小田原城のお猿さん

小田原でお猿さんに会ってきた

先日、天気が良かったので小田原へ行ってきた。当初の目的は小田原城の見学だったが、小田原城まで行ってみたものの、なんとなく気が向かなかったので天守閣には入らなかった。大人520円くらいしたのだが、多分、500円ほどの価値があるとはちょっと思えなかったのだ。ただ、天守閣から相模湾がよく見えるだろうと思ったので、後で海岸まで歩いたので、それは記事の後半で少しだけ触れることにする。

小田原城の天守閣

江戸から駿河辺りまでの地域は徳川直轄の天領だったため、西日本や東北地方のような大大名の存在感はあまりないが、その中で小田原藩は10万石を有するなかなかの大大名だった(時代によって増減するし、藩主も変わるため、10万石はざっとした目安と思っていただきたい)。日本に浪漫主義を普及させるパイオニア的な存在だった北村透谷は小田原藩士の息子だったが、透谷のような、やや破滅的な人生を歩んだ人物が文学史に名を残せる程度に活躍できた理由としては、彼の生地と東京との地理的な近さが関係するのではないかと私には思えた。たとえば太宰治のような東北人や川端康成のような関西人が中央で活躍するには、やはり東京帝国大学に入学するとか、どこぞの官吏になるとかなどの修業を積んで世の中に認められるプロセスに入ろうとするが、実家が東京に近い透谷の場合は自由民権運動に啓発されて大いに暴れて資金的に苦しくなれば、一旦実家に引っ込むと言う手段を選ぶことが可能だったため、必ずしもがり勉しなくてもよかった。で、女学校の英語の先生になって、奥さんがいるのに女学生に入れ込んでしまい、最後は樋口一葉が遊びに来てくれなかったことを苦にして自ら命を絶ったとも言われている。やや中二病なのだが、それもまた透谷の魅力と思ってあげれば彼に対する愛情も増すと言うものである。実際、日本型近代を社会・市民の生活の面から解き明かしたいと願う人にとって、透谷は非常に魅力的な研究材料なのだ。島崎藤村が透谷に影響され、立派な浪漫主義的創作を手掛けるようになった。

小田原の北村透谷の碑。藤村の手書きとのこと。

山形有朋のような元老が小田原に居を構えたのも、静かで風光明媚でありながら、東京へのアクセスが良いという抜群の立地だったからだ。小田急は維新のニューエリートが暮らす小田原・箱根と東京をつなぐ目的で建設が進められたと言っても良い。歴史のある民間鉄道だが、国策鉄道であったため、小田急の蓄積は大きい。

さて、小田原といえば後北条氏であり、北条早雲とか北条氏政のような戦国の大大名ということになるのだが、後北条氏はやはり地方政権の色の強いものだった。武田信玄上杉謙信の侵攻をゆるさなかったという点で特筆されるべきではあるが、飽くまでも京の中央政治から見れば、地方政治によくある事件の一つに過ぎない。小田原が中央政治とかかわりを持つのは秀吉の小田原侵攻によってである。当時の秀吉は既に豊臣姓と関白職を得ており、家康からも臣下の礼をとられていたため、怖いもの知らずに上り詰めていて、天下統一したも同然だったが、小田原城の陥落によってそれが完成されるという節目としての要素があった。小田原以東・以北の戦国大名たちは京都の中央政治に対するリアリティの認識がやや欠けており、秀吉の勢力拡張も様子見を決め込んでいたようなのだが、上杉謙信をして徒労のうちに越後へと帰らせた天下の名城である小田原城がいよいよ陥落するということになって、認識を改めた。秀吉が覇者であり、自分たちの存続は秀吉にかかっているというものだ。小田原には仙台の伊達氏、山形の最上氏も秀吉の陣営に参じている。小田原攻城戦では、秀吉と家康のつれしょんエピソードのほか利休の弟子の山上宗二が秀吉に惨殺されたというエピソードもあり、小田原城内の人物が特にこれといった活躍をしていないにもかかわらず、秀吉を題材にした創作物では小田原は好んで使われる舞台だと言える。秀吉は小田原城主が切腹すればそれ以外の者は全員命を助けるとの条件を出した。信長が死んだときに秀吉が攻めていた備中高松城と同じ条件である。城内の主と家臣の利益を相反させるという点に於いて高度な心理作戦であり、秀吉の人間性がいかにクズかがよく分かるのだが、高松城ではそれでも飢えと戦いながら持ちこたえようとしていたのだから、秀吉よりも高松城の人々の方がよほど称賛されるべきではないかと思える。小田原城は100日の籠城でいわゆる小田原評定によって無為に日を重ねたが、早雲以来百年の名城であるにも関わらずややあっけない。もはや時代は秀吉と誰もが観念していたのだろう。

江戸時代に入れば小田原藩が成立し、東海道の小田原宿も整備され、街道沿いの宿場町兼城下町というわけなので大いににぎわったに違いない。小田原城の敷地内にはお猿さんの檻があっただけでなく、立派な樹木も多く、紅葉の季節には美しい植物も見られた。庭に散在する余裕のある大名家が存在してこそ、このような文化的遺産が残されたのだ。

小田原城内の紅葉
小田原城内の美しい紅葉

小田原と言えば蒲鉾である。小田原駅前の鈴廣の売店で試食した蒲鉾のオーガニック感は半端なく味が濃くて申し分なかった。というか感動的だった。蒲鉾ストリートみたいなところもあって、食べ歩きできるのだが、そこで買った揚げたてのさつま揚げも驚異的なおいしさだった。もはやコンビニのおでんのさつま揚げは無理だ。さつま揚げは九州料理だと思い込んでいた私は、認識を改めなくてはならない。海鮮に恵まれた城下町の小田原は練り物王国でもあったのだ。小田原おそるべしなのである。海岸も美しかった。いつもは鎌倉江ノ島あたりから相模湾を小田原方面に向かって海を見ているのだが、今回は反対だったまた違った雰囲気があって楽しかった。大きな発見はこの辺りの海岸では丸い石がたくさん積み重なっていると言うことだった。
小田原の海岸

小田原のさつま揚げ
小田原で食べた揚げたてのさつま揚げ





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