紀州徳川家の当主だった徳川慶福は、13代将軍家定の後継者に選ばれ、14代将軍に就任します。名前も家茂に改め、非常に若い将軍ですから、就任したばかりのころは、将来を大いに期待された将軍であったに違いありません。しかし、彼はあまり長生きすることができず、政治へのイニシアティブをとることもほとんどありませんでした。
家茂が将軍になったばかりのころ、徳川幕府の実権を握っていたのは井伊直弼で、その井伊直弼が桜田門外の変で殺害されると、今度は井伊直弼によって犯罪人扱いされて外出禁止にされていた徳川慶喜が将軍後見職という地位について幕府政治の最高峰に立つことになります。この慶喜の政治家としてのキャリア形成は島津久光が朝廷を動かしたことによる結果なのですが、久光は間接的に家茂の人生に大きく影響を与えたとみることもできるかも知れません。なにしろ、家茂の結婚相手選びについても、久光が運動したことが影響していたのですから。
島津久光は井伊直弼が殺された後の徳川幕府の権威を固めなおすために公武合体という妙案を思いつき、その実現に奔走します。本当に久光のオリジナルのアイデアなのかどうかは知りませんけれど、久光はこれだ!とこのアイデア実現に邁進したそうです。
そして公明天皇の妹である和宮が家茂の正室として江戸へ向かうことが決められました。和宮は相当に嫌がったとする話もあって、江戸で和宮の顔を知っている人はいないはずですから、偽物、替え玉の女の人を和宮と偽って送り込んだとの都市伝説もないわけではありません。和宮替え玉説によると、江戸へ行った和宮は替え玉で、その偽物は明治維新後に京都へ帰る途中で殺されて口封じされた、というような話になってます。私はいくつかの理由で信用していません。まず第一に、和宮の生母が一緒に江戸へ行っています。和宮の母親だけ本物で、偽物の和宮の世話をするためについてきたという話などあり得ません。だったら和宮の母親も偽物だったとしたらって話になりますけど、それはちょっと大げさすぎます。秘密が大きすぎてその分ばれるリスクが上がってしまいます。そもそも徳川の諜報機能の高さを考えれば、高い確率でバレるでしょうから、そんな訳の分からないギャンブル性の強いことを公武合体のような重大事で朝廷が選ぶだろうかという疑問も捨てることはできません。また、鳥羽伏見の戦いの後、和宮は徳川家の家名存続の嘆願書を書いていますが、これは和宮が本物だと京都の朝廷の人たちが認めているとの前提で成り立つエピソードです。偽物が本物のふりをしてそんな嘆願書を書くなど、荒唐無稽すぎます。更に、和宮は明治維新後に京都に帰ったものの、数年後には東京に帰ってきています。そして徳川家の人たちともよく交流したというわけですから、途中のある時期替え玉だったとして、バレないわけないんですよ。というわけで、和宮は本物であったと私は認定したいと思います。以前、大江戸博物館で和宮の結婚道具の展示を見たことがありますが、それはそれは豪華で高趣味でハイセンスで素敵でしたよ。
それはそうと、和宮は当時、既に有栖川宮熾仁親王と婚約していたにもかかわらず、家茂と結婚するために婚約は破棄させられています。政略結婚の道具にあからさまにされていたわけで、和宮には同情してしまいます。
しかし家茂と和宮の結婚生活は極めて幸福なものであったようです。幕末の殺伐とした世の中で、政争と利権と暗殺が渦巻く中、この二人が真実に愛し合っていたらしいというエピソードは数少ない心温まるいい話なのですが、和宮は大奥で篤姫にいじめられぬいたらしいという話もあるので、いいことと悪いことは同時に起きているものだという人生の真実みたいなものを考えさせられてしまいます。
朝廷は和宮を家茂に与える見返りとして、家茂の上洛を求めてきました。徳川将軍が京都へ行くのは三代将軍家光以来のことで、既に200年以上なかったことでしたが、家茂は同意して京都へ向かいます。この時の家茂警備のために江戸で浪人たちが集められたのですが、その募集に応じた者の中に近藤勇や土方歳三がいて、彼らは京都で新選組を旗揚げします。新選組のことはまた改めてやりたいと思いますけれど、この時代はそれぞれのできごとが密接に絡み合っていて、まるで複雑なパズルを解いているかのような心境になってしまいます。
将軍が京都へ行くということは、天皇と将軍のどっちがえらいかを改めてはっきりさせるとする効果があり、朝廷は京都へ来た家茂に対し、ペリー来航以来、日本国内で増える一方の外国人の追放を約束させようとします。孝明天皇は石清水八幡宮を家茂と一緒に訪問し、そういう逃げられないシチュエーションを作って、外国人追放の約束をさせようとプランニングしたものの、家茂サイドがやばいと気付いて、風邪をひきましたと言って石清水八幡宮には行かなかったというなかなかの心理戦も展開されたようです。家茂の代わりに慶喜が石清水八幡宮へ行きましたが、慶喜も約束させられるかも知れないと思って病気を偽り逃げ出しています。
実は天皇は徳川家康の時代から京都御所の外へ出ることを禁止されていましたから、孝明天皇が石清水八幡宮へ行ったというのはこれも200年以上なかったことであって、こんなおきて破りが行われたのも、天皇の権威の復活と徳川将軍の失墜みたいな感じで受け取る人も当時はいたようですし、多分、その見方であっていると思います。
家茂はこれ以上京都にいると、また何かを約束させられるかも知れないので、幕府首脳たちが知恵を絞って軍隊を大坂に送るという威嚇行為までして家茂を江戸に帰らせましたが、しばらくして再び家茂は今度は大坂へ出ていく必要が生じました。京都御所を武力で制圧しようとして失敗した長州藩を征伐するために、幕府軍が西日本へと出撃し、その最高司令部が大坂城に置かれ、家茂は最高司令官として大坂城に入ることになったわけです。そして彼は大坂で急病で倒れ、帰らぬ人になりました。当時数えでまだ21歳という若さです。人間の年齢的にも最も健康で元気な、あんまり死ななさそうな年齢だと思いますので、当然、毒殺説とかも出るんですけど、私もこの家茂毒殺説については結構、ありそうな話だとも思えます。家茂は井伊直弼の強い推しがあって将軍になったわけですが、家茂を守るはずの井伊直弼は殺されてこの世にはいませんでした。島津久光が幕府政治にやたらと介入してきましたが、島津氏はもともと慶喜を推薦する側で、家茂にとっては本来敵対勢力だったわけです。しかも久光の運動の結果、ライバルの慶喜は事実上の家茂の監督役であり、もう一人の幕府政治の重鎮である政治総裁職に就任して松平春嶽も慶喜派で、気づくと家茂は幕府内で孤立していたと言っていい状態だったわけですね。彼が心を開くことのできる真実の味方は和宮だけだったのではないかと思います。政治の世界は本当に難しいですねえ…政治家にはなりたくありません。マジで。
最後に、家茂と和宮の心温まる交流を印象付けるエピソードで今回は終わりたいと思います。家茂がどんな顔の人だったかについては、肖像画を見るしかないんですけど、最後の将軍の慶喜の肖像写真ならいろいろ残っているのに対し、家茂の写真は残っていません。ですが、和宮の墓所の調査がされたときに、和宮の棺にはある男性の写真が収められていたというのです。で、その写真は大切に研究室みたいなところに運び込まれたんですが、外気に触れたことが悪かったのか、翌朝にはその写真は単なる白い紙になっていて男性の姿は消えていたそうです。で、この写真の主こそが家茂なのではないかと推測することが可能になるわけですが、一方では実は和宮はずっと有栖川宮熾仁親王を慕っていて、写真の主は実は熾仁親王だったのではないかと言う人もいるようです。検証不可能なものの、私は家茂の写真であったと考える方に一票を投じたいと思います。技術的な問題でいえば、たとえば大坂城に家茂が入っていたような時代には既に多くの日本人が写真を撮ることができた時代に入っていました。ですから、家茂の写真が撮影されていた可能性は充分にあるわけです。そして、まあ、当時の貞操観念から考えても、結ばれなかった元婚約相手の写真を棺にまで入れてもらうというのは考えにくく、一人の夫とだけ添い遂げるという価値観が強かったであろうことを考えれば、和宮の棺にあった写真の男性は家茂だったと考える方が無理がないように思えるんですね。まあ、家茂が早世してしまったことが気の毒なので、そうであってほしいとの私の願望もありますけれど。