イシグロカズオ『忘れられた巨人』の失われた愛

おそらく6世紀ごろのブリテン島、神話と現実の境界がまだ曖昧だった時代、アングロサクソン民族が成立する少し前の時代、老夫婦が息子の暮らす村を目指して旅をする物語。夫のアクセルと妻のベアトリスは強い愛に結ばれ、互いに気づかい合い、双方を必要とし、守り合いながら旅を続けます。歴戦の戦死、奇怪な姿をする鬼たちと鬼に襲われた少年、世間から離れて暮らす修道士、あの世の島と思しきところまで舟を渡す船頭などと出会い、全ての出来事には裏があり、やがては裏の裏まで明らかになる、重厚な物語が展開されます。

読み進めるうちに気づくのは、当初は二人が強い愛で結ばれているはずに見えたのが、少しずつ実は夫の妻に対する執着心や独占欲のようなものが極度に強いのではないか?という疑念に変わっていくことです。夫は妻のそばを方時も離れることはありませんが、医療の知識を持つ修道士の診察を受ける時に妻に服を脱ぐように求めはしないかと不安になるなど、ちょっと度が過ぎているように見えなくもありません。そして息子が暮らすであろう村にはいつまでも辿り着くことがありません。ちなみに修道院の雰囲気はエーコ先生の『薔薇の名前』の修道院とちょっと似ている感じです。

人の記憶を曖昧にさせ、忘れさせてしまうドラゴンが生きている間、人間はみな過去の記憶を思い出すことができません。歴戦の戦士がドラゴンの居場所を見つけ出し、その首を打ち取ることによって人の心にかかっていた霧が晴れていくように人々は過去の記憶、特に悲しみの記憶、悲しいがゆえに思い出したくない記憶を蘇らせていきます。

アクセルとベアトリスは息子の暮らす村など存在しないことに気づき、過去の様々な経緯を思い出します。特に思い出したくなかったであろうことは、ベアトリスがほんのわずかの間、他の男性のところへ行ってしまっていたという記憶です。二人はそれを思い出し、息子が暮らす村も存在しないということを受け入れ、二人であの世と思しき島へと渡りたいと船頭に頼みます。通常、その島ではそれぞれが一人ぼっちに孤独に暮らすことになっていますが、船頭がインタビューして真実の愛で結ばれていると認められた男女だけが二人で島を渡ることを認められます。アクセルとベアトリスはめでたく真実の愛で結ばれた数少ない夫婦と認定されますが、いざいよいよというときになって夫のアクセルは妻を見捨てて船着き場を去って行き、そこで物語は終わります。それまで果たして二人は船頭から真実の愛で結ばれていると認定されるかどうかがある種の見せ場にもなっているため、私は肩透かしを食らった感じになり、そのうえでなぜそのような終わりなのかを考えさせられました。

夫のアクセルは妻のベアトリスの不貞の過去を受け入れることができなかったが故に、妻に対して異常とも思える執着を見せ、そして最後の最期で決して赦せないということを一人立ち去るということで表現しています。愛とは何かを定義することは難しいことですが、もし赦しが一つの愛の形であるとすれば、アクセルはベアトリスに執着はしていても愛してはいなかったと受け取ることもできるように思います。

イシグロカズオさんの作品は過去に『日の名残り』と『わたしを離さないで』を読みましたが、『忘れられた巨人』を含む三作品、どれもがハッピーエンドではないラブストーリーになっています。よく言われるように作家は生涯同じテーマを繰り返し書き続けるのだとすれば、イシグロカズオさんの生涯のテーマは失われる愛であるとも思えます。作家が選ぶテーマは究極にはその人の人生の忘れがたい経験と感情がベースにならざるを得ないはずですので、イシグロカズオさんはよほど大きな喪失体験をしたのではないかとの想像を禁じることができません。

人を愛するとはどういうことか、求めずに愛する、与えることで愛する、赦すことで愛するとはどういうことか、自分にそれは実践可能か、といったことは誰にとっても人生を送る上で考えなくてはいけない大きな課題だと思いますが、この作品を読むことで、自分は果たして周囲の誰か、大切な誰かを愛することができているかどうかを考えるいいきっかけにできるかも知れません。

翻訳者の腕が大きいのだろうと思いますが、文章がとてもきれいで読みやすく、端的で、それでいて刺激的です。どの作品もとても素敵で、過去にはイシグロカズオ研究をやろうかと思ったこともあるくらいです。(研究方面では右往左往しています…涙)

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『耳をすませば』の映像美と日本の近代

最近、学生に『耳をすませば』をみせたら、退屈だったらしく眠る人、退室する人続出でちょっと落ち込んでしまいましたが、個人的には久しぶりに『耳をすませば』を見て、改めてその完成度の高さに舌を巻きました。

有名な話ですが、聖蹟桜ヶ丘駅とその周辺の再現度の高さ、ここまで完璧に再現するなら実写でもいいじゃないですかと言いたくなるリアルな絵を2時間見続けるのは絵巻ものを見続けるかのような迫力があります。ただやっぱり、ナウシカとかに比べれば特に見せ場があるわけでなく、繰り返しになりますが、学生たちにとっては退屈だったのかなあ…。空の色もきれいだし、描かれる人物の姿もとてもきれいなのに。

主たるは内容は誰が誰を好きで、誰と誰がくっつくのかというありがちなメロドラマとも言えますが、やはり最近の人はのだめカンタービレみたいにコメディの要素を求めているのか、ラブコメ風でないと物足りないのかも知れません。

今回改めて観て感じたのは言葉遣いの美しさ、登場する人々の立ち居振る舞いの美しさです。月島雫は両親とお姉さんと一緒に団地で暮らす、ごく普通の市民です。お父さんは図書館で働いていて、お母さんは大学院で勉強していますから、どちらかと言えば長女が大学生で次女が中学生というお金のかかる時期に入っていますので生活的には厳しい方に入るかも知れません。しかし、小津安二郎の映画でも見ているかのような美しい言葉遣いと立ち居振る舞いには、そういうものは金銭的に裕福かどうかで決まってくるものではないのだというメッセージが込められているのかも知れません。しかも時々見せる庶民的、あるいは一般的な市民風の表情があることで、生活感が生まれ、登場人物にリアリティを持たせています。月島雫が自分の作品を書いて疲れ切って畳の上に横になる様はもしかすると原作者自身の経験をそのままに描いているような気がします。

雫の初めての作品を読ませてもらうおじいちゃんは、これもまたよく作りこまれたディレッタント風の人で、ドイツ留学から帰ってきて戦争でドイツ人の恋人と生き別れになったという設定も様になるというか、洋行帰りがいい味になっています。手先が器用で暇な毎日を送りながらも白雪姫をモチーフにした大がかりな振り子時計を三年かけて修理する依頼を多分採算度外視で請け負い、音楽にも通じています。猫の男爵の人形とか、珍しい石とか、本当に趣味の世界だけに生きる人です。

私は思いました「こういう人、いるよね。どうやって食ってるかわからないけど、趣味だけやって、やたら優雅な人」と。

私は作品を観ながら「どうぞ、好きにしてください。好きなだけ、好きなものを描いてください。私、そういうものだと思ってみますから」という感想に至ったのでした。

公開されたのは確か平成になったかならないかくらいのころですから、経済も良く、日本が今ほどカオスっていない時代のことです。今の時代から見れば、『耳をすませば』は半分時代劇のように思えなくもありません。この作品に登場する人々と街並みからは日本型近代とはどのようなものかということが炙り出されているように思います。日常を大切にし、大きすぎる夢も持たないが、自分のやりたいことには真剣に取り組む。生活様式は多分に洋風化し、おじいちゃんみたいに趣味だけで生きてきた人から西洋の香りをかぎ取り、それはそれでいいものだが、価値基準は日本人、みたいなあたりを映画を作った人は心得ていて、それを主張しているんだけれど、結果としては圧倒的なリアリティが生まれた。というような感じではないかと思うのです。

今は経済が停滞している分、たとえばおじいちゃんのような趣味だけの人を優雅なままにさせておく余裕が私たちの社会にあるかといえばちょっと微妙な気がします。21世紀の日本人を描くとすれば、もうちょっと登場人物がいろいろカオスってくるのではないかと思えなくもありません。雫のお父さんがリストラで両親は離婚、お姉さんはyoutuberで雫の好きな人はニート。一方で雫の親友の将来の夢は徹底安定志向で公務員。みたいな。確かに近代は終わり、雫の時代と比べれば、使い古された言葉とはいえ、今は十分にポストモダンと思えます。

そんな小理屈はともかく、リアリティと映像美は絶対に繰り返し見る価値があると私は今回みて改めて思ったのでした。



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イギリスのEU離脱でポンドとユーロは共倒れするのか?

イギリスのEU離脱の是非を問う住民投票が近づいています。最近の世論調査では離脱賛成派が反対派を10パーセント上回るという結果が出たこともあり、市場ではユーロ離れ、ポンド離れが始まり、要するにイギリスのEU離脱を織り込みに入っていると見られています。とはいえ、スコットランド独立の住民投票では事前の世論調査と実際の投票行動では違いが大きかったことから、本当にイギリスがEUから離脱するかどうかはまだ何とも言えません。

仮にイギリスがEUを離脱する、いわゆるBrexitが現実化した場合、イギリスのシティからヨーロッパ資本の多くが引き揚げると言われており、結果としてシティの地位下落を懸念する声もあるようですが、国際金融の古都とも言うべきシティの地位が下落するというよりも、むしろヨーロッパ大陸の金融市場の暴落の方が懸念されるのではないかという気がします。ドイツ銀行はどうにか小康を保ってはいますが、天文学的とも言える負債が解決したわけではありません。too big to failなために最後には公金まで入れてなんとかするという観測が多いですが、いずれにせよそういう爆弾を抱える大陸から切り離されたいという発想がイギリスで生まれてきたとしても、そもそも孤立主義を選ぶ傾向の強い国ですから、全く不思議ではないと言えます。

ただ、EU残留派の政治家の女性が殺害される事件が起き、犯人はブリテンファースト!と叫んでいたという話もありますので、金融面からの安全性を求める声とある種の民族主義が結合してしまっている面も否定できず、そういう面から見れば、EU離脱話はきな臭い部分も含んでいるように見えなくもありません。

本当にイギリスがEUから離脱したら果たして何が起きるのかですが、既に市場が反応しているようにユーロ、ポンド共に下落へと突っ走っている感がありますので、関係者全員が経済的に損をすることを承知でそれでもEU離脱がしたいのか?と首を傾げてしまいます(民族主義的な主張からの離脱論はここでは議論しません)。ドイツはいろいろ面倒になって、ユーロなんかやーめた。という選択をする議論も出てくることになるでしょう。となれば、イギリスEU離脱→ユーロ崩壊→EU解体→中国からの資金撤退→日本にも波及。という連鎖が起きることは十分に考えられます。日本は比較的内需主導の強い国なので、世界的なリセッションが始まりつつある今、まあ、まだ大丈夫な立場にいると言えるかもしれません。また、中国は現在、意外に底堅いという感がありますが、EU解体のあおりをどの程度吸収できるかも注目したいところにはなります。

内需特に個人消費を堅調に保つことが日本経済にとっては必須ですし、仮にBrexitが起きるとすれば、それこそ更に個人消費を堅調にして乗り切らなくてはいけませんから、消費税増税延期は正解だったと思います。今回の延期は事実上凍結なのか、減税まで持っていけるかという議論はまた別の機会にやりたいと思いますが、今年は特に何が起きるか分かりませんので、消費税増税が延期になっただけでも、まずはめでたしです。

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『戦場のメリークリスマス』と神と男(ヨノイ大尉はかわいいか?)

『戦場のメリークリスマス』はこれまでにDVDで何十回と観た映画です。リバイバル上映にも出かけたこともあります。今思えばかなり変わった映画ですが、音楽もいいし映像もきれいなので、ついつい何度も観てしまうのではないかと自分では思っています。この映画は突き詰めると異文化理解とか異文化交流くらいの軽いところがテーマなのではないかとふと思うのですが、正面切って作られるとここまで魅せられてしまうものなのかも知れません。

ヨノイ大尉とハラ軍曹は天皇は神で日本は神州だと信じています(映画の中にそういう台詞はありませんが、ヨノイ大尉の部屋の奥に『八紘一宇』の掛け軸がかかっていたりするのはそういう前提があるからでしょうし、そもそもそういう前提がないといろいろ成り立ちません)。悪霊の存在も信じているので、自決した部下が悪霊にならないようにハラ軍曹は経文を唱えますし、ヨノイ大尉が捕虜の私刑を決断した時も、悪霊になりませんようにと念仏らしきものを唱えます。経文とか念仏は仏教で、仏教は完璧な物理の論理に支えられているため悪霊が存在する余地はないのですが、日本は神仏習合なので悪霊を鎮めるために念仏を唱えます。欧米人向けに作られているので欧米人が不思議の国日本のふしぎっぷりを大サービスでみせているという印象もあります。観客の要望に応えるためかハラキリシーンもしっかりと入っていて、痒い所に手が届くとすら言っていいかもしれません。

一方で、自殺したオランダ人捕虜のために西洋人の捕虜たちが祈りを捧げ、歌を歌う場面も入れてあり、そこはとてもきれいな場面になっていて西洋人の観客なら敬虔な気持ちになれるに違いありません。

日本軍国主義を生き方で体現していたといえるハラ軍曹は最後に英語を話すようになり、物語の狂言回しの役割を負っているローレンスと英語で語り合います。ハラ軍曹が翌日の朝には戦争犯罪人として処刑されることになっており、日本人の目線で見れば戦争に負けるってのは嫌だねぇ、という感想を持つこともできますが、欧米人の観客の目線に立てば、迷信に捉われた日本兵が最後には文明を理解できるようになり、一番最後の台詞が「メリークリスマス、ミスターローレンス」ですから、キリスト教の神の恩寵をも受けながら旅立って行くという感動的な展開になっています。

日本人から見ればこれぞまさしく敗戦国民の姿なのですが、西洋人にとっては未開人が文明化されていく過程を描いていることになります。

こんな風に書くとまるで私がこの映画を批判しているみたいですが、飽きずに何十回も観ているということはやっぱりこの映画が無意識にめっちゃ好きなのに違いありません。もしかすると私は多少は東洋の神秘みたいなのを残しつつ西洋化した今の日本がかなり好きなので、この映画が根底に持つ価値観を受け入れやすいのかも知れません。いずれにせよ、上述のような日本と西洋の対比がなされている映画で、繰り返しますがぶっちゃけただの「国際交流」を深刻に描くとこういう風になるという感じだと思います。

戦場のメリークリスマスに登場する人物はほぼ100パーセントが男性です。女性はセリアズ少佐の少年時代の回想シーンで教会に来ている人の中に登場するだけです。男の世界の物語です。ヨノイ大尉とハラ軍曹とローレンスは敵と味方の違いを超えて深い友情で結ばれています。行動様式も価値観も違うためいちいちぶつかりますが、それでも俺はお前のことが好きだよという感じの関係は見ていてとても気分のいいものです。大学で人文科学をしていると会う人の8割は女性なので、男性との友情を育むことへの憧れが私の中にあり、男同士でお酒を飲むことは人生最高の喜びだとかなり本気で思っています。

ヨノイ大尉はローレンスには友情を感じますが、セリアズ少佐という捕虜には同性でありながらロマンチックな意味での愛を抱くようになります。今でこそLGBTの人たちを尊重するという価値観は世の中にかなり定着してきているように思えますが、当時はまだそういうわけではなく、当時としては思い切った内容になっているのだと思います。ヨノイ大尉は赦されざる片想いを持て余し、大声を出すわ捕虜を虐待して死人まで出すわと結構めちゃめちゃやります。そもそも部下が自決する羽目になるのもヨノイ大尉の無茶ぶりを諫めようとしたことが発端です。そんなことで自決させてしまって責任をちゃんと感じてくれよと言いたいくらいです。私は何度見ても、それは多分、私が未熟だったが故に、ヨノイ大尉の無茶ぶりが理解できず、捕虜収容所での所長の独裁的言動としか思えませんでした。しかし最近、ああ監督が表現したいのは「そんなヨノイ大尉ってかわいいよね」ということなのだなぁとようやく気づいたのです。私は個人的には全然かわいいとは思いませんし、かわいいから部下を自決に追い込んだり、捕虜から死人が出ても、ちょっとお茶目でおきゃんな感じだよねとも思いません。しかし、監督の意図がそこにあると気づいて、場面を回想すると、確かにヨノイ大尉がかわいいという目線で描かれていることがよく理解できます。えー、嘘だと思う人はもう一度ご覧あれ。

『風の谷のナウシカ』と日本とAI

『風の谷のナウシカ』は映画版と原作では随分違うのですが、原作を基本にして考えを進めたいと思います。

世界文明が滅びた後の世界でありながら、トルメキア王国はまだ比較的技術力に優れ、強大な軍事力を使ってドルク帝国へ侵攻するというのが全体の大きな枠組みですが、トルメキア王国は西欧文明を、もうちょっとはっきり言えばアメリカを象徴しています。トルメキア関係者は良いか悪いかは別にして合理的な思考によって次の行動を選択します。一方ドルク帝国はアジア的なものを象徴しています。政教一致の神聖政治が行われており、人々は皇帝(または皇弟)の神秘的な力を畏敬し、農奴のように従っています。トルメキアとドルクのどちからが優れているということはなく、トルメキアは物質主義に溺れていて、ドルクは精神主義でありながら考えるということを放棄しているようにも見えます。双方どちらにも愚かな指導者たちがいて世界を滅亡へと導いていく内容になっています。

ナウシカが暮らす風の谷は弱小の独立国ですが、トルメキアが他国と戦争する際には兵を出すとする約定があり、要するに安全保障条約を結ぶことで独立を維持することができています。そして実際にトルメキアがドルクへ侵攻するという段になって、お姫様のナウシカが城ジイたちを伴って前線へと向かっていくわけです。安全保障の代わりにトルメキアに軍事的に協力するというのは、まさしく日本の立場を象徴していると言っても良いでしょう。

この作品が一番最初に書かれたのはたしかまだ70年代で、完結したのは90年代の終わりごろです。そのため、まだ自衛隊の派遣についてかまびすしく議論された湾岸戦争もイラク戦争もなく、安保法制ももちろんありません。しかし、日本とアメリカの関係性の本質に違いはなく、原作者はそこをしっかりと見抜いた作品づくりをしたのだなあとつくづく思います。

腐海の瘴気は言うまでもなく放射線物質を象徴しているはずですが、瘴気を出し切ったら土地が浄化されるとする逆説は、不要なものや醜いものの中に、一見悪に見えるものの中に善があるという深みがあります。

巨神兵は核兵器を象徴していますが、映画版では未成熟なまま孵化したために効果を出し切れなかった一方で、原作では成熟し、完成体として人の世に現れ出てきます。単なる破壊兵器と思われた巨神兵は実は前の人類にて仕込まれていた完全知能で争いがあれば裁定して罰をくだし、人々を支配し導く神なる存在として振る舞います。言わばAIの完成形みたいなやつです。

物語の最後では世界が腐海によって浄化された後に生まれる予定の新生人類の卵をナウシカがターミネートして終わります。ナウシカが属する人類は言わばつなぎの不完全な人類で、完全に浄化された空気を吸うと血を吐いて死んでしまいます。新生人類の卵子を仕込んだ過去の文明の人たちは炎の七日間で汚染された世界を腐海で浄化し、つなぎの不完全な人類は清浄な空気で自動的に死んで、その後はきれいで純粋な新生人類が巨神兵という完全知能に導かれて平和に楽しく暮らすということをプログラムしていたのですが、卵をナウシカにターミネートされてしまうのでその目論見は潰え去ります。穢れを知らず、争い事も起こさない「きれいな人類」よりはナウシカの属する欲望にまみれて殺し合いも辞さない人類(私たち)の方がより生命の本質なのだというメッセージも入っているのかも知れません。「そしたらいずれ、世界は全部浄化されてナウシカの子孫は全滅するのでは?」という疑問を残したまま物語は終わります。でも圧巻のお話しになっています。

最後に、ナウシカがなぜ美少女なのかということについては原作者の好みに集約されるはずです。



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「橋下徹首相」のシナリオを考えてみる

私個人は橋下徹さんについて好きも嫌いもありません。今回は単に思考のゲームとして、どういう条件が揃えば橋下徹さんが首相になれるか、その条件が整う可能性はあるのかについて考えてみようかと思います。橋下徹さんが首相になりたいと思っているかどうかは知りません。一応、ご本人にはやる気があるという仮の前提を作って進めます。

まず第一に橋下さんは現在、民間人ですが、その前は保守系野党の党首でした。維新はそもそも橋下さん人気だけに依存せざるを得ない政党であると言ってもいいと思います。もちろん、大阪では今の知事や市長もがんばっていると思いますので、コツコツと支持者を集めていると思いますけれど、国政に影響を与える政党としての力を維持しようと思えば、橋下さんはどうしても必要な存在だと思います。

さて、橋下さんを頼りにしたいと思っているであろう人物に安倍晋三さんがいます。安倍さんは今度の参議院選挙で勝てば憲法改正を具体的な政治日程に乗せられると思っているはずです。一応、ことわっておきますが、憲法を改正するべきかどうかについて議論したいとは思っていません。安倍さんはそう思っているだろうということです。

安倍さんとしては、維新の議席も含んで参議院で三分の二以上の議席を獲ることができれば話を進められると考えているでしょうから、維新には期待通りに勝ってもらはなくてはいけないということになります。維新がある程度の議席を獲り、安倍さんの念願どおりに憲法改正に協力したならば、その御礼として次の衆議院選挙で橋下さんが出馬し、安倍さんから禅譲される以外に橋下さんが首相になるシナリオはないと思います。それくらいの理由がなければ、ポストの取り合いの激しい自民党内での理解は得られません。橋下さんがコツコツと首相になるために何十年も政治家人生を歩いて当選回数を積み重ねるという選択肢はあるかも知れませんが、ご本人はやりたくないでしょう。

要するに全ては今度の参議院選挙の結果次第ということになります。しかし、橋下さんが少なくとも表面的には後ろに下がった維新が参議院選挙でどれくらい勝てるでしょうか?橋下さんの引退後、維新は枚方市長選挙で勝利し、大阪府知事、大阪市長ともに維新が勝利していますが、これはある種の橋下熱がまだ残っている時期のことでした。一度退いた人が再び熱狂的な支持を得るのはそう簡単なことではありません。これは芸能人も多分、同じだと思います。個人的な考えですが、政治と芸能と恋愛で捲土重来は通常、期待できません。もちろん例外的な人は必ずいるものですが、橋下さんがその例外に入るかどうかはまだなんとも言えません。実際に復帰活動をしてみないことには手応えがあるかないかも分からないのではないかと思います。仮に多少なりとも維新の議席が延びたとしても、憲法改正に必要な議席数に届くかと言えば、かなりの大躍進を必要とします。ちょっと難しいかも知れません。

結論。橋下徹さんが首相になるためには1、「次の参議院選挙で維新がわりと勝つ」必要がある。2、しかし維新がそんなに勝てるかは微妙。つーことは橋下さんが首相になる可能性はそんなに高くないか…な?勝手なことを書いてまことに申し訳ありません…。

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バルビゾン村へ行った時の話

パリの地下鉄のバスチーユ駅から鉄道で一時間ほどのフォンテーヌブロー駅で下車し、自転車を借りて10キロほど離れたバルビゾン村へ行った時のことをだらっと書いてみたいと思います。

バルビゾン村は周知のとおり、19世紀にフランスの若手の画家たちが集まって暮らしていたことで有名で、彼らはバルビゾン派と呼ばれますが、特に有名なのは『落穂拾い』を描いたミレーではないかと思います。中学生の時に美術の教科書で『落穂拾い』をみた私は魅了されてしまい、オルセー美術館に足を運んだこともありますが、一度、フランスの田舎、それも落ち穂拾いの村を見てみたいと思ったのです。

フォンテーヌブローの街で自転車を借りた時の様子がこんな感じです。

フォンテーヌブローで借りた自転車
フォンテーヌブローで借りた自転車

で、バルビゾンまで自転車を漕いだわけですが、フォンテーヌブローとバルビゾンの間には深い森があり、人通りもほとんどなくて、昼間でもぞくっとしそうです。夜ならちびってしまいそうです。

こんな感じの森です。これがえんえんと何キロも続いているわけです。

フォンテーヌブローの森
フォンテーヌブローの森

或いはこんな感じ。

フォンテーヌブローの森
フォンテーヌブローの森 人の気配はしない

そしていよいよバルビゾン村に到着です。こんな感じの可愛い建物が並んでいます。

バルビゾン村
バルビゾン村の様子

手頃そうなレストランで食事をしてワインを飲みました。
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次にアイスクリーム
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お店の人はそんなに働き者ではなく、道行く人も特に親切なわけもありませんでしたが、そんなことは気にしない。
私は村がどこまで続くのかと自転車を漕いでみたところ、すぐに人里は切れてしまい、田園地帯が広がります。そう、これ。僕はこれが見たかったんだ。とひとりごちました。

たとえばこんな感じ

バルビゾン村外れの田園地帯
バルビゾン村外れの田園地帯

もう一枚こんな感じ

バルビゾン村外れの田園地帯
バルビゾン村外れの田園地帯

ミレーの有名な作品である『晩鐘』もこの辺りで祈りが捧げられていたのかななどと思ってみたり。お天気もよく、刈り入れの済んだ田園地帯がまた落穂拾い風に見え、とても満足したという、とある夏休みの思い出のお話でございます。



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私たちは「舛添要一」現象をどう思えばいいのか

今後、舛添要一さんはどこへ出かけても、レストランでもカフェでもホテルでも近くを通りかかった他人から聞こえるでもなく聞こえないでもないくらいの声で「旅行けば三日月 ホテル三日月♪」と歌われるのだろうかと想像すると、とても気の毒に思えてなりません。

振り返ってみれば尋常ではない離婚歴、ナイフをコレクションする趣味など、ちょっと、えっ…?と思う側面を持つ人だと思えてしまいます。もちろん、離婚はきちんと手続きに則ってやっていれば他人がとやかく言うことではないでしょう。ナイフのコレクションもその人の自由ではありますけれど。しかし、自民党が野党になった時のさっと離党するあたりは、自分の利益にならないと見た途端に他人を見捨てるというところがあるのではないかな、そのような性格なので政治資金を私的な娯楽に使う、それも使い続けるということをしてしまったのかも知れません。

政治資金規正法では株と不動産以外、ぶっちゃけ何にお金を使ってもいいということになっていて、同じような使い方をしている人も他にもいるんじゃないかなあと思います。ただ、今回のことでみんなびびってしまってもうやれなくなるでしょうけれど。

今回の騒動について個人的には以下の3つのポイントが気になります。1、法律さえ守っていれば何をやってもいいのか 2、政治資金規正法はざる法だということが天下に明らかになった 3、舛添氏個人批判でカタルシスを得るだけでいいのか。

まず1ですが、法律に書いてなくてもコモンセンスに抵触するということはあると思います。法律には書くまでもないことは書いてありません。憲法にわざわざ天皇には自然人としての生存権があるとか書いてないのは、書くまでもない当然のことだからです。

個人的には公用車で湯河原へ行くくらいいいと思いますし、ファーストクラスに乗ったり、スイートルームに泊まったりするのも、まあ、いいんじゃないの?くらいに思います。ただ、家族旅行や個人的な飲食を政治資金で賄うというのはコモンセンスに抵触している、そもそもの法律の目的から逸脱していると言えると思います。言い換えれば法律を悪用していたとも言えますので、政治家として資質に欠けるとされても仕方がないでしょう。

次に2ですが、こっちの方が問題としては大きいかも知れません。政治資金規正法は最初からざるにしておくつもりでつくってあったということは正直にショックです。この法律そのものは古いものですが、金権事件が起きる度に法を改正してより政治家に厳しくしているという建前ばかりを聞いていたのに、最初から抜け道ありきで作られているということを私も舛添さんのことで初めてきちんと具体的に理解でき、正直がっかりです。法律そのものを廃止して、政治資金云々全部やめてしまえ。給料の範囲だけで全部やれ。と言いたくなってしまいます。そうした方が若い人にも平等で、新陳代謝も容易になるのではないでしょうか。

最後に3ですけれど、確かに舛添さんの全力で言い逃れする様子を見て、彼に対する印象は最悪なものになってしまいました。最初に公用車ネタやファーストクラスネタの揺さぶりが来た段階の言い逃れモードが繰り返し放送され、みんながうんざりしたところへ家族旅行爆弾という流れを仕掛けた人の腕は実に鮮やかです。東大卒でフランス語と英語が話せて頭良さそうにすかしてる嫌味な奴が実は…というのは本当に面白い展開です。しかし、いじめぬくのはやはり可哀そうです。

不信任決議案も可決されそうな勢いですから、いよいよこれで終了といったところでしょうけれど、辞めたらそっとしておいてあげたいなあとも思います。今後、活躍の機会はないでしょうから、せめて安らかな余生を。できれば今日中にでも辞意表明すれば少しは男が上がるかも知れません。無理か?

天智系と天武系

天智天皇が亡くなり、壬申の乱を経て弟の天武天皇が皇位に就くのですが、「天皇」という呼称は天武天皇から使われるようになったものであるため、天武天皇を実質的な初代天皇だとする学説もあるようです。
 
それはともかく、天武天皇が皇位に就いた時から皇統は天智系と天武系に分かれます。皇位継承の望みがあるのは天武系なので、天武系の皇子たちの足の引っ張り合い、はっきり言えば殺し合いは相当に酷いものです。天武天皇の皇后が持統天皇としてリリーフをしますが、その次の天皇を他の女性が生んだ皇子ではなく、自分の生んだ皇子である草壁皇子を皇位継承者にするため、ライバルになる可能性のある人物をつぶしていきました。

当時の皇室に生まれた人は明日は我が身と冷や汗を拭う思いだったに相違ありません。持統天皇の精力的な政敵つぶしもむなしく、草壁皇子は早世してしまいます。草壁皇子の息子である軽皇子が皇位を継承し、天武系の後継者が奈良時代を築いていくものの、天武系の男系の子孫が潰し合いの果てに適切な人物がいなくなってしまい、天智系の子孫である白壁王に白羽の矢が立ち、彼は光仁天皇として即位します。この白壁王の子孫が今日まで続き、現代の天皇家まで行きつきます。今の天皇家は伏見宮家の系統ですが、伏見宮家も白壁王の子孫になるため、その辺りまるごと天智系になります。北朝も南朝も天智系です。

白壁王が天皇に即位するまでの間、天智系の人々はいわば飼い殺し同然で、面白くはなかったかも知れませんが、後継争いで命を狙われる心配もなく、むしろ平和で仲良く過ごせてそれはそれでよかったのかも知れないなあとも思います。
 
皇位を巡って争った系統の人々ではなく、もう一方の系統が栄えたというのは、何がしかの教訓を含んでいるような気もしますが、それは考えすぎでしょうか。


長屋王の悲劇に思う

 長屋王の広大な邸宅の跡地がJR奈良駅の近くで発見されていますが、現在はイトーヨーカドーがその地に立っているそうです。

 長屋王は天武系の皇族として親王扱いを受け、財力も豊かで政治的な発言力も強く、栄華を極めたとも言われていますが、謀反の疑いありと密告されて自害に追い込まれます。

 当時は謀反の疑いがかけられた時点で死を選ぶことが潔いとされ、謀反の疑いがあると告げる使者が門に入った時点で自害することがより美しいとされていたと言います。

 しかし、本当だろうか?と首をかしげなくもありません。謀反の疑いの密告だけでは、本人の弁明も自白も要らないわけですから、当時は政敵に対して陰謀をかけ放題、権力者はちょっと気に入らない相手がいると謀反の疑い有りの一言でどうにでもできるということになってしまいます。そのようなことが常態化して本当に政治が維持されていくものかどうか、不思議に思えてなりません。

 豊臣秀吉は男の子が早世してしまったために諦めて姉の子どもを後継者に指名しますが、その後に秀頼が生まれたので、謀反の疑いをかけて切腹させ、関係者も皆殺しにしてしまいます。

 そのようなことができたのは、秀吉の姉の子どもである秀次には秀吉に対する抵抗力がなく、秀吉の意思次第でどうにでもされてしまう位置にいたからで、そうでなければそこまで罪をでっち上げてそれを押し通すということもできなかったでしょう。

 そう思うと、長屋王の場合、権力があったにも関わらず、たまたま何らかの空白が生じ、手も足も出せないそのタイミングを図られてしまったのかも知れません。その辺りの詳しいことは永遠にはっきりとはしないものなのでしょう。

 実に恐ろしい世界ではありますが、飛鳥奈良時代の殺し合いの時代が終わり、平安に入ると天皇家と貴族はみんな親戚がっちり相互扶助の安定した人間関係が育まれるようになり、保元の乱まで安定が続きます。保元の乱は非常に複雑で簡単には理解できないのですが、またいずれ稿を改めてと思います。