アメリカ映画『ウィンド・リバー』の問題意識

アメリカ映画、『ウインド・リバー』はカンヌ映画祭で「ある視点」賞を獲得している。ある視点ってどういう意味?とちょっと戸惑うのだが、内容と背景を知れば、なるほどそういうことかと理解できる。ネタバレするのでご注意ありたし。

アメリカは世界中のいろいろな民族や人種が暮らしているが、その中でちょっと特殊な立ち位置にいるのがネイティブ・アメリカンと呼ばれる人々だ。何が特殊なのかというと、アメリカ合衆国の法への忠誠心や敬意の持ち方についてちょっと違うことが認められている人々だと言い換えてもいい。普通、大抵のアメリカ人は辿ればヨーロッパなりアジアなりアフリカなりから渡ってきたか連れて来られた人々になるわけだが、彼らが共通して求められることはアメリカ連邦の法への忠誠心を持ち、それに対して敬意を払うことだ。アメリカ合衆国憲法はアメリカそのもの、即ちアメリカの国体みたいなものなので、徹底的に教育されるし、新しい移民にも憲法への理解が要求される。憲法を理解せずにアメリカ人になることはできない。

しかし、例外的な人々も存在する。ネイティブ・アメリカンと呼ばれる人々だ。彼らはイギリスからアングロ・サクソンがやってくる前からアメリカ大陸で暮らしていた。先住権は彼らにあり、従って、移民と同じ扱いを受けてもらうわけにはいかない。もともと、彼らには彼らの法がある。そういうわけでネイティブ・アメリカンの人々は自治区で暮らすことができる。たとえば日本人移民が自治区とか作ったら大正時代の排日移民法みたいな話になって大問題になるに違いないわけで、そのように考えるとネイティブ・アメリカンの特殊な立ち位置が理解できるだろう。アングロ・サクソンやフリーメイソンが持ち込んだ連邦の法に従う義理はないので、自治区内である程度、自分たちらしい生活が送れるようになっている。

だが、はっきり言えば、そうなっているはずだと言う方が正しいかも知れない。

たとえばこの映画のウインド・リバーという土地では、鹿児島県くらいの広さの土地に警察官は6人しかいない。事実上、地元の警察は無力だ。ネイティブ・アメリカンには当然、部族の掟みたいなものがあるはずだが、生活が基本的に西洋化してしまっている現代で、掟なるものがどの程度機能するかは甚だ疑わしい。

従って、ネイティブ・アメリカンの自治区はアメリカの中で見捨てられた、忘れられてしまった土地になってしまっている感がある。連邦の法にも見捨てられ、経済発展の恩恵にも浴さず、広大な原野の中でどうにか死なない程度に日々を送っている。犯罪の温床になりやすい。

この映画では、ドラッグに溺れる若者や、見捨てられた土地で働くモラルを忘れた白人、性的な暴行被害に遭い命を落とすネイティブ・アメリカンの少女などが登場する。問題意識は明らかだ。この見捨てられた人々がいることを、観客は忘れているのではありませんか?ということだ。

ドラッグに溺れる若者は、アメリカン・ビューティの若者みたいにファッション性があるからドラッグをするわけではない。他に自分の魂を救済する手段がないのでドラッグに走る。永遠に報われることのない土地で、彼らには希望がない。ドラッグは悪いことだが、果たしてそれは若者が悪いのか?との問いかけがなされる。

ネイティブ・アメリカンの少女の不審死の報を受けてFBIの女捜査官が派遣されるが、アメリカ文明を代表するはずの彼女はブリザードの吹きすさぶ北アメリカ大陸の原野の真ん中でなすすべを知らない。周囲の助けがなければ何もできないばかりか、捜査で気を抜けば、自分が命を落としかねない。

ネイティブ・アメリカンの少女を死に追い込んだのは、モラルをなくした白人の男どもで、全く正当化できないが、このような原野の中であれば、ばれないから、どうせアメリカ連邦の法律はそこまで効力がないからと思い、やってしまうのかも知れない。

アメリカは自助努力の価値を信じている人々の集まりだ。しかし先に述べたようにネイティブ・アメリカンの自治区はその例外的な立ち位置にあり、自治の美名のっもと、犯罪被害が救済されにくい、犯罪の温床になりかねず、対処が求められる。そういう問題意識を持った映画だった。なかなか大変なテーマを扱っているので、かくあるべしと言うことはできないが、このような問題意識に触れることは大切なことだ。困っている人を助けるためのきっかけになるかも知れないし、自分が他人を傷つけないことへの誓いを新たにすることもできるだろう。

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