憲政の常道

 大正時代、「憲政の常道」という言葉が誕生します。
 日本では当時、元老が首相を指名し、天皇が任命するという習慣が確立されていましたので、衆議院には首相指名権がありませんでした。
 しかし、この時代は民主主義の理念が多くの人に共有されるようになり、元老が首相を指名するという原則は崩れないものの、元老は直近の選挙で第一党になった党の党首を首相に指名し、仮にその人物が失政によって首相を辞任すると、第二党の党首を首相に指名するという習慣が原則化します。

 即ち国民が首相を指名できるようになったわけです。

 しかし、この原則は10年を待たずに崩れていきます。政治家同士の勢力争いがあまりにも激しく、陰謀による首相下しを年中やるようになったため、西園寺公望が自分の意思で憲政の常道を放棄してしまいます。その後は軍人や貴族院の人物が首相に指名されるようになり、大正デモクラシーというおもしろい現象は縮小してしまいます。

 戦後、かなりの時間が経って、小沢一郎氏が細川護熙氏を首相に擁立した時、「憲政の常道に反する」という批判がありました。当時、自民党は230程度の議席を確保しており、過半数には届きませんでしたが、第一党には違いありませんでしたから、憲政の常道に従えば、自民党の首相が選ばれるのが自然です。しかし、小沢氏は日本新党、社会党なととの連合で(いわば、オリーブの樹方式)、細川氏の首相指名を勝ち取ったわけです。

 そういうことが正しいのかどうか、衆議院議員はただの頭数集めなのか?ということを考え出すときりがありませんが、考える材料として憲政の常道というものもあると頭の隅に入れておくことも悪くないかも知れません。

写真素材 ぱくたそ

継体天皇はやっぱり怪しいのか?

第26代の継体天皇は、ちょっと怪しいのでは?とよく議論になる人物です。研究者や論者の中には継体天皇が本当の初代の天皇だと論じる人もいます。

 継体天皇は応神天皇が越前に派遣した息子の五代目の子孫ということになっており、臣籍降下のようなこともなかったため、皇位継承者として問題はなく、万世一系が続いていることになっています。

 私は天皇制を支持する日本人ですので、継体天皇がホンモノであってほしいなあと願う気持ちもありますが、そもそも応神天皇が実在したかもちょっと気がかりなだけでなく実在したとしても、その父親の仲哀天皇の子どもではないという説もあり、仲哀天皇が実在したかも心もとないという、不安の種はなかなか尽きないのです。

 応神天皇の息子の代で飛鳥を離れ五代も経た人物を迎え入れなければならないという点で、一体何があったのか?との疑問も残ります。その武烈天皇の時に何があったのよ?と首をかしげたくもなってきます。

 継体天皇は即位後ほど飛鳥に入らなかったそうですが、その辺も不穏な香りが漂っているとしか思えず、当時、天皇家とそれを支える豪族たちの社会で何か非常に困ったことが起きたと考える方が自然なのかも知れません。それが何かを知る術はもちろんなく、決定的なことは何も分からないわけです。

 初期の天皇の中には実在しなかったことが定説になっている人物もいますので、少々の誤差のようなものは受け入れていかなくてはいけないでしょう。すっぱりとした議論としては、継体天皇が最初の天皇だ、とするものもあり、そういう見方も必ずしも完全に否定する自信はありません。継体天皇が実在したことは確実だということで諸方面一致しており、現在の天皇家は継体天皇の子孫ということになります。継体天皇から数えてもその後100代くらい続いているわけですから、天皇家は十分に古いということは間違いないです。



近衛文麿内閣をどう評価するか

 近衛文麿は青年期にベルサイユ会議に参加するなど、若いころから政治家として活躍したエリートですが、日本帝国主義の黄金期を目にしてしまったために、もっと上を目指してしまい「英米中心の帝国主義を排す」などの挑戦的な文章を発表するなど、いわば日本帝国が舞い上がってしまって現実を忘れてしまっていったことを象徴する人物なのではないかという気がします。

 最も責任が重いのは、中国での戦争に深入りしてしまい、日本が引き返せないところまで導いてしまったことですが、憲法上の統帥権問題が政治家を縛り始め、敢えてその呪縛があるままの状態を受け入れてしまったということも、彼に対して厳しい評価が下されなくてはならない要因の一つのようにも思います。

 昭和天皇が近衛文麿の『平和への努力』を読み「近衛は自分の都合のいいことしか書かないね」と評した他、戦犯指名を受けて近衛が自決した後も「近衛は弱いね」と評したということですから、昭和天皇も近衛文麿の良くない意味でのエリート風の性格をあまり高く評価していなかったようです。

 他にもいろいろ問題はありますが、一つだけ、惜しいと思うのは、ルーズベルト大統領とハワイでサシで会談するという案が実現しなかったことでしょう。近衛は大幅な譲歩を用意していたとも言われています。南部仏印、満州国からの撤退を表明し、もしかすると大連旅順あたりはなんとか残したい、というようなそれまでの日本では考えられないほどの大きな譲歩を見せれば、世界の日本に対する評価は変わったかもしれません。そこに向けて努力した近衛のことはやはり公平に評価してあげたいようにも思います。ただ、ルーズベルト大統領はハワイでの会談には乗り気ではなかったということですから、もう、手遅れだったのかも知れませんが….。

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近衛文麿とルーズベルトの首脳会談

近衛文麿とルーズベルトの首脳会談

 日米開戦直前まで近衛文麿は野村吉三郎大使の対米交渉に期待をかけていたと思いますが、最後の秘策としてハワイで近衛とルーズベルトが会談し、日本が大幅に譲歩することで戦争を避けようとしたと言われています。

 実際にはルーズベルトがあまり乗り気ではなく、実現する前に東条英機にあんまり激しくせっつかれるのが嫌になって近衛内閣は総辞職し、ハワイ会談が実現することはありませんでした。松岡洋祐が潰したという話もあります。

 ルーズベルトが乗り気ではなかったため、そもそもどんなに頑張っても実現するはずはなかったとの意見もあることでしょう。近衛としては、ルーズベルトとサシで話し合うという派手な外交パフォーマンスで新聞記者の気持ちを高揚させ、和平路線の記事がバンバン掲載されるあたりのことを狙っていたのではという気がします。当時は軍も政治家も世論を非常に気にしていて、世論は新聞によって形成されるため、新聞が戦争を煽ればそっちに乗っかるという面があったことを否定し切れません。そのように思えば、パフォーマンスとしては最高な出し物になったことでしょし、それでアメリカとの戦争が回避されるのなら安いものです。もし、ルーズベルトとの会談が実現していれば、満州はともかくそれ以外の中国の土地からの全面撤退ということくらいのことは言ったかも知れませんから、実現しなかったのは実に惜しいことです。

 ルーズベルトは近衛あまり会いたくなかったようですが、昭和天皇と直接会いたいという親書を出したという話もあります。ただ、親書が出された直後に真珠湾攻撃が起きてしまったため、昭和天皇とルーズベルトも幻の会談になってしまったようです。

 もっとも、このあたり諸説あり、どの話が本当だったか、それくらい信用できるかということは判断の難しいところです。

 近衛・ルーズベルトにせよ、昭和天皇・ルーズベルトにせよ、そのような会談が行われていたら….と歴史の「もし」をついつい考えてしまいます。

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遠藤周作と満州

遠藤周作は世界中の様々なところに出かけて取材し、作品を書いた作家です。フランスへの留学経験があるため、フランスのことはよく出てきますが、もう一つ、満州のことも彼はよく書いています。

 遠藤は少年期を大連で暮らしており、両親の離婚に伴って母の実家のある神戸へと転居しました。そのためか、遠藤の描く大連の思い出は寂しさや悲しみに満ちているように感じられます。『海と毒薬』、『深い河』で描かれる登場人物にとっての満州はどれも悲劇的、または寂寥感にあふれており、彼がかの地でどのように心象風景を形成していったかを知る手がかりになっていると言うこともできるでしょう。

 遠藤周作は犬が好きなことでも知られている人ですが、満州時代に満州犬を可愛がっていたことと、母と帰国する時に犬とも別れなければならなかったことが、犬好きとも大きく関係していることでしょう。

 大連で出会った中国人には親愛の情を込めた描き方をしており、満州時代に自宅に来ていたボーイの少年との友情が感じられる他、日本人に売り物を徹底的に値切られる売り子への同情も読み取ることができます。

 遠藤よりも少し年上の作家たち、安倍公房や三島由紀夫が小説作品に自身の主張を刻み込んで行ったのに対し、遠藤の世代、いわゆる第三の新人と呼ばれる人たちの作品には主張よりも心の旅を書くことに関心が強かったようにも思えます。或いは心と主張が不可分になっていたのかも知れません。

 満州は日本の侵略によって作られた植民地国家と言ってよいですが、それだけに、同時代を生きた人たちの中では満州と関わりがあったという人も大勢いました。そういう時代の人の書いた満州に関することを読み解いていくことも、日本の近現代史を理解する上での有効な手助けになるのではないかと思います。

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安倍公房と満州

安倍公房と満州

 生前、ノーベル文学賞を獲ると言われ続けた作家の安倍公房は、少年期を満州で送っています。

 彼の作品の一つである『けものたちは故郷をめざす』は、終戦後も満州で暮らしていた日本人の若者が冬の満州を懸命にわたり抜いて日本へ帰るという内容のものです。この作品はあくまでも創作であって、公房個人の経験を書いたものではないとのことなのですが、実際に満州で暮らしたことのある人間だけに書けるであろう迫力に満ちています。

 どの点に於いて迫力に満ちているのかと言うと、寒さに於いてです。

 本州の温暖な気候で育った私には想像に限界がありますが、手も耳もちぎれんばかりの寒さの中、時には徒歩で、時には馬車で真冬の満州を南へ南へと進む様子を読むだけで、じわっじわっと体が冷えていくほどの感覚になっていきます。

 公房の作品に満州のことが書かれることはほぼありません。『砂の女』や『他人の顔』などの彼の著名な作品でも、満州のことを伺わせることはないです。詳細な研究をすれば彼にしか分からない微妙な表現が含まれる可能性はありますが、ざっと読むだけで気づくことはできないでしょう。

 公房の作品には主張があり、作品はそのために書かれるので、個人的な経験というものは敢えて排除しているところがあるように私には感じられます。ただ、それでも全力でおもしろい作品が多いですから、今後も読まれ続けることは間違いのないことだと思います。

 医学や化学の知識を使用して人間と社会を描こうとした公房の作品の中で、実際に暮らしたことのある満州を舞台にした『けものたちは故郷をめざす』は少々異色な作風と言ってもよいのです。その作品から満州での彼の経験を知ることは難しいと言われていますが、公房の歴史観や中国観を知る上では大いに読むべき作品のように思います。

レイテ沖海戦をどう見るか

レイテ沖海戦は、その作戦はほぼ成功しながら、言わば現場の職務放棄とも言える事態で失敗してしまった戦いです。

 フィリピンのレイテ島にアメリカ軍が上陸し、続いて補給部隊が上陸することになっていましたが、その時にフィリピン北方沖に小沢空母艦隊が出撃。アメリカの戦闘機が小沢艦隊に集中している間に巨大戦艦大和と武蔵がレイテ沖に出現してアメリカの補給部隊を砲撃するという、戦国絵巻もののような華麗な作戦です。

 フィリピンは日本とインドネシアの間にある資源ルートで、そこを失えば石油が入ってこなくなり、戦艦も動かせなくなるため、日本は最後の空母艦隊を失う覚悟で囮として使用し、日本海軍の象徴的存在である大和と武蔵で敵の補給部隊、即ち戦争を続けるための核心の部分を撃つことになっていました。捨てるものは捨てるという腹を括った覚悟を決めた作戦であり、全体としてはほぼ成功していたにも関わらず、大和がフィリピンから反転し、最後の目的を遂げることができなかったことは、今日まで謎の反転として知られています。

 結果として空母艦隊も失われ得たものは何もなく、連合艦隊はそれを最後に組織的な作戦を行うことができなくなってしまいます。

 なぜ栗田長官が大和を反転させたのかは現在も議論が続くところです。私個人としては大和の保全(即ち栗田長官個人の身の保全)を優先したのだろうと思いますが、やはり本人が生前そうではなかったと言い張っていた以上、あまりにも不名誉な話ですから、謎ということで曖昧にされているのかも知れません。

 ではもし、大和が作戦通りに砲撃していたらどうなっていたでしょうか?レイテ沖に辿り着く前に武蔵は撃沈されています。アメリカ側は大和の出現を予期していなかったわけではありません。そのため、大和が砲撃していたなら小沢艦隊を沈めた飛行機の群れが返す刀で大和に襲いかかり、大和も撃沈されていた可能性が十分に高かったように思います。

 ただし、それによって補給物資を失ったアメリカ軍はフィリピン作戦で多くの支障をきたしたことでしょうから、戦争はまた違った様相を見せた可能性もあります。

 とはいえ、それも物量の問題に過ぎず、しばらくすればもっと沢山の補給が到着して何ともなかったということも大いにあり得ます。

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ミッドウェー海戦の辛いところ

 あの時ハワイを占領しておけばよかった…という後悔から考え出されたのがミッドウェー海戦です。川崎にアメリカ機が爆弾を落とすという事件もありましたので、事態を放置しておけば日本本土が空襲の危険にさらされるという不安も掻き立てられました。

連合艦隊の総力を尽くし、まずミッドウェー島を爆撃、次いでそれを占領。続いてハワイから迎撃のために出てくるであろうアメリカ空母艦隊を全滅させてハワイに進撃するという計画通りに進めば華麗かつ緻密な職人芸的作戦が展開されるはずでした。出撃艦隊後方には戦艦大和も出撃し、海上のパレードといった印象すら与えるものです。

残念ながら計画はうまくいかず、日本の空母は四隻が撃沈されてしまうことになりますが、そのような結果になってしまった原因はアメリカ空母艦隊が予定よりも早く出て来たことでした。有名な話ですが、日本の暗号通信は解読されていて、日本の予想よりも早く迎撃に出て来たのです。

飽くまでも結果論ですが、敵の艦隊を発見すれば即座に戦闘機を発進させ、こちらがやられる前に攻撃しなくてはいけません。ゼロ戦はミッドウェー島爆撃のための爆弾をつけていましたが、そのまま飛び立ち、敵空母の甲板に爆弾を落とし、とりあえず使えない状態にしておいて、帰還した飛行機に今度は魚雷を抱かせて出撃させて撃沈する、という手順を選ばなくてなりません。

しかしながら、敵空母発見の知らせを受けて急いで爆弾を取り外し、魚雷に付け替えている間に攻撃を受けるという痛恨の事態に立ち至ってしまいます。

確かに大きな痛手となる戦いでしたが、ゼロ戦は味方の空母をよく守り、且つ、アメリカの空母を二隻沈めています。上層部の采配ミスで混乱する中、喝采を送るべきことのようにも思えます。

日本側の哨戒機はアメリカ空母艦隊の上空を飛びながら、雲の上から警戒していたために発見できなかったと言います。普通に考えれば雲の下を確認しない哨戒活動というものは考えられません。戦いの長期化が必至の情勢下で、敵の空母を発見したくない、敵の空母はいないものと考えたい、という恐怖心から来る現実の誤認が深層心理にあったのではないかと私は時々思うのです。

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ベルサイユ会議と日本

第一次世界大戦の戦後処理のために開かれたベルサイユ会議では、日本から全権として牧野伸顕、西園寺公望が、副使として近衛文麿が参加します。西園寺は当時まだまだ若かった近衛文麿に目をかけ、政治家として大成してほしいとの意向があったとも言われていて、ベルサイユ会議へ連れて行ったのは、若い人にいろいろなものを見て経験してほしいという願いがあったとも言われています。

 さて、若きプリンス近衛文麿ですが、彼はベルサイユ会議の経験から『英米中心の平和主義を排す』という論文を発表するようになり、西園寺の考えとは少し違う方向に走り始めたように見えます。

 西園寺はパリで長く過ごした後、帰国後に自分で新聞社を創立しようとしますが、明治天皇からの要請という名目で首相になります。自分で新聞社を作ろうというくらいの人ですから、思想的にはリベラルな要素が強く、欧米との協調外交にも積極的な人です。

 そのため、まさか自分の目をかけた近衛が後に首相に指名され、民族主義的な傾向へ走るというのは考えてもしなかったことかも知れません。

 ちなみにベルサイユ会議では、「ヨーロッパの事情はあんまりよく分からないから余計なことは言うな」という訓命が東京より出ていて、それに従って日本代表たちは言葉数少なだったそうですが、仮にも戦勝国の一員として大国扱いしているにも関わらず、何を考えているかわからないとその他のヨーロッパの代表たちは日本代表に対してがっかりしたとも伝えられています。やはり、日本は外交が下手….なのですねぇ…

ペリーと琉球

 ペリーの黒船お艦隊は浦賀沖に姿を現す前、琉球に立ち寄っています。
 立ち寄ると言っても友好的な訪問ではなく琉球王朝の許可なく上陸した後に、強引に首里王宮へ行進し、入城しています。

 ペリーの蒸気船艦隊はもちろん当時の日本を驚かせたに違いありませんが、戦力としては江戸幕府を打倒できるほどの巨大なものとは言えません。たった四隻のフリゲート艦で日本征服ははっきり言えば不可能ですし、欧米諸国は日常的に武器を携帯して場合によっては相手を殺害することに美学を持つ階層が十人一人いる日本を植民地化することは、ある段階で諦めていたように私には思えます。

 ペリーも日本を植民地化するような壮大なことを考えていたわけではなく、飽くまでも当時アメリカの主要な産業の一つであった捕鯨のための補給基地を日本に求める以上のことは考えておらず、もし失敗した場合は琉球王国でその基地を確保しようと考えていたようです。現実的で名より身を取る作戦と言ってよいでしょう。

 ペリーは場合によっては琉球征服を考えていたようですが、日本の開国によりそのような荒っぽい方法を取る必要はなくなったということになります。

 興味深いのはペリーが琉球訪問をきっかけにアメリカの宣教師が琉球で宣教を始めたことでしょう。日本聖公会の布教史はこの時の琉球での布教が日本布教の始まりであるとしています。

 沖縄は様々な意味で近代史で重要な場所ですし、県民の方々の複雑な感情は大国に利用され続けたことから生まれてくるのだと思います。ペリー沖縄上陸の件も、その後の苦難を予告するものだったのかも知れません。沖縄の苦難については私たち日本人がみんなで深く受け止めるべきことだと思います