとか言っていないので、カトリックの公式見解では輪廻転生は存在せず、すべからく人は一度きりの人生を終えた後、最後の審判を待つということになっている。輪廻転生を認めてしまうと、最後の審判の位置づけが難しくなるので、輪廻転生は認めないという感じなのではなかろうかと推察する。

で、前世がアメリカ軍のパイロットでアメリカ生まれのキリスト教徒というパターンの場合、キリスト教徒としては受け入れがたいにもかかわらず、前世があると認めざるを得ないということになると、そもそも神様ってどうなってるの?という疑問にたどり着いてしまうし、ヨーロッパではわりと宗教についてはゆるめの発想法で適当にやっている面があるのだが、アメリカは真剣な清教徒が切り開いた土地であるため、そういうわけにもいかず、生き方、社会の在り方などの結構根本的なことを揺るがしかねないため、前世があるかどうかも真剣な議論の対象になるのである。日本のように占いで楽しめばいいというような感じではなくなってしまう。

遠藤周作先生は最後の長編小説である『深い河』で輪廻転生を扱っているが、遠藤先生がカトリック信徒でありながらも自分で納得する世界観を得たいと願い、敢えて言うとすればカトリックの世界観への挑戦として絶対に彼らが認めないであろう輪廻転生について筆が及んだと見るべきなのだが、遠藤先生のスピリチュアル的な発想法も相まって、面白い内容になっており、前世とかそういったことに関心のある人は一度は読んでみるのをお勧めしたい。いずれにせよ、遠藤先生が輪廻転生について書いたのも、キリスト教圏では真剣な論争になるということを踏まえた上でのことだ。

日本人であれば真剣に突き詰めなくても仏教的死生観には馴染みがあり、私は英国教会の洗礼を受けてはいるが、仏教的輪廻転生を受け入れられないということはない。しかし、だからと言ってすぐにスピリチュアルに走ってしまってバシャールも輪廻転生あるって言ってるよ、とかになっても詰まらないので、もうちょっと近代合理主義的な結論を得られないものかとも思ったのだが、ふと思い出したのはユング先生のことである。ユング先生は人間には集合無意識みたいなのがあって、それがクリエティブなものと結びついていると考えた。芸術家が自分の作品を作るために霊感を得ようとしたとき、その人の発想法を遥かに超えた新しい作品のアイデアを得ることがあるが、これは人類共通の叡智と感性みたいなところ、人類の共有財産みたいなところからアイデアが湧いてくるみたいな感じで考えれば、ユング先生の集合無意識がどのようなものか、イメージしやすいのではないだろうか。ユング先生はかなりスピリチュアルなことに肩入れしたことで有名だが、近代的科学的心理学者として全く疑いのない、不動の評価を得ている先生だ。私は前世の記憶を持つ子供について、ユング的無意識という概念で理解することは可能なのではないかと思い至ったのである。子供が人類の共有財産みたいな深層集合無意識にアクセスし、過去の人物の情報を得ることができたと仮定すれば、キリスト教的世界観を維持したまま、近代合理主義をかなぐり捨てることなく、前世の記憶を持つ子供が存在するという事実も説明可能なものになろうというものだ。

だが、しかしである。もしそうだとすれば、前世があるとかないとかよりももっと大きなスケールで、人はスピリチュアルな存在であり、互いに結びついていて、その結びつきは時間も空間も超えるということになってくるため、キリスト教の世界観であろうと仏教的世界観であろうとぶん投げて、やっぱバシャールすげー。というところにたどり着いてしまいそうな気がする。ま、それでもいいのだが。



This little light of mine(抜粋)-【歌ってみた‐Gospel】

新しい試みとしてやってみました。鎌倉のゴスペルの先生にご指導いただきました。非常にポピュラーなゴスペル曲だそうです。よろしければご視聴くださいませ。




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Someone Like You(抜粋)【歌ってみた‐Adele】

太りまくったので伊豆へ断食に行きます

日本に帰って半年ほどになるんですけど、日本の食事はおいしいし、多分、やっぱり日本に帰って安心したのだと思いますが、バカバカと太ってしまいました。そりゃ、寿司、天ぷら、牛丼、カツどんと食べまくった私が悪いです。はい。私が悪いです。でも、このままでは呼吸するのも苦しいし、はっきり言って歩いたり、寝たり、立ったりするのも苦しいので、日常生活に支障をきたしてしまいますから、ちょっと数日、伊豆に行って断食することにしました。伊豆から箱根あたりにかけて、断食できるところがいくつかありますけれど、そのうちの一つです。名前出していいのかどうか分からないので、そのうちの一つ、という風に述べておきます。やはり現代人は男といえどもダイエットしなくてはいけません。言うまでもないですが、中年太りが男の値打ちなんて、絶対にそんなわけないですから。痩せた姿こそ、知性の証です。また経過報告もしたいと思います。youtube動画も復活して情報発信はしていく所存で、続けているうちに顔バレ、身バレ、本名バレしていくと思いますが、身バレしてもいいやと思って今後は取り組んでいきたいと思います。

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江ノ島から鎌倉まで歩いたらこうなる

江ノ島から鎌倉までは、歩こうと思えば歩けるし、今まで何度かやったけれど、とても疲れるということがあまりに明白なため、今回を最後に二度とやらないと決心をした。今回は江ノ島から鎌倉まで江ノ電沿いに徒歩で歩くとどんなものに出会って、どんな風になるのかの最終報告みたいな内容だ。

まず、小田急片瀬江ノ島駅を降りれば、すぐに江ノ島付近の海岸に出られる。そしてこんな風景を見ることができる。

江ノ島の西の浜

江ノ島の西の浜だ。片瀬江ノ島駅から徒歩3分ぐらいのところにあるので、簡単に到着できること請け合いである。さあ、出発だ。

ロコモコのお店から辛うじて見える江ノ島の灯台

江ノ島の西の浜から東へ向かおうとすると、すぐその場で目に付くのがロコモコのお店だ。これは以前に撮影したものだが、仮にロコモコのお店に入ったら、このような景色を見ることができる。江ノ島から鎌倉まで徒歩で二時間くらいかかるので、先にロコモコで腹ごしらえをしておくのも大切なことだ。

ロコモコのお店を出て、藤沢から鎌倉方面へ向かうと、腰越あたりに出てくる。下の写真は藤沢から見て腰越エリアに入る境界線になる岩場のものだ。岩場を超えれば腰越であり、現代の行政区分とは異なる、鎌倉時代人にとっての鎌倉の入り口のそのまた入り口のエリアに足を踏み入れることになる。

腰越の手前の岩場

この岩場を超えれば、腰越エリアになるのだが、腰越もまた岩場である。江ノ電が通っているために掘削されているが、こんな感じだ。

義経と弁慶が頼朝に足止めされた腰越

平家を討滅した義経が鎌倉へ帰還した際、頼朝は腰越から進ませなかった。英雄気取りで帰還した義経は目と鼻の先の鎌倉へ入ることのできないもどかしさを兄に伝えるために手紙を書いたが、それが有名な腰越状だ。義経が腰越で書いた哀切のこもったこの手紙が頼朝の心を動かすことはなかった。義経はここで諦めて京へと引きかえし、頼朝に追われる日々を送ることになる。

哀切に満ちた悲劇の腰越を超えれば、今や世界的に有名な観光地になった鎌倉高校前だ。ここの踏切には主として中華圏の観光客が日々押し寄せている。実際、風光明媚だし、湘南ファンとしては外すべからざる名所だ。

鎌倉高校前の踏切。世界的な観光名所だ。

鎌倉高校前を過ぎると、鎌倉高校前と同じ感じに風光明媚な七里ヶ浜で、ここはここで七里ヶ浜高校がある。

七里ヶ浜あたりまで歩けば、そろそろ疲労困憊してくるが、徒歩マニアとしてはこれからが本番だ。これを我慢して歩き続けると、稲村ケ崎だ。

稲村ケ崎
稲村ケ崎

桑田さんの歌で有名なことはもちろんだが、歴史的にみても極めて重要な位置にある。鎌倉幕府の襲撃を意図した新田義貞が稲村ケ崎まで兵を進めた時、陸路は北条氏が固めていて進撃が困難になった。新田義貞は稲村ケ崎の海側に騎馬兵力を進めて鎌倉市街に侵入した。伝承では神剣を海に奉納したら海が割れて陸地が見えたと、モーセの十戒みたいな話になっているが、現実にはどうだったのだろうか。干潮時であれば陸地が見えることは確かで潮干狩りなどに大変適しているらしい。相模湾は遠浅なので、干潮時に広い陸地が見られることに異論はない。だが、新田義貞は騎馬兵力を率いて鎌倉市内に突入したのである。果たして海水をふんだんに吸っている砂地で馬が進撃できたかどうか。とはいえ、実際に新田義貞は鎌倉に突入し、北条氏は滅亡した。とすれば、或いは本当に稲村ケ崎の海側を通ったのかも知れない。

更に極楽寺、長谷、和田塚と歩き、由比ヶ浜までくれば、疑いなく鎌倉エリアだ。この辺りまで来るとくたくただし、風光明媚な相模湾を見るよりも、なるべく近道をして鎌倉駅へ行き、電車で帰りたいと考えるようになる。もはや歩くのも物憂く、はっきり言って江ノ島から鎌倉まで歩いたのを後悔するレベルだ。由比ヶ浜から内陸へ入る道を歩いていると、大正末期に建てられた洋館の旅館であるかいひん荘があった。

かいひん荘

明治時代、和洋折衷の木造建築が各地に作られたが、相模湾から東京湾にかけてのエリアに限って言うと、関東大震災で多くの木造建築が失われ、復興の時により本格的な西洋建築が好まれるようになった。大正末期から昭和初期にかけて、石やコンクリートの洋風建築が増えたわけだが、かいひん荘も大正末期に建築されたものだ。現代でこの時代に残る建築物は少ない。空襲で多くが失われてしまったからだ。そうわけでかいひん荘の建築は非常に貴重なのである。

このように歩くことはいい経験になるが、とにかく疲労困憊が激しいのでしょっちゅうは無理だ。徒歩は人の心を明るくするがやり過ぎると疲労困憊してブルーになる。今、壮絶なのでそろそろ終わるが、もうこんなブルーはちょっと経験したくないので、二度と同じことはしない自信はある。興味のある人はお試しになるのがいいでしょう。実を言えば藤沢から鎌倉へは二度とご免ですが、鎌倉から藤沢で同じコースを歩いたことがありませんから、これだけは思い出にやっておきたいと思っているのです。



関連動画 
稲村ケ崎

横須賀は近代日本の縮図だった‐日本はやはり植民地だった

戦艦三笠を見学すべく私は横須賀へ向かった。鎌倉から横須賀線ですぐなので、近い。

近隣へ出かける度に思うが、神奈川県は小田原箱根江ノ島、鎌倉、横浜、横須賀など多様性に富んでおり、一つの県内でかなり最強である。温泉から現代的な都市生活まで全て揃う。で、そのようにありがたい神奈川県民なのだが、見聞を広め、本文である日本のかたちをより深く理解するための散策であった。そして、横須賀は奇妙なまでに日本の縮図であるということに気づいた。

まずJR横須賀駅を降りてみると、戦艦陸奥の主砲の展示が目に入る。日露戦争でロシア勢力を周囲から追い払い、第一次世界大戦でドイツ勢力をも追い出したあたりで今後の方向性を見失いそうになった日本海軍は、当面の仮想敵をアメリカに設定し、アメリカに勝てる軍備をという前提で八八艦隊という艦隊構想の実現を急いだ。ところが、世界は軍縮の流れに乗っており、日本の軍艦保有数も制限を受けるようになり、陸奥は本来条約の精神に照らして廃艦されるべきとの指摘を受けたが、日本側が粘り、なんとか戦力として保持することができた。太平洋戦争が始まると、陸奥は大抵の場合、連合艦隊の後詰みたいな立ち位置にいて、ミッドウェー海戦では生存者の救出に力を尽くしている。人命救助は大切なことだが、日本海軍が世界の主要国を説得してなんとか保持し続けた陸奥であったにもかかわらず、目覚ましい活躍はしていない。戦艦大和と同じである。だが、それも理解できないことではない。世界は飛行機で戦争する時代に入っており、戦艦は無用の長物だった。活躍できる場があるわけない。

陸奥の主砲

陸奥の模型

戦艦陸奥の主砲を撮影した私は、陸奥の模型も撮影し、近くの観光案内ブースみたいなところの方に戦艦三笠までの道のりについて質問した。アメリカ軍の横を通り抜けるようにして、三笠公園へ行くのだとその人は教えてくれた。アメリカ軍の基地の写真を撮ったら、叱られますか?と質問したところ、さりげなく、少しくらい撮るのなら問題ないでしょうと教えてもらった。で、実際に歩いていると、左手にアメリカ軍の基地のゲートが見えた。ゲートは左手にいくつもあったからよほど広いのだろう。で、一枚くらい撮影しても問題あるまいと思い、iphoneを向けたところ、日本人の男性が「写真撮るな!」と飛び出してきた。既に一枚撮影した私は、その場からささっと立ち去ったが、今日のこの経験をもとに、アメリカ軍基地について、少し考えをまとめることができたので、ここに書き残しておきたい。

まず、日本人の男性が「写真撮るな!」と命令口調で言ってきたのはどういうことなのだろうか。という疑問が残った。日本の領地の中で、日本人が、公共の施設を撮影しているのである。せめて「写真はご遠慮ください」とか「撮影は禁止です」との通告があってしかるべきである。にもかかわらず、写真撮るな!と私は命令された。命令される筋合いはないつもりだったので、ショックだった。ショックを受けつつ考えたが、あのような口調で命令してきたということは、写真撮影には強圧的な対応をせよとのガイドラインが存在するに違いない。彼は警官ではなさそうだったから、民間の警備会社が請け負っているのだろう。

強い口調で叱られたにもかかわらず、私は官憲から「撮影した写真を見せろ」と言われたり、職務質問を受けたりなどということはなかった。日本国内の公共の施設を撮影することに違法性はないため、強制力を発揮することはできないのかも知れない。ならば、写真撮るな!は日本国の法律を超えて命令されたことになるわけで、日本が今も占領下にあることを思い知らせる場面であると言える。アメリカ軍基地はNo dog and Japaneseというわけだ。我々は気づかないだけで、日本は植民地なのだ。私は写真を撮影するにあたり、もし職質を受ければ、「日米同盟によって日本の独立は維持されています。アメリカ軍の兵隊さんには感謝しています。実際に基地を見れて感激して撮影しました」と返答するつもりだったが、命令されたのがショックだったので、次回、同じようなシチュエーションが生まれた場合は「神聖な日本国の領土に外国の軍隊が駐留していることは耐えがたいため、証拠写真を撮りに来た」と言うことにしたい。もっとも、あんなショッキングなことは二度と経験したくないので、私が基地の方を撮影することは二度とないだろう。撮影した写真は手元にあるが、サイバーアタックとかされたら困るので写真をここに掲載することは自主規制しようと思う。

気を取り直し、私は三笠を目指して歩いた。横須賀の海は汚れていて、もうちょっとなんとかしろよとも思ったが、ここで文句を言っても始まらないので黙って歩いた。エイが水面から顔を出しているシーンに遭遇し、生まれて初めて見る光景だったので私は驚愕したが、これは神様のプレゼントなのかも知れない。三笠に着くと、入場料の600円を払い、私は中に入り、無料のガイドさんの説明を聞いて、一時間ほどで出てきた。基本的には日本海海戦の英雄的な活躍についていろいろ教えてもらえたのだが、たとえば東郷平八郎長官が立っていた場所とか、その後ろに秋山参謀が立っていた場所とかが分かるようになっていて、なるほどここは愛国心を養う場であり、100年前の戦勝を今も祝う場なのだと理解したが、ここへ来る途中でアメリカ軍基地と通り過ぎた私としては、戦勝のシンボルである三笠と、敗戦の具体的結果である米軍基地の両方が存在する横須賀の因果の深さみたいなものを思わずにはいられなかった。ちなみに中国人観光客もあちこちにいて写真を撮っていた。アメリカ軍、三笠、中国人観光客が集まる街横須賀は、近代日本の縮図である。

戦艦三笠の外観

アメリカ軍基地関係者と思しき白人さんとか黒人さんとかがたくさん歩いているのも印象的で、まるで沖縄みたいだった。だが沖縄の米軍への感情の悪化が懸念されるため、アメリカ人は決して我が物顔では歩いていない。やや遠慮がちという印象を私は得ている。ところが、横須賀ではそのような印象は得られない。米軍関係者は、まるでここがアメリカみたいに堂々と我が物顔で歩いていた。私の住んでいる場所の近くには厚木基地があるが、平素、藤沢でそんなにたくさんの外国人が歩いているのを見かけることはない。厚木基地の米兵は外出は控えるように言われていて、横須賀の米兵はそのあたりが緩いのだろうか?答えは分からないのだが、横須賀の人がどんな心境なのかは様々に想像することができるだろう。観光案内ブースの初老の男性が、米軍基地の写真撮影はできますか?との私の問いに対して、さりげなくなら大丈夫ですと答えたのは、本当は叱られるのだけれど、仮にも日本の領土で公共の施設を撮影するのに、アメリカ軍に忖度するというような悲しいことは認めることができないとの想いがあったからではなかろうかと私には思えた。たとえ本当は叱られるとしても、日本人が日本の領土内のものを撮影するのに(しかも個人情報とかプライバシーとかそういう話でもないのに)、遠慮しなければならないというのは、やはり言いにくい。だから、あのような説明になったのだろう。そのような説明が、せめてもの横須賀の人の意地なのかも知れない。

帰りに横須賀navy burgerを食べて帰った。確かにアメリカの味がした。

yokosuka navy burger