リットン調査団の日本と満州国に対する「心証」

石原莞爾や土肥原賢二などの関東軍参謀たちが共謀し、柳条湖で満州鉄道が爆破されたのは蒋介石の国民党軍に参加している張学良とその兵力による秘密工作だとの言いがかりで満州全域が僅かな期間で占領されたのが満州事変だ。石原莞爾本人は、長い目で見て日本対アメリカの世界の覇権国を決める決勝戦で日本が勝つために後背地として満州を確保したつもりだったのだが、日本国内で過度な熱狂が生まれ、むしろ中国大陸への関心が強まり、最終的に何もかもめちゃくちゃになってしまう、その第一歩だったと言うことができるだろう。石原莞爾は頭が良かったに違いないが、人望がなかったので日本を彼の理想の方向に引っ張っていくことができなかった。彼の最大の誤りは自分に人望がないことを過小評価していたことかも知れない。

日露戦争で大連・旅順を含む関東州及び南満州鉄道を手に入れた日本は、満州地方全域を手中に収めることを意識するようになるが、その収め方については様々な在り方が研究されたようだ。たとえば日本の直接領有も検討されたが、第一次世界大戦後はパリ不戦条約で侵略戦争が国際法違反と認識されていたため、この手法は却下された。国際社会の理解を得られるとはとても思えなかったからだ。とすれば、ウッドロー・ウイルソンが提唱し、国際連盟の理念である民族自決を大義とすれば諸外国は手出しできないだろうとの計算が働き、張学良を満州国皇帝にする案と溥儀を引っ張り出す案が立案され、溥儀が選ばれた。おそらく、溥儀と張学良それぞれにアプローチがあり、より脈ありというか、より言うことをききそうなのは溥儀だと関東軍は判断したに違いない。なにしろ張学良は蒋介石に従ってはいるが、その軍事力は蒋介石を凌いでいた。当然、関東軍とも場合によっては一戦交えるという構えでくる。一方の溥儀は丸腰で抵抗の術がない。それでいて満州人で元清朝の皇帝という都合のいいプロフィールを持っている。結果として溥儀は売国奴呼ばわりされ、今も歴史的な評価は低いし、いろいろな人の回顧録や伝記を読んでもさんざんな書かれようである。張学良は愛国の士としてのイメージが中華圏では定着しているため、書籍での書かれ方も大抵の場合は同情的で、敬意が示された書かれ方もよく見られる。人間性というのは大事なものである。後に西安事件で張学良は蒋介石に要求を認めさせた代わり、半世紀にわたって軟禁される運命を辿った。だが、ともに西安事件を起こした、いわば同志のような存在である楊虎城の場合、12年にわたって監禁され、最期は一家全員惨殺されている。西安事件によって蒋介石が抱いた憎悪の深さを物語るものだが、張学良は命は助けられたし台北の温泉も出てくる別荘地で主として読書に埋没する生活を送った。奥さんも一緒である。蒋介石は時々張学良を訪ねていたと、張学良本人がインタビューに答えているのを読んだことがあるのだが、蒋介石は張学良を罰してはいるものの憎んではいなかったことが分かる。父親の張作霖が馬賊からの叩き上げだったのに比べ、張学良は生まれながらのプリンスで、素直で善良で上品で教養があるというプリンスの良い面がよく表れ、結果としてはそれが彼を救った。彼は蒋介石に対して率直であり、我欲を求めなかったので、蒋介石にすら愛されたのだと言うことができるだろう。

それはそうとして、その張学良の軍隊を関東軍は武力で排除し、張学良の代わりに溥儀を大連まで船で運んで満州国建国にひた走るのだが、中国が国際連盟に提訴することで世界の注目を集め、日本の侵略行為だと認識され批判が強まっていく。日本側は国際連盟の調査団を満州に派遣することを提案した。調査団をうまく取り込むことができれば全てうまくいくと考えたのだろう。この日本側の提案が受け入れられ、イギリス人のリットンやフランスの外交官であるクローデルなどで構成される調査団が組織され、公平を担保するために日中双方から随員も出された。中国側は顧維鈞という中国外交関係のトップ中のトップを送り込んでおり、手足となるスタッフも相当な数に上ったらしいので、日本より中国側の方が実は遥かに役者が上だったことが分かる。日本側の外交を甘く見る傾向はおそらく今日までも続いており、いろいろ知れば知るほど暗澹たる心境になるが、今回の話題もそうだ。リットン調査団は日本の提案によって派遣されたが、調査団の委員たちは基本的に中国の主張を支持するようになった。クローデルはやや立場が違ったが、それは日本が正しいと考えるからではなく、現実問題として日本がパワーを持っているから、日本の主張を無視することは不可能じゃないかという、消極的な理由からだった。

委員たちは、日本の説明を聞けば聞くほど、満州事変が日本の陰謀によって行われたと確信するようになった。話ができすぎていて、とても現地住民の自発的独立運動とは信じることができなかったからだ。関東軍の動きは手際が良すぎたため、事前に共謀していたと受け取られたのだ。臼井勝美先生の『満州国と国際連盟』(1995 吉川弘文館)によると、リットンは日本の強情な態度に愛想をつかし、日本は満州問題で妥協すれば望む全てを手に入れることができるが、満州問題に固執しているため破滅するだろうと予見したという。事実、その通りになった。日本外交のトップにいた内田康哉はリットン氏との会談の場に於いて、リットン氏から問いただされたあらゆる妥協案を拒否した。内田は一切の妥協を拒否しただけでなく、帝国議会で満州問題で妥協するくらいなら日本を焦土にすることも厭わないという、いわゆる焦土演説まで行った。私には内田の演説が不気味な予言のようにすら思えてしまう。経済の分野でたまに言われる予言の自己実現が政治・外交・戦争の分野で起きたのだろうかと思えてしまうのだ。

リットンたちは日本の立場にすっかり愛想を尽かし、予定を切り上げて報告書の作成に入る。予定を切り上げた理由は、日本側といくら話し合っても同じ反応しか返してこないので、意味がないからだ。このように思うと、中国の外交力が勝っていたからリットン調査団が中国側についたというよりは、日本外交があまりに稚拙だったので、日本はオウンゴールして外交的な敗北をしたのではないかと思えてしまう。

それでもリットン調査団は日本の権益を大幅に認める提案をした。中国の主権を残した状態での自治政府を作るというものだ。それは国際管理をうたってはいるが、事実上日本が好き放題できる広大なエリアの設置を国際社会が認めるというもので、中国のメンツを立てつつ日本には実益を与えた。それをこともあろうに日本は拒否するのである。本当に頭を抱えたくなってくる。当時の国際連盟日本全権だった松岡洋右は奮闘し日本の立場は正当であると主張し続けた。イギリス側が日本と裏交渉を持ちかけてきたのは、松岡の舌鋒の鋭さも影響したのではないだろうか。イギリスからの裏交渉に松岡は飛びつきたかったが、東京にいた内田康哉からの訓令でそれもごわさんになる。内田康哉は国際連盟から脱退すれば、決議にしばられなくてもよくなるじゃん♪と考え、松岡に脱退の訓令を送っていたことが最近の研究で明らかにされている。日本は決議に於いて完全に孤立し、否決は日本の一票のみで、ほとんどが賛成。いくつかの加盟国は日本に対する遠慮で棄権した。日本に国際社会の理解がないのは明らかだった。松岡はこの決議の直後に脱退を表明し、その場を去る。場が凍り付いたらしいのだが、それは日本外交の幼さに対する驚愕であっただろう。世界を敵に回すような話じゃない。いくらでも妥協できるじゃないか。なのに…というわけだ。松岡は一連のできごとは失敗だったと認める内容を日記に書き残したが、真犯人は内田だと言っていいだろう。

リットン調査団の心証を悪くし、国際連盟加盟国のほぼ全てから満州国を否定された日本は、それでも満州を維持しようとした。その代償は明治維新後に確立した国際的地位の全てだったわけで、個人の人生でも、あまりに執着が強すぎると身を滅ぼしかねないという教訓としたい。



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