近藤勇はもともとは日野の農家の出身だそうですが、市谷の剣術道場の養子に迎えられ、やがて道場主になります。彼の道場には沖田総司、土方歳三など後に新選組の主要なメンバーとして活躍する人物が出入りしていたのですが、彼らが歴史の舞台に登場するのは十四代将軍家茂の上洛と関係しています。
当時、公武合体の妙案として打ち出された家茂と孝明天皇の妹の和宮との婚姻が具体化していきましたが、その条件として家茂が上洛し、孝明天皇に攘夷を約束しなくてはなりませんでした。
将軍が京都を訪問するのは三代将軍家光以来200年ぶりのことであり、当時としては相当なビッグイベントとして受け取られたはずですが、警備等々の経費が嵩むため、家茂警護のために浪士の募集が行われ、近藤勇と門下生が応募しました。各地からの浪人が集合しており、浪士隊と呼ばれました。この中には後に近藤たちに暗殺される芹沢鴨とその仲間も入っていたわけです。
清河八郎という人物が浪士隊を個人的な手勢にしようと目論み、浪士隊は清河に率いられて江戸に帰ることになったのですが、近藤たちと芹沢鴨たちは京都に残ることを選択し、浪士隊から離脱することになります。その後の新選組の活躍を考えれば、近藤たちの人生をかけた大勝負だったとも思えますが、悲劇的な結末まで考慮すれば、この時おとなしく江戸に帰っていれば、無事に明治維新を迎え、近藤や土方も普通の人生を歩んだかも知れないとも思えます。
近藤たちが後に京都で結成した新選組は幕末の歴史の中で、典型的なパッと咲いてパッと散るタイプの活躍を見せた存在と言えますし、パッと咲いて散る感じに憧れる人が多いので、現代でも魅力的な題材として扱われるのではないかとも思えます。
しかし、新選組の歴史をよく眺めてみると、その血塗られた歩みに対し慄然とせざるを得ません。特に内部抗争の激しさには残酷という言葉以外の形容詞が見つかりません。
芹沢鴨の腹心である新見錦を陰謀で切腹に追い込んだ後、芹沢鴨も大雨の夜に愛人と眠っているところを襲撃し、謀殺しています。その後は山南敬介が脱走後に捉えられて切腹。新選組に加入した後に御陵衛士という名目(孝明天皇の陵墓を警備するという名目)で分離した伊東甲子太郎も暗殺されており、伊東甲子太郎の残党と新選組の間では油小路という場所で壮絶な斬り合いが起きています。
このようにして見ると、近藤勇という人物には土方や沖田のように最後まで慕ってついて来た人物がいたため、兄貴肌の人を惹きつける魅力があったに違いないと思うのですが、一方で、内部の粛清に歯止めをかけることができなかったというあたりに彼の限界を感じざるを得ません。
因果応報と呼ぶべきなのかどうか、鳥羽伏見の戦いでは、新選組は伊東甲子太郎の残党に狙い撃ちで砲撃されています。また、江戸に逃れた後に流山で地元の若者を集めて訓練していたところを新政府軍に見つかり、捕縛されるのですが、近藤勇は大久保大和という偽名を使い難を逃れようとします。この時も、伊東甲子太郎の残党の一人である加納鷲雄に見つけられてしまい、近藤勇であると見破られ、近藤は新政府軍によって斬首されるという最期を迎えることになります。切腹ではなく斬首した辺りに、長州藩がどれほど近藤を憎んでいたかを想像することができるのですが、新選組による池田屋襲撃は、飽くまでも江戸幕府の下部組織の立場による公務の実行であったこと、その後の治安維持活動もやはり公務の一環として行われていたことを考えると、近藤勇を犯罪者のように扱う処置は残酷過ぎるのではないかと思えなくもありません。
新選組に集まっていた人材の多くが普通の人で、普通の人が時代の分かれ目に出会い、自分の可能性を追求しようとしたところに魅力があるのだと思います。特に土方歳三の場合、鳥羽伏見の戦いで敗けてから、函館戦争までの生き様が見事であり、彼が失敗から学んで成長したと思える面もありますので、いずれ機会を設けて土方についても語ってみたいと思います。
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