私は善良なものが好きだ。というより、善良でないものが嫌いだという方が正確だ。ある意味では潔癖症で、それはおそらく父親がかなり本格的なならず者だったことと姉が不良好きだったこと、母が父親以外の男性と性行為をしているのを目撃したことあたりに原因があるのではないかと思う。
で、まず私がどれくらい善良でないもに対して潔癖症かというと『サザエさん』を見て嫌な気分になる程度に潔癖症なのである。サザエはカツオを叱る際に耳を引っ張るが、耳を引っ張るのは暴力だ。カツオは草野球で近所の家のガラスを良く割るが、少年法によって守られているとはいえ器物損壊である。ワカメのパンツ丸出しなのもはっきり言って作者の意図が理解できない。もしサザエさんファミリーが古き良き日本の家庭モデルだと位置づけるとすれば、日本の古き良き家庭像はかなり野蛮なものだとすら思える。サザエさんには、人間は多少不届き不埒でおっちょこちょいでも人間だものいいじゃない、というメッセージがあると思えるが、姉だから弟の耳を引っ張っていいとか、少年だから近所のガラスを割っていいというのは私には甘えに見えてしまうのである。ワカメが少女だからパンツ丸出しでもいいというのも甘えであり、広い意味での色仕掛けであり気持ちが悪い。同じ理由で本当に申し訳ないのだが『となりのトトロ』も気持ちが悪いと思ってしまう。
私の父はほとんど家にいなかったので、父の記憶は希薄だが、帰って来ると酒を飲んで暴れて母を殴り、何度も家のガラスを割り、家を燃やそうとしたこともある。父はギャンブル狂で常にやくざの借金取りに追われていた。パチンコにも入り浸りで私は父にパチンコ店まで迎えに行くよう言われたことがあり、怖くてパチンコ店に入ることができず後で革靴で蹴られたことがある。おそらくその反動のようなものがあって、私は暴力とか暴言の雰囲気のするものは一切受け付けることができなくなってしまった。『名探偵コナン』が殺人事件を娯楽にしていることすら私には受け入れにくい。言うまでもないがギャンブルはパチンコ、麻雀を含めて一切やらない。
北野武の『菊次郎の夏』はやくざ者でギャンブルが好きで口も悪いが実は少年に対して思いやりあふれる態度で接する心優しいおじさんだったという映画だが、私のような性格の人間から見ると口が悪い時点でドン引きである。マーティン・スコセッシの『ミーン・ストリート』ですらはっきり言うとドン引きである。若者のロンリーさと音楽のセンスの良さが評価されているということになっているが、暴言吐き放題に憧れや郷愁は感じない。そういう人は本物を見たことがないからではないかと私は想像している。任侠映画が好きな人も本物との縁がないから憧れるのではないかと私は思う。北斗の拳も気持ち悪い。ヒデブという意味不明な最期の言葉とともに人間が破裂する場面が毎回出てくる作品の何がいいのか分からない。ここまで言わなくてもいいかも知れないが、ワンピースも本音で言えばアウトだ。暴力に対して暴力で対抗し勝利するという価値観そのものを受け入れることができない。不良少年もので大人は分かってくれない的なものも理解不能である。もうちょっと言うと『エデンの東』のようにお父さんに分かってもらえないから悲しいも意味不明である。私は父に理解されたいと思ったことは一度もないし、そんなことの前に暴れないでほしいといつも思っていた。
姉は思春期のころ不良な男子が好きだった。不良というのは未成年なのにタバコを吸ったりお酒を飲んだりシンナーを吸ったりバイクを盗んだりして女の子の心をときめかせる存在だとここで簡便に定義しておく。もし更にエレキギターが弾けてスポーツ万能で何故か分からないがお金を持っていたら完璧である。私は物静かに読書をしていれば満足できる少年期を過ごしていたので、姉にとってはそれが非常に不満だったらしく私はよく読書している行為そのものを批判された。読書を禁止されたこともあった。もっと不良ぽくなれというのである。もっとチャラく、もっとコワくなれと要求されるのである。で、家にいないで外へ行けと言われるのだが、外へ行ってもやることがない。野球やサッカーをすればいいではないかと言う人もいるかも知れないが、私はバットもグローブもサッカーボールも買ってもらったことがないし、私がほしいのは本だけだったから外へ行かされても困るのである。自然、趣味は立ち読みになった。そのようなわけでまことに申し訳ないのだが尾崎豊には全く共感できない。盗んだバイクで走りだしたり、学校のガラスを割って回ったりすることになぜ共感するのだろうか。それはやはり本物を見ていないからではないかと思えてしまう。バイオリンとピアノを習いたかったが、そういったことはやらせてもらえなかった。私はそういった姉の圧力に迎合するためにタバコだけは覚えた。そして時代は大嫌煙時代となり、これはミスチョイスだった。
趣味で暴力を連想させる者は全部嫌いだ。たとえばハードロックとかヘビーメタルも嫌いだ。普通のロックでも嫌いだ。「どうだ、俺、社会に染まってないぜ」アピールがおめでたすぎる。私の場合は家庭に社会性がなかったので社会に染まれなかった。「社会に染まらない俺」アピールをする人は社会性のある生育環境に恵まれていたのだろう。私はXJapanですら理解できないし、Bzですら好きになれない。あー夏休みを歌っていたグループがあったが(名前忘れた)、それも好きではない。姉がそういうのが好きだったので私はますますドン引きすることになってしまった。あー夏休みのグループがTシャツの袖を撒いていることについても「は?」だった。更にまことに申し訳ないのだが姉はビートルズにもはまっていて中高生の時期は毎晩ビートルズをステレオで聴いていたためビートルズも御免である。少年期に夜毎ビートルズを聴かされ続けた私は二度とビートルズは聴きたくない。ごく個人的な見解で本当に申し訳ないのだが、ビートルズのビジネスモデルはおニャン子クラブのそれと同じだと私は思っている。毎晩おニャン子クラブを大音量で聴いている兄を持った経験のある人がもしいれば、その気持ち悪さを理解してもらえるのではないだろうか。チャラいものも全般的に理解できない。もうちょっと遡ればプレスリーがいるが、はっきり言ってダサいと思う。私だけだろうか。前髪はもちろん上げるのではなく下げる方が好きだ。メガネは角ばったものよりも丸いフレームの方が好きだ。強さやデキル男をアピールするものよりも静かに知性をアピールするようなものを私は愛する傾向にある。矛盾するかも知れないがサザンは大好きだった。湘南は大好きだ。ついでになるが横浜のランドマークタワーから関東平野と相模湾を見るのも大好きだ。
ただし、私は聖人のようになりたいわけではないし修道士のような生活に憧れるわけでもない。恋愛にも関心がある。ただ母が父以外の男性と性行為をしているのを目撃したからではないかと思うのだが、性生活に関して何が正しくて何が正しくないのかよく分からない部分が私の内面にはある。性について考える部分が破壊されている。
いずれにせよ、そういう少年だったので私がひそかに願っていたのは学者か物書きになることだった。但し、これも関係者の方々には実に申し訳ないと思うのだが新聞と週刊誌は嫌いだった。殺人事件の話題が大嫌いだったし、セックススキャンダルについても私は他人に関心がないので、それらの情報はノイズでしかなかった。将来学者になりたい、そのために大学院に進んで博士号を獲りたいと母と姉に話したことがあったが猛反対されやむを得ず就職することにし、せめて出版社に行きたかったが週刊誌と漫画を読む習慣がなかったことは出版社志望にとっては痛手だった。文芸をやる出版社でも週刊誌に向かない人材はダメなのである。真剣な社会科学系の書籍をコツコツと作っている出版社も存在するので、そういったところに就職できなかったことは私の能力不足であり、そういう会社に入社した人のことは心から尊敬している。結果として私は新聞記者になった。新聞社の筆記試験に通る程度には勉強したし、新聞は毎日発行されているので駅の売店で時々買って拾い読みしておけば面接対策はわりと簡単だったから入れたのだ。新聞社に入ってサツマワリをした結果、私は警察の捜査手法については多少詳しくなったし、刑法や刑事訴訟法にも多少詳しくなった。それまで推理小説は全くおもしろいと思わなかったが、その醍醐味は分かるようになったし、事件の筋読みは我ながらいい線をつけるようになったと思う。裁判の傍聴を趣味にする人の気持ちも理解できるようになった。しかし他人の不幸でアドレナリンが出るという職業の性質は好きになれなかった。やはり学者になりたかった。
年齢的にも心理的にも大人になって、私は学者の道にハンドルを切ることにし新聞記者の道はやめることにした。従って私の学者人生は周回遅れか二周遅れくらいである。早いうちに博士号をとった人から見れば終わっている存在に見えることだろう。だが大学院に進み、非常勤講師という立場ではあるが大学に使ってもらえるようになり、紆余曲折もあったがようやく博士論文にも取り掛かることができている。目の前の一応の目標は博士号の取得で、その後のことはそれからまた考えようと思っている。
所得という点で見れば新聞記者と大学の非常勤講師では比較にならない。それでも仕事で本を読み、映画がみれる生活は幸福だ。本を読むことを批判されないことの安心感に共感してくれる人がいるかどうか分からないが、本を読むことが仕事になるのである。私は今の境遇のありがたみを噛みしめている。再出発組であるにもかかわらず、それでギリギリ生活できているのだから、この業界の中では実は私はかなり運がいいと思う。ちょっと話題がずれるが三田文学という雑誌が好きだ。ストイックに洗練されたディレッタントを追求するスタイルは私がそもそも憧れていたものだった。装丁がきれいで紙質も手になじむ。季刊なので追われるように読まなければならないというわけでもないからじっくり読める。三田文学という雑誌は本にしか興味を示さなかった私にとってのフロンティアになった。文芸誌をあれもこれもと読むだけの時間はないので、我ながら三田文学の定期購読はいいチョイスだと思っている。
就職活動と新聞社の仕事で長く本を読まなかったことが今は大きな後悔になっている。だがその後悔も時間を経るに従い小さくなってきている。今は毎日本が読めるからだ(業界を知らない人のために、一応、但し書きをつけるが、新聞記者に本を読む時間はない。新聞記者は人に会って情報を取ることを要求される職業なので、24時間ネタ元に食いつくことだけを考えなくてはいけない。本を読んでいると「さぼっている」と批判される)。
恐る恐る始めたブログだが最近は少しはアクセスも増えてきたので継続は力なりという言葉の意味を実感している。で、このブログの目的は私の個人的なことを語ることではないのだが、一度ばーっとはきだしたいという心境になったので、今回書いてみることにした。独自ドメインで有料サーバーを使っているので、わがままなことを書いたことはゆるしてほしい。感情をそのまま書いているので多分しっちゃかめっちゃかな内容になっていると思う。申し訳ない。