一般に、ゾルゲ事件はよく知られている。同盟国ドイツからやってきた大の親日家として名が通り、日本の名士たちの間でも信頼を勝ち得ていたゾルゲが、実はソビエト共産党のスパイだったということが分かり、逮捕され、死刑の判決を受け、執行された一連の事件だ。
この事件と並行するようにして満州国で関東軍の憲兵隊が捜査を進めた同様の事件に、満鉄調査部事件というものがある。ゾルゲ事件と満鉄調査部事件は尾崎秀実という人物を通じてつながっている。戦争が終わるときに、ソ連軍が満州国の憲兵隊の資料を押収し、そこにゾルゲ事件関連の記述を見つけたと言うことからも、ゾルゲ事件は日本と満州をつないでいたことは分かるだろう。
で、今回の主題は満鉄調査部事件の方がメインだ。満鉄調査部はもともと、後藤新平が、台湾で調査組織を作ったことの経験から、満州でも同じことをしようと思って始めたのがきっかけで生まれたものだ。後藤新平は児玉源太郎に説得され、台湾の民政局長から満州鉄道総裁に栄転し、満鉄調査部を作ったというわけだ。長い歴史があるため、組織の人物や主な仕事などは紆余曲折があり、私もまだいろいろと手を付けることができていない部分もあるのだが、満鉄という国策会社のシンクタンクとして機能し、関東軍とも連携しつつ、関東軍とは張り合ってもいた。意外だが、満鉄は関東軍よりも権威ある組織として認められていて、必ずしも関東軍の言いなりになっていたわけではないらしい。傍若無人で知られた関東軍からすれば、満鉄はなんとなく嫌な連中の集まりに見えたかも知れない。というのも、満鉄の方が歴史が長いのだ。満鉄は日露戦争が終わってすぐに設立されたが、関東軍の設立は第一次世界大戦が終わるまで待たなくてはならない。その差が、権威の差として敗戦まで残った。一方、権力は言うまでもなく関東軍の方が強かった。そのねじれた感じもある種のひずみを生んだのかも知れない。
関東軍憲兵隊は、満鉄調査部の中に共産主義者が紛れ込んでいるのではないかとの疑いを抱き、内々に捜査を進め、満鉄調査部の職員たちを二度にわたり大量逮捕するに及んだ。取り調べが行われ、裁判にもかけられたが、獄中死を迎えた人たち以外は執行猶予がついた。全員に執行猶予がついたということは、関東軍が充分な証拠固めをできていなかったことをなんとなく匂わせるもので、今でも関東軍による満鉄憎しの感情が先走った自作自演的事件ではなかったかとの疑いは晴れない。
とはいえ、満鉄の嘱託として日本で働いていた尾崎秀実は、本当に共産主義者で、しかもスパイだった。思想弾圧や政治弾圧はあってはならない。共産主義者だというだけであれば、政治犯であり、現代の日本には政治犯は存在しないため、尾崎がそのことで死刑になったとすれば、事態が重大すぎ、そのようなことも時にはあるさ、などと気楽なことを言うことはできない。尾崎は更にゾルゲのスパイ組織に参加していた。満鉄調査部への捜査が進むうちに尾崎の名が上がったのであろうとの推測は成り立つが、その点についてトレースできている研究を見たことがないし、書類があまり残っていないので、不可能なのかも知れない。なので、多くの想像や類推、憶測を呼んだし、今後もそうだろう。私の今回のブログ記事もその手の文章の一つということになる。スパイだからといって死刑も考え物である。現地の戦場でスパイがいたら、すぐに仲間の生死にかかわるため、これは重大問題になると思うが、ゾルゲ・尾崎のスパイ組織は、長い目で見て日本帝国に影響力を発揮し、ソ連と戦争しないように仕向けようとする地下政治団体の性格も強いため、やはり死刑は重すぎるのではないかとも思える。ゾルゲ・尾崎の話題はどうしても暗くなる。
ゾルゲ事件という重苦しい副産物を伴ってはいるが、満鉄調査部事件そのものは、どうってことはなかった。実態のない事件だった。獄中死した人は本当に気の毒だし、獄中死の責任は関東軍にあると思う。責任者はどうしたのだろうか。シベリアに抑留されたのだろうか。因果は巡るのかも知れない。