頼朝の死の秘密

頼朝は本来、七百年も続いた武士政権のパイオニアとして尊崇されてしかるべき人物であるとも思えるのですが、実際にはさほどぱっとした扱いを受けているとも言い難いようにも思えます。たとえば大河ドラマで頼朝が主人公になったことはあったでしょうか?私の記憶の限りで言えば、否です。頼朝の武勇伝のようなものも、やや分量が少ないように思えます。たとえば家康であれば人質時代のこととか、三方ヶ原の戦いとか、関ケ原とか、多くの人が知る大きな見せ場のようなものを幾つも持っていますが、頼朝はそういうわけでもありません。源平の戦いの主役は義経だという印象が強いですし、鎌倉幕府の主役は源氏というより北条氏です。

もちろん、頼朝がスーパービッグネームであることに違いはなく、特に徳川時代は尊敬や研究の対象になっていたことも否定できませんが、しかし、その割にやはりあんまり人気もないし、語られることもありません。

それもそのはず、彼が歴史の大舞台に登場した挙兵の時、当時としてはおじさんの30歳を過ぎたあたりですし、実際に戦ったのは弟たちですし、その後、弟たちを殺したという点で、どうも暗い印象を拭うことも難しいからなのだと言っていいと思います。本当にこの人は歴史を作った大人物なのでしょうか?それほど有能な人だったのでしょうか?私にはちょっと疑問が残るというか、彼は単なるパペットのような人で、虚像のイメージだけが語り継がれていて、実際は・・・なように思えてなりません。私は藤沢市民なものですから、どちらかと言えば源氏に同情的な土地柄で暮らしていると言っていいとも思うのですが、やはり鎌倉が頼朝の土地であると考えた場合、藤沢は義経が足止めされた土地であり、義経の首洗い井戸があり、義経を信仰する白旗神社があるという土地柄でもあるため、頼朝に対してはやや冷ややかで、より義経びいきな土地だとも思えますから、それで私もちょっと頼朝には冷たい視線を向けてしまっているのかも知れません。

で、そのような頼朝なのですが、どうも、その亡くなり方もやや秘密めいたものになっており、私のように頼朝に対してあまり同情的でない人物からすると、どうやら頼朝の死には複雑な背景があるのではなかろうかとの邪推をしたくなる要素が多少見え隠れしているようにどうしても見えてしまいます。

吾妻鏡によると、頼朝は相模川にかけられた橋の橋供養の帰りに落馬して亡くなったということになっています。しかし、これってなんか、おかしくないでしょうか?頼朝がどんな人物であったのかというと、若いころは伊豆半島のあちこちの女性のところへ遊びに行くために馬でぱっぱかぱっぱかと伊豆の野山を駆け回っていた可能性が高く、要するにナンパに明け暮れていたと考えられるわけですね。伝説では曽我兄弟と同じ一族の八重姫が頼朝の子どもを産んだとされていますし、史実でも本来流刑の憂き目に遭っていた頼朝を監視する立場だった北条氏の娘の政子が頼朝に陥落してしまっています。ですから、そのような男が馬から落ちるって、戦場でならあり得るかも知れませんけど、既に戦争が終わって平和な時代の橋供養とかいう儀式が終わって穏やかに帰る道すがらに馬から落ちるって考えにくいように思えてならないわけですよ。頼朝が挙兵して最初に犠牲になったのは山木兼隆という平氏系の武士なのですが、彼は政子の父親の意向で政子と結婚したものの、結婚の最初の夜に政子が家を抜け出して夜通し走って逃げてきたというエピソードのある人物で、頼朝からすると自分の女を奪おうとした恋敵であったと言えるため、どちらかと言えば女性を巡る地元の不良が戦っているという雰囲気の要素が強く、源氏再興とか、以仁王の令旨に従うなどの大義名分は後から一応理由をつけたというように見えなくもありません。そんなわんぱく頼朝君がやっぱり馬から落ちるって、ちょっと考えにくいんですよ。

とすれば、落馬したというのは、本当にそういうことがあったわけなんじゃなくて、何らかのメタファーなんじゃないかなと思えてくるんですね。武士が、或いは政権のトップにいる人が落馬するというのは、要するに失墜する、権力の座から引きずり降ろされる、戦いに敗れるというような意味合いを含むはずです。ですから、事の本質は頼朝落馬ではなく、頼朝失脚なのではないか、頼朝は権力を北条氏に奪われて殺された、あからさまに殺されたわけではないかも知れないけれど、謀殺されたということをダビンチコードみたいに「落馬」という言葉で暗に示し、後世に伝えようとしたのではないかと考えれば、頼朝が落馬したと吾妻鏡に書かれていることも、しっくり来るのではないかと思えてきます。とすれば、相模川の橋供養の帰りというのは鎌倉を中心とした相模地方が安定状態に入り、戦乱の時代から北条氏による平和の時代へと橋渡しが行われ、用済みになった頼朝は供養の対象になったと読むことも可能ではないでしょうか。もしかするとちょっとうがちすぎかもしれませんが、以上のような読み方が不可能ではないとも思えます。

考えてみると頼朝は北条氏のパペットとして歴史に登場し、北条氏のパペットとして去って行ったように見て間違いないと思います。彼にはそもそも自分の意思で何かをするということはできませんでした。源氏の棟梁という貴種ではありますけど、挙兵した時は島流しにされている罪人の身であり、兵隊は北条氏が用意する、金も北条氏が用意する、それこそ馬も船も食料も北条氏が用意するというわけですから、北条氏に逆らうことはできません。頼朝の活動を見て行けば、まずは木曽義仲を滅ぼし、次いで平氏を滅ぼして、次に邪魔者であり弟でもある義経を殺し、ついでに義経とともに平氏滅亡に功績のあったもう一人の弟の範頼も殺し、要するに源氏の信頼できる仲間がくしの歯が欠けるようにいなくなっていって、裸の王様みたいになっていって自分もいなくなった…という風に見えます。木曽義仲、平清盛、源義経、源範頼、彼らが全て滅亡したことで北条氏の天下になります。頼朝は北条氏のための露払い役であって、用済みになって消されたのではないかと私には思えてなりません。

今回は想像力をたくましくしてみました。全て私の憶測ですので、古い歴史の謎に挑むという感覚で楽しんでもらえればいいと思います。頼朝ファンの方がいらっしゃったら、本当に申し訳ありません。私、ここまでやっちゃうというのは、やっぱり義経のことが好きなんでしょうね。多分。清盛の方がもっと好きなんですが。今回はこんな感じです。ありがとうございました。



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