天智天皇の晩年の挫折

中大兄は中臣鎌足とタッグを組み、まずは大敵の蘇我入鹿を倒した後、次々と政敵を倒して権力の全てを自らの手中に収めます。孝徳天皇とか、有間皇子とか、容赦ない目にあわされているわけですし、ちょっと詳しく調べてみると、そのサイコパスぶりにぞっとするほどです。

中大兄の政治手法の特徴は自分が天皇になるのは慎重に避け、傀儡を推し立てて後ろから全体の糸を引くというものです。特に孝徳天皇の時はそれが顕著だったわけですが、孝徳天皇の謎の崩御の後、一度は天皇から退位した母親を引っ張り出して、再び天皇に即位させます。お母さんだったら裏切る心配はないので、安心といったところなのかも知れません。

で、このお母さんに天皇をしてもらっているときに、日本を取り巻く国際社会が大きく変動します。日本の友好国の百済が滅亡してしまうんです。百済は朝鮮半島の日本に近い方に位置する王国で、国王の息子さんが日本に人質的な感じで送られてきたりしていたので、日本優位の同盟関係を結んでいた相手ということになります。現代で言えばアメリカと日本の関係みたいな感じかもしれません。戦国時代で言えば信長と家康みたいな感じでしょうかね。ただ、人質をとっていたからと言って、百済を奴隷のごとく見下していたかというとそういうわけではなかったようです。安全保障について責任を感じていたらしく、百済滅亡の報に接すると、中大兄はお母さんと一緒に博多方面まで出張し、朝鮮半島での戦争の準備に入ります。ところがここでお母さんが病死してしまいます。陣中での病没ですから、お母さんも心身が疲労していたのかも知れません。とはいえ68歳まで生きたわけですから、当時としては充分生きたと言えるとも思います。

中大兄はお母さん以上に便利に使える天皇がいないため、いよいよ自分が天皇になるしかないか・・・とも思うのですが、しばらくは天皇に即位せず、即位予定者の立場で政治をしたそうです。往生際悪いですね。どうしても天皇をやりたくなかった、できるだけやりたくないというのが実によくわかります。想像ですが、天皇になっちゃうと人々の関心は次の天皇は誰?に移ってしまうため、自分の影響力が相対的に低下し、レームダック化する時期が近付くということを気にしていたのかも知れません。中大兄は弟を後継者としていましたが、後に息子が生まれちゃうんです。一番悪いパターンですね。豊臣秀吉にとっての秀頼みたいな感じですね。遅すぎる男の子だったわけです。中大兄には自分が死んだら弟が自分の息子を殺して天皇の位を簒奪するという未来が見えていたのかも知れません。多分、弟を殺したいと思っていたはずです。弟の方もですね、意思と能力の両方の面で史上最強の弟で隙あらばと虎視眈々だったと思います。

中大兄は弟を殺している場合ではありませんでした。朝鮮半島での戦争に片を付けるのが先だったんです。白村江の戦いが行われました。白村江は日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍の戦いだったわけですが、あまり深く考えずに突撃した日本側が、よく整理された戦闘隊形で臨んだ唐サイドに対してほぼパーフェクト負けしたとも伝えられています。日本海海戦のバルチック艦隊みたいな目に、この時は日本艦隊側があわされたという感じのようです。海が日本兵の血で赤くなったということですから、The Coveという映画のイルカ漁の現場みたいになっていたのかも知れません。実際に同時代に生きていたらめっちゃ怖いですよね。

中大兄は敗戦ですっかりびびってしまい、まずは都を大津に移します。大津は比較的内陸にありながら大河が大阪湾までつながっているため、船による情報伝達がやりやすいというメリットがあったのかも知れません。九州には水城という砦を築き、兵隊を大量に九州地方に送り込みます。防人と呼ばれた男たちですね。で大津宮でいよいよ天皇に即位し、そうして先ほど述べたように、自分の次は誰でしょうゲームになってしまいます。

晩年の中大兄、即ち天智天皇の人生は全くぱっとしません。もっとも頼りにしていた中臣鎌足は病没してしまいます。敗戦で打ちひしがれ、史上最強の弟が自分の息子を殺そうとプランを練っているであろう難しい時期に死なれちゃったわけですから、天智天皇は心細かったに違いありません。鎌足が亡くなった後、弟を日本史上初の太政大臣に任命します。太政大臣という仰々しい役職に就かせることで、天皇への忠誠を誓わせようとしたんでしょうね。今でいえば、首相が自分の首を狙ってきそうなライバルの政治家を副総理に任命したりするような感じだと思います。で、首相の首をとりたい政治家は官房長官を辞任したりしますけど、これも理屈としては同じで公式な役職についていると、その時の政権に忠誠を誓わないといけないので、そういう風にすることで弟を封じ込めようと思ったんだと思います。そんなこんなでおおわらわのうちに、唐からは敗戦を認めろよという話が来て、日本は敗戦国の立場で遣唐使を送ることになります。

弟を太政大臣にすることで、要するに最大の敵を自分の近くに置くことで、後は機会を見て弟を殺す予定だったと思いますが、その前に天智天皇は病没します。一説では他殺説もあります。当時の天智天皇は40代ですから、病死するにはまだ早いんですよね。弟に殺された可能性も否定しにくい感じのようです。

蘇我入鹿を殺してから20年以上の間、独裁的に政治を行い、邪魔者を殺してきた天智天皇ですが、以上のようにして運が尽きたまま治世を終えました。そして弟が天智天皇の息子を殺して天下を獲り、天武天皇になるわけですが、天武天皇についてはまた次回以降で。




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