関ケ原の戦い‐家康勝利の理由

明治時代、軍事指導のために日本に来たドイツ人のメッケルは、関ケ原の戦いの布陣の図面を見た瞬間、西軍の勝利であると発言したと言います。最近は諸説あって、本当に陸軍大学などに伝わった、古典的な関ケ原の合戦図面が正しいかどうかについては議論がありますが、それでもそこまで大きく実態から離れてはいなかったでしょうし、伝統的に伝わる図面では西軍が家康の陣地を挟み撃ちする形になっていますから、挟み撃ちされたほうが負けるという絶対的な戦いの定理に照らし合わせて、メッケルは迷わず西軍の勝ちであると発言したわけですね。

もちろん、我々は西軍は負けたことを知っています。しかも半日で西軍は総崩れになり壊滅的な敗北を喫したわけです。なぜ、そうなったのか、今回はそれを確認しておきたいと思います。

関ケ原の戦いでは、徳川秀忠の軍が真田の領地で足止めされてしまい、東軍の戦力が整わないままに戦いが始まっています。西軍でも毛利輝元が大坂城の大部隊を連れてこないまま戦いが始まっていますから、どっちもどっちとも言えますが、実は陣地の構成や兵隊の数とは関係のないところで、戦いの結果は決まっていたということができるのです。

というのも、家康は関ケ原の戦いでは、関係者全員を騙す、最後まで騙しぬくとの覚悟を決めて戦場に臨んでいます。そして目論見どおりにみんなが騙されまくって家康勝利になったのです。家康は心理戦で勝利したというわけです。ここで家康がどんな風にだましたのかを見てみましょう。

最大の騙しは、家康があくまでも豊臣秀頼の家臣としての言動を決して崩さなかったことです。これにより、福島正則のような豊臣家への忠誠心が極めて厚い武将を東軍に取り込むことに成功しました。もし家康が秀頼に対して反旗を翻していると考えられたとすれば、多くの武将の支持を失っていたことは違いありません。すでに天下統一がなされた後の時代ですから、誰も戦乱の世に逆戻りしたいとは思っておらず、家康に協力すれば謀反人の汚名も着なければならぬとなれば、みんな嫌がって逃げてしまいます。しかし、家康は関ケ原の戦いを徳川vs豊臣の戦いではなく、徳川vs石田であるとの演出をすることに成功しました。福島正則は石田三成のことが殺したいほど憎んでいましたから、秀頼に反抗するのではない限り、家康の味方についたというわけです。福島正則はこの点について徳川家康に確認する手紙を送っていますから、やはり本心では不安に感じていたのでしょう。まあ、ここは見事に家康に押し切られてしまいました。福島家は戦争が終わった後は言いがかりをつけられてつぶされていますから、ここはかわいそうですが、頭脳戦に負けてしまったというわけです。

次の家康の騙しは毛利輝元に向けてなされたものです。毛利輝元は石田三成に依頼されて西軍の名目上の総大将になり、大坂城に入っていました。家康は毛利輝元に手紙を送り、戦争が終わったら大幅に毛利氏の領地を増やすから、大坂城から動かないでくれと頼んでいます。毛利輝元はそれを受け入れ、大坂城から動きませんでした。

関ケ原の戦いの布陣図を見ると、徳川家康の背後をつくことができる位置に、毛利秀元、安国寺恵瓊、吉川広家の部隊が存在しましたが、この3人は毛利氏の武将なわけですね。家長の毛利輝元が戦争に参加するふりをするだけなのですから、彼らも戦うふりをするだけで本気で家康を攻めるつもりにはなりませんでした。要するに図面の上では西軍が家康を挟み撃ちできる状態でしたが、実際には家康の背後の西軍はやる気がなかったのです。家康の陣地の背後は安全だったというわけです。

戦争が終わった後で毛利は領地を増やしてもらえるどころか領地を削られています。毛利氏はこの恨みを250年忘れず、幕末の動乱の時代にひたすら討幕運動をするわけですから、本当にいろいろなことが因果応報みたいになってます。安国寺恵瓊に至っては斬首されていますから、だまされて斬首って本当に気の毒です。

さて、最後に小早川秀秋ですが、彼は騙されたというよりもいろいろ考えて、西軍を見捨てることにしたわけですが、かといって本当にぎりぎりまで悩んでいたかというと、そうとも言い難いところがあります。というのも、家康とは密約が成立してはいたのですが、その密約の実行を担保するために家康から監視役が送り込まれていました。ですから、秀秋がぎりぎりまでどっちが勝ちそうなのか旗色をうかがっていたというのは、後世に脚色されている可能性があります。とはいえ、もし本当に家康が負けそうなら、家康から送られてきた監視役なんて殺してしまえばいいわけですから、やはり戦場で家康有利と判断したというのはあるでしょうね。また、小早川秀秋には、あまり秀頼に肩入れする義理はなかったんです。もともと秀秋は将来、秀吉の後継者になることを期待されていた時期がありました。秀秋は秀吉の妻のねねのお兄さんの息子として生まれ、幼少期に秀吉の養子になりました。秀吉とは直接の血のつながりがなかったものの、当時、秀吉の姉の息子である秀次が秀吉の後継者と目されていて、秀次にもし何かあれば、秀秋が後継者になると見られていたのです。

ところが秀頼が生まれてきます。秀次は殺され、秀秋は小早川家に養子に出されました。秀秋の場合、まだ養子に出されただけで済んでよかったとすらいえますが、秀頼が生まれてきたおかげで、豊臣氏から冷遇されたわけですから、秀頼に対して処理しきれない感情があったに違いありません。ですから、家康から甘い言葉で誘われると、だったらそうしようかな。という揺れる気持ちが常にあって、そこを家康に付け込まれたとみるべきかも知れません。関ケ原の戦いが終わって2年ほどで病死していますが、20代の若者で、一番健康な時期ですから、毒殺のような気もしてしまいますが、いずれにせよ裏切者にはろくな未来がないようです。

さて、石田三成はどうすればよかったのでしょうか?実は三成は秀頼の出馬を狙っていたようなのです。もし、秀頼が戦場に出てきて、後方でいいので座って戦いの行く末を見守っていたとします。もちろん、秀頼を擁立しているのは石田三成ですから、果たしてどちらが正規軍は明らかになります。徳川家康の味方をすれば、謀反人扱いされてしまうわけですね。福島正則は反転して家康を狙ったでしょう。その状態で毛利輝元だけ大坂城にこもっているわけにもいきませんから、秀頼の隣に毛利輝元が座るという図になります。その場合、家康の背後の毛利の兵力が家康に襲いかかることになりますから、西軍勝利は間違いなかったでしょう。家康は殺されていたはずです。

豊臣氏が滅亡したのは、家康が様々な陰謀を巡らせたからですが、秀頼を外に出す勇気を淀殿が持っていれば、後の悲劇を回避することは十分可能なことだったと思います。陰謀はしょせん、正面切った、正々堂々としたものに対抗することはできないのですから、もし、淀殿と秀頼の母子に同情するとすれば、この時に出馬していれば…ということを悔やんでしまわざるを得ません。

というわけで、次回は豊臣氏の滅亡の話になります。



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