一夫一婦(モノガミー)に関する議論

一夫一婦(モノガミー)については、これまで数えきれないほどの真剣な議論がなされてきたと言える。現代社会では一夫一婦は普通のことだが、果たして本当に普通のことと言えるかどうか疑問を呈す人たちがいるからだ。

60年代のアメリカから始まったものだが、世界的に性に対する考え方が開放的になったことが大きな理由の一つだと言えるし、19世紀から広がった厳格な恋愛至上主義とも関係があると言える。

性に対する考え方が開放的になった結果、人々は生涯のうちに複数のパートナーと出会うことが普通になったが、多くの場合は結婚という制度によって人生最後のパートナーをこの相手と見定めてある種の契約関係を結ぶが、時には離婚し、契約関係を解消する。離婚は精神的にもダメージが大きいし、経済的にも大きなダメージを受けることがある。更に周囲の人間からの評価にも直結することがあるため、結婚制度そのものが人の生活にある種の足かせをかけるという考え方があるのだ。

結婚制度そのものを否定するつもりはないが、仮に結婚が「愛」を前提として結ばれる契約だとすれば、人の心はうつろいやすいため愛が失われるリスクは常に潜んでおり、仮にリスクが顕在化した場合のダメージは繰り返しになるが計り知れない。それでも一夫一婦制を守り続けますか?とする問題提起だと言ってもよい。また、厳密な恋愛至上主義者は愛を感じている時は共に過ごすが、愛が失われたと判断したら即座に別れることがより道徳的な選択であると主張する場合もある。ロジックとしては間違っていないとも言える気がする。

恋愛結婚は60年代以前から欧米中心に主流になりつつはあった。これも恋愛至上主義の一形態だった。ロマン主義が流行し、永遠の愛、生涯の愛というロマンチックな言葉を用いて結婚する理由としたのである。18世紀くらいから広がり始め、20世紀には相当に幅広く支持されるようになった。しかし社会心理学者のエーリッヒフロムは、結果として結婚が市場になってしまい、個々人は自分の値打ちをできるだけつり上げることにより、より値打ちのあるパートナーを得ようとしていると『愛するということ』で指摘した。生涯愛することを前提とするパートナーを市場価値で競い合い手に入れることが果たして「愛」なのか、とする鋭い疑問である。

ロマンチックな恋愛結婚という概念が生まれる前は結婚は家同士が主として財産や政治勢力の拡大のために行うものであり、たとえばハプスブルク帝国やブルボン王朝はそのようにして支配を拡大していった。日本でも政略結婚はよく行われたものであり、これについては説明不要であろう。

政略結婚を行うのは特権階級かとてもつもない富裕層である。彼らは結婚という手段を用いて力の維持と拡大を図ったが、それによってたとえば王や貴族、日本でも封建領主は大勢の女性を独占することができた。一夫多妻である。

一夫多妻に憧れるようなことを言う人が時々いるが、男女の数がほぼ同数であるにもかかわらず一部の男性が女性を独占するということは、残りの大多数の男性には一生女性と縁がないかも知れないということでもある。特権階級に生まれてくる自信のある人は一夫多妻に憧れても道理に合うが、これは完全に運の範疇になるので、そのような自信のある人はいないだろう。

さて、一夫一婦はヨーロッパで市民社会が確立される過程と同じ道程によって定着したと私は思うのだが、この一夫一婦制度によって、男にとっては特権階級に生まれなくても結婚できるという利点があり、女性にとっても特権階級の男性に支配されるというリスクから自由になれるという利点があったと言える。言い換えれば、ほぼ全ての普通の人にとって、結婚できるチャンスがあったという共産主義みたいな仕組みだったと言えるかも知れない。

しかし、その一夫一婦(モノガミー)はもしかするとだんだん崩れ始めているのかも知れない。離婚経験者は普通にごろごろいる時代になった。不倫は後を絶たない。ただ、離婚しない人の方が多いし、多分だが、不倫しない人の方が多い。これについては多分、としか言えないが。

少なくともアメリカの海岸沿いに住む人たちからは結婚制度そのものへの疑問が提出されており、結婚は人間を拘束し、時には抑圧する制度なのではないかと指摘する人もいるようだ。フランスでも事実婚が多いと言われるが、それが事実だとすれば結婚制度が充分に機能していないか、必要ないかのどちらかだと言えるだろう。

とすれば、あるいは結婚は必要ないかも知れない。私はここでその是非についての決着をつけるつもりはないが、人の心が揺れ動くもので、より自由を大切にしたいのであれば、結婚という制度そのものを取っ払ってしまい、その時、その時で真実に恋愛感情を持つ相手をパートナーにすることも決してナンセンスとは言い難い。私はアメリカの海岸沿いの住む人たちの意見について述べたが、アメリカの内陸部では今でも厳格に生涯一人のパートナーに倫理的な正しさを感じている人が大勢いることも確かだ。B級のアメリカ映画で保安官が地元の既婚女性たちと浮気しまくっていたという告白が、物語のクライマックスになるというのを観たことがあるが、日本の気の利いた映画ならようやく物語が始まって、さてこれからが修羅場だという程度の衝撃度しかないはずで、正直、つまらない映画だったが、それがクライマックスとして成立すると信じる人が一定程度いるのは事実なのだから、それほど一夫一婦の美しさを信じている人も多いということも忘れてはいけないだろう。

さて、これから世の中がどちらへ向かうかはなんとも言えない。過去50年ほどの人間の思想の歩みは性差別や人種差別と撤廃していくために大いに力が尽くされた歴史だったと私は思う。結婚制度を辞めてしまおうという試みは、一方において女性を家庭から解放するし、男性も家を養うという社会的圧力から解放されるかも知れない。自由奔放な性行動によって生まれてくる子供は公的な扶助や機関によって国家や地域が一緒に育てるという選択肢はもちろんあり得る。前衛的な意見を持つ人の中には、パートナーを複数、互いに共有し合うようなイメージを持っている人もいるようだ。それがいいことかどうか、私には分からないが、否定はしない。

ただ、漠然と、なんとなく思うのだが、おそらく人類が結婚という制度から自由になった結果、大勢のパートナーに恵まれる人と、生涯パートナーを得られない人に分かれるだろう。新たな格差になるような気もする。世の中が悪いとか言っても始まらないので、そこでどうやってうまく生きるかは個々人が試されるとしか言えないのかも知れない。

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