横須賀は近代日本の縮図だった‐日本はやはり植民地だった

戦艦三笠を見学すべく私は横須賀へ向かった。鎌倉から横須賀線ですぐなので、近い。

近隣へ出かける度に思うが、神奈川県は小田原箱根江ノ島、鎌倉、横浜、横須賀など多様性に富んでおり、一つの県内でかなり最強である。温泉から現代的な都市生活まで全て揃う。で、そのようにありがたい神奈川県民なのだが、見聞を広め、本文である日本のかたちをより深く理解するための散策であった。そして、横須賀は奇妙なまでに日本の縮図であるということに気づいた。

まずJR横須賀駅を降りてみると、戦艦陸奥の主砲の展示が目に入る。日露戦争でロシア勢力を周囲から追い払い、第一次世界大戦でドイツ勢力をも追い出したあたりで今後の方向性を見失いそうになった日本海軍は、当面の仮想敵をアメリカに設定し、アメリカに勝てる軍備をという前提で八八艦隊という艦隊構想の実現を急いだ。ところが、世界は軍縮の流れに乗っており、日本の軍艦保有数も制限を受けるようになり、陸奥は本来条約の精神に照らして廃艦されるべきとの指摘を受けたが、日本側が粘り、なんとか戦力として保持することができた。太平洋戦争が始まると、陸奥は大抵の場合、連合艦隊の後詰みたいな立ち位置にいて、ミッドウェー海戦では生存者の救出に力を尽くしている。人命救助は大切なことだが、日本海軍が世界の主要国を説得してなんとか保持し続けた陸奥であったにもかかわらず、目覚ましい活躍はしていない。戦艦大和と同じである。だが、それも理解できないことではない。世界は飛行機で戦争する時代に入っており、戦艦は無用の長物だった。活躍できる場があるわけない。

陸奥の主砲

陸奥の模型

戦艦陸奥の主砲を撮影した私は、陸奥の模型も撮影し、近くの観光案内ブースみたいなところの方に戦艦三笠までの道のりについて質問した。アメリカ軍の横を通り抜けるようにして、三笠公園へ行くのだとその人は教えてくれた。アメリカ軍の基地の写真を撮ったら、叱られますか?と質問したところ、さりげなく、少しくらい撮るのなら問題ないでしょうと教えてもらった。で、実際に歩いていると、左手にアメリカ軍の基地のゲートが見えた。ゲートは左手にいくつもあったからよほど広いのだろう。で、一枚くらい撮影しても問題あるまいと思い、iphoneを向けたところ、日本人の男性が「写真撮るな!」と飛び出してきた。既に一枚撮影した私は、その場からささっと立ち去ったが、今日のこの経験をもとに、アメリカ軍基地について、少し考えをまとめることができたので、ここに書き残しておきたい。

まず、日本人の男性が「写真撮るな!」と命令口調で言ってきたのはどういうことなのだろうか。という疑問が残った。日本の領地の中で、日本人が、公共の施設を撮影しているのである。せめて「写真はご遠慮ください」とか「撮影は禁止です」との通告があってしかるべきである。にもかかわらず、写真撮るな!と私は命令された。命令される筋合いはないつもりだったので、ショックだった。ショックを受けつつ考えたが、あのような口調で命令してきたということは、写真撮影には強圧的な対応をせよとのガイドラインが存在するに違いない。彼は警官ではなさそうだったから、民間の警備会社が請け負っているのだろう。

強い口調で叱られたにもかかわらず、私は官憲から「撮影した写真を見せろ」と言われたり、職務質問を受けたりなどということはなかった。日本国内の公共の施設を撮影することに違法性はないため、強制力を発揮することはできないのかも知れない。ならば、写真撮るな!は日本国の法律を超えて命令されたことになるわけで、日本が今も占領下にあることを思い知らせる場面であると言える。アメリカ軍基地はNo dog and Japaneseというわけだ。我々は気づかないだけで、日本は植民地なのだ。私は写真を撮影するにあたり、もし職質を受ければ、「日米同盟によって日本の独立は維持されています。アメリカ軍の兵隊さんには感謝しています。実際に基地を見れて感激して撮影しました」と返答するつもりだったが、命令されたのがショックだったので、次回、同じようなシチュエーションが生まれた場合は「神聖な日本国の領土に外国の軍隊が駐留していることは耐えがたいため、証拠写真を撮りに来た」と言うことにしたい。もっとも、あんなショッキングなことは二度と経験したくないので、私が基地の方を撮影することは二度とないだろう。撮影した写真は手元にあるが、サイバーアタックとかされたら困るので写真をここに掲載することは自主規制しようと思う。

気を取り直し、私は三笠を目指して歩いた。横須賀の海は汚れていて、もうちょっとなんとかしろよとも思ったが、ここで文句を言っても始まらないので黙って歩いた。エイが水面から顔を出しているシーンに遭遇し、生まれて初めて見る光景だったので私は驚愕したが、これは神様のプレゼントなのかも知れない。三笠に着くと、入場料の600円を払い、私は中に入り、無料のガイドさんの説明を聞いて、一時間ほどで出てきた。基本的には日本海海戦の英雄的な活躍についていろいろ教えてもらえたのだが、たとえば東郷平八郎長官が立っていた場所とか、その後ろに秋山参謀が立っていた場所とかが分かるようになっていて、なるほどここは愛国心を養う場であり、100年前の戦勝を今も祝う場なのだと理解したが、ここへ来る途中でアメリカ軍基地と通り過ぎた私としては、戦勝のシンボルである三笠と、敗戦の具体的結果である米軍基地の両方が存在する横須賀の因果の深さみたいなものを思わずにはいられなかった。ちなみに中国人観光客もあちこちにいて写真を撮っていた。アメリカ軍、三笠、中国人観光客が集まる街横須賀は、近代日本の縮図である。

戦艦三笠の外観

アメリカ軍基地関係者と思しき白人さんとか黒人さんとかがたくさん歩いているのも印象的で、まるで沖縄みたいだった。だが沖縄の米軍への感情の悪化が懸念されるため、アメリカ人は決して我が物顔では歩いていない。やや遠慮がちという印象を私は得ている。ところが、横須賀ではそのような印象は得られない。米軍関係者は、まるでここがアメリカみたいに堂々と我が物顔で歩いていた。私の住んでいる場所の近くには厚木基地があるが、平素、藤沢でそんなにたくさんの外国人が歩いているのを見かけることはない。厚木基地の米兵は外出は控えるように言われていて、横須賀の米兵はそのあたりが緩いのだろうか?答えは分からないのだが、横須賀の人がどんな心境なのかは様々に想像することができるだろう。観光案内ブースの初老の男性が、米軍基地の写真撮影はできますか?との私の問いに対して、さりげなくなら大丈夫ですと答えたのは、本当は叱られるのだけれど、仮にも日本の領土で公共の施設を撮影するのに、アメリカ軍に忖度するというような悲しいことは認めることができないとの想いがあったからではなかろうかと私には思えた。たとえ本当は叱られるとしても、日本人が日本の領土内のものを撮影するのに(しかも個人情報とかプライバシーとかそういう話でもないのに)、遠慮しなければならないというのは、やはり言いにくい。だから、あのような説明になったのだろう。そのような説明が、せめてもの横須賀の人の意地なのかも知れない。

帰りに横須賀navy burgerを食べて帰った。確かにアメリカの味がした。

yokosuka navy burger




鎌倉の牛かつ

江ノ島電鉄鎌倉駅を降りてすぐのところに、牛かつのお店がある。

その名の通り牛をさくさくに揚げたお料理を出してくれるお店で、食べ方は普通の豚カツと同じだ。ただ、牛らしい味の濃さというかコクというか、クセみたいなものもあって、好きな人にはたまらないおいしい揚げ物料理になっている。豚カツの場合、甘味があってもちろん素晴らしいのだが、牛のようにややクセの強いお肉の揚げ物も、とてもおいしい。私は羊もOKなタイプなので、牛のクセは大歓迎であり、肉の味をもろに感じるカツというスタイルでも大喜びである。お店で大喜びしている動きは見せなかったが、あるいは表情で見破られたかも知れない。写真を見ていただければ分かるが、揚げ方は非常にあっさりとしたレアで、豚のように完全に火を通す必要のないことの強みを生かし、表面サクっと、やや下はジューシーに、その更に下は生肉の食感という風に一口でいろいろな味が楽しめるのも魅力のうちだ。ごはんとお味噌汁がおかわり自由なのは言うまでもないだろう。

値段は決して安いといえるものではなかったが、高くはない。このお店の近くの銀のすずのアップルパイのセットよりも安いので、良心的だとすら言えるかも知れない。

なんとなくお店の中を見渡したり、説明書きみたいなものを読んでいると、このお店はもともと京都のお店だということが分かってきた。京都に本店があって、敢えて東京の食通の集まる首都圏の観光地鎌倉に勝負をかけてきたのだろうか。

牛を食べるのだから、近代に入ってから発達した食文化だということになるが、横浜で牛鍋が生まれたように、新しい文化は新しく発展した土地で花開きやすい。京都のような古都で、牛の文化って発達するのかな?と一瞬思ってしまいそうだが、京都は明治に入っておおいに発展し、戦後に入って停滞したと言えるのではなかろうか。京都市内を散策すると、古典的近代と呼ぶべきレトロチックなレンガ造りのインフラ設備とか、教会とか、明治風の建物がたくさんあることに気づく。近代以前の建築物は案外あまり残っておらず、明治風建築の海の中で時折、ポツリポツリと近代以前の建物があるという感じだ。最近は戦後風の建物も立ててほしいという京都市民の要望が強いために、だんだん現代的な建物が増えて、京都は京都らしさを急速に失っていった。今は50年前や100年前に比べると、京都らしさと呼べるようなものは何も残ってはいないのではないだろうか。私が歩いてもそう思うのだから、長年京都をウオッチしている人にはそのような感傷はより強いものになっているのではないかと思える。

まあ、いずれにせよ、そういうわけで、近代以前にある程度の資本の蓄積が進んだであろう京都で近代的発展があるのは自然なことだと言えば自然なことで、ちょっとお隣の大阪は大正から昭和にかけて東洋屈指のモダン都市としてその発展を享受したのだから、京都もその余波を受けていても不思議ではないというか、その方が自然なのだ。そんなことを考えながら、ふーむ、京都の牛カツかあといろいろ思いを巡らせれば私は鎌倉の小さなお店のカウンターに座りながら日本の150年の近代史を遡ることができて、楽しみは倍増するのである。

よくよく考えてみると、Dandelion chocolateというカフェも京都から鎌倉へきている。京都はなかなかにモダンな都市だ。京都を侮ってはならない。鎌倉のことを書いているのに京都のことばかりになってしまった。鎌倉については今後もいろいろ紹介しますので、鎌倉市民の方がお読みになられたら、何卒ご容赦・ご理解を。

ビーガン的な生活に憧れてはいるのだが、まだまだな…



湘南台→六会日大前→善行→藤沢本町まで歩いた話

まあ、なんとなくの思いつきでやってみようと思っただけのことなのだが、この寒さ。
消耗も激しかったので二度とやらないとは思うのだが、折角歩いたのでブログに思い出として残しておきたい。

その日、お天気はやや晴れていた。春の晴天ならともかく、冬のやや晴れた日にやるものではない。かくも長い徒歩移動など…。

しかし、このように無意味な徒歩移動はこんな日にしかできないのも事実だと言えるのではないだろうか。もし、冬の晴天の気持ちのいい感想した日であれば、江ノ島とか、大磯とか、小田原とかへ行きたいと思うものだ。また、もう少し暖かい梅とか桜の季節になれば、そういう庭園とかに足を運びたいのであって、何が悲しくて六会日大前から善行あたりにかけて徒歩移動したいと思うものかとも思う。このエリアは何もない。藤沢市民なら分かってくれるものと思う。

慶應大学のSFCができて湘南台も発展し、このエリアには慶応大学の学生が多い。とはいえ湘南台駅のスターバックスは慶應大学の学生で混みあっており、とてもスターバックスを楽しめる空間にはなっていない。私がSFCの学生だったときは、スターバックスもなかったので、今のSFC生めぐまれているともいえるが、せめてスターバックスにでもいかなければ何もないことへの屈辱感はよく分かるので、SFC生がスタバに集中することを責めたりはしない。でも、マック持ち込んで何時間も作業しているのを見かけると、あのねえ、ここは渋谷のスタバじゃないのよ。湘南台の貴重な貴重なカフェなのよと言いたくなる。しかし、卒業して随分たつ私がそのような難癖をつけても始まらない。ぐっとこらえるというか、混み過ぎてスタバとしての価値を充分に感じられないので、もう湘南台のスタバにはいかない。

それはそうとして、六会の日本大学が非常に盛り上がり、はっきり言って湘南台よりも六会日大前の方が華やかで活気があるのではないかとすら思える時がある。日本大学の資源学科の博物館もあるらしく、なんとなく足を向けたくなるのは湘南台より六会ではなかろうか。とはいえ、全く無関係な私が日大の博物館があるというだけで界隈を歩いていいのかどうか分からないので、遠目に見ながら南下して歩いた。途中、山田うどんがあった。山田うどんに入るのは何年ぶりだろうか。山田うどんと言えばやはりうどんを食べなくてはならないと思い、ハーフのうどんを頼んだが、うどんを食べるのが10年ぶりとかそれくらいなので、うまく食べることができなかった。舌も顔の筋肉もそばにカスタマイズされているのだ。

山田うどんがうどん屋さんだと思っていては大間違いだ。おそばも売っているし、サイドメニューもいろいろあるし、ドリンクバーみたいなものもあった。山田うどんは常に進化系なのだ。しかもとてつもなく安い。ありがとう山田うどん。

山田うどんのうどん。麺にこしがあっておいしかった。

山田うどんを出て、すぐ近くのコメダ珈琲店で休憩し、更に南下した。コメダ珈琲店は大抵の場合、接客がいいので、ある程度大きい都市のコメダ珈琲店なら喜んで入るのだが、藤沢市内のコメダ珈琲店である。限界があることは知っている。ややトラウマ的な接客を受け、私は更に南下した。もし星野珈琲店なら、トラウマはこの程度では済まなかっただろうから、コメダ珈琲店には感謝しなくてはいけないだろう。
六会日大前から善行方面へ歩く途中に開けている農地。藤沢市民の経済を支えている。

善行界隈から見た横浜方面の様子。歩けばすぐに横浜市内だ。ベッドタウンの雰囲気は好きだ。

がんばって歩き、いつの間にか善行を過ぎ、気づくと国道1号線の近くで、国道1号線を抜けると雰囲気はすっかり藤沢本町だった。寒さと疲れをいやすため、私は藤沢本町のタリーズコーヒーにかけこんだ。ホスピタリティ溢れる接客に涙が出そうになった。ありがとうタリーズコーヒー。藤沢にはスタバもあれば、コメダ珈琲店も星野珈琲店もあるけど、実は一見ありふれたカフェに見えるタリーズコーヒーの接客が身に染みるとは。藤沢本町のタリーズコーヒーのことは生涯忘れないだろう。



長後の焼き餃子

小田急江ノ島線の長後駅を降りて東口の方から外に出ると、すぐ近くに古久家がある。

老舗の中華料理で、昔は神級にチャーハンがおいしかったのだが、その神様が引退したので、伝説のチャーハンは食べられなくなってしまった。しかし、それでも藤沢市内で最高レベルの中華料理を出してくれるお店であることに違いはなく、神奈川県内でもトップランキングに入るのではないかと思えるほどの味を出してくれるすばらしいお店である。神奈川県には中華街もあるため、中華料理でランク入りするのは至難の業のように思えるかも知れないが、中華街は案外、おいしくないお店も多い。最近は和食のお店ができたり、バーとか増えて中華街らしさが崩壊しつつあるため、ますます中華料理のレベルには期待できなくなりつつあって、実際、最近、屋台の中華まんを食べた時は二度と食べないと誓うレベルになっていた。従って、たとえ中華街のある神奈川県内であろうとも、素晴らしい中華料理屋さんが中華街以上においしいということはあり得る。それが古久家であると言っていいだろう。藤沢市内にチェーン店を持っていて、いわゆるローカルチェーンになっており、世田谷の代一元みたいになっているのだけれど、果たして藤沢市内に何軒あるかはよく分からない。長後駅前の店舗が本店だろうなとは思うのだが、それも、そうじゃないかなという程度の当て推量である。おいしいかどうかが問題なのであって、資本関係はどうでもよく、このお店はおいしいのだから、それでよいのである。

で、このお店で一番人気なのは焼き餃子だ。パリッとしていてジュワーっとしている、日本人が好むあの餃子の味である。中までしっかり熱が通っているため、どこぞのチェーンのように中の方がやや冷めているとか、そういうことはない。少なくとも今まではなかった。餃子は本来、お米と一緒には食べなくていいようにできている。そもそも北京のようなお米の育たない寒冷地域の食べ物で、お米はなくとも小麦を使って餃子の皮を作り、肉を巻いて食べるのだから、餃子さえ食べていれば、肉も炭水化物も問題なく摂取できるようになっている。餃子の餡の部分に野菜をしっかり刻んで入れておけば、野菜も採れるのだから、中華料理らしい完璧なお料理が餃子というわけだ。そのため、本来ならライスを注文する必要はないし、古久家の餃子はかなり本格的で真面目にライスはいらないのだが、餃子が安いので、餃子だけ頼むというのはお店の人に申し訳ない。そのため、ライスも頼んで一度の食事にしている。ライスを頼むとスープをくれるので、これがありがたい。チャーハンを頼んでもスープが出てくるのだが、スープ大好きな私としては実にありがたいのである。

古久家のチャーハンとライス




新宿の中村屋サロン美術館

新宿のとある一角に、洋食で有名な中村屋王国みたいなビルが存在する。

中村屋の洋食レストランがあるだけでなく、持ち帰り用の食品点もあれば、美術館まで所有している、中村屋王国である。成功した企業が美術館を持つことは、決していけすかない嫌味な趣味などではない。美術館を持つことは成功者の証であり、文化芸術面での社会貢献の一環であり、社会はそのような成功者や企業に対し、それにふさわしい敬意を持つのがより理想的だと思っているので、「王国」という表現は、私なりの敬意の表明である。ポーラとか、ブリヂストンとかの企業が美術館を持っているのと同じで、そういう施設を持とうと思う発想法は結構素敵なのではないかと私は思う。もうちょっと規模の大きいものではフジサンケイグループが箱根でピカソの絵を集めたりしているのがあって、かつて経営者一族が役員会のクーデターで追放された際、なんとなく空気として、美術品集めにかまけているからこのようなことになったのだと言わんばかりのものが流れていたような気がするが、あのケースと美術品の収集は関係がない。美術品を集めたからクーデターが起きたのではなく、企業のガバナンスに失敗したからクーデターが起きたのである。

ま、それはそうとして、中村屋である。大正から昭和の初めくらいにかけて、中村屋は芸術家サロンとして機能するようになった。創業者が芸術家たちをかわいがり、パトロネージュするようになって、芸術家たちが出入りするようになったというわけだ。言うなれば中村派である。フランス絵画の世界にエコールドパリとか、バルビゾン派とかがあるような感じで、中村派と呼ぶべき絵画グループが存在したわけで、中村屋サロン美術館ではそういった、中村屋にゆかりのある芸術家の作品を見ることができる。私が見学して得た印象としては、中村派の芸術家たちは日本の風景や日本人の佇まいをどのように描けば西洋絵画の手法に馴染ませることができるかということに腐心していたように感じられた。

中村屋と言えば、カレーである。インド独立運動に身を投じ、日本に亡命したラース・ビハーリー・ボースが中村屋に本格的なインドカレーを伝えたそうだ。中村屋のボースはよくチャンドラ・ボースと混同されるが、別人である。ボースは創業者の娘と結婚して日本の生活に馴染んでいくのだが、孫文が日本に亡命した際に宮崎滔天などの支援を受けたのによく似た構図と言えるかも知れない。このボーズのおかげで、東京名物中村屋カレーが楽しめるのである。私もせっかくなので中村屋のカレーパンを食べてみた。地下の食品売り場には小さなフードコートになっていて、カレーパンやスイーツ、ホットコーヒーなどを買ってその場で食べることができる。新宿という、ありふれた要件で誰もが立ち寄る土地で、中村屋の美術館に入ることで非日常を楽しめるのは結構いい経験になった。

中村屋のカレーパン
中村屋で食べたカレーパン

最後に、偶然、チャンドラ・ボースのことにも少しだけ触れたので、ついで議論したいのだが、日本の力を借りてインド独立を果たそうと考えていたチャンドラ・ボースは、日本の敗色が濃厚になる中、日本ではなくソビエト連邦と中国共産党の支援を受けることでインド独立運動の継続を模索するようになった。日本の敗戦を知ったボースは台湾から日本軍機で大連にわたり、ソ連軍に投降することを計画したが、飛行機は離陸の瞬間にプロペラが滑落してしまい、飛行機は地面に激突した。ボースは全身やけどを負い10日あまり持ちこたえたが、彼は台湾で亡くなった。私の想像だが、謀殺なのではないだろうか。ボーズが日本軍機を使って大連に渡ることを計画した以上、日本軍の全面的な協力がなくてはならず、当然、諸方面にボーズの考えは伝達されていたに違いない。そして日本軍内部には多様な意見があり、純粋にアジア解放思想を持つ軍人たちは、たとえ日本が滅びてもボーズにできるだけの協力をすることで、インド独立に協力したいと願っただろうけれど、一方で日本が戦争に敗けたと知って敵に寝返るのかと憤慨した面々もいるだろう。仮にもレイテ沖海戦以降、日本・台湾からは無数の特攻隊員がアメリカ艦隊を目指して飛び立っている。そのため飛行機整備のノウハウの蓄積は凄まじいものがあったに違いなく、プロペラの滑落など意図しなければ起きないのではないかという気がする。それも離陸の瞬間に外れるのだから、誰かが故意に外れるように仕組んだのではないかと思えてならないのだ。このようなチャンドラ・ボース謀殺説は、私の妄想のなせるとんでも都市伝説みたいなものなので、本気にしていただかないでいただきたい。日本とともにアジア解放のために戦ったチャンドラ・ボース氏に敬意を表します。



さようなら、ファーストフード

ニューヨークの新感覚で生きる男性が、一か月の間、マクドナルドの商品だけを食べ続けるとどうなるかという実験的な生活を試みた『スーパーサイズ・ミー』は、多くの人に衝撃を与えた話題作であったに違いない。私も一度みてみたいと思っていた作品なのだが、最近、アマゾンプライムビデオで観たので、ここで簡単に内容をシェアしてみたい。

この作品では、フィルム制作者の男性が自ら出演し、一か月の間、マクドナルドの食事だけで過ごすと誓いを立て、マクドナルドの体への影響がいかなるものかを検証するために、無用な運動を避け、徒歩もなるべく避けて、タクシーを使うように心がけ、もし、マックの店員さんから「スーパーサイズにしますか?」と質問された場合は、かならずスーパーサイズで出してもらうというルールを決めて実行している。アメリカのマックのスーパーサイズである。日本ではとてもお目にかかれない超巨大な食べ物なのだが、それを男性がばかばかと食いまくる映像が続く。当初は気持ち悪くて嘔吐することすらあったが、だんだん慣れてきて、マックの食品に快感を感じるようになり、ついにはマックなしではいられない体になり、結構やせ型だったのにしっかり中年太りになって一か月が終了する。マックの超特大を食べ続けたら、自分のお腹も超特大になっちゃったというわけである。マックがいかに健康に悪いかを証明したフィルムとして名高い作品なのだが、私はマックが嫌いとかそういうわけでもないし、マックを憎んでいるわけでもないので、一応軽くマックを弁護しておいてあげたい。

当該男性の主張するように、マックが太りやすいことには異論はない。また執拗に行われる刷り込み的広告宣伝によって巨大マクドナルド資本が人々から健康とお金を吸い上げていることも事実であろう。しかし、男性は運動しない、歩かない、なるべく超特大にするという、マックサイドが想定していない要素を入れ込んで実験が行われている。運動しなかったことの結果までマックが引き受けなければならないとすれば、それはマックがかわいそうというものである。また、男性の彼女も作品に登場するのだが、若くてびっくりするほど美しい女性で且つビーガンなのだが、作品の中で肉よりドラッグと言い切っている。肉を食べると幸福感を得られるが、肉は体に悪いので、ドラッグで幸福感を得た方がいいというわけだ。あれ?なんか話が違う方向に…と思わなくもない。私は今、ビーガン的生活に憧れて努力中なのだが、ビーガン的生活を追求する際に支障となるのは、いかにして幸福感を得るかという問題であり、タバコもお酒もやめた今、わりとこれは深刻な問題になりつつあって、時間をかければ克服できるとは信じているが、先輩ビーガンは実はドラッグで補っていたとすれば結構ショックである。これについては私なりにまた考えて、自分流の克服法を確立したいとは思っているが、いずれにせよドラッグに頼らない解決を模索しなくてはならない。ドラッグ大国のアメリカ人がどう思うかは知ったことではないが、普通の感覚を持つ日本人なら、ドラッグ依存症とマック依存症のどちらかを選ぶとすればマック依存症を選ぶに違いない。だって、ドラッグは違法なんだから。

マクドナルドがアメリカのクリエイターとか、アーティストとかといった人たちからいかに憎まれているかを知るために、もう一つ映画作品を挙げておきたい『ファウンダー』という作品で、やはりアマゾンプライムビデオで観た。アメリカの地方都市でがんばるマクドナルド兄弟が確立したファーストフード店の権利を乗っ取った男がマクドナルドのファウンダー(創設者)を名乗ってバリバリ仕事をして大金を稼ぎ、糟糠の妻を捨てて他人の奥さんを奪って再婚し、人生勝ち組わっはっはで終わる作品で、観ている側としてはなぜこんな中年おじさんのサクセスストーリーを見なくてはならなかったのかと釈然としない気持ちが湧いてきて、消化不良のまま映画が終わるのだが、このような作品がまかり通るのも、要するにマックのような巨大資本は、この映画の主人公のようないけすかない嫌味なおじさんがみんなからお金を吸い取るためにやっているんですよというメッセージが込められているというわけだ。ハリウッドらしいわかりやすい作品であると言える。

私はハリウッドのお先棒を担ぐつもりはないし、ハリウッドも巨大資本なのでは?という疑問も湧くし、巨大資本=悪とも言えないと思うし…といろいろと気持ちがぐちゃっとなってしまうのだが、そういったこととは関係なく、私はそろそろファーストフードを卒業したいと真剣に考えている。それはマックが悪いのではなくて、私が新しい自分になるための方向性としてビーガンを選ぼうと考え始めているということだ。もちろん、完全なビーガンは私には無理だ。魚、卵、牛乳、チーズ、ヨーグルトをやめる自信はない。魚をやめないのだからベジタリアンとしても失格であり、肉をなんとか近い将来やめられるかどうか…という意思薄弱な頼りないビーガン志望者である。

マクドナルドのバーガーがどんなものでできているかを考えてみよう。まずパンである。パンは普遍的な食品で、特に問題はない。そしてハンバーグなのだが、肉はビーガン志望とかでない限り悪い食材ではなく、場合によっては美容と健康のために必須であると語られることもある食材だ。そしてレタス。レタスがだめだという人はいないだろう。ピクルスも同様である。チーズも挟まっているが、チーズが体に悪いとか聞いたことがない。ということは、マックの看板商品であるハンバーガーはむしろいい食事だと言うことすらできるかも知れない。でも私は卒業しようと思っている。

以上までに諸事情をつらつらと書いてはみたのだが、どうしてそこまでファーストフードから脱しようと思っているのかについて述べたい。肉には依存性がある。パンにも依存性がある。私はそういった依存を減らしていきたいと思っている。お酒とかたばこからの依存からは脱することができた。そういった依存から脱することができるのは実にいい気持ちだ。引き続き肉や糖質への依存からも脱却してみたいと思うようになっていて、その先にある新しい地平を今は見てみたいという好奇心がうずくのである。繰り返すがマックは悪くない。私がマックを卒業するのである。あ、最後に湘南台のバーガーキングへ行っておいた方が思い残しがなくていいかも知れない。私は何を言っているのか…タバコもお酒もやめていくと甘いものがほしくなるので脱糖質がうまくいかなくなり矛盾が生じ、葛藤が生まれる。なかなか難しい問題で、今もいろいろ手探りなのだが、ある程度時間が経てば再びタバコを吸いたいとか思わなくなるので、一機に全部やめてしまうのではなく一つずつやめていくのが心身への負担も少なくていいかも知れない。最終的には魚と卵と牛乳をどうするかという問題に直面することになるとは思うが、それは数年後のことになるだろう。



日本橋高島屋特別食堂の帝国ホテル仔牛のカツレツ

仕事の関係で、日本橋へ行った時のことである。日本橋の高島屋は昭和初期に建設された店舗が今も現役で活躍中であり、入っただけでも時代を感じることができてなかなか楽しいのだが、日本橋高島屋のプレミア感をぐっと挙げているのが特別食堂の存在である。この特別食堂では帝国ホテルと同じ料理がやや割安で食事できることで知られていて、他にも一流レストランの料理も楽しめるらしいのだが、とりあえずは帝国ホテルの味を堪能したいので、私は迷わず帝国ホテルのお料理を注文した。一生で二度と来ることはないだろうから、後悔のないように、しっかりと帝国ホテルの味を記憶しておきたかったのである。この短い文章で何度帝国ホテルという単語が出て来たか分からないが、それだけ私は希求しているのだろう。

で、あんまり高いものを頼むわけにもいかないし、まさかコーヒーだけというわけにもいかない。特別食堂では豪華な受付ルームがあり、そこで名前をつげてしばらく待って順番がくると名前を呼んでもらえて中に入ることができる。待合室は豪華な劇場みたいなところで、順番で名前を呼ばれるのはまるで病院であり、受けられるサービスは確かに一流ホテルのそれで、給仕していたいだサービスには、全く不満が残らない、感動的な素晴らしいものだった。

そういうわけなので、それらインフラとサービスに敬意を表すためには、ちゃんとお料理を頼まなくてはいけない。コースとかにする必要はなくても、やはりディッシュを頼まなくては申し訳ない。そうして私はやや安い仔牛のカツレツを頼んだのである。もちろん安くないが、他のメニューに比べればやや安かった。味は素晴らしいものだった。カツレツなのだから、揚げた直後のサクサク感が命なのだが、存分にサクサクである。中身はジュワッとなので、ワクジュワなわけなのである。

どこも人材を絞る時代なので、必要が生じた際、給仕の方に「すみません」と声をかけるのも一苦労な昨今だが、ここではヨーロッパよろしくテーブルの担当者の人がいて、さっと目配せしただけで私が何をほっしているのか察してくれる高い洞察力が発揮されており、おいしいお茶もおかわりし放題だ。もちろん、あんまりおかわりするとおかしいので、常識の範囲内でしかおかわりしなかったが、相当に高級な日本茶が給されたのであった。

ありがとう高島屋。ありがとう特別食堂。私はいつか、一度でいいから帝国ホテルでの宿泊を経験してみせるとの決意を固め、特別食堂を後にし、その日の日本橋での仕事にエネルギーを注いだのだった。



上野で高御座を拝観してきた

今、上野で見学できる高御座は、今上天皇陛下がご即位されるために京都御所の紫宸殿から運ばれてきたもので、前の天皇陛下、即ち上皇陛下が即位された時と同じものを解体して東京まで運び、今回の即位に用いたとのことだそうだ。で、前の天皇陛下の即位の時は、自衛隊がヘリコプターで運んできたらしいのだが、穏やかではないとのことで今回は民間が陸路運んだらしい。別に自衛隊で運ぼうと民間に委託しようと私にとってはどうでもいいが、儀式に必要な設備を移動させるだけでも政治が絡んでくるのだから、天皇陛下というお立場はいろいろ大変である。

今使われている高御座は大正時代に作られたものだそうで、大きな特徴は天皇陛下と皇后陛下がお座りになるところが、ちゃんと椅子になっていて西洋風を取り入れているということなのだそうだ。要するに和洋折衷である。どこにも踏み込んだことが書かれていなかったので、私がここでもう一歩踏み込んで議論しておこうと思うのだが、天皇と皇后が一対になって公の場に登場するというスタイルそのものが西洋近代を受け入れてからのことで、天皇陛下がご使用になる、写真手前の高御座と、皇后陛下がご使用になる奥の御帳台をワンセットにするという発想そのものが繰り返すが近代西洋的なやり方だ。以前であれば天皇家であろうと武家であろうと、即位だの元服だの家督相続だのといった表向きのことは全て男の手で行われ、奥向きのことは女性の手で行われ、基本は相互不干渉だった。もちろん夫婦や家族ということになれば全くの不干渉・無関心はあり得ないが、それでも他人から見える部分は男女不干渉である。

それとも、私が不勉強なだけで、日本国中、天皇家だけが西洋風一夫一妻的即位の儀式を平安時代から続けていたのだろうか?まさかとは思うが…(シャア風)。

高御座にお上りになって天皇陛下がご即位されるというのは平安時代から続く古式ゆかしき儀式であることには異論をさしはさめるほど私には知識がないので、きっとその通りに違いないと思うのだが、大正時代にリニューアルされた時、明治天皇から始まった天皇家の西洋化が更に一歩進められた証左であるように私には思える。昨年皇居に行った時、皇居の内側の様子から近代官僚制によって形成された近代天皇像のようなものを感じ取ることができ、今回の高御座を拝観してその感触については確信を深めることができるようになったと思える。一応、断っておくが、私は近代天皇制度を支持しているので、上に述べていることは批判ではない。日本の国を説明する上で重要な要素である天皇と天皇家に対する洞察を深める努力をしているだけなので、ご理解いただきたい。このような男女一対スタイルで高御座が作られたのは、実は昭和天皇の発案なのではなかろうかという想像も湧いてくる。明治天皇が一夫多妻を享受したおそらく最後の天皇で、大正天皇は健康上の理由からとても複数の女性を身の回りに置いている場合ではなかったらしいのだが、健康で頭脳明晰な昭和天皇は、明朗に一夫一妻を支持し、実践した。若いころにヨーロッパを歩き回って、キリスト教圏の一夫一妻的家庭像が理想的に見えたのだろう。

昭和天皇が即位する時は京都に出向いて高御座に上ったとのことだが、実際に高御座を見れば納得できる。美術的価値が高い上にあまりにも巨大な高御座を運び出すより、人間が出向いた方が話がはやい。とても移動させるわけにはいかなかったのだろう。平成と令和になるにあたっては、高御座が警備上の事情から東京へと運ばれたということらしい。確かにあの皇居の中であれば、ちっとやそっとで手が出せるものではない。安全に相違あるまい。京都御苑は建物のガードがそこまで固そうではないので、実務担当者から見れば不安に思うだろうとも思えたので、今のやり方は合理性を追求し、積み重ねた帰結なのかも知れない。

天皇家の代替わりがあったおかげで、普段見ることのできないものが色々見ることができ、収穫は大きい。大嘗祭のお宮もまさか自分が生で見る機会を得られるなど、想像もしていなかった。生きていると面白いことがいろいろある。



渋谷の北海道スープカレー

北海道は何を食べてもおいしい奇跡の土地である。日本各地においしいところはある。だが、しかし、北海道のように新天地でおいしいものがどんどん生まれてきたという力強いロマンのあるところは、他にない。北海道こそ日本の近代史の本質を物語る運命を背負ってきた土地であるとすら言えるだろう。

北海道の歴史と言えば、アイヌの人々だ。一万石扱いで北海道全体の管理・開墾・交易を扱ってきた松前藩は、アイヌの人々を奴隷的労働状態に追い込み、縄張りを奪うなどして利権を拡大したとされる。正式な「アイヌ史」のようなものは勉強したことがないので、私の知識ではこの程度のことしか言えないのだが、日本が植民地を拡大していた時代、台湾の原住民に対して、或いは満州地方の漢民族に対して似たようなことはなされてきたと言ってしまってもさほど間違ってはいないだろう。なし崩し的に領有していったという手法に着目すれば、沖縄で行わたこととも通底すると言えるだろう。

台湾では霧社事件のような身の毛もよだつ反乱暴動が起き、その鎮圧も苛烈であったとされているが、北海道でそのようなできごとは聞いたことがない。アイヌと和人の抗争ということになれば、平安時代のアテルイあたりまでさかのぼらなければならないのではないだろうか。そのようなわけで、アイヌの人々の平和を愛する様子は尋常ならざるほど徹底しているのかも知れない。ああ、アイヌの人とお話がしてみたい。アイヌ資料館が八重洲と札幌にあるはずで、いずれは八重洲のアイヌ資料館にも足を運ぶ所存だが、最終的には札幌のアイヌ資料館に日参してようやく見えてくるものがあるのではないかとも思える。二週間くらい時間をとり、最初の一週間は図書室でひたすら資料を読み込み、二週目はできればアイヌ語の基本くらいは勉強してみたい。教えてくれる先生がいるかどうかは分からないので、飽くまでもそういう空想を持っているというだけなのだが。

いずれにせよ、その北海道はとにかく食事がおいしいのである。海の幸も陸の幸も本州のそれとは段違いに味が濃い。かつて北海道のホッケは食用には向かないと言われたが、今では日本人の主たる食材の一つだ。ホッケは実に美味なのだが、そのホッケですら食材の人気ランク外になるほど、北海道の味は充実しているのである。しかもサッポロビール園があって、対抗するようにアサヒビール園がある。私はもうそのようなビール飲み放題的なところへはいかないが、北海道の食のアミューズメントがいかに充実しているかを議論するための材料として言及してみた。

さて、スープカレーだ。北海道はサッポロビールがおいしく、函館・札幌・旭川のラーメンは伝説的なおいしさで、当然魚もうまいのだが、そこに被せるようにスープカレーもうまいのだ。私は函館に一週間ほど旅行したことがあるのでよく知っている。どうして普通の地方都市にこんなにおいしいものが次々と普通に売り出されているのかと、北海道の底力に驚愕したのである。その北海道のスープカレーが渋谷で食べられると知り、私は小躍りした。ヒカリエのすぐ近くにそのスープカレー屋さんはあった。イカスミ風味もあったのだが、まずはプレーンで頼んでみた。十二分に辛い、たっぷりのスパイスが食欲を刺激するし、スープなので、ごくごくいけてしまう。奇跡の味である。北海道へのリスペクトとともに、ここに書き残しておきたい。尚、この時は人におごってもらったので、おごってくれた人に感謝である。

精神科医の樺沢紫苑氏が、北海道のスープカレーを流行させたのは自分であると豪語する音声ファイルを聞いたことがあるが、本当なのだろうか…今も確信を持てずにいる。



江ノ島でロコモコを食べて思う、日本とハワイの近代史

最近、江の島に行きまくっている。天気のいい日は江ノ島でしょう。当然。という思いこみが炸裂してしまい、とにかく晴れると江ノ島である。お天気のいい日はとにかく日光をたくさん浴びて、抑うつの改善に努めるのが、最近の習慣になっている。とにかくたくさん歩くし、おひさまの光もたくさん浴びるのだから、精神的にも肉体的にもいいことづくめである。健全な精神と肉体は、当然のごとく健全な人生を生み出すに違いないのである。児玉神社にも行っているので、神頼みも含んで入念な健全ライフだ。

さて、江ノ島に通い詰めていると、ハワイとかマイアミとかイタリアとか、欧米の海沿いの地域を意識したお店作りをしているところがわりと多いということに気づく。私もハワイに行った時、江ノ島みたいだと思ったので、依頼、ハワイに行かなくても江ノ島で充分に楽しいというのが私の信念になっている。以前、伊豆に行った時も敢えてハワイに行かずとも伊豆で充分と思ったのだが、最近は伊豆まで行かなくても江ノ島で素晴らしいと思うようになり、どんどん近場で満足できるようになっている。小田原があって、箱根があって、大磯があって、江ノ島があって、鎌倉があって、横浜があるのだから、神奈川県はかなり最強である。

話を戻すが、江ノ島周辺にはハワイをイメージしたお店がちらほらある。おいしそうだし、とても楽しそうなので、そのことについて異論はないというか、お店のコンセプトには激しく同意である。先日、小さな子供たちが江ノ島へ向かう道中、ハワイ!ハワイ!と大声でのたまわっていたが、江ノ島とはそういう土地であって、実にありがたい。

で、最近、小田急片瀬江ノ島駅近くでロコモコを食べた。もちろん、おいしくて満足なのだが、ロコモコはハワイ名物で、日本人移民によって楽しまれるようになったと言われている。お米を炊いて、その上にハンバーグと目玉焼きをのせ、デミグラスソースがかかっているのだから、正しく味の和洋折衷であり、洋食に慣れた現代日本人にとっても申し分のないおいしい食事なのである。

このように思うと、ロコモコのような料理も含んで、ハワイへ行く必然性はなく、本当に神奈川県民最高と思ってしまい、神様に感謝したくなる日々だ。

ハワイはアメリカ合衆国に編入される前は独自の王朝が存在し、アメリカの浸潤を受けていたころにはカラカウア王がフリーメイソンに加入するまでして王朝を守ろうとした。カラカウア王は、頭脳明晰・開明的な君主として知られており、相当に広く世界各地を回ったらしい。日本で言えば、徳川慶喜と同じくらい新時代に敏感で、岩倉使節団同様に世界を回り、明治天皇と同じくらい歴史に対するインパクトがあり、一人で何役もこなす超人みたいな王様であったと言える。逆に言えば人材不足が深刻だったのかも知れない。人口が少ないのでやむを得ない。ハワイ人に問題があるのではなく、人口が少なくならざるを得ないという、絶海の孤島の自然条件が関係した事情だと言うべきだろう。で、このカラカウア王は日本を訪問した際、取り巻きを振り切って極秘で明治天皇に会うという離れ業をやり遂げている。正式な会見では語り得ない日本・ハワイ同盟を持ちかけたのだ。日本の天皇家の人物とハワイ王家の人物の婚姻関係を成立させ、日本にはハワイから極東にかけての大連合の盟主になってもらう。そしてハワイ王朝をアメリカからの浸潤から守ってもらうというのが、その骨子で、実現していれば日本は太平洋岸の国防についての心配が格段に減るというメリットがあった。

もちろん明治天皇は断っている。第一に、明治期のアメリカは日本にとっての最大の友好国で、太平洋岸の国防について心配する必要はなかった。第二に、明治天皇には国策決定の権力はなく、とりあえずこういったことは伊藤博文に決めてもらわなくてならないから、仮に明治天皇に決断を迫るとすれば、断られるに決まっている。カラカウア王にとっては気の毒ではあるが、明治日本独特の国内ポリティクスの事情があった。第三としては、仮にハワイ・日本の婚姻同盟みたいなものが成立すれば、ハワイを獲る気まんまんのアメリカと事を構えることになりかねない。もしカラカウア王が伊藤博文に直談判したとしても、伊藤はやはり断っただろう。というわけで実現したらちょっとおもしろいことになっていたかも知れない同盟話は実現しなかった。

大正から昭和にかけての日本の軍人や政治家たちの間で、上述のエピソードがどれくらい知られていたかは分からないが、仮に知っていたら大いに残念がったであろうことは間違いないように思える。第一次世界大戦後のベルサイユ体制で日本は世界の五大国に数えられるようになり、その後の軍縮条約で日本は三大国の一角を占めるようになった。軍縮条約で問題になったのは、日本が対英米に対して保有できる軍艦の量が六割から七割(艦船の種類によって異なる)程度に抑えられてしまい、これでは海上防衛に不安が残ると国内では条約批准が紛糾した。浜口雄幸や犬養毅が襲われたのも、この海軍軍縮問題が原因だし、統帥権干犯というとんでも憲法論があたかも有力な説であるかのように語られるきっかけになったのも、海軍軍縮条約を政治家が決めてくることは統帥権干犯だとする言いがかりだった。ちなみにこのような言いがかりで浜口を論難したのが犬養で、犬養も同じ言いがかりで襲われたことを振り返ると、歴史とはえてしてブーメランになるものである。historiajaponicaも他山の石とし、言葉を大切にしなくてはならない。

日本は保有できる艦隊の量こそ限定的になってしまったが、アメリカは日本に近いところに海軍基地を作れなくなるという交換条件があったので、一番得したのは実は日本だとも言われた。いい話である。しかし、海軍は困った。アメリカを仮想敵国にして軍備増強を目指していたのに、アメリカが基地を増やさないのなら、一体誰を仮想的に訓練すればいいのか分からなくなってしまう。アメリカはもうちょっと脅威でいてくれるくらいの方がちょうどいいのに、なんとなく穏やかなお兄さんになってしまったからだ。

これだけなら呑気な話で済むのだが、そんなことをしている間にカリフォルニアでは排日移民法が成立してしまい、日本人は人種差別だと怒った。ハワイでも日本人移民のデモがあったりして(ドウス昌代の『日本の陰謀』に詳しい)、太平洋では日本人が大勢進出したゆえに差別される場面も増えるという、簡単に説明できない、難しい事態が生まれるようになった。

もし日本・ハワイ同盟が実現していたら、ハワイで日本人が差別されると騒ぎになることはなかっただろう。更に、太平洋戦争が始まる直前のころには、険悪な日米関係を理由に、サンフランシスコを母港にしていたアメリカ太平洋艦隊はハワイの真珠湾に母港を移転した。東南アジアを占領したらアメリカの太平洋艦隊がすぐに出てくると確信した山本五十六が真珠湾攻撃を決心し、宣戦布告の最後通牒はワシントンの日本大使館員たちが油断していたせいで英訳の打ち込みが間に合わず、日本は国際法違反をした悪いやつということになってしまった。日曜日の朝に真珠湾攻撃をしかけ、その最後通牒を30分前にハルに手渡せとする訓令もかなりの無理ゲーのように思えるので、大使館の職員の人たちも気の毒である。

仮に日本・ハワイ同盟が成立していたら、ハワイがアメリカに編入されることもなかったのだから、太平洋艦隊が真珠湾を母港とすることもなかったし、ハワイやフィリピンにアメリカ海軍がいなければ山本五十六が乾坤一擲の後先考えない真珠湾攻撃を思いつくこともなく、日本側の安心は大きいもので、アメリカと戦争しなければ日本は滅びるという妄想にとらわれることもなく、太平洋戦争も起きなかったかも知れない。

歴史にifは禁物というのは嘘である。ifを考えるからこそ、ターニングポイントが分かり、歴史に対する理解は深まる。カラカウア王は今でもハワイで人気のある、尊敬されている人物だと私は勝手に思っているのだが、日本人としてもカラカウア王には敬意を表したい。