無能な将軍と応仁の乱

室町幕府の第八代将軍である足利義政は無能な将軍であったことで知られています。無能と断言してしまうのもちょっと気の毒な気はしますが、少なくとも政治家としては完全に無能であり、芸術家としては、見るべきところの多かった人、日本の芸術文化に貢献の大きかった人と評していいのではないかなと思います。著名な日本文化研究家のドナルド・キーン先生も、足利義政を題材にした著作で、彼を無能と言い切り、且つ、芸術への貢献に関する賛辞を惜しんでいません。

もし、彼が単に花鳥風月を愛することしか知らない人であったとすれば、私は彼のことを純粋な人だったんだなと評すると思います。ですが、そういうわけでもなくて、結構なエゴイストでこざかしさを発揮する場面もあって、それゆえに彼への評価はその分歪んでしまいます。
そのあたりをちょっと詳しく述べたいと思います。

足利義政は政治に関心が持てず、早く将軍を辞めたいと思っていました。その気持ちは分かります。彼の父親である将軍足利義教は赤松満祐に招かれた先で殺されています。赤松氏の邸宅での酒宴の最中、出入り口がしっかりと閉じられた状態で武装した赤松氏の武士たちが乱入し、足利義教の肩を抑え込んだそうです。義教は「てめえ、何すんだ、このやろー、話せ」と叫んでいるうちに首を斬られたそうです。

そんなことが身近な人に起きてしまったら、そりゃ、自分も同じ職業を選びたいとは思いませんよね。ですから、足利義政が将軍を早くやめたいと思ったことには同情できます。特に彼のように駆け引きの下手な人物であれば、いつ殺されるかわかったものではありませんから、命のあるうちに将軍を辞めたいわけです。

ですが、彼には男の子が授かっていませんでした。当時の武家は男の子さえ授かればどうにでもできたという面もあったと思いますけど、とにかく男の子はいないのです。義政は、弟の義視を担ぎ出すことにしました。その時の義視はお寺の僧侶でした。将軍家とか天皇家のようなおうちでは後継者争いが起きるのを予防するために、正式な後継者以外の男子が僧侶になるというのは普通でした。僧侶であれば俗世の権力争いに首を突っ込んでくることはありません。これは僧侶になった本人にとっても命を狙われる心配がないという点でメリットのある選択肢だったと思います。ただし、いったん出家した人が還俗するってメンツ的にもカッコ悪いし、本人の人生に対する覚悟みたいなものを考えても心情的に結構たいへんだろうなと思います。で、兄の義政から次の将軍になってほしいと頼まれた義視はそれを引き受け、還俗します。義政がさっさと引退して義視が将軍になっていれば、もしかすると何事もなく過ぎたのかも知れませんが、義視が還俗して将軍を継承するまでのタイムラグみたいな状態で、義政の妻の日野富子が男子を出産します。これで話は思いっきりこじれることになってしまいました。或いは日野富子としては、男子が生まれればその子を将軍にしたいので、自分が出産するまでは義視への将軍交代を遅らせるという工作でもしたのかも知れません。いずれにせよ、将軍義政に男子が授かってしまったのです。この男子の名を義尚と言います。

義視としては還俗までしているのに梯子を外されているわけですから、ちょっとこのままではやりきれません。兄の義政も、義視を政治に引き込んだのは自分だという自覚がありますから、義視の側に立ちます。細川勝元にも頼んで義視の後見人になってもらい、このまま義視を次期将軍にするということで突破しようというわけです。

当然、日野富子は承知しませんでした。山名宗全に頼んで義尚を助けてもらおうとします。室町幕府は真っ二つに割れ、京都を中心に戦乱になりました。応仁の乱です。

この戦い、なんで始まったんでしょうか?考えてみると、足利義政の無思慮な行動が要因です。とにかく早く政治家を辞めたいがために義視を巻き込み、とうとう日本全国真っ二つの戦争になってしまいました。なんとなく義政がこずるい上に頭が悪い策士みたいに見えてしまい、こいつ大丈夫か。。。と思ってしまいます。巻き込まれた義視もいい迷惑と思えてしまってなりません。

十年続いた応仁の乱ですが、その最中、すっかり戦争が他人事になってしまった義政は東山にこもって自由に芸術に打ち込みます。友達も呼んで好きなことをする楽しい日々です。次の将軍は義視なり義尚なり、戦いに勝った方がやればいいのです。

一方、日野富子が戦費を調達するために奔走しました。日野富子としては勝って義尚を将軍にする以外に選択肢はありません。ちなみに義視の方は、やはり和尚様としての人格形成がなされたからなのか、次第に勝ちにこだわらなくなっていったように思えます。

日野富子は細川勝元に頼んで自分の陣営に来てもらいました。細川勝元は本来、義政・義視サイドにいたわけですが、義政は無為無策ですから、義視は梯子を外された感じで孤立したことになります。おっとしかし、山名宗全が細川勝元と一緒にやれるか!と、日野富子陣営を離脱し、義視と組むという意味不明な離れ業現象が起きました。関ケ原の戦いで徳川家康が西軍についたりするのに匹敵するアクロバット戦略です。連合艦隊が東京に向かって砲弾を撃ち込むようなものです。

結局のところ、義視も身を引き、次の将軍は義尚ということで話がまとまって、なんだかよくわからない大義名分すら存在しない応仁の乱は終わりました。以前は京都は焼け野原になったと考えられていましたが、あんまりにも関係者がだらだらとしていたため、実は大した戦乱は起きていなかったのではないかとする見方もあるようです。

それはそうとして、この戦乱は足利将軍家の内紛であったと言っていいわけですけれど、長い戦乱のために足利将軍の権力は地に堕ち、下克上が普通になる戦国時代へと世の中は流れていくことになります。百年以上続いた戦国時代が義政の負の遺産だったとすれば、義政どんだけ?とついつい思ってしまいます。もちろん、戦争中に彼が東山で突き詰めた芸術の成果は今も賞賛されており、茶道が今の日本に存在するのも、義政のおかげみたいですから、そこはちゃんと評価してあげないとかわいそうかも知れません。でも、なんといえばいいか、義政さんって瓢箪から駒みたいな人生を歩んだ人ですね。



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