19世紀に入り、ヨーロッパ勢力が様々な形で東洋に影響力をおよぼすようになったころ、東洋人に特別なインパクトを与えたのが、やはり近代史で最も有名なヨーロッパ人と言えるナポレオンでした。ここでは1つの具体的な実利に関係した例を取り上げ、更に思想面での影響まで見ていきたいと思います。
実利に関係した例というのは1808年に起きたフェートン号事件のことです。イギリスの軍艦であるフェートン号が日本の長崎港に現れてオランダ人商館員を誘拐し、水と食料をせしめて帰っていったというのがフェートン号事件なのですが、なぜそんなことになったのか、ナポレオン戦争と関連して非常に複雑な動きがあったからで、それは風が吹けば桶屋が儲かる式に起きたできごとでした。
ナポレオンはヨーロッパ全域へとその影響力をおよぼす地域を広げていきましたが、そのようにしてナポレオンに飲み込まれた地域にオランダがありました。ナポレオンがやってくる前、オランダにはハプスブルク家より任命された総督が支配者として世襲しており、ウイレム5世がその最後の総督なのですが、彼はナポレオンに追われてイギリスに亡命し、ナポレオンの弟がオランダ国王になります。これはナポレオンが単にオランダというヨーロッパの一地域を手に入れたということだけを示すものではありませんでした。オランダの植民地もナポレオンの支配下に入ったことを意味したわけです。
ウイレム5世は亡命先のイギリスに、植民地がナポレオンにとられてしまわないよう、なんとかしてほしいと依頼します。イギリスからすれば棚からたなぼたです。ナポレオンが奪ったオランダの植民地を横取りするチャンスですから、大いに張り切り、で、日本の長崎の出島もオランダの植民地であると見なしてフェートン号を派遣してきたというわけです。
そういうわけで、フェートン号は国際社会の正義とか大義とかはあんまり関係なく、ウイレム5世の依頼を大義名分に好き放題やろうというわけですから、入港するときはオランダ国旗を掲げており、出迎えのために船に乗り込んだオランダ商館員を人質にして、水と食料を要求し、ある程度要求を満たしたら帰っていきました。
このとき、仮にも長崎は日本の主権の及ぶ範囲であり、徳川幕府の直轄地でもあるわけですから、長崎奉行と近隣諸藩はフェートン号焼き討ちの検討にも入ったのですが、実行する前に帰って行ったので、そういう事態には至りませんでした。焼き討ちしたらこんどはもっと大きなイギリス艦隊が報復という名目でさらなる海賊行為をしたに違いありませんから、難しいところではあったと思います。とはいえ、まだそこまでイギリスは強くなってなかった時代のことですから、返り討ちにできた可能性は充分にあったとも思いますけれど。
要するにフェートン号事件とはナポレオン戦争の余波を受けて、もともと海賊行為大好きなイギリス海軍が日本で乱暴狼藉を働いたという事件なわけですが、ナポレオンが世界に広げた波紋の大きさには刮目せざるを得ない面があるように思えます。
幕末、吉田松陰はナポレオンについて関心を持ち、日本でもナポレオンみたいな人間が登場して列強の干渉を排除しなければならないと考えていたようです。ナポレオンをヨーロッパからの干渉の象徴として見るのではなく、模範とすべき存在として見たところに吉田松陰の視野の広さを感じさせます。フランスもフランス革命後、ハプスブルク家とか、イギリスとかからさんざん干渉されたわけですが、それをナポレオン押し返しただけでなく、ハプスブルク家のヨーロッパ支配の象徴である神聖ローマ帝国を消滅させたわけで、ハプスブルク家は返り討ちに遭ったとも言えますから、そういうのがかっこいいと吉田松陰は思ったのかも知れませんね。
ちなみに、もう少し後の時代になると、中国の梁啓超という人が、やはり中国にもナポレオンが必要だというようなことを書き残しています。東洋の知識人はナポレオンがどれほど凄いかということに随分を影響を受けたようです。ナポレオンはコルシカ島出身の平民だったわけですが、フランスの皇帝になったというわけで、そういう出世の仕方にも吉田松陰や梁啓超は感銘を受けたのかもしれません。日本で言えば、佐渡島出身の身分の低い武士が将軍になるようなものですから、豊臣秀吉みたいな話になっちゃいますよね。
ナポレオンはフランス民法の整備もして、これをナポレオン法典とも呼びますが、フランスの三権分立とか、今述べたナポレオン法典とかを勉強して帰ってきた人物が西周です。彼は徳川慶喜のブレーンとして活躍しましたが、日本をフランスみたいな国にするということで慶喜と西周は一致していたようです。
西周は日本で最初のフリーメイソンのメンバーになったことでも知られていますが、ナポレオンもフリーメイソンのメンバーだったわけで、ナポレオンはフリーメイソンの理念の輸出も、その戦争目的の一つに据えていたはずです。そういったことを西周は知っていて、それを日本にも輸入しようとしたっぽいですね。徳川慶喜は戊辰戦争の時に西郷隆盛に殺されかけたのをイギリス公使パークスが間に入って命拾いしていますが、このあたりにはフリーメイソンらしい近代国際法順守の精神も見られるように思えますから、おそらく、完全に想像ですけど、徳川慶喜もフリーメイソンのメンバーだったのではないでしょうか。