有島武郎‐聖書の権威

有島武郎は人生の初期に於いてキリスト教にひかれ洗礼を受けるのですが、後に社会主義へも傾倒していきます。キリスト教と社会主義は形而上学的な立場は全く違うもので簡単に相容れるものではないのですが、問題意識には共通する部分があり、一人の人間があるときはキリスト教に傾倒し、あるときは社会主義に傾倒するということは充分にあり得ることかも知れません。聖書に登場するイエス・キリストが徹底的に見せる弱いものへの博愛は、社会的弱者の救済を目指す社会主義の問題意識と似ていると思うのです。私個人はキリスト教の洗礼を受けていますが、社会主義をあまり信用してはいません。過去の近現代史で社会主義がいかなるものであったかを見つめてみた時、社会主義の国家では弱者が存在しなくなったのではなく、弱者が見えなくなっただけなのだと私は思うからです。私はやや過激なくらいの自由主義者なのですが、それは困っている人や苦しんでいる人が自力救済できる余地をなるべく大きくするべきだと思っているからです。人それぞれ救済の形は違います。国家や行政が救済の形を決めるのではなく、個々人が自分で救済の形を決めることができるほうが、人類はより幸せになれると私は思うのです。

それはそうと、明治・大正・昭和の近代日本にやってきた西洋の社会主義とキリスト教は、以上述べたような弱者救済の倫理の観点から抗いようのない魅力を知識人に見せつけ、有島武郎のように純粋な心を持つ人は、惹かれつつ迷いました。彼は最期は自ら命を絶ってしまいますが、そこまで自分を追い込んでしまうのも、あまりに純粋に倫理と正義を追求し、誠実すぎたために些細な矛盾を見逃すことができず、解決方法はそれしかないという心境になったのではないかと、つい、想像してしまいます。

有島武郎は『聖書の権威』という短いエッセイで、芸術と聖書が対立関係にあり、時に芸術に惹かれて人間的欲望に関心が向き、時に聖書に惹かれて正義と倫理に関することに関心が向いたと認めています。興味深いのは聖書こそ芸術を超える、いわば芸術のかなたにある究極の芸術であるということを示唆して全文を終えていることです。有島武郎はそこまで言い切ってしまえるほどに聖書を読み込んだに違いありません。





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