1945年8月6日、広島にいた原民喜はその時に遭遇したあまりに深刻な様相を『夏の花』という作品に書き記し、作品は三田文学に掲載された。原子爆弾が使用されたことに関する多くの著作があるが、私は原民喜の記述したものが最もその深刻さを伝える文章になっていると思う。そして悲しいことに、どんなに言葉を尽くしても、広島の経験は絶対に、経験者にしか分からないものでしかないはずで、私は原民喜がなんとか読者に伝えようとして言葉を紡いでいる様子に出会い、立ち尽くしてしまうのだ。しかし、やはり読まなくてはいけない。読まずに日本人を生きることは難しいのではないかと思う。
原民喜はその後も被爆経験を書き続けた。書かずにはいられないし、書かねばならないという使命感もあったに違いない。非常につらいことだが、彼は次第に心身が蝕まれ、最期は自ら命を絶つことになる。健康状態が良くなかったことは、原子爆弾の後遺症であったとも言われるが証明されたわけでもないのという、少し難しい問題をはらむ。個人的には、原民喜はその場にいて、燃える広島の中を歩き、肉親や仲間たちと生き延びるために手を尽くしたのだ。当然、体調不良には放射線の影響を考慮しなければならないと思う。放射線はここまで浴びるまでは大丈夫とか、そういうものではなくて、浴びれば浴びただけ影響すると私は理解している。終戦直後、三田文学などで書くことに取り組む民喜の理解者の中には遠藤周作もいた。
『砂漠の花』では、直接的な広島の被害は述べられていない。どちらかと言えば、生きている間にどこまで書けるのか、何を如何に書くことができるのか、という書き手としての限界への挑戦を見据えたような内容になっている。しかし、原民喜には残された時間は少なかったから、現代人にはちょっと考えられないくらいに深刻な問題だったのではなかろうか。三田文学の重鎮である奥野信太郎から「生きるんだよ」と電話されたエピソードが書かれているが、それは奥野が民喜の死を予見できていたからに相違なく、それは奥野だけでなく、周囲の誰もが民喜から死を連想せざるを得なかったに相違あるまい。彼は深く死を抱え込んでいたし、そのことについて周囲は同情するしかなかったのではなかろうか。哀悼の意も込めて、今回は民喜の『砂漠の花』を取り上げた。砂漠には花は咲かない。咲いたとしても乾燥しているために儚く枯れていく運命にある。民喜は放射線を浴びた自分のことが砂漠に咲く花と同じ運命を背負っているように思えたのだろう。そして、それでも生きているということ、砂漠に咲いた花も生きようとするように、民喜もまた、限界まで生きようとしている。そして命の表現は、彼の場合は書くことであった。そのような激しく深い思いが短くまとめられたのが、『砂漠の花』というエッセイだ。