荒井屋万国橋店のすぐ近くに、日本郵船歴史博物館がある。たまたま通りかかって、おっこれはややマニアックでおもしろそうと思い、迷わずはいってみた。建物の中に入ると受付があり、受付の向こう側の展示品の撮影は禁止だが、受付の手前の建物の雰囲気とか天井とか撮ってもいいと言ってもらえたので、天井を撮ってみた。悪くない。大正の終わりくらいから昭和の初め頃の雰囲気の天井だ。明治時代の和洋折衷は基本木造で、大正に入るとフランク・ロイド・ライトのデザインした帝国ホテルみたいにレンガ造りが増えてくるのだが、昭和の初め頃には巨石風、コンクリート風みたいなのが増え、やや重厚長大になる。特に関東大震災の後の復興ラッシュで、東京から横浜にかけてのエリアは急速にモダンで頑丈な西洋建築が増えていったのである。たとえば日本橋の高島屋もクラシカルモダンの雰囲気を残すいい建築物だが、昭和の初期のものだ。建築史をきちんと勉強している人であれば、もうちょっと詳しいことが言えるのだと思うけれど、私は自分で歩いて見聞した範囲のことしか言えなくて誠に申し訳ない。
で、展示の内容なのだが、これもなかなか面白い。日本の船舶による流通の近代史みたいな話になっていた。幕末、西洋の圧力から日本は海外との人・物・金の交流を始めることになるのだが、当初は欧米の船会社が日本にやってきてぼろ儲けして帰るというモデルが確立されたものの、日本資本のナショナルフラッグキャリアーがやっぱほしいよねということになり、三菱の岩崎弥太郎が日本郵船を作って日本資本の貨客船の交通網が世界中で次第に確立されていくことになったというわけだ。飛行機ならJAL、お船なら日本郵船という感じだろうか。
日露戦争の時は官民一体で戦争にあたっていたわけだが、たとえばロシア艦隊の母校である旅順港の入り口に船を沈めて通行不能にするという作戦が行われた際、沈められた船は日本郵船から提供されたものだった、というような豆知識も手に入ったりするのである。日本海海戦の直前、迫りつつあったロシアバルチック艦隊を発見したのも日本郵船の船だったみたいな話もあって、東郷平八郎の感謝状も展示されていた。
日本郵船は日本の近現代史を支えたという誇りがあって、それでこのような博物館も作ったのだろう。日本郵船で働く人は、うちにはこんな歴史があるんだ。と得意な気持ちになるだろうし、職場を誇れるのであれば、それは素晴らしいことだ。