無能な将軍と応仁の乱

室町幕府の第八代将軍である足利義政は無能な将軍であったことで知られています。無能と断言してしまうのもちょっと気の毒な気はしますが、少なくとも政治家としては完全に無能であり、芸術家としては、見るべきところの多かった人、日本の芸術文化に貢献の大きかった人と評していいのではないかなと思います。著名な日本文化研究家のドナルド・キーン先生も、足利義政を題材にした著作で、彼を無能と言い切り、且つ、芸術への貢献に関する賛辞を惜しんでいません。

もし、彼が単に花鳥風月を愛することしか知らない人であったとすれば、私は彼のことを純粋な人だったんだなと評すると思います。ですが、そういうわけでもなくて、結構なエゴイストでこざかしさを発揮する場面もあって、それゆえに彼への評価はその分歪んでしまいます。
そのあたりをちょっと詳しく述べたいと思います。

足利義政は政治に関心が持てず、早く将軍を辞めたいと思っていました。その気持ちは分かります。彼の父親である将軍足利義教は赤松満祐に招かれた先で殺されています。赤松氏の邸宅での酒宴の最中、出入り口がしっかりと閉じられた状態で武装した赤松氏の武士たちが乱入し、足利義教の肩を抑え込んだそうです。義教は「てめえ、何すんだ、このやろー、話せ」と叫んでいるうちに首を斬られたそうです。

そんなことが身近な人に起きてしまったら、そりゃ、自分も同じ職業を選びたいとは思いませんよね。ですから、足利義政が将軍を早くやめたいと思ったことには同情できます。特に彼のように駆け引きの下手な人物であれば、いつ殺されるかわかったものではありませんから、命のあるうちに将軍を辞めたいわけです。

ですが、彼には男の子が授かっていませんでした。当時の武家は男の子さえ授かればどうにでもできたという面もあったと思いますけど、とにかく男の子はいないのです。義政は、弟の義視を担ぎ出すことにしました。その時の義視はお寺の僧侶でした。将軍家とか天皇家のようなおうちでは後継者争いが起きるのを予防するために、正式な後継者以外の男子が僧侶になるというのは普通でした。僧侶であれば俗世の権力争いに首を突っ込んでくることはありません。これは僧侶になった本人にとっても命を狙われる心配がないという点でメリットのある選択肢だったと思います。ただし、いったん出家した人が還俗するってメンツ的にもカッコ悪いし、本人の人生に対する覚悟みたいなものを考えても心情的に結構たいへんだろうなと思います。で、兄の義政から次の将軍になってほしいと頼まれた義視はそれを引き受け、還俗します。義政がさっさと引退して義視が将軍になっていれば、もしかすると何事もなく過ぎたのかも知れませんが、義視が還俗して将軍を継承するまでのタイムラグみたいな状態で、義政の妻の日野富子が男子を出産します。これで話は思いっきりこじれることになってしまいました。或いは日野富子としては、男子が生まれればその子を将軍にしたいので、自分が出産するまでは義視への将軍交代を遅らせるという工作でもしたのかも知れません。いずれにせよ、将軍義政に男子が授かってしまったのです。この男子の名を義尚と言います。

義視としては還俗までしているのに梯子を外されているわけですから、ちょっとこのままではやりきれません。兄の義政も、義視を政治に引き込んだのは自分だという自覚がありますから、義視の側に立ちます。細川勝元にも頼んで義視の後見人になってもらい、このまま義視を次期将軍にするということで突破しようというわけです。

当然、日野富子は承知しませんでした。山名宗全に頼んで義尚を助けてもらおうとします。室町幕府は真っ二つに割れ、京都を中心に戦乱になりました。応仁の乱です。

この戦い、なんで始まったんでしょうか?考えてみると、足利義政の無思慮な行動が要因です。とにかく早く政治家を辞めたいがために義視を巻き込み、とうとう日本全国真っ二つの戦争になってしまいました。なんとなく義政がこずるい上に頭が悪い策士みたいに見えてしまい、こいつ大丈夫か。。。と思ってしまいます。巻き込まれた義視もいい迷惑と思えてしまってなりません。

十年続いた応仁の乱ですが、その最中、すっかり戦争が他人事になってしまった義政は東山にこもって自由に芸術に打ち込みます。友達も呼んで好きなことをする楽しい日々です。次の将軍は義視なり義尚なり、戦いに勝った方がやればいいのです。

一方、日野富子が戦費を調達するために奔走しました。日野富子としては勝って義尚を将軍にする以外に選択肢はありません。ちなみに義視の方は、やはり和尚様としての人格形成がなされたからなのか、次第に勝ちにこだわらなくなっていったように思えます。

日野富子は細川勝元に頼んで自分の陣営に来てもらいました。細川勝元は本来、義政・義視サイドにいたわけですが、義政は無為無策ですから、義視は梯子を外された感じで孤立したことになります。おっとしかし、山名宗全が細川勝元と一緒にやれるか!と、日野富子陣営を離脱し、義視と組むという意味不明な離れ業現象が起きました。関ケ原の戦いで徳川家康が西軍についたりするのに匹敵するアクロバット戦略です。連合艦隊が東京に向かって砲弾を撃ち込むようなものです。

結局のところ、義視も身を引き、次の将軍は義尚ということで話がまとまって、なんだかよくわからない大義名分すら存在しない応仁の乱は終わりました。以前は京都は焼け野原になったと考えられていましたが、あんまりにも関係者がだらだらとしていたため、実は大した戦乱は起きていなかったのではないかとする見方もあるようです。

それはそうとして、この戦乱は足利将軍家の内紛であったと言っていいわけですけれど、長い戦乱のために足利将軍の権力は地に堕ち、下克上が普通になる戦国時代へと世の中は流れていくことになります。百年以上続いた戦国時代が義政の負の遺産だったとすれば、義政どんだけ?とついつい思ってしまいます。もちろん、戦争中に彼が東山で突き詰めた芸術の成果は今も賞賛されており、茶道が今の日本に存在するのも、義政のおかげみたいですから、そこはちゃんと評価してあげないとかわいそうかも知れません。でも、なんといえばいいか、義政さんって瓢箪から駒みたいな人生を歩んだ人ですね。



足利義満の死の秘密-ムーみたいな話

足利義満は、足利幕府の最盛期を存分に謳歌した将軍として知られています。彼が強い権力を行使して天皇をも抑え込み、好き放題していたことはよく知られています。また、彼に面と向かって歯むかえる者もいませんでした。義満の権力がいかにすさまじいものだったかを知るために、彼の祖父である足利尊氏と比較してみましょう。

足利尊氏は戦争の才能に恵まれていたために各地の戦いで勝利し、敗ける戦いというものは全くゼロではないものの、あまり経験がありません。そして人間性が豊かでやさしく欲が少ない人だったということも、前回述べました。にもかかわらず、尊氏は懸命に尽くした後醍醐天皇に憎まれ、ともに北条氏を相手に戦ったはずだった新田義貞とは不倶戴天の敵になり、政情安定せず、苦労を重ねたことは言うまでもありません。

一方、足利義満に祖父尊氏ほどの人間的な豊かさもなければ人格的な高潔さを伝えるエピソードも特にないにもかかわらず、天皇よりも派手に振る舞い、公家よりも武士が上というのを分かりやすく表現した金閣寺を建てて恥じず、自分の息子を皇太子と同格の扱いにし、自分も法律上は後小松天皇の父親という立場を手に入れ、それはもう、自由過ぎるほどに望んだものを手に入れています。

どうして後小松天皇の法律上の父親という身分を手に入れることができたのかというと、後小松天皇の生母が亡くなると、義満は自分の正妻を天皇の義理の母親になるように仕組みます。簡単に言えば、後小松天皇と自分の奥さんを養子縁組させたわけです。で、結果として、後小松天皇の義理の母親の夫である自分は天皇の義理の父親になるという、なかなかチートな手の込んだことをやっています。もちろん、狙いはバレバレですから、当時の人は義満の横暴ぶりに歯噛みしたに違いありません。

或いはいよいよ天皇越えをする武士が現れるかとおもしろがったかも知れません。過去、平清盛が孫が安徳天皇になったことで、天皇越えしそうな時期はありましたが、福原遷都を強行して挫折した後に清盛は突如熱病に倒れて亡くなっており、遂に武士による天皇越えはありませんでした。で、義満がそれに挑戦している状態について今回は述べております。明との貿易では日本国王に封じられることによってその権利と富を得ています。明の皇帝から日本国王に封じられるということは、単に明との貿易権を手に入れたというだけではなく、天皇が日本国内の秩序の中でのみ権威がある存在なのに対し、義満は明を中心とした東アジアの国際秩序の中での地位を手にしたということを意味しており、少なくとも国際的には自分の方が正統なのだとアピールする目的もあったのかも知れません。というか、多分、そうでしょう。外務省の事務次官よりも駐アメリカ大使の方が立場が上なのと同じようなものなのかも知れません。かえってたとえが分かりにくいでしょうか…。。

足利尊氏がもともと鎌倉幕府の御家人で、北条氏が彼の上司であったということは、誰もが知っていました。北条氏は足利氏の主君では決してありませんでしたが、上司ではあったわけです。で、尊氏は上司を潰した部下なわけですね。主君は後醍醐天皇ということになるでしょうけど、その人からは嫌われました。そういうのをみんな見ていますから、尊氏がどんなにいい人でも服従させることに限界があったと言えます。三代目の義満にはそういうのがありませんから、小さいころからわがままいっぱいで、美しい景色を京都に持ち帰れと家臣に命ずるなど、目下のものに平気で無理ゲーさせて恥じなかったわけですね。

さて、足利義満は飽くまでも法律上の、義理であるとはいえ、天皇の父親です。ということは、足利義満は天皇家の家長を名乗ることも可能なわけですね。それはつまり、義満の実の息子は天皇家の家長の息子ですから、天皇になってもおかしくないということになります。たとえば息子の義持を親王の格にしておいてですね、親王というのは、要するに天皇家の息子さんという意味ですが、義満が天皇家の家長なら、義持は天皇家の息子さんですから法律的に矛盾しないわけですよ。で、後小松天皇が亡くなったら足利義持を次の天皇に即位させるという寸法です。血縁的に考えれば、全くのでたらめですが、法律的には義持と後小松天皇は義理の兄弟なわけですから、そこまで荒唐無稽というわけでもありません。今の時代なら、そういう人が会社を継ぐとかあると思いますけど、当時は血縁が全てです。当然、公家社会の義満に対する憤懣は大きかったものと想像することができます。

後小松天皇からすれば、気が気でなかったでしょうね。足利義持立太子がすめば、自分は毒殺されるかも知れないくらいの危機感はあったと思います。後小松天皇個人の危機感と公家社会全体に広がる、義満による天皇家乗っ取り計画への危機感がありますから、足利義満さんに消えてもらいましょうと思ったとして全く不思議はありません。

歴史作家の井沢元彦さんは、足利義満が権力の絶頂にいる中、突如、熱病で倒れ亡くなったことについて、毒殺説を採用しており、その実行犯は世阿弥ではなかったかと指摘しています。世阿弥は公家社会で教育を受けることができた人ですから、天皇と公家秩序へのシンパシーは強い。そして、義満のお気に入りでもあったため、個人的に近づくことができる。従って、公家社会からの依頼を受けて毒殺したのではないかというわけです。義満の死後、世阿弥はなんの罪かは分かりませんが島流しの目に遭わされており、これも足利サイドが義満は多分、世阿弥に殺されたんじゃないかなとうすうす気づいたので、そのようにして懲罰したというわけですね。私は説得力のある説だと思います。私も義満が突如熱病で倒れて亡くなったというのが、清盛の時とそっくりで、私たちの手の届かないところの意思が働いたのではないかという気がするのです。もちろん、私は天皇制を支持していますので、天皇家が乗っ取られなくて良かったと思っていますから、世阿弥が義満暗殺の実行者だとすれば、世阿弥よくやったとエールを送り、せめてもの哀悼の意を表すために世阿弥の著作である風姿花伝を読んで能の勉強をしたいと思うほどなのです。

それはそうとして、義満は南北朝の統一についても、南朝に対して、将来は南朝を正統な血筋ってことでいきますから、形式だけ北朝に降伏して京都に帰ってきてくださいと頼み、おそらくは貧乏暮らしで疲れ切っていた南朝の人たちが渡りに船と京都に来た後は知らぬ顔で、約束を守ろうとしませんでしたから、義満という人はそもそもチートな性格だったのでしょうね。



嫌われ足利尊氏

足利尊氏は意外と良い人だったらしいです。わりと共通して言われていることは欲のない人で、なんでも人にあげていたらしいみたいな話は何度か目にしたことがあります。無欲って素晴らしい人間性だと思いますし、しかも結構、心優しい人だったらしいというのも何度か読んだことがあります。たとえば後醍醐天皇に対して実に甘かったですね。戦いに敗れて九州へ逃げ延びた後、大軍を率いて京都にカムバックしてきますが、そういったことができるのも、足利尊氏という人物が並外れた人望の持ち主であったからかも知れません。

ですが、この足利尊氏という人は人間関係では失望の繰り返しだったように思えます。仲の良い人、近しい人、親しい人とつぎつぎと関係が悪くなり、戦いの相手になってしまいます。おそらく、温厚な足利尊氏としてはもめごとにしたくない、ちょっとくらい自分が損してもいいからなんとか丸く収めたいとか思ったんでしょうけど相手が命がけで挑んでくるのでやむを得ず戦う、本当は悲しいんだけど、戦わざるを得ないから戦う。というような感じだったのではないかと思います。彼の人生は裏切りに満ちたものでした。

最初の裏切り、これだけは足利尊氏の自発的なものでした。ただし、彼の人生で起きる裏切りの中で有名なものの中ではおそらく唯一の尊氏の側からの裏切りだったと言えると思います。それは、北条氏の命で鎌倉を出発した後に起きた尊氏による鎌倉幕府に対する離反、裏切りです。本来、討幕勢力であった後醍醐天皇を捕まえるために近畿地方へ向かったんですが、尊氏は強大な武力を使って鎌倉幕府の京都監督支部みたいな役所である六波羅探題を襲撃します。六波羅探題に詰めていた北条氏の人々は脱出しますが、無事に鎌倉へ帰れるとはとても思えないので、山賊とかに襲われるよりはと自害して果てます。北条氏の最期の集団自害も非常に凄惨なものですが、その少し前に起きたこの集団自害もたいへんに凄惨なものであったに違いありません。

尊氏は近畿地方にいましたが、鎌倉を攻め落としたのは新田義貞でした。足利尊氏と新田義貞はともに源氏の子孫であるという点で共通しています。鎌倉幕府から離反して後醍醐天皇に加勢したという点でも共通しています。ですから本来、両者は互いに助け合える友人だったはずです。しかし、後に新田義貞と足利尊氏は敵同士になります。

まず尊氏とたもとを分かつことになったのは後醍醐天皇でした。後醍醐天皇は京都で天皇による直接政治を始めたのですが、これが現実に政権を支える役割を担う武士たちからは非常に不評で、後醍醐天皇が公家の利益ばかりを厚く保護して武士をないがしろにするために不満が募っており、それら不平武士たちから支持を集めたのが足利尊氏で、尊氏は鎌倉で事実上の新政権を樹立し、将軍を名乗って武士の利害調整を始めました。後醍醐天皇が怒ったのなんのって、各地の色んな人に尊氏を殺せ!と命じるわけですね。で、天皇の命を受けた軍隊が鎌倉を目指します。尊氏は後醍醐天皇と敵対したくないと思ったらしく、僧侶になって恭順しますんでゆるしてくださいと打診するのですが、後醍醐天皇の怒りは鎮まりません。やむを得ず反撃し、あまりに見事な反撃だったものですから、一機に敵を蹴散らして、改めて尊氏は京都へと迫ります。尊氏は後醍醐と反目し合う血筋の上皇と連絡を取り合い、後醍醐ではない天皇の擁立に動きます。これで、今まで反目しながらもなんとか一つにまとまっていた天皇家が完全に分裂し、後醍醐天皇の方が南朝で、尊氏の傀儡が北朝と呼ばれる南北朝時代が始まることになります。後醍醐天皇は病没するときも、尊氏を殺せと遺言して亡くなっていますが、尊氏は後醍醐天皇を弔うためのお寺を建立したりしています。きっと、尊氏は後醍醐天皇のことを非常に強く敬っていたと思うのですが、後醍醐からとことん憎悪されていたため、そのあたり彼は傷ついただろうなと思います。そう思うと、なかなか気の毒です。

後醍醐の崩御の後、これで世の中落ち着くのかな?とも思えなくもなかったのですが、朝廷の分裂状態が終わったわけではないし、なんと言っても今度は足利内部の仲間割れで尊氏を苦しめます。尊氏の弟の足利直義と、尊氏とは厚い信頼で結ばれていた家臣の高師直が対立し、両者は不倶戴天の敵になります。これを観応の擾乱と言うんですが、結果、高師直は殺されちゃうんですね。それでも、尊氏と弟の直義との関係は回復せず、直義は鎌倉で幽閉され、最期は毒殺されたと言われています。証明はできませんが。

ここまでの足利尊氏の人生を見ると、彼とかかわった人々が次々と不幸に見舞われ、尊氏とは呪わしい関係になって死んでいくのが分かります。尊氏は鎌倉で育ちましたから、彼の故郷でもありますし、尊氏はもともと鎌倉幕府御家人なわけですけど、尊氏が離反したことをきっかけに鎌倉幕府そのものが滅亡します。鎌倉は滅びに都になっちゃったんですよね。で、大好きだった後醍醐天皇とも仲たがいで、後醍醐天皇はその死の床でも尊氏を呪う言葉を吐いていたというわけです。信頼していた家臣も殺されて、頼れる弟も毒殺。ほとんどダメ押しみたいに隠し子の直冬までも反尊氏の兵を挙げています。

足利尊氏は無欲で温厚な人だったと言われているとは先の述べましたが、きっとお人よしで人懐っこく、打ち解けやすい人だったのではないかと思います。それだけに身近な人と次々と憎しみ合うようになっていったのは、きっと、つらかったでしょうね。ゴッドファーザーパート3のマイケルコルレオーネみたいに、みんな私のことを怖れる…とか思っていたかも知れません。あるいは、良い人なんだけれど、愛情関係を築くには何かが足りない人だったのでしょうか。



鎌倉幕府と北条氏の滅亡-レクイエム

北条氏が滅亡する要因の一つとして、天皇人事への影響力の発揮というものがありました。今回はそこから始めてみたいと思います。後嵯峨天皇が上皇になった後、二人の息子に相次いで皇位を継がせたことが全ての始まりでした。二人の息子の子孫たちがそれぞれに自分たちこそが正統な皇位継承の血筋であるとして譲らず、天皇家は二つに分裂することになってしまったのです。片方は大覚寺統と言い、もう片方は持明院統と言います。双方譲らないものですから、鎌倉幕府の執権である北条氏による裁定が求められ、北条氏は二つの系統が交互に皇位を継承してはどうかとする折衷案のようなものを提示し、双方はそれを受け入れました。天皇が交代する時には天皇候補が鎌倉に打診され、北条氏によって指名されるという新しい仕組みも同時に生まれました。即ち、天皇家は自分たちの分裂状態を解消するためには、自分たちで話を収めるだけでは足りず、北条氏を黙らせなければならないというハードルが更に上がった状態になってしまったのです。

北条氏としては遂に次の天皇を指名するところまで力をつけてきたわけですから、得意の絶頂だったかも知れません。しかし、このような天皇指名制度は北条氏支配の終わりの始まりでした。後醍醐天皇という天才なのか超愚直なのか、よく分からない、でも、とにかく強烈な個性を放つ人物が登場し、彼は自分の子孫が正統な天皇家の継承者であることをはっきりさせる必要を感じ、そのためには鎌倉幕府と北条氏を滅ぼさなければならないと考えるに至ります。後醍醐天皇の打倒北条氏の計画はその都度鎌倉にバレバレになり、後醍醐天皇は謝罪させられたり島流しにされたりします。それでもその都度彼は戦いのリングにカムバックし、後醍醐天皇に従う武士も現れて、北条氏を安心させることがありませんでした。

北条氏は当時、よほど経済的にも余裕があったのでしょう、後醍醐天皇と彼を支える楠木正成を打倒するために大軍を鎌倉から近畿地方に送り込んでいます。しかし、戦況は思うように進まず、少数精鋭で守る楠木正成の城も簡単に陥落させることができません。図体ばかり大きく、戦いに勝てない姿はまるで徳川幕府の末期にも通じている旧権力滅亡のよくあるパターンのようにも思えますが、北条氏の軍隊はそこまで怖いわけではないということに人々は次第に気づくようになりました。

北条氏の新手の軍隊を率いた男が足利尊氏で、彼は源氏の本家が滅亡した後は、源氏系統の武士の中で最も権威のある血筋の男でした。鎌倉の御家人ではありましたが、当然、御家人としてもトップクラスです。そして彼は鎌倉を出撃した時、既に北条氏を裏切る覚悟を決めていたと言われています。尊氏は近畿地方で後醍醐天皇に接触し、早々に後醍醐天皇への帰順の意思を示し、新しい時代を作る動きを見せました。北条氏としては肝をつぶしたに違いありません。遠征軍の最高司令官が裏切ったのです。太平洋戦争で言えば、山本五十六がアメリカ軍に協力して連合艦隊を沖縄やフィリピンに向けて出撃させるようなものです。果たして何が起きているのか、あまりのできごとによく呑み込むことができず、鎌倉では混乱が生じたに違いありません。

鎌倉を実際に攻略し、北条氏を滅亡に追い込んだのは新田義貞でした。彼は後に足利尊氏に滅ぼされますが、この時は地理的距離は離れていても志は同じだったというわけです。新田義貞は自らの拠点である北関東を南の鎌倉へ向けて出発し、要所要所で待ち受ける北条軍を撃破していきます。北条軍はそれまでライバルの御家人たちを圧倒的な強さで滅ぼしてきましたから相当に強かったはずですけれど、その北条軍を撃破し続けたわけですから、新田義貞の軍は相当に強かったんでしょうね。彼の軍勢はやがて鎌倉に到着し、鎌倉市内への進撃を試みます。

しかしながら、鎌倉は守るには非常に便利にできている難攻不落の土地です。三方が山に囲まれて残りの一方は海に面しており、陸路鎌倉に入るには山を越えるしかありません。あまりにも交通が不便なので、平時に於いても鎌倉を往来する人・物・金は切通と呼ばれる山をくりぬいた道路を通らなくてはなりませんでした。新田義貞も切通を通り抜けようとしましたが、ここは北条側が地の利を生かし、簡単に通らせてはくれません。それどころか激しい反撃に遭い、新田軍は陸路鎌倉に入るのを断念せざるを得ませんでした。彼はやむを得ず鎌倉を迂回して湘南海岸の稲村ケ崎に迫り、そこからどうやって鎌倉に入ることができるかを思案します。彼が海に剣を沈めて祈願したところ、海の潮がさーっとひいてゆき、稲村ケ崎の周辺に広大な干潟ができたため、軍勢がそこを通って鎌倉市内に侵入したことになってはいます。旧約聖書で海が割れてモーセがユダヤ人を率いてエジプトを脱出したのを連想させる話になってるんですよね。ですが、海に祈ったら潮が引くなんてことがあるわけないですから、実際には何をどうしたのか、どんな工夫が行われたのかは謎のままです。確かに稲村ケ崎で潮干狩りができる程度に潮が引くことはありますし、相模湾は遠浅ですから、そりゃ全くあり得ない話ではないかも知れませんけど、関東大震災クラスの地震があって、津波が来るというその直前とかでないと、軍隊が通れるほどの干潟ができるとはちょっと考えられません。しかしながら、何をぐだぐだ言おうとも、新田義貞は率いる武士たちとともに鎌倉市内に入り、火をつけて回ったのです。市内が燃えていることを知った、北条氏得宗の北条高時は一門と家臣を連れて東勝寺へと移動しました。得宗とは北条氏の家督を継いでいる人のことで、北条氏の家長ということです。当時の家長が北条高時だったというわけですね。彼は鎌倉の小町というエリアに邸宅を構えていたとのことですから、今で言えばJR鎌倉駅を降りて小町通の商店街のあたりという感じでしょうか。東勝寺は小町通から見て鶴岡八幡宮を越えた反対側にありますから、何を思って鶴岡八幡宮を通り過ぎて行ったのでしょうか。彼らの最期は非常に痛ましい、そして恐ろしいもので、鎮魂の意思を持たずして語ることはとてもできません。北条氏一門が東勝寺に移動した後も北条氏の家臣の決死の突撃は行われましたが、新田義貞軍は退却しませんでした。北条氏の家臣もここに来て、相当に勇敢に戦ったに違いありませんが、命運が尽きてしまったのかも知れません。網野義彦先生は、北条氏が滅亡した時、彼らと運命をともにする家臣はいても、鎌倉御家人クラスの武士たちはほとんどいなかったことに着目しています。北条氏がライバルの御家人たちを滅ぼしていった結果、気づくと守ってくれる仲間がいなくなっていたということなのでしょうか。頼朝が弟たちを殺した結果、自分ひとりになってしまったと私は以前述べましたが、北条氏も同じ状態に最終的には陥ってしまっていたのかも知れません。

最期の突撃をしたのは北条氏家臣の中で最もランクの高い長崎氏だとのことですが、北条氏一門は長崎氏の突撃による戦況の変化に期待できるかどうかを見極めようとし、いよいよ希望がないということが分かると、一門と家臣たちが同時に自害するという凄惨な道を選びました。助かった人物がいないわけではないですが、事実上の全滅であり、その場で命を落とした人たちは700人以上に上るそうです。私は北条氏最期の土地を見定めたいと思い、東勝寺の方面へと歩いて行ったことがありますが、慰霊目的以外の立ち入りを禁止するとの看板を見て、自分にそこまでの真摯さがあるかどうか自信がありませんでしたから、引き返しました。今もそこは慰霊の地となっています。歴史について語ったり考えたりすることは死者について語ることにならざるを得ませんから、死者への敬意を忘れてはいけませんが、今回は特別凄惨なできごとについて述べましたので、私もいつもよりも更に深い死者への敬意を保ちつつ、今回は終わりたいと思います。



元の襲来と北条氏

これまでに鎌倉将軍のことを中心に何度か述べてきましたが、鎌倉時代について語る際、北条氏について述べないわけにはいきません。北条氏こそが鎌倉時代の主役であったと言うことができるでしょう。また、鎌倉時代で最も記憶されるできごとの一つとして元の襲来も外すことはできません。本来、北条氏と元はそれぞれ個別に歴史に登場してきたアクターでしたが、元が日本に襲来することで両者は密接に関係することになります。

まず北条氏の状況を確認してみましょう。元が襲来した時、若き執権北条時宗が日本の事実上の最高司令官でした。時宗は10代で鎌倉幕府のナンバー3の地位である連署というポジションに就き、経験を積みやがて執権になります。この経験を積む過程では、時宗の腹違いの兄である時輔が京都で窓際族みたいになっていたところを殺害されるという事件も起きています。これを2月騒動と呼びます。北条氏の人物でありながら冷遇されていた時輔が謀反に加担していたと見られていたために起きた事件なのですが、全くの誤解だったのではないかとの指摘もないわけではありません。時輔はその後も生き延びたとの説もあります。というのも、それよりしばらく後の時代になって、謀反人の時輔が吉野に逃げ延びているので討ち取れとする命令書が残っているらしいのです。その命令書が本物であるとすれば、時輔が本当に生き伸びたか鎌倉の北条氏が事実誤認していたかのどちらかになりますが、時輔生存説はぐっと高まることになります。

まあ、ちょっと時輔にばかりフォーカスしてしまっていますが、何を言いたいのかというと、北条時宗は無実の兄を死に至らしめるという後ろめたい経験を経て執権という最高司令官に就いているわけで、そういう意味では過酷な修羅道を歩まねばならなかったという同情すべき人生を彼は送ったのだという認識を述べたいわけです。なぜそんなことを述べるのかといおうと、時宗の時代に元の襲来で北条氏は求心力を極限まで高め、天皇人事にまで影響力を発揮するようになっていきますが、同時にこの時は北条氏支配の終わりの始まりにもなったと言うこともできるからです。元の襲来によって鎌倉時代の武士は非常に大きな負担を背負い込みましたが、北条氏はそれを充分に救済することができず、そのことが北条氏滅亡の遠因になったと言えますし、天皇人事への介入について言えば、後に後醍醐天皇がそれを理由に打倒鎌倉幕府で突き進みますから、考えてみる北条氏滅亡の直接の要因になったとも言えるわけです。北条氏は非常に過酷な、同情せざるを得ない、一族滅亡という運命を後に辿りますから、そのように思うと時宗による北条得宗家絶頂期は、滅亡のカウントダウンの始まりであって、後の歴史を知る私たちはなんとも言えない、胸の中にくさびを打ち込まれたかのような重苦しさを感じながら当時の歴史を辿ることになってしまわざるを得ないわけです。

そうはいっても、元の襲来は日本の勝ち戦でもあったわけで、そういうポジティブな面がないわけでもありません。元は一度目の日本遠征ではモンゴル兵と高麗兵の混成軍団を送り込んできたものの、日本の武士の徹底的な抵抗に遭い、日本占領を断念して引き返しています。このとき、神風が吹いたとする立場と、それを疑問視する立場に分かれるようですが、網野善彦先生は当時の日本の公家の日記に嵐に関する記載があったことを重視し、暴風雨はあったとの見解を示しています。同時代人の日記というのは説得力があるわけですね。しかも、これが元の遠征軍の人のものだと、立場的に暴風雨があったからやむを得ず帰還したんです。というような言い訳の材料になってしまっていて説得力があるのかどうか微妙ということになってしまいますけど、京都のお公家さんの日記であれば、九州で元軍と日本軍が戦ったことについて、かなり中立的なことが書けるでしょうから、内容はかなり信頼できると考えて良いわけですね。

運命の二度目の日本遠征では元はモンゴル兵+高麗兵+中国人兵士という総力を挙げた陣容で九州へと迫りました。元の大船団は長崎県の五島列島あたりから博多湾あたりまで続くという壮大なもので、海軍力では日本側は太刀打ちできませんでした。ただし、防塁を各地に設置していたため、元軍の上陸は相当程度に阻むことができたようです。また、上陸に成功した敵に対しては日本側は勇猛果敢な攻撃を繰り返すことができ、元にとっては相当に手ごわい相手だったようです。鎌倉武士の剣術の鍛錬はおそらく当時の世界最高レベルだったでしょうから、地上戦では本領発揮ができたようです。元軍はモンゴル兵、高麗兵、中国人兵の間の連携がうまくいっていなかったようで、要するにバラバラに挑んできたらしく、その分、日本側にとって有利な状況も生まれていたようです。

この時の戦いでは本物の暴風雨によって元の大艦隊は大打撃を受けたのですが、既に戦闘が2か月にも及んでいたため、そりゃそんなに長く海上にいたら時化に襲われるのは普通に想定できるというのが一般的な見方のようです。巨大な経済力で世界最大最強の大艦隊を作ったものの、その扱いについてはまだ慣れていなかったというのが不幸だったのかも知れません。この神風によって大打撃を受けた元軍の司令官たちは帰国し、末端の兵士たちが各所に残され、日本軍は彼らに対して容赦ない殺戮を行ったようです。マルコ・ポーロは『東方見聞録』で数万人の元軍の兵士が奴隷にされたと述べており、元朝の記録にもそのように書かれているようなのですが、私は日本側の記録に大量に生け捕ったという話が残っているのを知りません。知っている人がいたら教えてほしいくらいなのですが、想像ですが、残存兵はほとんど殺されたのではないでしょうか。もし数万人もの元の兵士が日本で生け捕りにされたのであれば、その子孫がいてしかるべしですが、そのような話は聞いたことがありません。平氏の落ち武者の子孫が村を形成して今日まで生き延びたという話もあるのですから、全くそういう話が残っていないというのも、徹底した殺戮があった証左でもあるように思え、怖くなってしまいます。

日本にとって元との戦いは中大兄皇子の時の白村江の戦い以来の対外戦争だったわけですが、白村江の戦いが日本の惨敗だったのに対し、天候が味方して神風が吹いたとはいえ、元との戦いでは日本が勝ったわけですから、まあ、一応は良かったと言っていいのかも知れません。戦場に散った個々の兵士たちには哀悼と敬意の感情を持ちたいと思います。それから、日本は神風が吹いて勝ったことになってますけど、決して神風だけで勝ったわけでもないということも確認しておくべきかも知れません。国中から集めた大量の武士を九州に配置し、防塁を建設したりして迎撃態勢を整えるのには全力を尽くされています。やはり、人事を尽くして天命を待つという姿勢は大切なことと思います。

この戦いでは日本は勝ったものの、得るものは何もありませんでした。そのため個々の武士たちが損害を受けたことに対し、鎌倉幕府は充分な救済をすることができませんでした。たとえば竹崎季長という武士は勇猛果敢に敵に対して突っ込んで行ったということで幕府から恩賞をもらおうとしますが、幕府側はたとえ勇猛果敢であっても目立った戦功を挙げていないということを理由に当初、竹崎への恩賞をしぶっていた形跡があります。しかし竹崎があまりに貧乏だったので担当者が同情して小さいながらも領土を与え、彼はほっとして帰って行ったそうです。竹崎は真っ先に敵に突っ込んで行ったということを戦功として主張したわけですが、これは当時、ムードメイキングとしては重要な役割を彼は果たしたとも言えますが、実際に敵の首を挙げていないという点を担当者が突いたと言うのは、まるで今日の外資系企業の勤務査定のやりとりのようで興味深いものがありますけれど、とはいえ、ムードメイカーに報いることに二の足を踏む程度に、武士に与えるものがなかったのは鎌倉幕府としては非常に厳しい状況にぶち当たっていたのだということを窺い知ることができます。

それから50年ほどして鎌倉幕府は滅亡し、北条氏は一門全員自害という壮絶な最期を迎えます。わずか50年ですから、元の襲来と北条氏滅亡の両方を経験しているような人も大勢いたのではないかと思います。この時、討幕で動いた後醍醐天皇を足利尊氏や新田義貞が支持したのも、北条氏による武士たちへの報いが不十分であったということが伏線になっているわけですから、本当に運命とは厳しいものです。過去の歴史を見ていくことは多くの失敗例に出会うことでもあります。このようなケースに触れる度に、自分の人生の教訓として活かしたいとよく思います。



鎌倉将軍という過酷な職業

もし鎌倉時代に生まれたとすれば、将軍という職業にだけは絶対に就きたくないと私は思います。百パーセントの確立で人生がめちゃめちゃになって苦しむことが分かっているとすら言っていいのではないでしょうか。

最初の源氏三代の将軍たちについて言えば、二代目の頼家が病死ということになってますが信じている人は多分ほとんどいなくて、殺された可能性が非常に高いわけです。三代目の実朝は間違いなく殺されているわけですね。初代の頼朝も殺されたのではないかということは以前指摘しました。

で、ですよ、その後の将軍たちもいろいろ大変だったのです。鎌倉幕府の将軍については、源氏三代以外はほとんど語られることがありませんので、そもそもどうなっていたのかというところからちょっと確認しておきたいのですが、三代目の実朝が亡くなった後、北条政子は京都から天皇家の人物を次の将軍に迎えようと画策します。これは京都側から断られてしまったのですが、代わりに藤原家の人物が将軍として鎌倉に招かれます。藤原将軍とか、摂家将軍とか言われます。摂家というのは摂関家のことですね。まあ、要するに藤原さんの一番中心の本家筋の人を将軍に招いたということです。で、藤原頼経という人が四代目の将軍として招かれたんですが、北条氏との対立を深めてしまいます。北条氏と関係が険悪になっていった三浦氏という御家人が藤原頼経を担ぎ、できれば北条氏を権力から引きずり下ろしたいと思って行動するものですから、だんだんそういうのが表面化してきて、頼経は将軍を引退させられるところへと追い詰められます。で、息子の頼嗣という人に将軍職が譲られました。頼経は引退した後も権力を維持したいとの願望が強く、三浦氏との連携も維持するのですが、北条氏の逆鱗に触れて京都へと送還されてしまいます。まだ息子の頼嗣が鎌倉で将軍としてがんばってはいましたが、三浦氏が北条氏によって滅ぼされ、後ろ盾をなくしてしまい、息子も京都へ送還されてしまいます。で、ほどなく父親の頼経が病死し、翌月には息子の頼嗣も病死するのですが、あまりにも時間的に近いので、ちょっと怪しいわけですよね。たとえば同時に誰かに殺されたとして、たとえば北条氏の討手に殺されたとして、あまりにも事態が陰険なことになってしまっているので表ざたにするわけにもいかず、発表の時期だけ少しずらして病死ということにしたのでは?との疑念がぬぐえないわけです。鎌倉将軍になると一歩間違えば命に係わるというわけですよね。

これで藤原将軍の時代は終わるのですが、次いで皇族の人物が将軍として鎌倉に迎え入れられます。これを宮将軍とか親王将軍とか言います。親王というのは皇族男子に与えられる称号ですね。一応補足すると、皇族男子の中で親王として認められた人だけが親王を名乗ることができるんですが、普通は親王として認められるので皇族男子はだいたい全員親王と思ってもいいんですけど、時々、稀に親王として認めてもらえないまま年取っちゃう人もいて、そういう人は王と呼ばれます。平氏追討の令旨を出した以仁王は後白河の息子ですけど親王として認めてもらえてないので、王なわけです。それはそうとして、この宮将軍の一人目、即ち鎌倉幕府六代目将軍が宗尊親王というお方なのですが、北条家の内紛に巻き込まれてしまい、責任を問われて将軍をやめさせられています。北条家の内紛ですから宗尊親王悪くないといえば悪くないとも思いますけど、まあ、敗けた方についちゃうとこんなことになってしまうわけですね。宗尊親王は出家させられ、ほどなく病死してますが、33歳っていう一番元気な時期に亡くなってますから、やっぱり謀殺の疑いはぬぐい切れません。だって相手が陰謀に長けた北条氏なわけですから。北条氏はいくつかに分かれますけれど、北条得宗家というのがご本家で、陰謀にはめっちゃ長けてるんですよね。宗尊親王が将軍を追われてからは、その息子の維康親王というお方が将軍に就任します。で、20代で鎌倉から追放されました。この人は追放だけで済んでむしろ幸運でしたよね。

で、久明親王という人が京都から呼ばれて将軍になったのですが、やっぱり追放されています。とはいえ、息子の守邦親王が将軍を継いだので、まあ引退して京都へ帰ったくらいのイメージでとらえても良さそうな感じでもありますから、久明親王が一番ダメージが少なかったかも知れません。

最後の将軍がこの守邦親王というお方なわけですけれど、鎌倉幕府が滅亡した日にはどこで何をしていたのかすらわかってはいません。北条高時はじめ北条氏一門関係者が一斉に自害するという凄惨なできごとが起きる中、将軍を辞してしばらくの地に亡くなったとされていますが、私はちょっと疑問に思います。想像ですが、北条氏が滅びる時に道連れにされたのではないでしょうか。ただ、親王が道連れにされるというのは日本の歴史ではあってはならないことなので、後世に残された記録ではちょっとごまかしてぼやかしているということではないかと思います。

鎌倉将軍は本当に悲惨な人生を歩んでいたわけで、大変だなあと同情します。北条氏が強大な権力を持っていたにもかかわらず決して自ら将軍になろうとしなかったあたり、実によく空気を読む人々であったとも思えます。鎌倉の御家人たちは北条氏の強さは認めていても、権威のある存在としては決して認めてはいなかったということをうかがい知ることができます。北条氏は空気を読んでいたということなんでしょうねえ。



源氏滅亡と鎌倉御家人の闘争

源頼朝が亡くなった後、息子の頼家が二代目を継ぎますが、そのあたりから北条氏は露骨に源氏外しに動きます。誰もが疑問に思うであろうことに、北条政子は自分の嫁ぎ先が滅亡することに加担しただけでなく、息子が殺されることにも協力的だったのだろうか?ということではないかと思います。私も長年疑問に思っていました。歴史上、自分の嫁ぎ先を憎んだ女性は大勢いると思いますし、黒澤明の『乱』という映画でも楓の方は嫁ぎ先を憎んで様々な策略を繰り出していきます。ですが、自分の子供を野望のために犠牲にするような母親がいたかと言えば、思い当たりません。思い当たるとすれば唯一、北条政子なわけです。北条氏が編纂した歴史書である『吾妻鑑』では、北条政子も北条氏の政権を正当化する役割を担っていますが、あれは勝利者が適当に自分たちにとって都合のいいように書いた歴史書なわけですから、あまり信用できるものではありません。あくまでも何が起きていたのかを知るための手がかりや参照にできる書物でしかないと言えるでしょう。そこでも北条政子はふすまの後ろで陰謀を盗み聞きしたりして、なかなかアクロバティックな活躍を見せていますが、じっくりと経過を見つめていくと、どうやら政子も騙されていたのではないかという気がしてきます。

源頼家は独裁的な人物であったために鎌倉御家人たちから問題視され、伊豆の修善寺に幽閉され、御家人たちの合議によって意思決定される、いわば寡頭制の政治が行われたことになってはいますが、頼家がめちゃめちゃ暴君だったと述べているのは吾妻鏡だけで、頼家の真実の姿というのはちっとも分かりません。で、おそらく、北条政子としては、政治権力は自分の実家である北条氏が握るとして、頼家には政治からは退場してもらい、修善寺に温泉に入ってゆっくり楽しく過ごしてもらおうという考えがあったのではないかと私には思えます。頼家が修善寺で殺されるとは全く想像していなかったのではないでしょうか。頼家が悪い人物であったとされるエピソードの一つに蹴鞠が大好きというのがあったみたいなのですが、蹴鞠くらいいくらでもやらせてあげればいいわけですから、母の政子としては修善寺で好きなだけ蹴鞠しなさい、かわいい息子よ。くらいの感じだったかも知れません。もうちょっと突っ込んで考えてみると、鎌倉で政治に首を突っ込んでいたら本当に殺されてしまうかも知れませんから、追放という不名誉な体裁ではあれ修善寺まで逃がしておけば命だけは助かるという計算もあったかも知れません。もちろん、頼家としては政治に関心があったでしょうし、修善寺のような遠いところに幽閉されるのは嫌だったでしょうから、政権復帰も目論んだかも知れませんが、頼家の殺害については、北条氏としては政子の同意を得る必要はないんですよね。政子の知らないところで動けばいいんですよ。じゃ、北条氏の中で誰がやったのかと言えば、まあ、間違いなく政子の父親の北条時政でしょうねえ。時政は後に息子の義時と娘の政子の連合勢力によって追放されていますが、北条時政はぎりぎりまで頼家の弟で三代目を継承した実朝の殺害を企んでいたと考えられており、かなり危ないやつだったようです。ですから、源氏滅亡の真相は政子の父親である北条時政が主導して行われ、政子が反発して時政を追放したという流れの中で起きたという風に考えてもいいと思います。

さて、とはいえ、三代目の実朝は生きてるじゃないか。なんでそれでも源氏は滅亡したの?という疑問は残ります。実朝を殺したのは頼家の息子なわけですが、その少年は実朝が政権を奪うために頼家を殺したのだと信じていたそうです。血縁的に言えば彼が源氏の四代目の棟梁になっていたはずですが、北条氏に捕らえられ、殺されています。これで源氏滅亡のミッションがコンプリートされたということになりますけれど、頼家の息子をたきつけたのが北条氏じゃないのかとの疑問も湧いては来ます。実朝が殺害されたのは鎌倉の鶴岡八幡宮の石の階段であると言われていますが、八幡宮への神事へ向かう前、御家人の一人の大江広元が涙を流して防御用の衣服を身に着けるように頼んだとされています。古代ローマの独裁者になったジュリアス・シーザーが殺害される日の朝、鶏をいけにえにした占いで非常に運勢が悪いことが示唆されたのに出発してやられてしまったという話がありますが、ちょっとそれを連想してしまうような、ドラマチックな一幕であったと言えます。この時、本来、実朝と一緒に出発する予定だった北条義時は直前で体調不良を訴え、事情を一切知らない別人がその代わりをつとめます。そして実朝と義時の代役の二人が殺害されました。この流れを見れば大江広元と北条義時はその日実朝が殺害されることを知っていたとの疑惑を拭うことはできません。北条義時にたきつけられた頼家の息子が実朝を殺し、その子も義時によって殺されたというわけです。大江広元も事情を知ってなんとか穏便に実朝を救いたいと思ったけれど、そういうわけにはいかなかったということに読み替えることが可能なわけです。

さて、このように露骨な源氏潰しを北条氏が行っていったわけですから、同時代に生きた鎌倉御家人たちが気づかないわけがありません。北条氏vs御家人たちの熾烈な戦いがあったことは、私が何もここで述べなくてもよく知られていることです。たとえば梶原景時という御家人は、義経が西国で平氏を追討していた時に、頼朝に命じられて監視役として従軍していたというような人物で、頼朝への厚い忠誠心を持っていましたが、他の御家人たちとの軋轢が強くなりすぎて鎌倉を立ち去らざるを得なくなり、北条氏の領地で一族もろとも殺害されています。想像力をたくましくするしかないですが、北条氏が他の御家人たちをたきつけて梶原景時を孤立させ、殺したと考えることはさほど不自然なことではないように私には思えます。他にも和田義盛が北条氏に盾突き、三浦氏と一緒に北条氏と戦う予定だったのが、直前で三浦氏が寝返り、孤立して和田氏滅亡に至るという和田合戦もありました。そして和田義盛を見捨てた三浦氏も後に北条氏によって滅ぼされています。

北条氏には必勝の方程式のようなものがあって、それは敵を団結させないこと、敵を分裂させ、一人だけ選んで孤立に向かわせて殲滅する。それを繰り返すというものであったのではないかと思います。気づくと北条氏に対抗できる御家人はいなくなっていました。将軍家も源氏が滅亡した後は、藤原氏からもらってきた公家将軍で、公家将軍があんまり言うことをきかなくなってきたら追放して、多分殺して、今度は皇族の宮将軍を傀儡として利用しています。

そのように知略で天下を獲った北条氏もその最期は非常に気の毒な、同情を禁じ得ないものでした。今も鎌倉には北条氏最期の土地が残されていますが、哀悼の意をもたずにはとても訪問できる場所ではありません。鎌倉時代の御家人でその後も生き延びた武家はたくさんあります。たとえば島津氏は鎌倉幕府の御家人であり、薩摩地方のいわば地方官として就任し、明治維新まで生き延び、今も島津さんと言えばそれはそれは立派なお家柄です。島津氏とまではいかなくとも、甲斐地方の武田氏も鎌倉時代に地方官として任命された家柄で、織田信長に滅ぼされるまで数百年にわたり甲斐源氏として生き延びたわけです。ですから、思うのですが天下を獲るというのは非常にリスキーなことかも知れません。天下を獲らずにわりとそこそこな武家であれば明治維新まで生き延びることができたかも知れないのに、北条氏の場合、天下を獲ったからこそ激烈で悲壮な最期を迎えなければならなかったわけです。その前の平氏もそうですね。蘇我氏だってその点では同じと言えます。天下を獲るのは浪漫があるとは思いますが、子孫が迷惑するかも知れませんね。



頼朝の死の秘密

頼朝は本来、七百年も続いた武士政権のパイオニアとして尊崇されてしかるべき人物であるとも思えるのですが、実際にはさほどぱっとした扱いを受けているとも言い難いようにも思えます。たとえば大河ドラマで頼朝が主人公になったことはあったでしょうか?私の記憶の限りで言えば、否です。頼朝の武勇伝のようなものも、やや分量が少ないように思えます。たとえば家康であれば人質時代のこととか、三方ヶ原の戦いとか、関ケ原とか、多くの人が知る大きな見せ場のようなものを幾つも持っていますが、頼朝はそういうわけでもありません。源平の戦いの主役は義経だという印象が強いですし、鎌倉幕府の主役は源氏というより北条氏です。

もちろん、頼朝がスーパービッグネームであることに違いはなく、特に徳川時代は尊敬や研究の対象になっていたことも否定できませんが、しかし、その割にやはりあんまり人気もないし、語られることもありません。

それもそのはず、彼が歴史の大舞台に登場した挙兵の時、当時としてはおじさんの30歳を過ぎたあたりですし、実際に戦ったのは弟たちですし、その後、弟たちを殺したという点で、どうも暗い印象を拭うことも難しいからなのだと言っていいと思います。本当にこの人は歴史を作った大人物なのでしょうか?それほど有能な人だったのでしょうか?私にはちょっと疑問が残るというか、彼は単なるパペットのような人で、虚像のイメージだけが語り継がれていて、実際は・・・なように思えてなりません。私は藤沢市民なものですから、どちらかと言えば源氏に同情的な土地柄で暮らしていると言っていいとも思うのですが、やはり鎌倉が頼朝の土地であると考えた場合、藤沢は義経が足止めされた土地であり、義経の首洗い井戸があり、義経を信仰する白旗神社があるという土地柄でもあるため、頼朝に対してはやや冷ややかで、より義経びいきな土地だとも思えますから、それで私もちょっと頼朝には冷たい視線を向けてしまっているのかも知れません。

で、そのような頼朝なのですが、どうも、その亡くなり方もやや秘密めいたものになっており、私のように頼朝に対してあまり同情的でない人物からすると、どうやら頼朝の死には複雑な背景があるのではなかろうかとの邪推をしたくなる要素が多少見え隠れしているようにどうしても見えてしまいます。

吾妻鏡によると、頼朝は相模川にかけられた橋の橋供養の帰りに落馬して亡くなったということになっています。しかし、これってなんか、おかしくないでしょうか?頼朝がどんな人物であったのかというと、若いころは伊豆半島のあちこちの女性のところへ遊びに行くために馬でぱっぱかぱっぱかと伊豆の野山を駆け回っていた可能性が高く、要するにナンパに明け暮れていたと考えられるわけですね。伝説では曽我兄弟と同じ一族の八重姫が頼朝の子どもを産んだとされていますし、史実でも本来流刑の憂き目に遭っていた頼朝を監視する立場だった北条氏の娘の政子が頼朝に陥落してしまっています。ですから、そのような男が馬から落ちるって、戦場でならあり得るかも知れませんけど、既に戦争が終わって平和な時代の橋供養とかいう儀式が終わって穏やかに帰る道すがらに馬から落ちるって考えにくいように思えてならないわけですよ。頼朝が挙兵して最初に犠牲になったのは山木兼隆という平氏系の武士なのですが、彼は政子の父親の意向で政子と結婚したものの、結婚の最初の夜に政子が家を抜け出して夜通し走って逃げてきたというエピソードのある人物で、頼朝からすると自分の女を奪おうとした恋敵であったと言えるため、どちらかと言えば女性を巡る地元の不良が戦っているという雰囲気の要素が強く、源氏再興とか、以仁王の令旨に従うなどの大義名分は後から一応理由をつけたというように見えなくもありません。そんなわんぱく頼朝君がやっぱり馬から落ちるって、ちょっと考えにくいんですよ。

とすれば、落馬したというのは、本当にそういうことがあったわけなんじゃなくて、何らかのメタファーなんじゃないかなと思えてくるんですね。武士が、或いは政権のトップにいる人が落馬するというのは、要するに失墜する、権力の座から引きずり降ろされる、戦いに敗れるというような意味合いを含むはずです。ですから、事の本質は頼朝落馬ではなく、頼朝失脚なのではないか、頼朝は権力を北条氏に奪われて殺された、あからさまに殺されたわけではないかも知れないけれど、謀殺されたということをダビンチコードみたいに「落馬」という言葉で暗に示し、後世に伝えようとしたのではないかと考えれば、頼朝が落馬したと吾妻鏡に書かれていることも、しっくり来るのではないかと思えてきます。とすれば、相模川の橋供養の帰りというのは鎌倉を中心とした相模地方が安定状態に入り、戦乱の時代から北条氏による平和の時代へと橋渡しが行われ、用済みになった頼朝は供養の対象になったと読むことも可能ではないでしょうか。もしかするとちょっとうがちすぎかもしれませんが、以上のような読み方が不可能ではないとも思えます。

考えてみると頼朝は北条氏のパペットとして歴史に登場し、北条氏のパペットとして去って行ったように見て間違いないと思います。彼にはそもそも自分の意思で何かをするということはできませんでした。源氏の棟梁という貴種ではありますけど、挙兵した時は島流しにされている罪人の身であり、兵隊は北条氏が用意する、金も北条氏が用意する、それこそ馬も船も食料も北条氏が用意するというわけですから、北条氏に逆らうことはできません。頼朝の活動を見て行けば、まずは木曽義仲を滅ぼし、次いで平氏を滅ぼして、次に邪魔者であり弟でもある義経を殺し、ついでに義経とともに平氏滅亡に功績のあったもう一人の弟の範頼も殺し、要するに源氏の信頼できる仲間がくしの歯が欠けるようにいなくなっていって、裸の王様みたいになっていって自分もいなくなった…という風に見えます。木曽義仲、平清盛、源義経、源範頼、彼らが全て滅亡したことで北条氏の天下になります。頼朝は北条氏のための露払い役であって、用済みになって消されたのではないかと私には思えてなりません。

今回は想像力をたくましくしてみました。全て私の憶測ですので、古い歴史の謎に挑むという感覚で楽しんでもらえればいいと思います。頼朝ファンの方がいらっしゃったら、本当に申し訳ありません。私、ここまでやっちゃうというのは、やっぱり義経のことが好きなんでしょうね。多分。清盛の方がもっと好きなんですが。今回はこんな感じです。ありがとうございました。



義経、死す‐レクイエム

司馬遼太郎は『義経』という作品に於いて、義経は戦争の神様のような男であると同時に、政治的には白痴であると述べています。なぜなら、義経は後白河から検非違使の役職を受けることにより、頼朝から敵視され身を滅ぼすことになったからで、検非違使の役職を受けるとはどういうことかについての認識がなかったというわけです。私はこの指摘は半分正しいと思いますが、残り半分は懐疑的です。今回はそのあたりを少し述べてみたいと思います。

まず、結論から言うと、頼朝はまず間違いなく義経は用済みになったら殺すか追放すると決めていたと私は思っています。一般には、京都の朝廷から独立した政権の構想を抱く頼朝が、後白河から検非違使に任命されることで京都と鎌倉との両属状態になった義経を敵視したために、追放劇があったとされていますが、検非違使の件は義経追放の口実に過ぎなかったであろうと私には思えるのです。

その理由なのですが、一つ目の理由として、義経とともに平家追討の功績を上げた頼朝の弟の範頼も後に殺されているということを挙げたいと思います。頼朝には何人もの異母兄弟がいますが、その多くは若くして亡くなるか、僧侶になって権力から距離をとるかどちらかになっており、現実政治に参加していたのは範頼と義経だけでした。そして平家追討をやり遂げた二人は当然、頼朝にとってライバルであり、頼朝さえ死ねば彼らに源氏の棟梁のチャンスは巡ってくるわけですから、この二人への警戒心は強く、順番に死に追い込んだというのが真相なのではないかと私には思えるのです。もちろん、二人の弟を殺した後、頼朝も不可解な死を遂げていますから、全てを仕組んだのは北条氏なのかも知れません。たとえば北条政子が頼朝に対し、義経と範頼には警戒しなければならないと吹き込み、排除させたのではないでしょうか。本来、頼朝にとって兄弟は一緒に源氏を支える重要な仲間です。父の義朝の時代にいったん滅んだと言ってもよい源氏は、頼朝が再度創業したようなものですが、結果として頼朝が自分の意思で弟たちを死に追いやり、後は頼朝と世間知らずな息子たちと見た北条氏が源氏潰しを始めたと見るのはそこまで見当違いのようにも思えません。頼朝は金も兵隊も北条氏に頼っていましたから、義経と範頼がいなくなった後は裸の王様みたいになっていました。北条氏の権力への明確な意思によって、そのように仕組まれたのだと私はこの時代のことを考えるたびに、そのように思えてしかたがないのです。

次の理由として、頼朝の義経追放の命令書の発表時期の不可解さがあります。義経が後白河によって検非違使に任官されたのは、1184年の8月のことなのですが、頼朝が義経追放の命令を発したのは1185年の4月です。ちなみに平家が滅亡したのは同じ年の3月でした。即ち頼朝は義経が平氏を滅亡させるのを待って追放の命令を出したということになるのです。用済みになったから義経を排除したと考えるのが普通なのではないでしょうか。

義経はその命令書で京都に留まるようにと命じられました。鎌倉への帰還は認めないというのです。私はこの時の義経の動きについて、残念な思いになってしまいます。この時の選択ミスがよくよく考えてみると、義経の命取りになったのではないかと言う気がするのです。義経にとって最大の庇護者は後白河でした。ですからそのまま京都にとどまり後白河の右腕として活躍していれば、義経は京都政界に於いて不動の地位を得ることになり、後白河は頼朝を征夷大将軍に任命することを非常に嫌がっていましたから、義経にしかるべき地位を与えて源氏の棟梁格として扱うことにより、頼朝を中央政治から排除するということもあり得たわけです。義経には清盛のように政権の簒奪を考えるような野望もありませんでしたし、木曽義仲のように部下に粗暴なふるまいもさせなかった、京都育ちの知識人ですから、後白河とはうまくやれた可能性は充分にあります。むしろ鎌倉の武士たちが義経の京都人ぽい雰囲気に反発しまくっていましたから、義経は懐かしいふるさとの京都にとどまっていればよく、敢えて敵地の鎌倉に帰還しようなどという無謀なことを考える理由などなかったのです。

しかし義経は、鎌倉に向けて出発します。そして鎌倉と藤沢の間くらいにある腰越で足止めされてしまうのです。今でも江ノ島電鉄の腰越駅というのがあって、あのあたりを通ると私はきらきらと光る海を見つめながら鎌倉への入境許可がおりるのをじっと待つ義経の様子を想像してしまいます。義経は腰越状と呼ばれる手紙まで書いて頼朝に理解を求めましたがなしのつぶてであり、やむを得ず京都へと引き返すことになります。

義経は京都の自宅でおそらくはくすぶった心境で日々を送っていたはずですが、ここへ頼朝から追手が差し向けられます。追手は義経にやられてしまいましたが、頼朝のやり方に怒りを隠すことできず、義経は同盟者の源行家とともに後白河に頼み込んで頼朝追討の命令を出してもらいます。義経からすれば後白河の命令書があれば自分が正義の側に立てると踏んだのだと思いますが、これは後白河のやり方とは全く違うので、後白河からは決定的にうっとうしいやつ認定された可能性が強いように思います。後白河は正義・不正義、正統・傍流などの考え方で生きてきた人ではないです。もともと天皇になれない運命で諦めていたのが、関係者が死んだことによって偶然権力への道が開けました。平清盛という巨人との権力ゲームでも、常に待つことで状況の改善のきっかけをつかんできました。要するにじっと待ちながらこつこつとやれることやることにより、既成事実を積み上げて気づくと勝利しているというのが後白河のやり方なわけです。それに対して義経は命令書のような体裁を整えることを優先していますから、後白河の目から見て義経には勝てないということは明らかなことであったでしょう。先ほども述べましたが、義経が鎌倉へなんか行かずに京都にとどまり、後白河の希望通り検非違使の仕事をしていれば、ちょっとずつ出世をしてそのうち将軍なり左大臣なりになった可能性は充分にありますし、京都で義経が健在でいた限り頼朝が征夷大将軍の地位を手に入れる可能性は極めて低い、絶望的であったとすら思えます。源氏のトップが2人いるということはあり得ず、後白河の懐に義経がいる以上、源氏の棟梁にふさわしいのは義経で、頼朝は実績も特にない普通の人になってしまったことでしょう。この場合、義経は後白河の権威を充分に受けていますから兵隊も集めやすく、頼朝は手も足も出なくなった可能性すらあります。しかし義経は鎌倉へいったん向かいましたから、このことによって自分は京都の公家社会とは距離を置く鎌倉武士なのだと宣言してしまい、結果として京都での居心地を悪いものにしてしまっていました。平家打倒によって人々が感じた熱は次第に冷め、義経は平家との戦いが始まる前のような無名の人物となんら変わらないような立場へと転落してしまったというわけです。

義経は公式に頼朝打倒を掲げ兵も募集しましたが、兵は集まりませんでした。義経は全国の武士から狙われる身となってしまい、やがてかつて自分を厚遇してくれた奥州藤原氏へと身を寄せます。しかし頼朝の圧力に屈した奥州藤原氏によって包囲・攻撃され、義経は自害するという悲劇的な運命を辿りました。結果としてはこの悲劇性があるがゆえに義経の人気は高まったと言えると思います。日本一人気のある歴史上の人物は疑いなく義経でしょう。

義経美少年伝説というものがありますが、なぜそのような伝説が生まれたのかは気になるところです。義経の肖像画が中尊寺に残されてはいますが、戦国時代か江戸時代に描かれたものだと考えられています。そのため、実物を反映しているとは考えられません。おそらくは能の舞台で義経が登場する時、義経役は必ず幼い男の子でなくてはならないとの決まりが長く守られてきたため、舞台のかわいい男の子のイメージが人々の心の中に定着し、美少年伝説が形成されていったのではないかと思います。義経は短い人生で多くの女性と交際した人で、その数は5人や10人ではすまないくらいの感じだったようです。ですから義経の人生をよりリアルに描こうとすると、その時々に応じていろいろな女性が登場しなくてはいけません。そして官能的なやりとりも描かれざるを得ない場合もあるわけです。しかし、能という芸術は男女の官能というものを表現することを徹底的に嫌いました。ドナルド・キーン先生の『日本人の美意識』では、特に静御前との別れが官能的になりかねないために要注意で、観客にそういったことを一切連想させないために幼い男の子に義経役を演じさせるのだと解説しています。最近では児童労働の問題がありますから、大人の男性が義経役をやることも容認されるように時代に合わせて変化しているそうです。

以上、義経がなぜ死ぬことになってしまったのかを、私なりに考えてみた、義経のためのレクイエムです。



平家滅亡

平清盛が急死した後の平家の人々はきっと相当に不安だったろうと思います。というのも、平家は確かに清盛一代で相当に栄誉栄華を極めましたが、結局のところ、清盛の能力でそれが保たれていたにすぎないということが、清盛の死後になって、日に日に明らかになっていったに違いないからです。たとえば、清盛は死の床に就いたとき、後白河に対して、自分の後継者の平宗盛と一緒に政治をしてほしいと連絡していますが、返信を得たわけではありません。後白河は既に、ポスト清盛の新しい秩序について構想を始めていたし、宗盛に連絡しないということは、新しい時代では平家は排除されるということがはっきりしていたと言うことができます。具体的には後白河は自分が院政をするためには平家なんかじゃまだったし、清盛のいない平家なんて、クリープのないコーヒーみたいなものだと高を括っていたわけです。後白河の読みは当たっていました。

木曽義仲が平家軍を倒して京都に接近した際、平家は安徳天皇も連れて一族で京都から西国へと脱出します。京都の内部での支持がなかったので、平家だけではとても現状を維持できないと見たのでしょうし、後白河が木曽義仲のような源氏系の武士を頼り始めていたことは明白で、平宗盛は木曽義仲との戦いの前に内大臣を辞任していますが、それも後白河に対する抗議だったのでしょう。それくらい平家は孤立していたのです。

一旦は西国へ下った平家一門ですが、これは却って彼らにとって幸福でした。京都では既に歓迎されない存在であった平家ですが、平清盛が広島の厳島神社を整備したり、日宋貿易に取り組んだりしていたおかげで、西国では平家シンパを頼りやすく、兵隊を集めることも難しくなかったため、平氏は自信も取り戻して軍勢を率いて福原あたり、今の神戸あたりまで回復運動に取り組むようになります。

この期間、京都では新たな政変が起きていました。後白河が平家の変わりに使えると思って招き入れた木曽義仲は、相当にがさつな人物で、政治のことも何にも分かっていなかったらしく、さっそくトラブルメーカーになります。部下たちも戦争に勝ったんだから何してもいいと思っていたらしく、京都では略奪が横行し、公家のお姫様も誘拐されるというケースが後を絶たなかったと言います。後白河としては平家の横行を阻止して安堵したのも束の間、平家以上に素行の悪い木曽義仲を入れてしまったことの後悔は大きく、やがて両者は決裂に至ります。その仕返しに義仲は後白河幽閉という手段に出ます。結果として彼は京都政界の支持を完全に失うに至ってしまいました。特に義経が既に東国から義仲勢力を伺い始めていましたから、後白河は早々に義経に乗り換えていました。木曽義仲は東に義経、西に平家、内側には後白河という3つの敵を抱え込むという絶体絶命の状態に陥り、戦死するに至ります。考えてみると、ちょっと世間知らずだったというだけで、戦死してしまうのですから、私は木曽義仲が気の毒にも思えてしまいます。義仲の代わりに京都へ入ったのは義経でした。義経と後白河の関係は良かったといいます。義経は京都のお寺で育っていますから、後白河の権威というものがどういうものかよく理解していたというか、頼朝の武士の棟梁としての権威よりも、後白河の権威の方がもっと凄いのだと考えていたふしもあって、まあ、それぞれ利用価値もあってうまくやれたということなのかも知れません。ここでいよいよ、日本史で最も人気のある男、義経の登場というわけです。

平家を追討する源氏軍は義経ばかりが目立っていますが、実は源氏軍の最高司令官は頼朝の異母弟であり、義経の異母兄である源範頼という人でした。義経は補佐役というか、別動隊指揮官くらいな感じで、ちょっと格下なんですね。ただ、義経の方が活躍しましたから、範頼の名前があんまり有名じゃないのも仕方がないかも知れません。

で、義経は神戸の西の山の方から平家軍の背後を襲うという有名な鵯越作戦をやって平家軍を敗走させ、一挙に名を馳せました。これが一の谷の戦いです。この戦いの後、義経は京都にとどまり、後白河から検非違使に任命されています。後で義経の命取りになった任官です。これについてはまた後日やります。で、範頼の方は鎌倉へ帰って行きました。翌年になって範頼は九州に進撃し、義経と連携して四国の屋島に陣取る平家軍を攻略する予定でしたが、範頼の進撃が思うように進まないため、義経は自分の手持ちの兵力だけで四国へわたります。そしてやはり、一の谷の時のように背後から屋島の平家軍に襲い掛かって敗走させます。平家もかわいそうですが、義経の背後から戦うというやり方は、武士が互いに名乗りあって一騎打ちするという当時の戦いの美学からは完全に外れていたため、抵抗も大きかったようです。義経は武士としての常識には乏しい人であったかも知れませんが、同時に常識にとらわれない結果主義の行動ができる人でもあったので、有能さと悲劇性の両方を持ち合わせていた人だったのだと言えるでしょうねえ。

平家は九州と本州の間の下関海峡で最期を迎えます。壇ノ浦の戦いです。私は下関海峡に行った時、どこが壇ノ浦なのかを特定しようと思ったのですが、しばらくぐるぐる歩いてみたものの、よく分かりませんでした。地図で確認してみたところ、山陽新幹線が通っているあたりが、下関海峡の中の壇ノ浦エリアという感じになっているみたいです。壇ノ浦の戦いはたった一日で終わったわけですが、潮の流れの関係から、午前中は平家有利で午後は源氏有利というのがはっきりわかっていたそうです。ですから、平家としては午前中に勝負を決めてしまいたかったはずです。とはいえ、源氏としては午前中は適当にやり過ごして、それこそ潮の流れに乗って逃げ、午後は追い上げて行けばいいという感じでしょうから、そもそも源氏が有利だったのだとも言えそうにも思えます。午後、平家の方も敗けそうだったら潮の流れに乗って逃走してもいいはずなのですが、背後では源範頼が退路を封鎖していました。平家は挟み撃ちに遭っていたわけです。

この壇ノ浦の戦いが、極めて悲劇性を帯びたできごとであったと記憶されているのは、いよいよ敗色濃厚になった平家の人々が源氏につかまる前に自ら海に飛び込んでいき、その中には女性も大勢いたし、更には幼少の安徳天皇も運命をともにしたということでしょう。『平家物語』では、いよいよ海に入るという時に、祖母の平時子から「波の下にも都がございます」と言われ、安徳天皇は運命を受け入れたとされていますが、私が同じ立場だったら、嘘つけこのやろう、適当にごまかして俺を道連れにするんじゃねえ。と頭にきたと思います。安徳天皇も頭に来たかも知れませんけれど、幼少ですから、抵抗できなかったのかも知れませんね。この時、天皇の正統な後継者のみが所有できる三種の神器も海に沈んでいて、三つのうち二つは源氏が回収しましたが、剣はそのまま沈んでしまいました。

源氏としては安徳天皇を生きたまま連れて帰りたかったに違いありません。当時既に後鳥羽天皇が京都で即位していましたが、そうは言っても天皇を死なせるのはまずいわけです。当時の源氏の武士ならば、目の前で平家の人々が海へ続々と入っていく姿を見たことがトラウマになったことは想像に難くありません。このような暗い記憶とともに、平家という日本史上稀に見る繁栄と滅亡を経験した人々の歴史は終わりました。義経はその記憶を抱えて鎌倉へと帰ろうとして果たせず、頼朝に追われて命を失うことになります。範頼もまた頼朝から謀反の疑いをかけられて不審な死を遂げています。やはり平家を追い詰めたことの反動みたいなものというか、それこそ呪われてしまったのかと思うほど、源氏の武将たちの将来は暗澹たるものでした。それはまた次回以降です。