「誰でもよかったという殺人犯は、なぜ政治家や暴走族や犯罪者を殺さないのでしょうか?小学生や障がい者の方が亡くなられるのを知るたびになぜ自分より弱いものを標的とするのか腹が立ちます。」とのquoraでの質問に対する私の回答です。
「誰でもよかった」という表現は、警察の捜査資料の作り方と関係しています。公判維持のためには被疑者の犯行動機を明確に記載しなければならないのですが、通常であれば「恋愛で裏切られて殺意を持った」とか「ビジネスで裏切られて殺意を持った」などの理由があれば、そのように資料に書き込むことができるわけなのですが、通り魔的な犯人にはそのようなものがありません。しかし、なぜその人を狙ったのかということを説明しなければならないので、非常に困るわけです。警察としては書類上「誰でも良かった」と書き込まざるを得ないのですね。まず間違いなく、被疑者に対して「じゃ、誰でも良かったんだね」と念押しして書類に書いているはずです。で、ここからは私個人の感じる問題なのですが、警察の捜査について知識のない人は、そのような警察の事情など、知る由もありません。にもかかわらず警察が自分たちの保身のためにマスメディアに向かって「誰でも良かった」とする警察的表現を使用し、記者たちも「これは警察発表です」との体裁を維持するために、そのまま記事にし、一般の読者はそれを見て、文字通り「誰でも良かった」と受け取るため、被疑者の心理へより深く分け入っていくことができなくなってしまうことが非常に難しい問題をはらむと思います。被疑者は本当は誰でも良かったわけではないのです。なんらかの理由で小学生を狙ったり、路上を歩く、たまたま通りかかった〇〇な感じの女性を狙ったりしているに違いありません。そのような細かい機微についての報道がないため、多くの読者は「このように酷い事件を起こす人間の考えていることは分からない」との感想を持ち、自分とは関係のないことのように考えてしまいます。そしてニュースが消費されていきます。この手のニュースは人が殺されるなどの重大問題であるにもかかわらず、ラーメン屋さんのカウンターでラーメンを待つ間の時間つぶしとか、朝の出勤準備の時の聞き流しとかで消費され、忘れられていきます。被害者の遺族はなぜ自分の大切な家族が狙われたのか本質的なところでは理解できず、被疑者についてもそこまで精神を病んでしまった理由について誰も関心を持たないまま刑が執行されていくということになりかねず、社会は全く教訓を得ることができません。仮に事件報道の使命が社会に教訓を得てもらうことで事件の再発を防ぐということにあるのだとすれば、今のような警察の都合だけに配慮した報道では不十分なのではないかと私は常々思うのです。私はその手の報道を見ると無力感に苛まれるため、次第に見なくなってしまいました。