石田三成襲撃事件

豊臣秀吉が亡くなった後、豊臣家臣の間での対立が激しくなっていきます。「対立」と言うよりも、憎悪のぶつかり合いと呼んだほうがいいかも知れません。対立の主軸になったのは、加藤清正や福島正則を中心とする豊臣家武闘派家臣のグループと、石田三成や小西行長のような文系官僚タイプのグループによるやはり利害関係というよりは、感情的な対立と呼ぶべきものが表面化していきました。

加藤清正派も石田三成派もどちらも秀吉子飼いの武将であり、幼少年期から一緒に育ったような間柄なのですが、それゆえに感覚の合わない者同士、憎悪の深さも半端なかったらしいのです。

特に朝鮮半島での戦争の時は、石田三成のような文系官僚は輸送などのロジスティクスを担当し、秀吉に視察の結果を報告する役割を担った一方、清正は前線で体を張ったわけですが、自然、三成が秀吉にどのような報告をするかで、いろいろなことに違いがでてきます。今でも人事査定は誰がやるかで違いが出ます。まあ、そのようなことだと思えば、小さなことの積み重ねでついにゆるせなくなってしまったと加藤清正の感情が理解できないわけではありません。また、まじめに仕事をこなしただけの三成が、なぜ憎まれるのか、知るかそんなこと、迷惑な。と思ったとしても全く理解できないわけでもありません。要するにどちらにもそれなりの理があるということになります。

前田利家が生きている間は、まだ双方に対する置石みたいな役割を担うことができていて、対立の暴発を押しとどめることができていたようなのですが、前田利家が死ぬと、もう止まらないとばかりに加藤清正や福島正則たちが軍隊を組織して大坂の石田三成の屋敷を襲撃しようと動き始めます。

察知した三成は急ぎ伏見へと逃げるのですが、清正たちは伏見へ追っていき、遂には伏見城を包囲するという事態まで発展します。このとき、三成は伏見のいずれかの場所にいたはずですが、一説には伏見の自分の屋敷にいたともいわれますし、他には徳川家康の屋敷にかくまわれたともいわれています。真実はどうかはわかりませんが、徳川家康にかくまわれたとしても不思議ではありません。

というのも、当時の徳川家康は豊臣家臣の頂点である五大老の一人として伏見城で政務をこなしていましたから、要するに伏見城とその城下は家康のテリトリーであり、家康としては伏見城界隈で加藤清正と石田三成が個人的な恨みを理由に殺し合いをすることは止めさせる必要がありますから、家康が宿敵三成をかくまったとしても、家康の立場なら十分にあり得るのです。仮に家康の屋敷ではなく、伏見城内にかくまわれたのだとしても、家康の意思が働かなければ三成はかくまわれませんから、家康が三成を助けたという構図に違いはないのです。

当時、前田利家がいなくなった後では、家康の天下取りの構想を押しとどめるものはいませんでした。秀吉は大名が個人的に訴訟を取り扱ったり、婚姻関係を取り扱ったりすることを禁止すると遺言しましたが、家康はそういうのは無視して自由に動き始めていました。豊臣政権が家康に乗っ取られるとの危機感を持った石田三成とはすでにバチバチの対立関係にありましたから、事実上の敵同士でありながら家康が三成をかくまうというところに歴史のおもしろさがあるとも言えると思います。

加藤清正や福島正則は家康に説得されて石田三成を殺害することをあきらめます。石田三成もそのまま佐和山城へと帰り、引退の身になりますから、まあまあ、痛み分けといったところかも知れません。関ケ原の戦いが起きた時、加藤清正は九州の領国にいて動きませんでした。福島正則に至っては東軍に参加し、その先鋒になっています。

加藤清正と福島正則は石田三成同様に豊臣氏に絶対の忠誠心を持っていたことは確かなようなのですが、三成とは違って家康の野心に十分に気づくことができず、家康の老獪な手練手管で骨抜きにされてしまい、豊臣氏を守ることができなかったことを思うと、なかなか残念な家臣たちのようにも思えます。あるいは、家康の野心に気づかないわけではなかったけれど、三成への憎悪が優先してしまい、三成が采配を振る西軍には参加しようとしなかったというわけですから、彼らの大局を見る目のなさは気の毒なほどです。

福島正則は関ケ原の戦いの直前に家康にあてて出した手紙の中で、家康がこの戦いに勝った後も豊臣秀頼に対して反逆しないよう約束してほしいと求めています。家康はいくらでも約束したでしょうが、そのような空手形みたいな約束にすがりつつ、彼は結果として主君筋の豊臣氏を滅ぼすのに一役買っていたわけです。

加藤清正も福島正則も家康が天下をとったあとでいろいろ理由をつけられて家をつぶされています。だいたい、本来西軍につくのが筋な武将で東軍の側について長持ちした大名家はほとんどありません。やはり、そういうタイプの武将は家康からすれば敬意を払う対象ではないので、つぶしていいやと思うのではないでしょうか。小早川秀秋なんかもそうそうに不審な病死を遂げています。

武田勝頼が滅ぼされたときに、穴山梅雪が徳川家康に協力して武田氏を裏切っていますが、ほどなく不審な死を遂げています。家康は実家が弱小なので相当な苦労をした人ですし、三河武士の忠誠心以上の宝はないと気付いていたでしょうから、そのあたりがの倫理がちょっと怪しいやつには容赦なかったように思えます。

さて、石田三成は一応は家康のおかげで命拾いし、佐和山城で関ケ原の戦いのための構想を練ります。誰を引き込み、誰が裏切るかというようなこと、どこで決戦するかというようなことをいろいろと考えたと思います。現代風に言えば自民党総裁選挙の票読みみたいなことだったのだろうと思いますが、当時は負ければ殺されますからもっと真剣なものだったかも知れません。

しばらくしてから家康は会津地方の上杉氏を討伐するという理由で上方を離れて出発します。石田三成は上杉氏と気脈を通じて家康の出撃をうながしたわけですが、家康も自分が上方にいない間に三成が挙兵するであろうことを知った上で三成の動きを見つめいました。双方、分かったうえで、それぞれに騙されたふりをしつつ、だましあうという心理戦、駆け引きを経て、戦国日本の最終決戦である関ケ原へと突き進んでいくことになります。



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