徳川慶喜‐人物と時代

250年続いた徳川幕府の最後の将軍が徳川慶喜という人物だということは広く知られていることですが、ここでは徳川慶喜という人物のやや特殊な性格や来歴が徳川幕府の消滅と密接に関係しているという観点から考えてみたいと思います。

徳川慶喜という人の最も大きな特色は、そもそもの来歴として、彼が水戸徳川家出身の人物であるということです。水戸徳川は慣例として絶対に将軍を狙えない立場にあったため、たとえば八代将軍の相続争いは尾張徳川と紀州徳川の間で行われたわけですが、水戸徳川はその相続争いには参加できなかったわけです。水戸徳川では水戸光圀以来の天皇崇拝思想の発展が見られ、徳川幕府の重要な一角を占める立場でありながら、徳川政権よりも朝廷を重視しようとする傾向が見られたのは、ここに述べたような水戸徳川の特別な立ち位置と関係があると私は思っています。

ではなぜ徳川慶喜が将軍になれたのかと言うと、慶喜が徳川三卿の一つである一橋徳川家の養子に入ったからです。八代将軍徳川吉宗以降、吉宗の出身母体である紀州徳川の人物が将軍職を独占できるようにとの発想法で新設されたのが徳川三卿なわけですが、これによってたとえば尾張徳川では徳川幕府を支持するというモチベーションが失われてしまい、戊辰戦争の時は早々に官軍につくという展開を見せています。

徳川慶喜が一橋の養子に入ったということは、紀州徳川の血統ではない人物が徳川三卿の一つに入り、将来の将軍候補として嘱望される立場になったということですから、水戸徳川関係者の意気が大いに上がり、慶喜を積極的に将軍に就任させようとするグループが形成され、これが一橋派と呼ばれるようになります。水戸徳川の人物が将軍職を継承することにリアリティが生まれたことで幕府官僚サイドで動揺が生まれ、慶喜の将軍就任にだけは抵抗したいという意思が生まれ、紀州徳川の徳川慶福を推薦するグループが形成され、こちらは南紀派と呼ばれました。大老の井伊直弼を中心にした南紀派が押し切り、十四代将軍は慶福が継承し、名を家茂と改めます。紀州徳川出身の徳川吉宗が八代将軍を継承した後も、紀州徳川家は温存されていたわけですが、これはそれ以前の徳川の慣例とはかけ離れています。五代将軍綱吉、六代将軍家宣はそれぞれ自分の藩を持っていましたが将軍継承と同時に藩は廃止されています。その慣例を破り、徳川吉宗は少しでも紀州系の人物の輪を広く残しておくために紀州徳川を温存し、結果として一橋派が台頭した際、紀州系によって制されていた徳川官僚の最終カードとして慶福が推薦されたのだと言うこともできると思います。

そもそも、吉宗以降は徳川三卿の人物が将軍継承順位としては優先でしたので、紀州の慶福が必ずしも優位であったとは言い難いのですが、水戸徳川に対するアレルギーが幕府官僚内部に存在していたのだと見て取ることができるとも言えるように思います。徳川慶喜の実父である徳川斉昭が頑なな尊皇派で口うるさく、慶喜が将軍に就任すれば斉昭が幕政に口を出す切っ掛けを得ることになりますから、それが嫌がられたのだとも言えるでしょう。

十四代将軍継承問題が決着した後に、井伊直弼による安政の大獄と呼ばれる粛清弾圧が行われますが、事の本質は一橋派の粛清であったわけで、それはこれまでに述べたような理由で、井伊直弼としてはできるだけ早期に一橋派の芽を摘んでおきたいと考えたのだと見ることもできます。そして弾圧に対する復讐として水戸脱藩浪士たちによる桜田門外の変が起き、井伊直弼は殺害されてしまうことになります。

幕政を仕切っていた井伊直弼は開国推進派で、安政五か国条約のような不平等条約を結んだことに対する思想的な反動が事件の背景にあったと説明されることもあると思いますが、基本的には思想とは関係のない怨みや復讐心のような側面が強かったのではないかと私は思っています。徳川慶喜は安政の大獄が始まってから井伊直弼が倒れるまでの間、蟄居謹慎ということになり、現代風に言うと外出禁止命令を受けていたわけですが、慶喜本人が何らかの犯罪行為をしたわけでもなんでもありませんので、慶喜という人物の内面には父親から受けた尊王思想の薫陶と同時に、幕政に対する不信感、幕府は存在しなくても別にいいのではないかという、彼らしい革新的な発想が生まれたのではないかと推測できると思います。

徳川慶喜の人物像を知る上で、もう一つ重要な点は生母が皇族の人物であるということも見逃せないのではないかと思います。後に慶喜が京都で政治の中心を握ることができるようになった理由として、彼が孝明天皇から厚い支持を得ていたことを無視することはできませんが、孝明天皇が慶喜を支持した背景には慶喜の生母が有栖川宮家の出身の人物であったということを挙げることができると思います。血統という概念は前近代的なものですから、あまり血統だけで全てを説明することは個人的には好まないのですが、当時の近代への移行期には、まだそういったことが説得力を持っていたのだと言うことはできます。

そのように考えますと、徳川慶喜は徳川家の人物でありながら、徳川官僚からは冷淡な扱いを受けた一方で、朝廷の支持は厚かったわけですから、慶喜本人が脱幕府の新しい政治を構想するようになったとしても、全く疑問ではないと言えます。

徳川幕府が滅亡した要因として、ペリーの黒船艦隊来航による幕府政治の影響力の低下や、財政的な困窮などが挙げられることがよくありますが、私はやや違った風に考えています。安政五か国条約で徳川幕府は関税自主権のない不平等条約を結んだわけですが、それまで入って来なかった関税という新しい収入源が生まれ、徳川幕府は経済的に潤っていたようです。徳川慶喜と松平春嶽が幕府政治の中枢に登場した時、彼らは幕府陸海軍を創設し、特に海軍は近代的で強力であったことが知られています。そういった近代的な装備を準備できたのも財政的な余裕があったことを示すものだとも思えます。

徳川慶喜は1867年に大政奉還を行い、徳川幕府は大政奉還の起案から朝廷の了承までの二日間で消滅したことになるのですが、これは慶喜のほとんど独断で京都で書類上の手続きをしただけのことに過ぎず、江戸の幕府官僚は何も知らされないまま事態が進行しました。逆に言えば、大政奉還したからと言って幕府の官僚組織は全くダメージを受けていなかったとも言えます。この大政奉還についても、徳川将軍が追い詰められてやむを得ず行ったというイメージを私は持っておりません。幕府は不要であると確信した徳川慶喜が自分を中心とした新しい近代的政府を樹立する目的で積極的に大政奉還したというイメージで捉える方が、より真相に近いのではないかと考えています。

尤も、徳川慶喜を中心とした新政府の樹立はありませんでした。彼は最後の最後で政争で敗れて二度と京都に入ることができず、完全に失脚します。大政奉還から完全に失脚して江戸へ脱出するまで僅かに数週間ですので、頭脳の良さを称賛された慶喜であっても、ぎりぎりのところで計算が狂ったと見ることもできるでしょう。

私はもし徳川慶喜を中心とした近代政府が樹立されていた場合、日本は帝国主義を伴わない近代国家になったのではないかとついつい想像してしまうのですが、慶喜中心の近代政府の樹立は、やはり難しかったかも知れないとも思います。慶喜は幕府官僚の支持を得ておらず、一方で大久保・西郷の薩摩コンビは執拗に慶喜失脚を狙う状態が続きました。慶喜の権力維持の根拠は孝明天皇の支持の一点にかかっていたと言っても良く、孝明天皇が病没した後は有力な支持基盤を失った状態でした。慶喜にとって頼れる者は自分の頭脳以外には無く、人は必ずミスをするものですから、大久保・西郷という天才的な人物たちが連携して慶喜を追い込もうと意図している状況下ではいずれは誤算により失脚していたと見るべきなのかも知れません。








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