昭和3年、1928年の6月4日、北京から満州方面へ脱出してきた張作霖の列車が爆破され、張作霖が死亡するという事件が起きます。列車が爆破されて転覆するという大事故ですから、かなりの人が命を落としたようです。
張作霖がどういう人かというと、日露戦争の時にロシア側のスパイとして活動していたんですが、日本軍に捕まり、以後、日本軍への協力者に立場を変え、辛亥革命で清朝が倒れた後は少しづつ力をつけて満州地方を支配する軍閥を形成するようになった人です。関東軍の協力を得ていたので、当時の満州地方ではかなり有力かつ有利な立場にいた人物と言ってよいでしょう。彼は北京まで乗り出していき、当時バラバラに分裂していた中国の真実の支配者は自分であると宣言します。これが張作霖の全盛期だと思いますが、反共産主義活動に熱心で、ソ連大使館内を捜索して共産主義活動関係者の逮捕に及ぶなどが過激すぎたためか、列強からの支持を少しずつ失って行きます。列強はむしろ、国民党軍を率いる蒋介石を中国の正統なリーダーとして認める方向へと舵を切って行くことになりました。蒋介石の国民党軍が上海から北京へと迫り、戦いに敗れた張作霖が奉天へと帰る途上で列車爆破事件が起きたというわけです。
蒋介石が日本側に対して、満州地方へは進出しないとの言質を与えており、「だったらいいんじゃね」と関東軍関係者は考えるようになったらしく、どっちかと言えば溥儀を擁立して満州国を作る構想の方が魅力的なので「張作霖が帰って来ても困るよねー」という空気が関東軍にあったことは事実のようです。
この事件を起こしたのは関東軍の河本大作大佐と少数の協力者によるものだということは、すぐに分かったのですが、誰も処罰されることもなく、事件の犯人は隠ぺいする方向で日本政府部内でも大体の意思統一がなされました。当時、まだまだ若い昭和天皇は、田中儀一首相に対し、事件の真相の公表を指示しましたが、田中首相が言を左右にして言う通りにしないので、昭和天皇がキレまくり、叱られた田中内閣はそれを理由に総辞職することになります。『昭和天皇独白録』では、昭和天皇が当時のことを回想し「田中首相に辞表を出してはどうかと言った」と述べていますが、田中首相辞任から、当該の回想がなされるまで20年近い年月が流れています。それで「辞表を出してはどうか」と言ったことまで覚え居てるわけですから、当時は相当な剣幕で切れまくったのではないかと私は推察しています。
この出来事をきっかけに、昭和天皇は、天皇が政治に口を出し過ぎると内閣が潰れて混乱が生じるということを学び、立憲君主として意思決定に口を挟まないというポリシーを貫くことにしたと一般に言われていますが、田中内閣が潰れた後で、昭和天皇は西園寺公望から立憲君主のあり方みたいなことでお説教されたようです。
張作霖の事件は日本帝国の戦争の長い歴史から見ると、どちらかと言うとあまり目立たない事件だとも思いますが、一連の出来事を眺めてみると、日本帝国の特質のようなものがよく見える出来事ではないかと思えます。まず第一に、張作霖が邪魔になったので殺すという短絡的かつ倫理性ゼロの発想法が関東軍でまかり通っていたことが分かります。更にそのような独断専行が批判されないという特殊な空気が日本政府には濃厚に流れていたということも分かります。また、昭和天皇の政治に対する考え方を知る上では、この事件を語ることは不可欠だとすら言えるように思います。これからも少しずつ、日中戦争史、できる範囲で続ける予定です。