少し前のことになるが、甲府で三泊ほど旅行をした。国内旅行で、しかも沖縄や京都のような国際的な観光地ならともかく、そこまで観光地としての印象が強いわけではない甲府で三泊はややや大げさに思われるかも知れない。だが、じっくり甲府の街を歩くことで武田信玄の人物像の一面について、それも戦国史理解に深く関わるであろう一面について気づくことができたので、ここに書き記しておきたい。やはり現地を歩くというのは非常に重要な経験をもたらしてくれるものなのだ。
武田信玄に関わる大きな謎として、彼がいつ天下取りを目指すようになったのかというのがある。彼は最晩年になって大軍を率いて上洛を目指して動き出した。その時、京都の支配者は織田信長で、武田信玄が上洛するということは、信玄が信長を殺して京都を制圧し天下を獲る決心をしたことを意味する。信長はびびりまくったに相違ないし、後に武田勝頼を完全に滅ぼすところまで滝川一益に攻め抜かせたような徹底した冷酷さが発揮されたのも、武田信玄上洛の時の恐怖心があまりに強すぎ、甲斐源氏の武田氏が二度と復活しないようにと念押しのつもりだったのではないかとすら思える。ローマがカルタゴを滅ぼしたのと同じくらいの周到さや執念深さを感じさせる逸話である。
だが武田信玄は決心するのがやや遅すぎたためにあと少しのところで信長を殺す前に病没してしまった。信玄ほどの男が自分の死期を悟ることもできず、病身を引きずるようにして上洛を目指したことから、信玄には京都を制圧して天下を獲るという発想はそもそもなかったのではないかと考える人は多いし、実際、信玄の上洛の大義名分は将軍足利義昭から送られた信長打倒の檄文であったため、信玄本人の自発的意思であったと言い切ることも難しく、信玄の性格を説明する際も、信長が近代人であったのに対し信玄は中世の人というような表現がなされることもあるし、信長がある程度の力を得たらまっすぐ京都を目指したのに対して、信玄は無目的に周囲に領土を広げて行った人、自分の縄張りを少しづつ広げるという発想法で生きていた人というような説明がなされているのも読んだことがある。
私も以前はそういう感じの人なのではないかと考えていたが、実際に甲府を歩くと、その考えは全く間違ったものであったと思うようになった。以下にその理由を述べておきたい。
武田氏の痕跡を見たかった甲府駅を下りてから北側の方へと出た。そこには北へと延びる武田通りと呼ばれる真直ぐな道があって、その終点には武田神社がある。武田神社はかつて武田氏の居館だった躑躅ヶ崎館があった場所に鎮座しており、甲府が武田氏と深いかかわりがあったことを私たちに教えてくれている。甲府という都市は武田信玄の父親の信虎が開いた都市で、この街を歩くと信虎の発想法が都市デザインによく反映されていることに気づくことができる。ちなみに信玄が亡くなった後に家督を継いだ勝頼は甲府から少し離れたところに新府城を築いたが、これは甲府に対して新しい街なのだという意味で新府と呼んだのだと考えて差し支えない。
さて、武田神社を参拝した後、神社を後にして駅の方へ向かおうとするとある光景に気づく。それは第一に、武田神社の標高がやや高い場所にあるため、甲府の街が一望でき、この場所に居館を築いたものが甲府の支配者であるということが無言のうちに分かるようにデザインされているということだ。そして第二に、武田通りを中心してその左右に家臣たちの屋敷が並んでいたため、当時、居館が甲府の最北端であったことから、武田氏家臣たちは居館に対して北面する形になっていたということだ。このことは即ち、甲府が平安京をモデルにしてデザインされたことを意味している。平安京では当初、最も北に位置するところに大極殿があり、天皇が南に向かって座るのに対し、朝臣たちは天皇に向き合う時には北面した。これと同じことを信虎はイメージしていたのである。武田神社を最北端にして、周辺の家臣宅のあったエリアを歩くと、道路が碁盤の目になるように整備されていることも分かるし、街の東側に東光寺という美しいお寺も配置されていることから、甲府が平安京の東側に清水寺があったり平城京の東側に東大寺や興福寺があったりしたのと同じ構図を持っていることにも気づくことができるのである。
これらのことが何を意味するのかというと、甲府は小京都になるべくデザインされた都市であり、甲府に暮らす者は京の都を意識して生活せざるを得ないということだ。ましてや武田信玄の正室は公家の三条家のお姫様であったため、信玄は若いころから京都を連想する記号に囲まれて生きていたに違いないことが容易に想像できるのである。おそらくは信虎は信玄に対していずれは京都を制圧し天下を獲らなくてはならぬと言い続けていたのではなかろうか。信虎は信玄に追放された後、しばらく今川氏のところで暮らし、後に京都に滞在するようになるが、信虎の亡命先をそのようにチョイスしたのも、常々から京都を意識していたことの現われであるということもできるだろう。
とすると、武田信玄がただひたすら領土を周辺に拡大していくことしか考えていなかった、或いは、信玄は京都を制圧して天下を獲るという構想を持たない人であったとの前提で人物像を描くことにはやや問題があるのではないかという気がしてくる。上に述べたようなことから信玄は常に京都を意識して生きていたに違いなく、京都へ進撃して天下を獲るということは何度となく念頭に浮かんだのだが、上洛を夢見ていた父親のことは追放するほどに深く憎んでいたために、自分は父親とは違う価値観で生きるのだと強く自分自身を説得し続けた結果、京都進撃だけは最後の最期まで避け続けたというのが真相ではないだろうかと思えてならない。そして自分の人生に決着をつけるために果たして自分に京都を獲れるかを試してみたい、この眼で本物の京都を見て死にたいと思うようになり、実際に上洛に着手したのではないだろうか。そのように思うと、エディプスコンプレックスのような近代心理学で説明される心理的葛藤を抱え続け、最終的に自我との折り合いをつけようとした信玄は、中世的な人であるどころか、自分の内面と常に向き合うという、近代的な人間像を持っていた人物であったと言うことができるのではないかと私は思うようになった。やはり現地を訪問するということは非常に勉強になることが多いとつくづく思うのだ。