赦せないことを赦せるか

随分以前に観た韓国映画で題名も忘れてしまったのだが、有名な俳優さんが出演している韓国映画が今も時々、頭の中で蘇る。主人公は若いころ警察官をしていて、結婚し、公務員を辞めて実業家になり、妻が不倫して赦せずに離婚し、事業協力者に裏切られて破産し、文無しになって自殺するという救いが全くない映画なのだが、私はどうしても時々思い出してしまい、その主人公の彼の何が人生を破滅させたのかを考え込んでしまう。

というのも彼は全く悪いことはしていない。警察官を辞めて実業家になるのは個人の自由だ。妻が不倫して離婚するのは正当な事由だ。事業協力者に裏切られたのも、裏切った方が悪い。にもかかわらず、彼は自分の人生を回復させることができなかった。なぜ、どこからこの人はおかしくなっていったのだろう、と良く考え、自分の人生の教訓にしたいというようなことを反芻するようにして考えてしまう。

ただ、彼が破滅していったことについて、私はなんとなく分かるような気がしなくもなかった。それは、彼の不倫した妻に対する態度に現れているように思える。妻の不倫は疑惑ではなく間違いなく申し開きのできない現場を押さえていて、警察官らしく現行犯で捕まえたと言える。その後、妻は泣きに泣いて赦しを請うのだが、彼はどうしても赦すことができず、妻を置いて振り返りもせずに家を出る。私には、ここがターニングポイントだったのではないかと思える。これは難しい問題で、もし自分が同じ立場でパートナーを赦すことができるかと問われれば、自信がない。赦せないかも知れない。パートナーに浮気されたことがないし、私も二股のようなことはしたことがないので心境が完全に分かるわけではないが、普通に考えて赦せないだろうし、世間的にも赦せないことは理解されるだろう。

ただ、泣いて赦しを請う人間に対し、一切の赦しを与えず、背を向けて立ち去るという軽蔑の姿勢を見せる彼の覚悟には強い攻撃性が感じられた。攻撃性は方向性の問題なので、時に他人を傷つけるし、時に自分を傷つける。彼はあの時、妻を赦さないという覚悟をすることによって、結局は自分を赦すことができず、自ら人生の破滅を招いたということができるのではないだろうか、という気がするのだ。

もちろん、そういったことは演出の問題もあるから、私の勝手な解釈で、制作者はただ単に救いのない人生を描いて観客を落ち込ませようと意図していただけかも知れない。ただし、本でも映画でも受け手の心に響かなくてはいけないので、作品には必ず制作者の人間に対する理解が入っていなくてはいけないし、そうでなくては作品は作れないとも言える。

赦し難しことを赦すというのは人によっていろいろあるだろうから、貞操の問題だけに集約されるものではないかも知れない。しかし、貞操は最も分かりやすい例だということはできるだろう。私にもひたすら赦せないと思っていた人が何人かいるが、最近、なんとなく、赦してもいいのではないかという気がしてきた。そして、ある人は言外に赦しを私に請うていたということも思い出した。あの時、私は赦しを与えないという姿勢を言外で見せた。今思えば、赦しておけばよかった。赦しを与えた時、心の傷はそれだけ苛まれなくなるような気がする。なぜなら、赦した側にとっても完全な過去になるからだ。赦しがたいことを赦すから値打ちがあるのである。そして、赦することは自分を救済することにも繋がるはずなのだ。



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