徳川時代は260年という長い寿命を誇ったわけですが、徳川幕府の全盛期は第三代将軍家光の時代で、わりと早い段階で迎えています。その後ピークアウトした徳川幕府は諸大名とうまく折り合いをつけたり、適当に互いにご機嫌を取り合ったりしながら、なあなあで物事が進められたわけですが、家光の時代は全然、なあなあではありませんでした。問題を起こした大名は平気で潰したのは有名なことですが、後世まで最も大きな影響を与えたことは、カトリックの追放と、徳川氏の血筋の論理の変更でした。今回は家光に関係するカトリックの話題と血筋の話題をやりたいとは思っているんですが、その前に、なんで家光はそんなにパワフルだったのかということをちょっと述べておきたいと思います。
まず第一に、家光には非常に高い権威がありました。家光が生まれた時、すでに徳川幕府が存在していましたので、彼は生まれた時から将軍家の人間なわけで、生まれながらにめっちゃ高貴な人ということになるわけなんですね。家康は確かにすごいんですが、成り上がっていった人であるということは同時代人なら誰でも知っています。秀忠も家康と一緒に成り上がり人生を歩んで来たということを、やはり同時代人は知っているんですね。豊臣氏をなぶり殺しにして手に入れた天下じゃないかと誰も言わないけど、それも知っているわけです。一方で家光はそういう泥臭い面を抱える必要がないので、堂々たるものなわけですね。
次に強大な軍事力も挙げることができます。徳川家康の時代、家康と一緒に戦った連戦連勝の三河武士軍団が無傷で家光を支えていました。当時の彼らの凄いところは実戦経験及びその成果に於いて日本一だったことです。徳川家臣団が戦争に負けたのは三方ヶ原の戦いだけで、後は全て勝っています。まだ戦国の空気を覚えている人も大勢いて、日本一強い彼らが何かあったら勝負するというわけですから、諸大名はしらけちゃって、もういいや。逆らいませんというような感じになっていたんですね。
で、やはり経済力です。徳川家康が豊臣氏から奪いつくした利権によって蓄財された莫大な遺産が家光を支えていました。四代将軍の時に明暦の大火によってそういった経済的アドバンテージは失われたともいわれますが、家光の時代はまだ明暦の大火は起きていませんから、経済的にも大丈夫だったというわけですね。
で、彼の時代に非常に熱心に行われたことの一つが、カトリック勢力の完全追放でした。遠藤周作さんの『沈黙』という作品でも、カトリック司祭のロドリゴがイエミツってやつがひどいんですよと手紙を書いていますが、家光の時代に徹底的にカトリックが取り締まられました。カトリック信徒が最後の力を振り絞り、信仰の自由だけでなく農民の生活の安定を求めて島原の乱を起こしましたが、幕府軍は乱の参加者を全員殺害するという極めて凄惨な方法で鎮圧しています。天草四郎たちはローマ・カトリックの援軍が来るのを待っていたと言われていますが、そのような援軍は来ませんでした。アルマダの海戦で真剣なカトリック国であるスペインの無敵艦隊が全滅していましたから、既に日本まで援軍を送る力が残っていなかったとも言えますが、援軍に行ったところで当時、戦国時代を勝ち抜いた世界最強徳川軍と戦う羽目になりますから、勝てるわけないので、諦めたというのもあると思います。今もローマ・カトリックでは島原の乱を聖戦とは認めていないそうなのですが、これはおそらく、力不足で信徒を見捨てざるを得なかったという事情があったのからではないかと想像してしまいます。
ちなみに、カトリック勢力が追放された一方で、イギリスとオランダという非カトリックの新教の国家は徳川幕府との交易が認められていたわけですが、結果的にオランダだけが交易を続け、イギリスはそうではありませんでした。なぜそのようになったのかというと、オランダとイギリスの間で東洋の貿易の独占権を巡る争いが激しくなり、インドネシアのオランダ東インド会社の傭兵たちが、アンボイナという土地にあったイギリス東インド会社の商館を襲撃し、全員殺害するというショッキングな事件が起きていて、これをアンボイナ事件と呼ぶんですが、全員殺害されために事件がイギリスに伝わるまでちょっと時間がかかったという恐ろしいできごとではあったんですけれど、これによってイギリスはしばらくの間、東洋からは撤退せざるを得なくなり、オランダが残ったというわけなんですね。ちなみに攻めるオランダ側の傭兵は日本人で、守るイギリス側の傭兵も日本人だったそうです。日本で戦国時代が終わってしまったため、日本で生活の糧を得られなくなった野武士のような人たちが東南アジアへ渡って傭兵という稼業をしていたからなんですが、強くて勇敢なことで有名だったそうです。タイで活躍した山田長政なんかもそうですね。この山田長政のことも遠藤周作さんが『王国への道』という作品で書いてますから、ご興味のある方はお読みになっていいのではないかと思います。
で、家光の凄いところは、以上のようなことだけではないんですね。なんといっても、家康が遺言した血の論理に家光の影響力が発揮されたんです。家康は徳川直系の徳川宗家が途絶えた場合、徳川御三家が徳川宗家を継承すると遺言しました。もうちょっと細かく言うとですね、尾張徳川家が最もランクが高いですから、彼らが宗家を継承する。もし尾張徳川家に事情が生じてダメになった場合は紀州徳川家が継承するとなっていました。残りの一つである水戸徳川家には実は継承権はありませんでした。四代将軍家綱の後継者が育たなかったため、五代目将軍を誰にしようかという話になった際、本来なら御三家、はっきり言えば尾張家が継承するのが筋なんですけれど、五代目の綱吉は御三家の人じゃないんですね。綱吉は家光の息子の一人ではあるんですけど、徳川の分家を創設して、松平を名乗って館林藩主になってました。徳川じゃなくて、松平を名乗っていたわけですから、要するに徳川家臣の身分になっていたんです。幕臣たちはそれでも尾張徳川家の人物じゃなくて、松平綱吉を将軍に据えます。理由は家光の息子だから。要するに家光の血統が家康の遺言を凌駕したというわけなんです。この家光の血統が優先されるという論理は7代将軍まで貫かれました。もちろん、そのようなことになった理由は、もし尾張徳川の人物が将軍になった場合、尾張から新しい人材がどんどん入ってくることを幕府官僚たちが恐れたからに違いないのですが、それでも、家光の血筋優先という論理が説得力を持つと考えられたあたりに、家光の影響力の絶大さを垣間見ることができると言えると思います。
とはいえ、家光はその最期は急病で倒れて、そのまま逝去していますから、なんというか、ちょっと疑わしいところがなくもないというか、やっぱり強権政治を貫いたので恨まれてしまったのかな、などのような想像力が働く余地がないわけでもありません。また、家光の日光のお墓は非公開だそうなのですが、それもなんで?という意味深な印象を与えます。家光には人格的に問題があったとか、病的な性格だったとかの伝説も残っていて、そういったことがどこまで本当かは分からないし、家光の評判を落としたい人が始めたネガティブキャンペーンの可能性もありますから、そんなことを真に受ける必要はないかも知れませんけれど、今述べたような事情を考えると、いろいろ、やっぱり、要するに意味深なものがあったのかも知れませんね…。