日本の都道府県はすべて県に統一されていないのはなぜでしょうか?

県の語源は中国の郡県制という行政システムだと思いますが、県を置く場合には、中央の命令に従う行政組織が存在することが前提になったのではないかと思います。廃藩置県の際、藩があった地域であれば、藩主を県令・県知事に任命して体裁を整えることができたと思いますが、東京・大阪・京都のような首都級の主要都市には藩主がおらず、当面は中央直轄で行くしかなく、しかも、当時はまだ東京・大阪・京都が並立した状態であり優劣をつけることができなかったため、その3都市は府にしたのだと思います。北海道の場合も、松前藩主を県令・県知事に任命するのではなく、広大な土地を直轄にしたかったため、県という名称が相応しいと考えられず、府にするわけにもいきませんから、道にしてみようかということになったのではないかと思います。沖縄県の場合、明治天皇が琉球王を藩王に封じる手続きが採られていますから、中央に従う行政システムが存在するということで県になったのではないかと思います。ではいつ東京府が東京都になったのかというと、戦争中に東京府と東京市の二重行政を解消することで行政にかかる費用を削減しようという話になり実現したものです。この時に「都」という名称を採用したことについては、想像になりますけれども、廃藩置県のころは東京と京都のどちらが優位なのかということは薩長藩閥には判断のつかないところがあったものの、昭和初期の東大を卒業した官僚たちの意識として東京が日本の中心であることに疑問がなくなっており、「都」という分かりやすい名称を選ぶことにためらいがなかったのではないかと思います。思いますばかりですみません。



地中海世界を襲った謎の民族である「海の民」はどんな民族であったと考えていますか?

ギリシャ人の原型だと思います。海の民の来襲はゲルマン民族の大移動のようなもので、それ以前にギリシャに住んでいた人たちは殺されたか追いやられるかしていなくなり、住み着いた海の民が暗黒時代を経て文化的に発展しスパルタやアテネを建設したのではないかと私は想像しています。ホメロスが記述したトロイ戦争も、実は海の民の侵略戦争の一部であり、彼らがギリシャ地方を抑えた後に小アジアへと侵略エリアを広げたということが実際だったのではないかと思ったりもします。古代ギリシャの植民都市が東地中海各地に点在したことも、一度は世界を制覇したかに見えた海の民が衰退し、それでも拠点を残したのがギリシャ人の植民都市であると説明することも不可能ではなさそうにも思えます。



「長い18世紀」とはどのような時代だったのでしょうか?

17世紀の終わりごろ、イギリスで革命的王朝交代があり、これが名誉革命と呼ばれます。あの国は何百年もかけて革命していたようなところがあるわけですが、国王の権利を議会へと移譲していくという流れの中で、大きな節目になったのが名誉革命なわけですね。

で、19世紀のはじめごろ、ナポレオンの失脚があり、長いフランスの革命と大動乱が一旦落ち着きます。

このように、18世紀のちょっと前の時期からちょっと後の時期までの100数十年を長い18世紀と呼び、その期間の特徴としては、

①イギリスが立憲主義国家になった。(名誉革命の後、権利章典が採用され、イギリスは不文憲法の国王は君臨すれども統治せずの国へと変貌していった)

②そのイギリスが国力をつけ、フランスに対抗するようになっていった。

③今度はフランスで大革命が起きた。

④最終的にナポレオンが失脚し、先に革命に成功していたイギリスが勝利した。

という流れになりますから、西欧でのパラダイムシフトが起きた時代であると言えると思います。19世紀は近代の始まりという非常に特殊な時代でしたが、近代の重要な要素の一つである民主主義を育んだ長い18世紀はその準備期間であったと言えるのではないかと思います。



あなたの思う、世界史で一番面白い時代はいつですか?

18世紀の終わりごろから19世紀の初期あたりは近代の始まりであり、現代に生きる我々の生活や価値観と直接つながってきますので、大変に興味深いと思います。1776年、アメリカ合衆国が独立しますが、この時、フランスのブルボン王朝はイギリスに対する嫌がらせのためにアメリカに肩入れしていたわけですね。で、そのブルボン王朝は無謀な戦争をやり続けたおかげで財政破綻し、1789年にフランス革命が起き、ルイ16世とマリーアントワネットが断頭台に消えるというショッキングな事件も起きましたが、これが立憲主義・三権分立・共和制などの近代国家誕生の礎にもなったわけです。フランスはその後、独裁政権が生まれたり王政復古したり紆余曲折しますが、その紆余曲折そのものが近代的政体を模索する正解なき旅路みたいなところもあったわけです。で、その後、ナポレオンの時代が来ますけれども、ナポレオンが最も大きな影響を世界史に与えたできごとは神聖ローマ帝国の解体であったのではないかと私は思います。当時既に形骸化の感の強い神聖ローマ帝国ではありましたが、中世的なローマ教皇と神聖ローマ皇帝の二重権力によるヨーロッパ秩序の維持・支配というものが、完全に終わったことをナポレオンは分かりやすく世の中に示したわけですね。そのインパクトは強く、ベートーベンは『英雄』をコンポーズするくらいに新時代にかぶれることになりましたし、フィヒテは危機感を抱いて演説して歩くことにもなったわけです。ヘーゲルのような哲学者は、なぜナポレオンという、これまでとは全く違ったタイプの政治家・支配者がこの世に登場したのかという疑問を説明する必要を感じて歴史哲学を発展させていくことになります。つまりナポレオンはフランス人で、フランスを変えたはずですが、実はドイツ語圏に多大な影響を与えたわけですね。ナポレオンは同じことをロシアでやろうとして自滅していくことにもなっていきました。私はアドルフヒトラーが同時代のドイツ人に強く支持された理由の一つとして、彼らの記憶の奥深くにナポレオンが生き続け、語り継がれたからではないかという気がしてなりません。歴史には時々英雄が生まれ、歴史そのものを次の段階へ強引に移行させることがある。前回はナポレオンだった。そして今回はアドルフヒトラーなのだと彼らは錯覚してしまったのではないかという気がするのです(アドルフヒトラーの登場は、「面白い」ことでは全くありませんが、考察し続けなければならないという考えから言及しました)。吉田松陰も影響を受け、日本からナポレオンが生まれることを求めました。清朝でも梁啓超が中国人のナポレオンが生まれなくてはならないと主張する文章を書いています。

というような感じで、大変に興味が尽きません。



中世ヨーロッパの封建的主従関係について 国王は有力諸侯と主従関係になりますよね。→家臣 その有力諸侯もより小さい貴族と主従関係になりますよね。→家臣の家臣 この家臣の序列はどれくらいまであるんですか?

ローマ教皇→神聖ローマ皇帝(ローマ教皇から行政権を委任されていることになってはいるが、どっちが偉いかは相当揉めた)、その他フランス国王などはローマ教皇から権力を認証されたことを理由に支配している(王権神授説)→国王に臣従する貴族たち(公爵とか伯爵みたいなやつ。英国王はフランス国王に臣従するフランス貴族であるにもかかわらず、英国王としてフランス王と対等という意味不明な立場だった時代が続き、英国王はそれを理由にフランス侵略。100年戦争に発展し、ジャンヌダルクが現れる)→貴族に臣従する騎士たち(小領主。伯爵とか公爵みたいな大領主によって自分の領地を認めてもらっている)→従者(騎士に従い、戦場までついて行き、身の回りの世話などをする。推察するに領地が小さく従者を雇えない騎士は一人で戦場へ行ったと思われ。古代スパルタでは戦死1人につき、5人か7人かくらいの従者が居たそうな)

くらいじゃないですかね。神聖ローマ帝国の場合、教皇とタイマンして負けを認めたカノッサ屈辱があったり、選帝侯がいたり、ウエストファリア条約で領地が分裂したりして、ちょっと違った構造とになると思いますが、知識を整理した方がいいんですけど、今ちょっと帰宅したばかりで疲れているので、ご勘弁ください。すみません。

中世は1000年続きましたし、ヨーロッパも広いですから、スペイン国王とか、ロシア皇帝とか、それぞれ事情が違えば細部も異なるとは思います。



明・清時代の漢民族と満州族の文化、社会、政府の大きな違いにはどのようなものがあったのでしょうか?

ほんの部分的な話題しかできずに恐縮なのですが、清王朝の場合、官僚制度は満州族の貴人と科挙に合格した漢民族の地方出身者の二重構造になっており、やはり漢民族の方が出世するための苦労が多いものですから、満人は恨まれやすく、康有為のように一方に於いて科挙に合格したことを大いに自慢しつつ、一方に於いて光緒帝をうまく使い、憲法を導入して満人中心社会の終焉を狙うようなトリッキーな人物も出てくるわけです。彼のしたことは清皇室を維持しつつも清王朝の無力化を狙うものであるため、科挙に合格した官僚の身分としては自己矛盾をきたすのですが、ルサンチマンの塊になってしまっているので、光緒帝の命を危険にさらすところまで突き進むわけですね。一方のもうちょっと古い明王朝の場合、漢民族の王朝ですから、官僚制度に上に述べたような複雑な構造を抱える必要はなかったわけですね。ですが、最終的には社会矛盾みたいなことが原因で滅亡していきます。案外、清王朝の方が、自分たちは少数民族だという自覚が強いため、民衆を慰撫する努力をしたのかも知れません。

今書きつつ、「皇帝の末路」という言葉が思い浮かんだのですが、最も特異な人生を歩んだのは清朝の最後の皇帝の溥儀だと思いますけれど、明の最後の皇帝の崇禎帝は李自成に包囲される中、家族をほぼ皆殺しにして自殺してますから、その悲惨さという点では明の方が凄まじい最期を迎えたと言えると思います。



少なく無い数の日本人が致命的ではない失敗に対して、非寛容的な態度になりがちなのは、何故ですか?

村八分の文化の名残だと思います。たとえば武士は失敗すると切腹することで過ちをチャラにしてもらい名誉を維持されるということになっていたわけですが、江戸時代、東海道中膝栗毛でも分かるように、町民たちは道徳倫理のために命まで差し出すつもりはなく、弥次喜多の無茶し放題を爆笑しつつ共感するようなメンタリティを持っていたわけですね。つまり江戸時代は武士・町人・農村で価値観や行動規範がばらばらだったと言えると思います。

ところが明治に入り、徴兵制度が始まると、全員にあたかも武士であるかのような厳しい倫理観を持つことが求められるようになっていきます。ですが大半が農村出身者ですから、士道に背いているとみなされると農村的感性で村八分にしてしまう。たとえば捕虜になって帰ってきた人は帰還兵として遇してもらえなかったりするわけです。戦後の援護の手続きをするために役所に行くと露骨に後回しにされ、抗議すると、だってあなたは捕虜だったじゃないかと言われてしまったりしたそうです。

で、戦後になると徴兵もないですし、農村も少なくなって、みんな都市部でモダンな生活を送っているはずなんですが、規範から逸脱すると村八分という感性は21世紀になっても根強く残っており、SNSが発達したために、逸脱した人物がいると国民を挙げて村八分にするという現象に至ったのだと思います。



幸若舞継承者の子孫のお稽古場を訪問させていただいたら、日本史への理解がぐっと深まる経験になった。

評論家活動をしている友人が都内某所の日本舞踊教室へ行くというので、一緒に伺わせていただくことになった。その友人は仕事の一環としてそちらへよく行くそうなのだが、私は完全に役に立たない立場でただの見学者でしかなく、本当に一緒に行っていいのかやや不安だったが、せっかくなので行かせていただくことにした。そしてそれは非常に貴重な経験になった。

幸若舞のお師匠の先生の名前は幸若知加子先生とおっしゃるお方で、その名の通り、歴史ある幸若舞継承者の子孫の方なのだが、普段は若柳恵華先生というお名前でご活躍されているのだという。で、どうしてお名前が2つあるのかという疑問にぶち当たるのだが、まずはその理由を説明するところから、由緒ある幸若舞と日本の歴史の深い関係について述べてみたい。この記事は先生からたくさんの聞かせていただいたお話を基礎として私なりの解釈を加えたものになるため、もし間違っていて、関係される方からご指摘を受ければ内容は訂正したいと思う。

先生にどうして2つお名前があるのかということなのだが、幸若舞はかつて江戸幕府の音曲役として支援を受けて発展していたものの、明治維新になると支援が受けられなくなり、おそらくは新政府から迫害される恐れもあったため、幸若舞の看板は一旦下ろし、表向きは普通の日本舞踊のお師匠様として活躍しつつ、信用できる人たちの間だけで密かに幸若舞が継承されることになったということなのだった。まさに秘伝の舞である。なので先生にも表のお名前と幸若舞の正当な継承者としてのお名前の2つがあるというわけだ。

ここで疑問に思うのは、なぜ江戸幕府が幸若舞を支援していたのかということなのだが、それが、徳川家康の父親が幸若舞の担い手だったというのである。徳川家康の父親といえば松平広忠だが、この人物が幸若舞を担い、家康の腹違いの兄弟が継承していったと言う。つまり徳川将軍家と幸若舞の家元のお師匠様は親戚筋ということになり、幕府の支援・保護を受けていたとしても納得できることではあるのだ。ここで、私はふと、あるところで「徳川家康は源氏の子孫ではなく、家康の実家の松平氏はそもそも猿楽師をしていた」という話を聞いたのを思い出した。もしその人が幸若舞のことをあまりよく知らず、「猿楽のようなもの」という認識だったのだとすれば、幸若知加子先生からおうかがいしたお話と、以前、私がよそで聞いたことのある話は一致する。

長々と沿革を書いてしまっているが、ここからさらに幸若舞の本質に踏み込んでみたい。幸若舞とは天皇家とも関係の深い陰陽道の思想を継承する舞であり、能の源流であり、もしかすると雅楽とも関係のある実に古い踊りであって、北極星・北斗七星をメタファーにした足の動きをするのが特徴で、独特の摺り足をしたりドンと舞台を踏んだりするとのことで、それはお相撲のしこにも通じるものがあるのだということだった。日本で最初にお相撲をとったのは野見宿禰であると日本書紀に書かれているが、であるとすると、幸若舞は日本書紀以前の時代にまでそのルーツを遡って求めることができるということになる。摺り足は空手のような日本武術の基本的な動きであり、時代劇でもうまい人はきちんと摺り足を使って殺陣をするのだから、私はそのとき、日本の伝統芸術の基本中の基本の足の動きを宗家のお師匠様に教えていただいているということになっていたのである。源氏物語からアダプテーションした『葵上』という能の演目では、六条御息所が生霊となって現われて舞台をドンと踏み込んで音を響かせるが、これも源流は同じであろう。北極星は道教で天皇大帝とも呼ぶので、日本の天皇という称号の源流である可能性が極めて高いと思うのだが、それを表現する足の動きを幸若舞が継承しているのだとすれば、ここは完全に私の推測になるのだが、幸若舞は天皇家のための呪術を担っていた可能性が高いのではないだろうかと思えた。陰陽道は遅くとも天武・持統の時代には確立されていたため、幸若舞は飛鳥時代にまで遡ることができるということなのだ。

さて、私の脳裏に、陰陽道と関わりがあり、かつ徳川家康とも関わりのある人物の名前が頭にふと浮かんだ。織田信長である。信長は本能寺で自害する前に「敦盛」を舞ったことで知られていて、これは当時、本能寺から生き延びた女性たちの証言が残っているため、まず間違いなく「敦盛」を舞ったに違いないのだが、この「敦盛」は幸若舞なのだという。で、故竹内睦泰氏が語ったところによると織田氏は忌部氏の子孫であり、忌部氏とは中臣氏などとともに朝廷の祭祀を担当した家柄であるため、当然、陰陽道とも関わりがあることになる。だとすれば、織田信長は忌部氏の子孫であり、陰陽道に関する知識も豊富であったということになり、陰陽道の精神を継承する幸若舞とも深くつながっていたのだから、人生の最期に幸若舞のレパートリーである「敦盛」を舞ったということは納得できるのだ。信長と家康は今川義元を殺した後で清州同盟を結ぶことになるのだが、そもそも信長が忌部氏から続く陰陽道の継承者で、松平氏が幸若舞の継承者であったとすれば、今川義元がいなくなった後の時代の東海地方で両者が同盟を結ぶのはごく自然なことであるとも言えるだろう。私の完全な妄想だが、もしかすると信長と家康は幸若舞の人脈を通じて以前から密かに連絡を取り合って居り、桶狭間の戦いで今川義元が殺されたのも、今川の武将として戦いに参加していた家康が信長に協力していたからではなかろうか…などと私は妄想してしまった。だとすると幸若舞はギルドのネットワークみたいな感じで影響力を持っていたかも知れないのである。

以上までに述べたことが全て本当だと仮定した場合、これまでとは日本史に関して見えてくる景色が違ってくる。日本史に関わる理解もいろいろと変更されなくてはならなくなるかも知れない。実際、長い日本の歴史を通じて構築された複雑な人間関係・血脈・宗教的つながり、芸術的つながりなど、複数のルートで人はつながっていて、教科書に書かれている歴史はそのほんの上澄みをなぞっているに過ぎないに違いなく、いろいろと探れば関係者だけが密かに継承している歴史・事象・伝承などがたくさんあるに違いないと私は思ったのだった。

幸若知加子先生は、東京コレクションで「敦盛」を舞った時の動画を見せてくださったのだが、その時の先生が謳った「人生五十年」は軽やかな歌声でありながら、少し物悲しい、うまく表現できないが小さな女の子が「通りゃんせ」を歌っているような印象のものだった。数多のドラマや映画で信長が敦盛を舞うシーンが入れ込まれて来たが、どれも気合の入った野太い声の「敦盛」が多く、幸若知加子先生の動画の歌声とは全然印象が違う。人生の最期にあの信長が舞ったのだから、より迫力が出るように演出に力が入ったのだとは思うが、信長の肖像画を見れば、かなり繊細な性格であったことが想像できる。実際には幸若知加子先生の舞のように、もっと軽やかで、悲しげで、品性を感じる舞いだったのかも知れない。



国家というのは結局のところ国籍を持つ国民のためのシステムであって、税金を対価に様々なサービスを得られるという程度のものでしかないように思えるのですが、どうお考えになりますか?

近代国家は憲法に基づいて運営されるわけですが、その憲法には理念や価値観が書き込まれているわけですね。それはフランスの自由平等博愛であったり、アメリカの王権に対する抵抗であったり、中華民国の民族主義であったり、明治日本の天皇であったり、現代日本の平和主義であったり、いろいろあるわけですけど、国民はその理念を共有し、国家が理念通りに仕事をしているかどうかを監視していくことになるという体裁になっているわけです。そのように考えると、公共サービスを評価する際も、憲法の理念に適っているのかどうかが重要であるため、たとえば日本であれば、とある公共サービスは基本的人権の保障に適うのかどうかが議論されなくてはならないみたいなことになってきますし、そういう理念・価値観がなければいかなる公共サービスも、それがいいサービスなのかどうなのかについて評価する基準を失ってしまいます。また、公共サービスを維持するためには税金払うどころか兵隊にもならなくてはいけないような国もあるわけですね。

以上のようなわけですので、国家は税金を対価として公共サービスを提供する程度のシステムなのではなく、何が良い公共サービスなのかを決める、理念・価値観を統制するシステムであり、システムの維持のためには時には流血を求めることもあるほどに厳格なシステムであるということが言えるかなと思います。

尚、最近はGAFAMのように国家をも凌駕する企業が登場してきましたから、今後、しばらくの間は、価値観を決めるのは誰なのか、それは国家なのかgoogle様なのか、のようなせめぎ合いが続くのではないかと思います。



日本古代においていつ頃から太陽神信仰が中心になったのでしょうか?高松塚古墳とかキトラ古墳とかの壁画を見る限り、中国影響下なのか北極星信仰が優勢だったのかと素人的には思ってしまうのですが。

道教では北極星のことを天皇星と呼びますので天皇という呼称はまず間違いなく道教に由来していると考えて良いと思いますし、天皇という称号を最初に使用した天武天皇は天皇星が星空を支配するが如くに自身がヤマトを支配するようなイメージを持っていたものと思います。とはいえ太陽神であるアマテラスを祀る伊勢神宮を天皇家の氏神みたいな位置づけにしたのもやはり天武天皇なわけですね。

彼は仏教僧としての一面も持っており陰陽道にも通じていました。また聖徳太子を神がかった伝説的な人物として記述されることになったのも彼の意思であり聖徳太子が馬小屋で生まれたとかみたいな話になっている辺りはまず間違いなくイエスのイメージからヒントを得ていると思いますので天武天皇はキリスト教に関する知識も持っていたと私は思います。

つらつら考えるに、天武天皇がそれ以前の素朴なアニミズムを淘汰し北極星信仰と太陽信仰+聖徳太子のような超人信仰の合わせ技を使ったということではないかと思います。

非常にプロパガンダに長けた人物であったに違いありません。