新選組の夢と現実

14代将軍家茂が孝明天皇の妹である和宮をお嫁さんにもらうことと引き換えに、徳川将軍の京都訪問が実現されました。これは徳川家光以来200年以上ぶりのことで、このことだけでも当時としては大事件だったのですが、意外なことに、徳川幕府は将軍警護の人材不足という、まさかの壁にぶち当たってしまいました。幕府は急いで江戸で行き場をなくして食い詰めかけている浪人たちに募集をかけ、浪士隊を結成し、京都までの将軍の道のりに参加させます。おそらく、資金的な問題というよりは、幕府官僚たちの中には京都へ行かされることを不安がり、誰も行こうとしないのでやむを得ず浪人たちをかき集めたのではないでしょうか。そして、将軍警護の後、彼らを召し抱えるのが嫌だったので、飽くまでも浪士隊という名称を変更せず、臨時雇いの雇用形態を維持しようとしました。浪士隊に集まってきた人たちは、多分、公費で京都へ行けるというようなことにも魅力を感じたんでしょうけど、これをきっかけに就職できればいいなという思いがあったはずです。浪士隊は途中から清河八郎という男の個人的な武装集団みたいになっていきますが、浪人たちが清河に取り込まれていった理由としては、結局幕府が最後まで、彼らに将来的な約束を与えようとしないので、失望が広がった結果なのではないかとも思えます。

浪士隊は清河八郎のアジテーションに乗せられて江戸へ帰っていきましたが、少数ながら京都に残った人たちがいました。後に京都で新選組を結成することになる近藤勇とその仲間たちです。近藤勇は剣術道場主でしたから、別に就職先がほしかったとかそういうこともなかったと思いますけど、やっぱり、もっとおもしろい活躍の場を得たかったんでしょうね。新選組のエピソードが魅力的なのは、名を挙げることを渇望する若い男たちが、勇気を振り絞った結果、本当にその渇望を実現し、世間を沸かせたことにあったのではないかと思います。スラムドッグミリオネアという映画で、スラム出身の男の子がクイズに答えて億万長者になるっていう映画がありましたけど、私はその映画をみて泣いてしまったんですが、それと同じようなおもしろさを新選組には感じてしまいます。新選組は存在そのものが常識破りな夢みたいなもので、とにかくとてもおもしろいのです。

新選組には様々な有名なエピソードが残されていますが、特に有名なものをここでざっと列挙してみたいと思います。まずは京都の壬生村の八木家に拠点を構えていた時代に起きた、芹沢鴨暗殺事件。新選組は近藤勇と芹沢鴨の二人局長制を採用し、派閥争いを起こしていましたが、数と結束力で勝る近藤勇と土方歳三のグループが、まず芹沢鴨の最も信頼できたであろう部下の新見錦を陰謀で切腹に追い込み、芹沢鴨のことも寝込みを襲って暗殺します。土方たちは芹沢鴨を殺害した直後に家主の八木家の人々に対し、芹沢鴨が賊に襲われましたと報告していますが、あまりにも嘘が見え透いていたため、八木家の人はおかしくて笑いをこらえるのに苦労したそうです。八木家の人にとっては迷惑に違いないのですが、人が自宅で殺されたことがおかしくて笑えてしまうという八木家の人々の感性にもびっくりしてしまう事件なわけですね。

次に池田屋事件。長州藩の桂小五郎などが京都で謀議を重ね、御所に放火して孝明天皇を誘拐しようと企んでいたことを新選組が察知し、彼らが池田屋で謀議しているところを襲撃した事件でした。桂小五郎が一旦池田屋に来たものの、まだあんまり人が集まってないから出直すことにして帰った後で新選組が踏み込んだことは非常に有名です。桂小五郎はそれからしばらく姿を隠して過ごしました。ちなみに新選組に捕まえられて、この謀略をゲロってしまった男性は、受けた拷問があまりに激しかったために、数日後に亡くなっています。長州藩とその関係者は、この事件への復讐を決心し、彼らの倒幕のモチベーションが激しく高まったため、かえって倒幕に突き進むようになったとも言われています。新選組は長州藩士たちの謀議の場所が池田屋か四国屋かの特定ができず、戦力を二つ分けて両方に送り込みましたが、送った隊士の数が少ない方の池田屋が本命だったことが後でわかります。新選組は最初は4人で踏み込みましたが、その後、四国屋に行っていた隊士たちが合流しました。京都守護職を命じられていた会津藩の陣屋にも、新選組は会津藩お預かりという立場であったために報告がされていましたが、会津藩は本気にしなかったため、会津の兵隊が到着したころには事件は終わっていました。同じころに一番隊長の沖田総司は喀血し、肺病を発症しています。映画などでは京都の祇園祭のコンコンチキチンコンチキチンの音が聴こえる中、池田屋での戦いの最中に沖田が血を吐いたりしています。

そして、次のエピソードとしては副長の山南敬助の脱走と切腹でしょうか。山南脱走の真の動機はよく分かりませんが、彼は明里という芸者さんと江戸へ向けて駆け落ちし、大津で沖田総司に追いつかれて京都へ帰り、切腹しています。果たして本気で逃げるつもりだったのどうかもちょっと怪しいような、山南の心中には新選組に対する深い諦めがあって、彼はそれを土方たちに見せたかったのではないかというような不思議な印象が残るできごとでしたが、山南のケースに象徴されるように、新選組では粛清に次ぐ粛清が行われ、戦いで死んだ人より粛清で切腹させられた人の方が数が多いとも言われています。新選組の暗い面が見えてくる現象であったともいえるでしょう。おそらく、近藤と土方が既得権益を守ることに意識が向きすぎていたのではないでしょうか。ダサくて残念ですが、それもまた、彼らの若さゆえの過ちと思うと、後世の私たちは自らの身を律するのに役立てたいできごとであったとも思えます。

さて、このような内部粛清に彼ら明け暮れる中、時代は大きく変転し、徳川慶喜による大政奉還が行われ、坂本龍馬が暗殺され、新選組が分裂して御陵衛士という組織を作った伊東甲子太郎とその部下たちが京都の油小路というところでまとめて殺害されるという事件も起きました。油小路での伊東殺害事件は、粛清の総決算みたいな事件なのですが、江戸で塾を開いていた伊東が、近藤勇に請われる形で新選組に参加するために京都へ来たものの、新選組が近藤と土方の私的な利益団体に堕してしまっていることを見抜いた伊東が失望し、御陵衛士という組織を作るという名目で新選組から出ていきました。御陵衛士というのは、病死したばかりの孝明天皇のお墓を警備する組織というわけで、ほとんど言い訳みたいな大義名分しかない組織なんですけど、伊東はこの組織に弟子たちを抱え込み、尊王攘夷派の中で名前を挙げようとしていたのではないかと思います。坂本龍馬が暗殺された時は現場に行き、犯人の遺留品を見て、これは新選組の原田左之助のものだと証言しています。当時の伊東は討幕派に対して顔を売るのに必死な時でしたから、果たしてその証言が本当かどうかは結構怪しいと思いますけれど、その直後、近藤勇の自宅に招かれてお酒を飲み、帰り道に油小路で襲われて絶命しています。真冬の京都で遺体が凍り付いている状態になっていることを知った伊東の弟子たちが遺体を回収するために油小路へ行き、待ち伏せていた新選組と壮絶な殺し合いになったそうです。当時、近くに住んでいた人の証言によると、朝になって様子を見てみたところ指がたくさん落ちていたそうです。この時、伊東の弟子で、生き延びた数名が薩摩藩邸へと逃げて行きました。薩摩藩では迷惑なので中に入れようとしませんでしたが、中に入れてくれなければここで切腹して果てると騒ぐのでやむを得ず中に入れてやり、彼らは鳥羽伏見の戦いで大砲を与えられ、高台から新選組を狙い撃ちにしています。しかも、江戸開城後に近藤勇が逮捕された時、近藤が「私は大久保大和という名前の旗本です。近藤勇じゃありません」としらを切っていたところ、伊東の弟子の生き残りの一人である加納鷲雄が「この男は近藤勇です」と証言することで、近藤の嘘が崩されるということがありました。加納はその時の近藤の苦々しそうな表情を語り草にしており、彼の武勇伝になったわけですが、それで近藤は斬首されていますので、ちょっと加納君、はしゃぎすぎじゃないっすかと思わなくもありません。まあ、しかし、彼の師匠の伊東が惨殺され、加納君も殺されかけたわけですから、やむをえませんでしょうかね…

さて、鳥羽伏見の戦いでは新選組も多くの戦死者を出しました。徳川慶喜が大坂城を捨てて脱出したため、徳川将兵も戦闘を継続するわけにもいかず、新選組も徳川の軍艦に乗って江戸へ帰還します。江戸では品川に上陸し品川で豪遊したそうです。近藤勇は当時、徳川家直参旗本の身分でしたから、江戸城で主戦論を唱えたらしいんですけれど、当時既に勝海舟が江戸城開城路線で話を進めようとしていたため、近藤たちは邪魔な存在でした。近藤たちは甲府城の警備を命じられましたが、甲府へ行く途中、近藤たちのふるさとの日野に立ち寄り、三日間、大盤振る舞いの派手な宴会をやった結果、甲府城にたどり着いた時には、官軍が先に甲府城に入っているという情けないことになっていました。江戸へ帰ってからの近藤勇はトホホなエピソードばかりが残っていて、ちょっと悲しくなってしまうのですが、近藤勇と土方歳三は、新選組の古株である永倉新八や原田左之助に対し、近藤勇と主従関係を結ぶことを要求します。そして永倉と原田はそれを断り、彼らは袂を分かちました。新選組は近藤勇が局長ではあったものの、隊士たちは近藤の家臣ではなく、目的を共有する仲間であるとの認識があったということが、このエピソードからわかるのですが、この分裂により、新選組は実質的に消滅したと言っていいと思います。

近藤と土方は千葉の流山へ行き、そこで新しいメンバーを集めて再起を図りますが、官軍に逮捕され、既に述べましたように加納君のいやーな感じの活躍もあって、近藤が斬首されるという流れになります。近藤の首は京都の三条河原にさらされたそうです。近藤勇が死罪になった理由は、坂本龍馬を殺害したからというのが訴因としてあるそうなのですが、坂本龍馬暗殺についてはまた回を改めてやりたいとは思うのですが、真犯人については分かっていないため、要するに近藤勇には冤罪の可能性もあるんですよね。普通、裁判にかければ、近藤勇は罪状認否もできるし、弁護側の抗弁のチャンスもあってしかるべきなのですが、まともな裁判をせずに近藤を殺したわけですから、官軍のあなた方、お前ら大丈夫か?頭湧いてるんじゃないのか?と言いたくなってしまいます。この感情優先、思い込み優先OKな雰囲気が薩長藩閥に漂っていたために、日本の帝国主義が結構ダメダメになったんじゃないかなと私は勝手に考えています。

徳川慶喜は、彼の晩年になって、近藤勇の話題が出た時に涙ぐんでいたとのエピソードが残っています。徳川慶喜の幕末の政治的な駆け引き、彼が将軍だった時に描いた新政府の構想などについて考えてみると、慶喜は稀にみる極めて優秀な人物であったことが分かるのですが、幕府の中で充分な働きをする人材に恵まれなかったために、ぎりぎりのところで敗れてしまったという感があります。一方で、彼の最大の敵であった島津久光は本人が凡人なのに、部下が超人みたいなのが揃っていたために、勝利することができました。幕府官僚たちがみな逃げ腰で無責任だったことについては、慶喜本人が極めて遺憾に思っていて、失望していたに違いないと思うのですが、そのような中、近藤勇が非常によく働き、献身的であったと慶喜は感じていたのだと思います。その近藤が官軍によって処刑される時、慶喜は自分が助かるためにはやむを得ないと見殺しにしたことに対する自責の念があったのではないでしょうか。慶喜は晩年、のほほんと生きていたようにも言われますが、些細なエピソードを積み重ねてみると、最終的に政争で敗れたことについて深く苦しんでいたであろうことが見えても来るのです。また、慶喜については詳しくやりたいとも思います。

新選組については子母澤寛という人が書いた新選組三部作にだいたいの細かいことが書かれています。新選組は小説や映画、大河ドラマにもなりましたが、子母澤寛の新選組三部作はそれらのネタ本になっていて、他にそこまで新選組について詳しく書かれた資料もあまりないものですから、そのネタ本をベースにして演出の腕が試される、というような感じになっています。ですので、詳しいことが知りたい人は子母澤寛の著作を参照することをお勧めします。



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