島津久光の憂鬱‐徳川慶喜に嫌われた男

島津久光は幕末の歴史を語る上で決して外すことのできない重要人物です。久光の存在がなければ薩摩が幕府を倒すことはおそらくなかったでしょう。明治維新までの歴史は久光の意思によって形成されたとすら言えなくもないと私は思います。にもかかわらず、ぶっちゃけあまり尊敬されていなくて、真実に望んだものは何も手に入れることができなかった彼は、非常に気の毒な人でもありました。彼はそのことでつねに憂鬱な心境で過ごし、鬱屈した行動を採っていたように思います。そのあたりのことを、今回は確認してみたいと思います。

まず、若年期の経験が不幸です。久光はのちの藩主島津斉彬の弟なのですが、母親が違っていて、久光の母親のおゆらさんが久光が島津氏を相続することを願い、斉彬の子供たちを呪い殺そうとしていたとするお由良騒動が起きています。なんともいやーな感じのする後味の悪い話なのですが、単におゆらさんだけではなく、薩摩藩の重役たちが斉彬派と久光派に分裂した内部抗争になっており、どうもその陰には久光の父親で藩主の島津斉興が黒幕になっていて、その主目的は斉彬の失脚にあったという話もあって、要するに当時の島津氏の内部は複雑怪奇な足の引っ張り合いをしていて、久光本人は斉彬との関係は良かったらしいのですが、権力闘争に巻き込まれてしまい、なんとなくいやーな青春期を過ごしたに違いないのです。この権力闘争は表面的には久光派の優位で進んだように見えたものの、斉彬派の藩士たちが薩摩を脱出し、福岡藩を頼って事情を訴え、話が福岡藩から幕府老中阿部正弘へと伝わって、阿部正弘が斉彬派の肩を持ち、斉彬による家督相続が実現しました。これをお由良騒動と言いますが、どう考えても後味が悪いだけで美化できるような話ではなく、久光の性格はゆがんだに違いないですし、後に徳川慶喜を擁立して幕政に参加しようとしたのも、このお由良騒動のトラウマによるものなんじゃないかなとか想像してしまいます。

で、斉彬とは仲のいい兄弟だったはずなんですが、斉彬が病気になってしまい、後継者として久光の息子の忠義を指名します。久光飛ばしとも思える指名ですけれど、斉彬には幼少の男の子がいたんですが、その子が大きくなるまで忠義が藩主をつとめるということになっていたものの、その男の子が病死したために、忠義が薩摩藩の最後の藩主になりました。昔は小さな子供が病気で死んでしまうことは今よりもずっと珍しくなかったわけですが、でも、こういうタイミングで亡くなってしまう子供の話を知ると、ついつい毒殺を疑ってしまいます。日本史のことをちょっと追及しすぎて悪い思考パターンに染まってしまったのでしょうか…

で、ですね、こんなイヤーな経験を若いうちにした久光ですが、息子の忠義が藩主である以上、彼は藩主を監督する権利を持っていることになるので、久光は藩の政治について独裁的と言ってもいいくらいの権力を手にすることができるようになりました。ところがです、ところがなのですが、久光はあんまりそれを喜んでいなかったみたいなんです。なぜなら、彼は薩摩にいる限り最高権力者なのですが、一歩薩摩を出ると一切の権威も権力もないただの人だったからです。藩主であれば、江戸幕府から大名として扱われますし、朝廷も官位をくれたりするわけですけど、久光にはそういったものがなんにもないんですね。頭に来た久光は軍隊を率いて京都へ行きましたが、その時の朝廷からの久光に対する呼称は島津三郎でした。おまえは下級武士なんだよというのを呼称で明確に示したわけですね。京都の公家社会って怖いですね。ちなみにこの時、京都市内で薩摩藩士同士が殺し合う寺田屋事件が起きています。

久光は更に頭にきて今度は江戸へ向かいます。久光の狙いは京都の朝廷を動かし、安政の大獄でひどい目に遭っていた徳川慶喜と松平春嶽を政治の表舞台に引っ張り出し、自分は背後にまわって慶喜を操ろうと考えたわけです。この回りくどいやり方は、やっぱりお由良騒動で自分が藩の重役たちに操られた経験があったから、それをついつい反復しようとしたのではないかと思えてなりません。久光はかわいそうな人ですね。同情してしまいます。久光の運動の成果が出て、慶喜は将軍後見職に就任し、松平春嶽も政治総裁職に就きます。この二人は文久の幕政改革を行い、幕府陸軍を創設するなど、実に思い切った改革に乗り出します。頭の良さで極めて高い評価を得ていた慶喜は、久光の慶喜をコントロールしてやろうという下心を見抜いたのか、ほとんど久光を相手にしていなかったようです。しかも、そこまで慶喜に尽くしたにもかかわらず、久光は江戸でもただの人扱いで、江戸城にすら入ることができませんでした。

イライラしながら失意の中を薩摩へと帰る島津久光の行列の前をイギリス人一行が通り過ぎます。生麦事件です。久光の家臣たちが馬に乗ったイギリス人のおじさんを追いかけて切り殺し、切り捨てごめんなので、そういうことで、じゃ。といって去ってしまいます。イギリスから抗議を受け、幕府は謝罪して賠償金も払ったんですけど、薩摩藩は知らぬ顔を決め込みます。結果として薩英戦争が起きるところまで問題が発展し、鹿児島の街はイギリス艦隊の砲撃を受けて炎上したわけですから、そりゃ、久光に対して、あなたもっとちゃんと反省しなさいよと誰かが言ってあげなくてはいけないんですけど、薩英戦争の結果、薩摩はイギリスと友好関係を結ぶようになり、薩摩藩内でいち早く近代化をスタートさせ、幕府に対して対抗できる存在へと成長していくことになりましたから、久光には風が吹けば桶屋が儲かる的な強運がついていたのかも知れません。

久光が最も恵まれていたのは、極めて優秀でしかも忠実な家臣たちを得ていたことではないでしょうか。なにしろ西郷吉之助、大久保一蔵、小松帯刀と幕末維新史のスーパースターたちを久光は自由に使える立場にいました。もちろん、西郷吉之助とは感情的な対立があったことも事実らしいのですが、それでも、命令した仕事はなにがなんでもやりぬく西郷のような部下がいることで非常に助かったに違いありません。久光は後に慶喜打倒を決心しますが、それが実現できたのは西郷と大久保が命がけで働いたからです。

慶喜が京都で政治の中心にいたとき、久光は慶喜に働きかけ、有力諸侯と慶喜が協議して政治の意思決定を行う仕組みを実現するところまでこぎつけました。久光はようやく政治に参加するという念願のチャンスを得たのです。しかも、慶喜と協議するという政府首脳レベルですから、そりゃ、嬉しかったでしょうね。彼はこのようなきらびやかな舞台を与えられたいという一心で、軍隊を連れて京都へ行って言うことをきかない薩摩藩士を殺し、江戸まで行って失意で帰らねばならない状態でイギリス人も殺してその続きで鹿児島の街が火の海にまでなったのですから、多大な犠牲を払ってきたわけです。そしてようやく晴れ舞台なのです。しかし、慶喜は久光のことがとっても嫌いだったんですね。お酒の席で久光のことを天下の愚物と侮辱します。多分、酔ったふりして言いたいことを言ったんだと思います。慶喜は大正時代にインタビューされたときも久光のことはあんまり好きじゃなかったと、やんわりと死ぬほど嫌いだったという意味のことを言っています。そのようなことがあって、諸公会議は頓挫してしまい、久光は慶喜と幕府を打倒することを決心して自分は薩摩へ帰ります。後は西郷と大久保に命じておけば部下たちが勝手に倒幕してくれるので実に便利という感じだったのかも知れません。そして本当に倒幕したのですから、久光の個人的な権力への渇望が日本の歴史を大きく変えたのだと思うと、本当にめっちゃ影響力のある自己中心男ということができるかも知れません。

しかし、さらなるどんでん返しがありました。なんと廃藩置県で久光の権力の基盤そのものが西郷と大久保によって奪われてしまったのです。久光は死ぬまで西郷と大久保にだまされたと言っていたそうですが、このあたりの究極のところで足元をすくわれてしまうのが、久光のやはりかわいそうなところなのです。きっと。若い時のお由良騒動でも、圧倒的優位で物事が進んだにもかかわらず、最後の最後は自分じゃなくて息子が藩主になるという、なんか、裏技みたいなことをされてしまったわけですから、彼にはそういう、これまた不思議な悲運が常についていたと思えなくもありません。

新政府ができてからは左大臣という極めて高い役職を久光は得ることができました。夢にまで見た公職であり、しかも位人臣最高レベルの左大臣ですから、彼の上には太政大臣の三条実朝しかいないという状態になったんですけど、そもそも左大臣には実権が何も与えられませんでした。しかも西郷が西南戦争で命を落とし、大久保も暗殺された後は久光の処遇を心配してくれる人がいなくなってしまい、一人薩摩でイライラしていたようなのです。島津氏家長という極めて恵まれた立場にありながら、ほしいものを全く手に入れることができなかった島津久光は本当に気の毒な、それでいてやっぱりちょっと笑ってしまいたくなるようなキャラでもあるんですけれど、でも、そんな風になっちゃった要因が、彼が悪いんじゃなくて、お由良騒動でいろいろトラウマになってしまったんだと思うと、もうちょっと真剣に同情してあげたくなります。

こんな彼の自己中心的願望実現のために西郷と大久保が動いた結果、明治維新が実現したのだと思うと、実は近代日本建設のために極めて大きな功績のあった人とも言えますから、少しは尊敬してあげてもいいかなと、今回、この内容を作りながら思ってしまいました。



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