武田信玄は戦国武将の中でも特別有名な人物だと言えますが、彼がそこまで著名な理由の大きな要因は織田信長、徳川家康という二人の天才が強いプレッシャーを感じた相手がこの武田信玄だったということにあるのではないかと思います。私は以前、学生から、好きな戦国武将は誰かと質問され、武田信玄と答えたことがあります。これから武田信玄のことをめちゃくちゃ言いますけれど、基本的には信玄への愛があるのだと思っておつきあいいただければ幸いです。
信長と家康が同盟を維持し続けたのは、武田信玄に対抗する必要があったからですし、武田信玄が晩年に於いて織田信長を討つために京へ向けて出発したときは、やはり信長、家康そろって、これはもしかすれば万事休すかと恐怖を感じたに違いないと思いますから、まあ、それだけでもすごいわけですよね。
武田軍は日本最強騎馬軍団を持っていて、負け知らずと評価も高いですから、さぞ、武田信玄もすごい人、一度はあってみたい、オーラの光るカリスマみたいに想像してしまいますが、彼の人生をたどってみると、性格は陰湿で、内面には相当に鬱屈したものを抱えていたに違いないとどうしても思ってしまいます。
たとえば、非常に有名な話ですが、彼はまず父親の武田信虎を追放しています。クーデターを起こし、隣の今川領に追いやって、信玄は死ぬまで信虎を受け入れることはありませんでした。信虎はその後京都に行ったりして第二の人生をエンジョイしていた時期もあったようなのですが、信玄が死ぬと武田領に呼ばれ、楽隠居として晩年を過ごします。武田氏が信長に滅ぼされる前に天寿を全うして他界していますから、信虎は結構、運のいい男とも思うのですが、注目したいのは、信玄が信虎を殺していないということです。その気になったら殺すチャンスはいつでもあったと思いますが、おそらく、幼少期から信虎にいじめられ続けたに違いない信玄に信虎を殺す勇気はなかったのでしょう。それだけ信虎への鬱屈した気持ちは強かったのだろうとみることもできると思います。殺してしまったら、憎むことができなくなっちゃうので、殺さなかったのかもしれません。
信玄は近しい人物と激しく対立した面を持つ人ですが、特に激しかったのは、彼の父親との対立よりも、むしろ息子との対立と思います。後継者と目されていた義信が謀反に参加していたとの疑いをもたれます。信玄は彼をお寺に幽閉したのですが、なんと幽閉期間は2年に及び、義信はそのお寺でなくなっています。父親に殺されたと見るべきだとは思いますが、仮に直接に手を下されていなかったとしても、2年も幽閉されたら心身がおかしくなって当たり前ですから、自殺であろうと病死であろうと信玄が殺したようなものといえると思いますね。
結局、信玄の後継者は正室の三条の方の生んだ男子ではなく、側室の諏訪一族の女性に産ませた勝頼ということになったのですが、こんなことをすると伝統ある甲斐武田氏の古い家臣たちはついてきません。三条の方は京都のお公家さんの娘さんですから、その血筋の高貴に誰もが納得しており、三条の方の生んだ息子さんだったら文句はないわけですが、勝頼の母親は武田氏によって滅ぼされた諏訪氏の女性なわけです、俺たちが滅ぼした家の娘さんの生んだ息子が主君ってか?そんなのありかよ?という不満がわいてくるんですね。今なら血筋で人間を判断することは許容されませんが、当時は本人の努力や個性よりもまず血筋です。ですから、勝頼は血筋的にあんまりぱっとしないんです。そういう勝頼を後継者にしてしまうと、お家騒動の元になりますし、勝頼本人も苦労します。勝頼はかなり優秀な人物だったらしいですから、信玄の後継よりも、独立させて好きにさせたほうがもっと凄い実績を残したかもしれません。
信玄の陰険さは外部との戦争にも表れています。たとえば、駿河の今川氏ですが、織田信長との戦いで今川義元が死んだあと、どうしても今川氏はぱっとしないわけですね。で、だったら、もらっちゃおうということで、三河の徳川家康に話をもちかけ、三河と甲斐の二正面から駿河を攻略し、今川氏を滅ぼして家康と信玄は旧今川領を二分しています。家康はちょっと前まで今川軍団のメンバーでしたから、そういう男に今川を攻めさせるっていうのは、結構、陰険なやり口なわけです。今川にとっては弱り目に祟り目です。しかも、関東甲信越地方は上杉謙信に対抗するために武田、今川、北条で三国同盟を維持することが基本姿勢でしたから、まあ、そういったこれまでの経緯とか全部無視して、関係者みんなが傷つくことを承知で、やっちゃうわけです。すごいですよね。血も涙もないですよね。
そのような武田信玄には、徳川家康もひどい目にあわされています。三方ヶ原の戦いでは、武田信玄が家康の軍隊を待ち伏せして壊滅させていますから、赤子の手をひねるようなものというか、まだ若い家康をもてあそぶという残酷な心理も見え隠れしています。
さて、武田信玄が家康をいじめることになった理由は、織田信長を殺す目的で甲斐を出発し、途中で家康の領地である三河を通ったからですが、信玄に狙われた信長は、信玄には勝てないとの自覚があったので、かなりのプレゼント攻撃をしかけていたようです。信玄の好きなものを調べて、それを甲斐まで送り届けていたみたいなんですね。で、信玄に漆塗を贈ったとき、信玄は漆を削らせて、どれくらい厚く漆が塗られているかを調べさせたそうです。想像以上にたっぷりと漆が塗られていて、信玄は信長を称賛したそうですが、もらった漆塗りを削らせるって、その発想が陰険ですよね。しかも、最高級の漆塗りをもらうだけもらっておいて、やっぱり信長を殺す決心をするわけですから、知れば知るほど、いやなやつです。
ですが、戦場に奇跡が起きました。織田信長と戦う直前、武田信玄は陣中で病死し、武田軍は黙って甲斐へと引き返します。戦国最強の大軍団が静かに帰途に就く様子は風の谷のナウシカでオームたちが森へ帰っていくくらいの迫力のある絵になったことでしょうね。信長は自分の強運に自信を持ったに違いありません。信長が最も恐れた男である武田信玄が、いよいよ本当に信長を殺そうとしていた、その直前になって、病死するんです。ほとんどフィクションみたいな話です。
武田信玄が信長を殺そうと決心した理由には、将軍足利義昭からの命令ということもありますが、信玄が仏教を熱心に信仰しており、信長の一向宗門徒の虐殺や延暦寺焼き討ちを看過できなかったという話もありますよね。信長からすれば、信心深い信玄が志半ばで倒れ、罰当たりのはずの自分が完全勝利するんですから、神仏なんか、存在しねえと確信したとしても無理からぬことかもしれません。それでも、ある時、魔が差したようにして明智光秀にやられちゃうわけですから、人間の運命とは不思議なものです。
私たちは戦国時代に生きていませんから、命のやりとりをする必要はありません。運命は不思議なものだから、がんばっていればきっといいこともあるよ、と、よりよい未来を信じてがんばりましょう!
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