「何故パルプフィクションの評価はあそこまで高いのですか?僕もめちゃくちゃ好きで、面白いとは思いますが、imdbだと10位以内に入っていて、それほどかな?という風に感じます。」とのquoraでの質問に対する私の回答です。
タランティーノ監督は、パルプフィクションの前にレザボアドッグスを撮影しています。アメリカの裏社会の面々を描くというコンセプトは同じですが、レザボアドッグスは男たちの会話だけでどこまでひきつけることができるかということに挑戦しています。そのような試みをした主たる理由は制作費にあると思いますけれど、結構成功していて、最後まで関心を持って私は見ることができたんですね。ただし、やっぱりどうしても、会話だけで引っ張ろうとするものですから、ドキドキわくわくするとか、圧倒的な映像美とか、圧巻のストーリー展開とか、そういうのはないんですよね。まあ、なくてもいい映画はいっぱいありますから、それがないからマイナスということにはなりませんけど、でもやっぱり、より多くのファンを獲得したいと考えるのであれば、ちょっと物足りないところはあると言えると思います。
レザボアドッグスで評価されたことで、パルプフィクションでは制作費を獲得することができ、有名俳優を投入し、場面展開もめまぐるしく変化させることができ、音楽にも凝っていて、飽きっぽい観客でも見続けることができる作品になっていると私は思います。幾つかの人間模様が交差するオムニバスですから、悪く言えば物語がブツ切りになってるんですけど、良く言えば無駄を捨てている。説明を省いている。絵を見て勝手に判断してくれよ、というか、絵が良ければそれでよくね?というある意味では映画に対して非常に純粋な態度で臨んでいるというようなところは、本当に気持ちいいとすら言えると思います。ですから、さっき死んだジョン・トラボルタが、次のエピソードに登場してきても、時間軸に捉われている方がダサいぜ。くらいの勢いがあるので、観客はそれも受け入れることができたんだと思います。映画の最後の方でサミュエル・ジャクソンが神の愛みたいなものに目覚め、ヤクザ稼業から足を洗うわけですけど、足を洗わなかったジョン・トラボルタは殺されるわけですから、ちょっとそのあたり、私は人生について考えさせられてしまい、そのような深みもこの映画の良さではないかなと思います。
で、ですね、タイトルがいいですね。パルプフィクションですから、紙に書いた作り話だよと、ペーパーバックの三文推理小説を電車の中で読み捨てるくらいのライトな感覚で見てくれよ。とタイトルで宣言しているのも、なんか思い出すたびにしみじみするというか、映画を楽しもうよ!という監督の映画に対する哲学みたいなのが感じられて、いいなあと思うわけですね。
そのように素敵な点がたくさんあるパルプフィクションですが、ご指摘の通り、そこまでか?と思わなくもありません。太陽がいっぱいのアランドロンの悲しさ、七人の侍の死にゆく侍たちの悲しさ、市民ケーンの金はあっても愛がないことの悲しさを描いているのかというような話をすれば、そうではない、その分、軽いと言う指摘はあり得ます。ただし、タランティーノ監督は映画とは、観客が映像を見ている瞬間、楽しむことができればそれでいいのだ、というかそれが映画で、考えさせる映画なんかいらねー。という哲学で作ってるわけですから、そういうアンチ教養主義みたいな立場で作った映画としてはやっぱり最高峰に位置するんじゃないですかね。
なんとなく回答してみたらこんなに長くなってしまいました。私、そんなにパルプフィクションは好きじゃないつもりだったんですけど、ここまで書いてしまうということは好きなんだなあと気づきました。