最近、外国の著名な大学の教授が来ると言うので、巡りあわせが重なり、私と友人の詩人の女性の二人で空港まで教授をお迎えすることになった。
一応、先に述べておくが、その女性は既に結婚していてお子さんもいるため、決して私のガールフレンドではない。旦那さんの収入がいいため、詩人という高等遊民ができる恵まれたご婦人であるとは言える。私と彼女との関係は、いわば職業上の同盟者のようなものだ。
それはともかく、その日は教授を空港でお迎えし、こっち側の偉い人と引き合わせて会食し、適当に街を案内して夕方には解散というわりとシンプルなものだったのだが、そのための調整にはかなりのエネルギーを要した。気楽に終われるのが一番だが、気まずく終わることだけは避けなくてはならないため、その教授がご機嫌麗しくお過ごしになることがその日の私の至上命題であった。
一緒に出迎えた人妻の詩人はなかなかの美人なため、教授は彼女が会食に同席していることに相当な満足を得たらしく、その後のご案内の際もタクシーで私が助手席に座り、教授と彼女が二人後ろに座るというシチュエーションで推移した。教授は私のような財力も名声も権力もない半端な男には興味はもちろん湧かないし、会食中も「私は特に君と同席したいとは思っていないし、私には君に対して親愛の情を示す理由は特にない」と私に対して思っていることも露骨に態度や表情から見て取れた。私の方も教授に対して親愛の情を示す理由は特になかったのでお互い様なのだが「ご機嫌麗しくお過ごしいただく」至上命題はなかなかに重く、私にも好感を持ってもらえたという実感を得れば、その命題を解決できたとも感じられるだろうから、どうすればいいかということについて食事しながらも考えを経めぐらせた。
結果として私が選んだのは、あらゆる場面でのお会計を私がするというものだった。当初教授は「いやいや、私もお金を持ってきているから大丈夫だ」と言っていたが、私が「いえ、大丈夫です」とお会計し続けた。そして、それはおそらく彼の胸に響くものがあったらしく、ある瞬間から突如、私に対しても親愛の情を示してくれるようになり、融和的で和やかにその日は解散になった。彼の年収は私の何倍もあるに違いないのだが、にも関わらず懸命に財布を開き続ける姿に男として感動したのかも知れない。
私が支払ったお金は永遠に帰ってこないかも知れないが、いい思い出を作るための投資であったと思えば、数千円単位の出費はどうということはない。今後、どうしても教授に頼まなければならないことが生じた場合、私が門前払いされることもないように思える。権威や権力のある男性にとって、権威も権力もない男性は虫けらと同じに見えるのかも知れないが、「お会計は私が」という最後の手段が残されていることを実感した一日だった。
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