皇民化映画『サヨンの鐘』を解説します

1943年公開の映画で『サヨンの鐘』というのがあるんですね。李香蘭主演の映画で、満州映画協会が制作したものなんです。監督が清水宏さんという方で、松竹の監督なんですね。よく調べてみると、満州映画協会と松竹と台湾総督府が共同で制作したことになってるみたいなんです。で、この映画は日本による台湾での皇民化を宣伝する映画で、サヨンという実在していた少女を李香蘭が演じているという映画なんです。

 そのサヨンという人がどういう人だったのかというと、台湾原住民の少女なんですが、自分が住んでいる地域の日本人の男性のところに召集令状が来て、その男性は、その地域の警察官兼学校の先生という職業の人だったらしいんですが、応召するために山を下りると言うので、荷物を地元の人が協力して運んだんですけど、サヨンさんが荷物を運んでいる時に足を滑らせて川に落ちてしまうという事故が起きてしまいます。で、そのまま彼女は帰らぬ人になってしまったということなんですが、彼女を愛国少女として大いに称賛する動きが出て来たんです。

最初に出てきたのが『サヨンの鐘』という歌なんですね。西条八十作詞、古賀政男作曲で、渡辺はま子という人が歌ったんですけど、これが結構、ヒットしたらしいんです。サヨンの鐘の鐘ってなんなんだってことになりますけど、事故が起きた地元にサヨンを讃える鐘が設置されてですね、その鐘の音を聴いてサヨンを思い出すみたいな感じになっていたんだろうなと思います。

 これが映画になったのが、最初に述べた1943年公開になった作品なんですけど、一般にはまず歌があって、次に映画ができたということ説明されることが多いんですが、実は歌が作られた後に、短編小説も書かれています。台湾在住の日本人作家がサヨンの鐘という短編小説を書いて、これを雑誌に載せてるんですね。これは私が最近発見したことなんで、論文に書いてもいいんですけど、気がはやいものですから、youtubeでしゃべっちゃおうと思ってしゃべってます。

 サヨンが先生に恋心を抱いていてどうこう、というような説明をされることもあるんですが、実際には先生に恋心を抱いていたというよりも、日本帝国への忠誠心が非常に強いというような印象を与える描写が多いですね。そっちの方が、まあ、当時の政治的にも重視されたのは間違いないと思いますし。それに、大正時代には自由恋愛とか流行しましたけど、昭和に入って全体主義が世の中を仕切るようになってきたので、日本男性が植民地の女性にモテるかどうかというのは、あまり気にしていなかったみたいですね。女にデレデレしているようなやつが戦争に勝てるかみたいなところがあって、日本男児は女性のことは忘れて戦場で死ねばいいのだ、みたいな空気はちょっと、いろいろ読んでると感じますね。まあ、それで慰安婦の人たちがいたわけですから、日本軍兵士がご清潔だったとは言いかねますけども、そうは言っても植民地の女性にデレデレされて喜ぶような馬鹿な感じは発揮されなかったわけですから、それはそれで良かったとも思います。

で、ですね、映画版の『サヨンの鐘』なんですが、映画の冒頭で李香蘭が同じ集落の小さい子供たちに、今日は何曜日だ?とか質問するんですね。要するに、日付とか曜日の概念を知っているのが近代文明人の重要なポイントで、それをもたらしたのは日本帝国だ、というようなことを暗に示そうとしているわけです。サヨンは決して単に、兵隊さんになる先生に憧れているとか、そういうキャラ設定じゃなくて、集落の若者同士で人間関係で悩んだりとかしていて、先生は指導者として若者に少しでも生きる希望を与えよう、悩みを解決してあげようという姿勢を示します。

サヨンの先生の恋心みたいな説明をしている人って本当に映画みたのかな…と疑問に思います。先生とサヨンのロマンスみたいなのは一切ないです。

で、サヨン役の李香蘭さんがですね、先生を見送るのに万歳とか叫んじゃうんですね。恋愛感情のような私的ものじゃなくて、先生が日本のために戦いに行くからかっこいいと思うわけです。日本帝国っていう大きな物語があって、彼女はそっちに心酔しているという設定になっているわけですね。先生は帝国のために戦いに行くし、それを見送っている自分も帝国の一部になったような気がして、そのことで心境が昂揚して万歳!と叫ぶんです。で、足を滑らせて川に落ちてしまうということなんですね。

実在したサヨンさんが、本心ではどんなことを考えていたかとかそういうのはわからないですから、飽くまでもサヨンさんを素材にしてですね、ある種のサヨン伝説みたいなものが築き上げられたというようなところに注目するとですね、ベネディクト・アンダーソンの想像の共同体っていう本ありますけど、あの本みたいにですね、人々が自分が国家の一部だと感じるためにどんな装置が作られたのかということの議論につなげることができると思うんですね。で、最近だったら、国家がどうこうというのはちょっと時代に合わないというか、今さら近代国家論じるのもださいぜとか思っちゃうんですけど、何らかの共同体とか、コミュニティで独自の伝説があって、人々がその伝説を大事に守っているみたいな現象はいろいろあると思いますから、そういうのを理解する理解する一環として、サヨンの伝説化がどんなものだったかというのを考えるのは価値があると思います。




李氏朝鮮と明治日本

キーワード
征韓論、脱亜論、日清戦争、閔妃、伊藤博文、日韓併合

デリケートな問題なので、結構、神経を使って話しましたが、韓国の人に敬意を払いつつ、話すよう努力しています。




明治天皇の肖像写真

明治天皇の肖像写真には幾つかのバージョンがあって、印象が非常に違うのですが、それはなぜかというようなことを話しています。「天皇」というデリケートな話題を今回はやっていますので、いつもより、やや多めに緊張しています。




封建社会の解体【日本史ラジオ71】大久保と西郷による大名騙しゲーム

版籍奉還、廃藩置県、秩禄処分まで、封建社会の支配階級がその特権を段階的に奪われていく状況を説明しています。武士たちは明治維新後に特権を奪われました。しかし、士族が日本の近代化を促進したことは事実と思いますので、そういった功績についても述べています。




土方歳三、死す

江戸城無血開城の後も、新政府軍は北上して戊辰戦争は継続されました。内戦ばかり続けている場合ではないはずですが、新政府軍としては、抵抗しそうな相手は武力で抑え込み、誰が真の勝利者なのかをはっきりさせておきたかったのだろうと思います。文字通り、勝てば官軍というわけです。

旧幕臣たちが集まって立ち上げた彰義隊の立てこもる上野を新政府軍が攻略した上野戦争では、長州藩の大村益次郎が、どういうわけか薩摩の兵隊がばんばん死にまくる作戦を立案し、戦いそのものは新政府軍の勝利に終わりましたが、その後、大村益次郎が暗殺されるという事態が起きていますので、おそらく彼は薩摩の人間に恨まれたんでしょうねえ。当時はみんな気が立っていますから、立ち居振る舞いがうまくいかないと、いろいろ大変な時代なんですね。きっと。

新政府軍は更に北へと移動していき、越後長岡藩との間で戦争になりましたが、まあ、もちろん、新政府軍の勝利で、長岡藩の知恵者である河井継之助がいったん占領されたところを取り返すという荒業も見せましたし、石原莞爾が陸軍大学の卒業論文で河井継之助の戦いのことを書いたそうですから、それは見事なものに違いなかったと思いますけれど、やっぱり一旦崩れちゃうと、挽回するのは難しいということだったのでしょうか。戦いに敗れた河井継之助は会津へ向かう途中で命を落としてしまいました。

当時、東北地方の諸藩は、新政府軍に対抗するための奥羽列藩同盟を結成し、河井継之助が目指した会津はその盟主としての役割を担いましたが、新政府軍は極めて激しい攻撃を会津城にしかけたことはつとに有名です。会津藩は藩主松平容保が幕府の命令で京都守護職を担当し、会津藩お預かりだった新選組が長州藩士を追い回したことなどの恨みを一身に受けていましたから、新政府軍は遠慮も容赦もなく会津を潰しかかったみたいです。この会津戦争の会津側の戦死者は三千人くらいだったらしいんですけど、会津藩士って三千人くらいだったらしいので、会津藩の侍たちはほぼ全滅だったということなのだろうと思います。もちろん、会津戦争は単に会津藩と新政府軍の戦いだったというわけではなく、奥羽列藩同盟と新政府軍との戦いでしたから、仙台や米沢あたりからも応援の兵隊は来ていたとは思いますけれど、主力は会津の兵隊だったでしょうから、ほぼ全滅というのはその過酷さは想像するにあまりあります。会津城が砲撃でぼろぼろになった写真も残っていますし、会津城周辺では戦死者の死体で溢れたそうですが、新政府軍は敢えて埋葬せず、より残酷な印象が残るように死体を故意に放置したという話もあるみたいです。長州藩のこの故意に残酷にやってしまう手法が後の日本陸軍に受け継がれたんじゃないかっていう指摘を読んだことがありますけれど、いずれにせよ、そんな風なことが連想されてしまうくらい酷かったらしいです。最近はどうかは知りませんけれど、以前は会津市民の人たちの萩市民への敵意は凄いもので、山口県の人と結婚しようとすると反対されるとか、市長同士でも握手の拒否があるとかという話は有名ですよね。

戦いに敗れても、新政府軍に降伏することを拒否したい人たちは北海道を目指しました。北海道の箱館には、榎本武揚率いる旧幕府海軍が占領し、共和国の建設を始めていたため、旧幕臣たちは、榎本のところに集まっていったそうです。彼らの箱館共和国では、政府総裁を投票で選んでいますから、東洋で最初の共和国であったと言っていいと思います。もっとも、彼らは徳川家の人物を北海道に呼んで、君主にしようという相談もしていたみたいですから、目指していたのは立憲君主制の国家、イギリスみたいな国にしたかったのかも知れません。箱館共和国には、幕府のために軍事顧問をしていたフランス人の軍人たちも参加していました。もう、明らかに仕事というより友情で彼らは結ばれていたと思っていいですよね。これは。

榎本たちは各国領事に国家を旗揚げしたことを宣言し、各国の領事たちは箱館共和国を交戦団体として承認しています。一応、勘違いしてはいけないので、ちょっと細かいことについて述べておきますと、国家として承認したわけではないんですね。交戦団体として承認したんです。国家として承認するかどうかは本国が決めることなので、現地の領事には権限がないんですけれど、内戦状態の土地の交戦団体として承認することは現地の領事にはできたわけです。箱館共和国を名乗る武装集団が日本の領域で正当な政府の支配を受けていない状態で存在することは、日本が内戦中の国であるということを国際法的に認めていることになるので、もしかすると、日本に安定されるより、不安定でいてくれた方がいろいろ都合がいいと思うような、不心得な外交官もいたかも知れません。まあ、考えすぎかもしれませんけれど。

このようにして榎本のところに集まった男たちの中に、新選組副長だった土方歳三がいました。土方は会津戦争にも参加していましたが、戦況が悪化して北上せざるを得なかったんですね。彼は榎本の政府で陸軍奉行並という職位を得て、要するに参謀総長みたいな立場で箱館共和国に参加したわけです。陸軍奉行並という職位は、陸軍奉行じゃないんだけれど、陸軍奉行と同じくらいの立場。という意味なので、だったら陸軍奉行にしてあげてと思わなくもないんですが、土方は伝統的な徳川家臣、いわゆる三河武士ではないので、ちょっと格下扱いされてしまったのでしょうか。

この土方歳三の北海道での戦いは、非常に見事であったと言われています。土方は彼らが陣取った五稜郭の近くに存在していた松前藩の城を陥落させ、江差エリアも占領しています。彼は故意に坂の上のあたりに陣取って、攻め寄せる敵は土方の部下たちによって狙い撃ちされて、とても坂を越せなかったそうですが、このような銃を使った用兵を見事にやってのけた土方は、おそらく、鳥羽伏見の戦いで、自分たちが加納鷲男みたいな伊東甲子太郎の残党に高いところから狙い撃ちにされた経験から学び、同じことを敵に対してやってみせたということではないかと思います。土方が健在な限り、箱館共和国は陸戦では無敵であるかのように見えましたし、実際、箱館での土方は負け知らずでした。それでも、海軍戦力で言うと、土方を援護するために出撃した虎の子の軍艦開陽丸が座礁して沈没するという痛恨のミスもあって、だんだん箱館共和国は次第に追い詰められていきました。幕府が注文した軍艦を新政府軍が受け取って使用したりとかしていたそうなので、もはや孤立無援の箱館共和国はあまり大きな希望のある将来は期待できなかったのかも知れません。

土方歳三の写真は一枚だけ存在しています。いよいよ新政府軍による五稜郭総攻撃が行われるという直前に撮影したと考えられるもので、彼は若い部下に写真を持たせて五稜郭を脱出させています。その部下が東京の日野の土方の家族に写真を届けたため、今もその写真を我々は見ることができるというわけです。土方は京都でそれは女性にモテたそうですけど、確かにかっこいい顔立ちだと思います。現代でも通用する美男子だと言っていいのではないでしょうか。土方は新政府軍の戦いの最中、銃撃を受けて戦死しているところを発見されました。そのような状態であったため、果たして誰の攻撃によって死んだのか、どんな風に倒れたのかといったことは全く分かってはいません。映画やドラマでも土方の最期の描き方には統一感がなく、はっきり言ってばらばらなのですが、そんな風になってしまうのも、土方の最期を目撃した人がいなかったからだと言っていいと思います。気づいた時には土方は倒れていたわけです。

戊辰戦争の最後の戦場になった箱館に土方のような男がいたことについて、私はわりと感動してしまいます。徳川慶喜も新選組の働きは認めていたように、幕末でぱっとしない幕府軍関係者の中で、新選組は群を抜いていたというか、新選組だけがんばっていた感じがあるので、その新選組を実務面で引っ張ていた土方歳三が途中で逃げたり諦めたり捕まったりせず、ちゃんと戦い抜いてくれたと思うと、むねあつになっちゃうんですね。絵になるというか、伝説になる戦い方をしてくれたというか、まあ、簡単に憧れてしまいます。司馬遼太郎さんの『燃えよ剣』で描かれる土方が戦死する前夜の感じとか、ちょっと泣けちゃうんですよ。

個人的に箱館に行ったときに、土方の倒れていた場所にも訪れてみました。土方の写真のコピーが置かれていて、ちゃんとここで倒れていましたよと分かるようになっているんですけど、文字通り聖地巡礼みたいな感じでしみじみと眺めてしまいましたね。土方がしっかり戦ってくれたので、新政府軍の側も遠慮なく戦争に没頭することができたので、明治はすっかり江戸時代のことを振り切ってなりふり構わぬ近代化に突き進むことができたのかも知れません。

いよいよ明治です。



慶喜助命運動‐フリーメイソン人脈を頼って亡命も視野に

徳川慶喜は1867年の秋に大政奉還をしたわけなのですが、薩長両軍はそれでも慶喜に対する追及の手を緩めず、遂に武力による京都御所の占領という手段に訴え、事態を戦争に持ち込もうとします。慶喜は近代化が進んだ幕府軍が実は張子の虎だと気付いていたため、武力衝突を慎重に避けましたが、同時に、時間が経てば薩長政権は空中分解し、朝廷は自分を頼ってくるであろうことにも確信を持っていたはずで、そういうことであるから、とにかく武力衝突さえしなければいいのだとの戦略のもと、幕府軍を引き連れて京都を離れ、大坂城に入ります。これは戦略的撤退であったはずですが、実際には慶喜が再び京都に入ることはありませんでした。この判断は小手先の効果は期待できましたが、大局的には政局に対するイニシアチブを発揮できなくなるという大きなデメリットを伴うものであり、政治家としての徳川慶喜はこの段階で自分で運命をコントロールできない立場になってしまうことになりました。

慶喜は忍の一字で事態が好転するのを待ちましたが、江戸における薩摩藩邸関係者の治安攪乱運動がおかしな感じで功を奏し、江戸では薩摩藩邸焼き討ちにまで事態が発展してしまい、ことの次第を知った大坂城の徳川将兵たちはいきりたち、慶喜は将兵たちを抑えきることができず、遂に将兵に出撃を許し、事態は鳥羽伏見の戦いに発展します。徳川軍は大坂から京都へ鳥羽街道と伏見街道の二手に別れて進軍し、途中、薩長軍に阻まれ、通せ通さないの押し問答があって、そのまま流れで戦闘状態に入っていきます。この戦いで徳川軍はほぼ完全な敗北を喫したのですが、やはり大きな理由としては充分に考え抜いた戦略や作戦があったわけではなく、感情に任せて漠然と京都まで行こうということしか頭の中になく、実際の戦闘になったときに何をどうしていいのか分からないという部隊があまりにも多かったということを、彼らの敗因として挙げることができるでしょう。要するに深い考えもなければ、必ず成し遂げるする覚悟もなく、やってみて難しいから逃げかえるという体たらくを世界中に露呈してしまったのでした。対する薩長軍はここで敗ければ死ぬ以外に選択肢はないとの覚悟だけは決まっており、碌な戦略はなかったと思いますけれど、その覚悟の点で徳川軍を圧倒することができたと考えていいと思います。勝海舟の回想によれば、薩長軍は防衛ラインが一本しかなく、後詰の予備兵力もなかったため、徳川軍がどこか一か所でも突破していれば、簡単に瓦解していた可能性があったのですが、そのようなことは全然起きませんでした。私個人の想像を交えるとすれば、徳川軍は優勢な兵力に安堵してしまっていて、誰もが自分だけは安全なところに居たいと考えるようになっており、全員が無責任なまま敗れて行ったのだという気がしてなりません。無責任とは本当に恐ろしいものです。徳川軍は近代化された陸軍連隊を投入していましたが、彼ら陸軍連隊は長州征伐戦争では、ほとんど何も仕事をしておらず、鳥羽伏見の戦いでも同様にほとんど何も仕事をしていなかったそうです。新選組だけが極めて勇猛果敢に事態に立ち向かい、他の部隊に比べて極端に多い戦死者を出しています。鳥羽伏見の戦いでは、薩長軍が自らを天皇の軍隊であるということを宣言する目的で錦の御旗を担ぎ出し、それで徳川将兵が腰砕けになったと説明されることがありますが、私はそれは徳川将兵の言い訳のように聞こえてしまってなりません。そもそも、当時、錦の御旗をそれ以前に見たことがある人はいませんでしたから、薩長が錦の御旗を引っ張り出してきても、果たしてそれがなんなのか、きちんと認識され得たのかどうか、私は怪しいものだと思っています。錦の御旗については、この鳥羽伏見の戦い以前に使用された例は後醍醐天皇と足利尊氏の時代にまで遡らなくてはならないそうで、それも太平記にそういうのがあったと書かれているだけで、誰もそれを見たことはやはりなかったのです。ですから徳川将兵が後の時代になって「だって、錦の御旗に逆らうことなんてできないじゃないか」と言い訳の材料としてそれを使ったに違いないと思えてしまうのです。

慶喜の大坂城脱出についても、同じような説明ができるのではないでしょうか。敗走して帰ってきた徳川将兵たちに対し、慶喜はみんな明日もまたがんばろうというような感じの訓示を述べ、その夜のうちに側近とお気に入りの女性たちだけを連れて軍艦で江戸へ脱走します。この慶喜の行動について、慶喜は水戸徳川家の尊王思想的教育を受けて育ったので、錦の御旗の話を聞いて戦意を喪失したとの説明があると思いますけれど、私は違うと思います。慶喜は素晴らしい頭脳を使って自分の保身しか考えていない人でしたから、徳川将兵たちに対して「どうしても、京都まで行きたいというから、許可してやったのに、自分たちより遥かに少ない敵軍に圧倒されて敗走して来たわけだから、お前たちのために俺が命を張る義理はないし、明日から頑張ってもお前たちに勝てるわけないし、このまま大坂城に残って俺が指揮官だということになったら、後で切腹させられるかも知れないし、繰り返すけど、お前たちのために切腹する義理なんかない」と思っていたに違いないのです。そして、脱走を決心した時、錦の御旗が出てきたからというのは良い言い訳にできるとも、その優れた頭脳で考えついたに違いありません。慶喜は、感情で動いてしまって少数の敵にやられてしまう無能な徳川将兵たちを愛していなかったでしょうし、そんなやつらのことはどうでもいいから、見捨てても心が痛まないとの、ある意味非常に適切な判断をして大坂城を脱出したのだと思います。勝てる見込みのない無責任な将兵たちに自分の運命を委ねるより、自分の命が助かるために自己の判断で行動した慶喜の判断は正しかったと言えると思います。彼は兵隊たちを見捨てたという意味で、司令官としては失格でしたが、実際に自分の命は助かったわけですから、九死に一生を得たナイスプレーであったと言えると思います。

これから先、薩長軍のことを新政府軍と呼ぶことにしたいと思いますけれども、西郷吉之助は新政府軍を率いて江戸を目指します。西郷は慶喜を殺す気まんまんだったのですが、西郷の意図を阻む様々な策略が発動されました。まず、慶喜の完全無抵抗な姿勢です。慶喜は朝廷に書いた手紙で謝罪し、抵抗しませんから攻めて来ないでくださいとのお願いもしています。そして本人は上野の寛永寺に引きこもって謹慎の姿勢を貫きました。西郷はこの慶喜の非暴力無抵抗主義を無視することにしました。飽くまでも慶喜を天皇に対する謀反人ということにして、切腹させるか斬首にするかはともかく、殺す気で江戸へと進んだのです。

次に西郷の前に現れたのは、幕臣の山岡鉄舟です。山岡鉄舟は勝海舟に頼まれて、西郷と勝の下交渉のために進撃中の西郷を訪問したのです。ここで西郷は慶喜を他家にお預けにするとの案を示しましたが、山岡鉄舟はそれだけはどうかご容赦くださいと頼み込んだそうです。というのも、武士が他家にお預けになった場合、ほとぼりが冷めたころに切腹させられるというのがわりとよくあることだったらしく、どう考えても慶喜の他家お預かりは切腹のための下準備だとしか思えなかったからなんですね。ドラマなどでは山岡鉄舟の懇願に西郷がほだされたり、その後の勝海舟との会談で、西郷が説得されたりしていますが、実際には、西郷は山岡鉄舟の懇願を一蹴し、慶喜を殺す決意を全く揺るがすことなく、江戸へと進撃を続けたそうです。

西郷の決心をぐらつかせたのは、イギリス公使パークスだったそうです。イギリスは薩英戦争以来、薩摩とは友好関係を樹立しており、イギリス公使のパークスは、国際世論を味方につけたい新政府としても心強い相談相手みたいな感じだったと思うのですが、そのパークスが西郷の陣を訪問し、慶喜を殺すことは国際法に違反すると通告したというのです。国際法では戦闘意欲を喪失した敵を殺してはならないということになっているため、恭順の意を示して謹慎している慶喜を殺すことはできないし、そんなことをしたらイギリスは新政府を支持しないし、他の諸国もそうするだろうと、通告したというか、西郷を脅したんですね。西郷はここで決心をにぶらせてしまったようです。

さて、総仕上げは勝海舟です。勝は江戸の三田にあった薩摩藩邸に入った西郷隆盛を訪問します。この時、おそらく西郷はすでに慶喜を殺すことを諦めており、両者の話し合いは穏やかなものだったと言います。なにしろ、勝海舟が慶喜の命の代わりに持ってきたお土産が素晴らしいわけですね。徳川軍は完全に無抵抗で江戸城を明け渡すというわけです。そしてもし、この申し出を西郷が断った場合は、江戸を火の海にして徹底抗戦するというわけですから、西郷にとっては楽に江戸城を手に入れられる絶好のチャンスでもあったわけで、これで慶喜助命問題は決着しました。勝は三田の山に位置した薩摩藩邸から見える江戸の街を指さして、こんなに素晴らしい場所を戦火から救わなくてはならないと西郷を説得したそうですが、このエピソードは西郷を脅した話なんだと理解するのがいいと思います。もし慶喜を殺したら、江戸を火の海にして抵抗する。その結果生じる如何なる不都合も責任は西郷にあると勝は言っていたわけですね。

勝海舟の回想によると、それでも西郷が慶喜を殺すことにこだわった場合は慶喜をイギリスに亡命させることでパークスと話がついていたそうです。私、思うんですけど、慶喜は側近の西周の紹介でフリーメイソンのメンバーになっていたんじゃないかと思うんですが、パークスもフリーメイソンのメンバーで、勝海舟もやっぱりフリーメイソンのメンバーだったんじゃないかという気がするんです。で、一連のできごとはフリーメイソンの互助的な機能が功を奏したんじゃないかなと思えなくもないんですね。まあ、ここは想像です。でも、そんな風に考えるといろいろ辻褄が合うように思えるんですよね。

このようにして、慶喜は徳川家康以来受け継がれてきた徳川家の全ての遺産と引き換えに助かることに成功しました。慶喜は水戸で謹慎し、その後は静岡で引退生活を送り、晩年は明治天皇と会見して名誉回復して公爵として都内で暮らし、20世紀まで生きました。私は慶喜のこのような開き直った生き方が嫌いじゃありません。歴代将軍の中で最も長寿な人であったそうです。

これで慶喜は完全に歴史の表舞台からは消え去り、政治とも無関係になります。また、徳川復権の可能性が全くなくなった以上、新政府が日本を代表する唯一の政府になったはずなのですが、それでも新政府軍はいけにえを求めて北上していきました。それはまた次回以降にやりたいと思います。