これまでに鎌倉将軍のことを中心に何度か述べてきましたが、鎌倉時代について語る際、北条氏について述べないわけにはいきません。北条氏こそが鎌倉時代の主役であったと言うことができるでしょう。また、鎌倉時代で最も記憶されるできごとの一つとして元の襲来も外すことはできません。本来、北条氏と元はそれぞれ個別に歴史に登場してきたアクターでしたが、元が日本に襲来することで両者は密接に関係することになります。
まず北条氏の状況を確認してみましょう。元が襲来した時、若き執権北条時宗が日本の事実上の最高司令官でした。時宗は10代で鎌倉幕府のナンバー3の地位である連署というポジションに就き、経験を積みやがて執権になります。この経験を積む過程では、時宗の腹違いの兄である時輔が京都で窓際族みたいになっていたところを殺害されるという事件も起きています。これを2月騒動と呼びます。北条氏の人物でありながら冷遇されていた時輔が謀反に加担していたと見られていたために起きた事件なのですが、全くの誤解だったのではないかとの指摘もないわけではありません。時輔はその後も生き延びたとの説もあります。というのも、それよりしばらく後の時代になって、謀反人の時輔が吉野に逃げ延びているので討ち取れとする命令書が残っているらしいのです。その命令書が本物であるとすれば、時輔が本当に生き伸びたか鎌倉の北条氏が事実誤認していたかのどちらかになりますが、時輔生存説はぐっと高まることになります。
まあ、ちょっと時輔にばかりフォーカスしてしまっていますが、何を言いたいのかというと、北条時宗は無実の兄を死に至らしめるという後ろめたい経験を経て執権という最高司令官に就いているわけで、そういう意味では過酷な修羅道を歩まねばならなかったという同情すべき人生を彼は送ったのだという認識を述べたいわけです。なぜそんなことを述べるのかといおうと、時宗の時代に元の襲来で北条氏は求心力を極限まで高め、天皇人事にまで影響力を発揮するようになっていきますが、同時にこの時は北条氏支配の終わりの始まりにもなったと言うこともできるからです。元の襲来によって鎌倉時代の武士は非常に大きな負担を背負い込みましたが、北条氏はそれを充分に救済することができず、そのことが北条氏滅亡の遠因になったと言えますし、天皇人事への介入について言えば、後に後醍醐天皇がそれを理由に打倒鎌倉幕府で突き進みますから、考えてみる北条氏滅亡の直接の要因になったとも言えるわけです。北条氏は非常に過酷な、同情せざるを得ない、一族滅亡という運命を後に辿りますから、そのように思うと時宗による北条得宗家絶頂期は、滅亡のカウントダウンの始まりであって、後の歴史を知る私たちはなんとも言えない、胸の中にくさびを打ち込まれたかのような重苦しさを感じながら当時の歴史を辿ることになってしまわざるを得ないわけです。
そうはいっても、元の襲来は日本の勝ち戦でもあったわけで、そういうポジティブな面がないわけでもありません。元は一度目の日本遠征ではモンゴル兵と高麗兵の混成軍団を送り込んできたものの、日本の武士の徹底的な抵抗に遭い、日本占領を断念して引き返しています。このとき、神風が吹いたとする立場と、それを疑問視する立場に分かれるようですが、網野善彦先生は当時の日本の公家の日記に嵐に関する記載があったことを重視し、暴風雨はあったとの見解を示しています。同時代人の日記というのは説得力があるわけですね。しかも、これが元の遠征軍の人のものだと、立場的に暴風雨があったからやむを得ず帰還したんです。というような言い訳の材料になってしまっていて説得力があるのかどうか微妙ということになってしまいますけど、京都のお公家さんの日記であれば、九州で元軍と日本軍が戦ったことについて、かなり中立的なことが書けるでしょうから、内容はかなり信頼できると考えて良いわけですね。
運命の二度目の日本遠征では元はモンゴル兵+高麗兵+中国人兵士という総力を挙げた陣容で九州へと迫りました。元の大船団は長崎県の五島列島あたりから博多湾あたりまで続くという壮大なもので、海軍力では日本側は太刀打ちできませんでした。ただし、防塁を各地に設置していたため、元軍の上陸は相当程度に阻むことができたようです。また、上陸に成功した敵に対しては日本側は勇猛果敢な攻撃を繰り返すことができ、元にとっては相当に手ごわい相手だったようです。鎌倉武士の剣術の鍛錬はおそらく当時の世界最高レベルだったでしょうから、地上戦では本領発揮ができたようです。元軍はモンゴル兵、高麗兵、中国人兵の間の連携がうまくいっていなかったようで、要するにバラバラに挑んできたらしく、その分、日本側にとって有利な状況も生まれていたようです。
この時の戦いでは本物の暴風雨によって元の大艦隊は大打撃を受けたのですが、既に戦闘が2か月にも及んでいたため、そりゃそんなに長く海上にいたら時化に襲われるのは普通に想定できるというのが一般的な見方のようです。巨大な経済力で世界最大最強の大艦隊を作ったものの、その扱いについてはまだ慣れていなかったというのが不幸だったのかも知れません。この神風によって大打撃を受けた元軍の司令官たちは帰国し、末端の兵士たちが各所に残され、日本軍は彼らに対して容赦ない殺戮を行ったようです。マルコ・ポーロは『東方見聞録』で数万人の元軍の兵士が奴隷にされたと述べており、元朝の記録にもそのように書かれているようなのですが、私は日本側の記録に大量に生け捕ったという話が残っているのを知りません。知っている人がいたら教えてほしいくらいなのですが、想像ですが、残存兵はほとんど殺されたのではないでしょうか。もし数万人もの元の兵士が日本で生け捕りにされたのであれば、その子孫がいてしかるべしですが、そのような話は聞いたことがありません。平氏の落ち武者の子孫が村を形成して今日まで生き延びたという話もあるのですから、全くそういう話が残っていないというのも、徹底した殺戮があった証左でもあるように思え、怖くなってしまいます。
日本にとって元との戦いは中大兄皇子の時の白村江の戦い以来の対外戦争だったわけですが、白村江の戦いが日本の惨敗だったのに対し、天候が味方して神風が吹いたとはいえ、元との戦いでは日本が勝ったわけですから、まあ、一応は良かったと言っていいのかも知れません。戦場に散った個々の兵士たちには哀悼と敬意の感情を持ちたいと思います。それから、日本は神風が吹いて勝ったことになってますけど、決して神風だけで勝ったわけでもないということも確認しておくべきかも知れません。国中から集めた大量の武士を九州に配置し、防塁を建設したりして迎撃態勢を整えるのには全力を尽くされています。やはり、人事を尽くして天命を待つという姿勢は大切なことと思います。
この戦いでは日本は勝ったものの、得るものは何もありませんでした。そのため個々の武士たちが損害を受けたことに対し、鎌倉幕府は充分な救済をすることができませんでした。たとえば竹崎季長という武士は勇猛果敢に敵に対して突っ込んで行ったということで幕府から恩賞をもらおうとしますが、幕府側はたとえ勇猛果敢であっても目立った戦功を挙げていないということを理由に当初、竹崎への恩賞をしぶっていた形跡があります。しかし竹崎があまりに貧乏だったので担当者が同情して小さいながらも領土を与え、彼はほっとして帰って行ったそうです。竹崎は真っ先に敵に突っ込んで行ったということを戦功として主張したわけですが、これは当時、ムードメイキングとしては重要な役割を彼は果たしたとも言えますが、実際に敵の首を挙げていないという点を担当者が突いたと言うのは、まるで今日の外資系企業の勤務査定のやりとりのようで興味深いものがありますけれど、とはいえ、ムードメイカーに報いることに二の足を踏む程度に、武士に与えるものがなかったのは鎌倉幕府としては非常に厳しい状況にぶち当たっていたのだということを窺い知ることができます。
それから50年ほどして鎌倉幕府は滅亡し、北条氏は一門全員自害という壮絶な最期を迎えます。わずか50年ですから、元の襲来と北条氏滅亡の両方を経験しているような人も大勢いたのではないかと思います。この時、討幕で動いた後醍醐天皇を足利尊氏や新田義貞が支持したのも、北条氏による武士たちへの報いが不十分であったということが伏線になっているわけですから、本当に運命とは厳しいものです。過去の歴史を見ていくことは多くの失敗例に出会うことでもあります。このようなケースに触れる度に、自分の人生の教訓として活かしたいとよく思います。