ナウシカは自己中心的救世主

『風の谷のナウシカ』は、全身に満ちた愛情を全力で発揮する救世主のような人物として描かれている。映画版と漫画版では内容にかなりの違いがあるが、ナウシカが救世主としての役割を負っているという点で共通している。フィクションであるからこそ可能なことなのかも知れないが、映画でも漫画でも、ナウシカが博愛を全力で実践していることには感動できるし、だからこそ私も繰り返しナウシカを繰り返しみてきた。

だが、同じ作品を観続けていると、違った見方もしたくなってくるものでもある。新しい発見は気づきがあるからこそ、繰り返し見ることができるのだとも言える。最近、改めて数回ナウシカをみ、かつ漫画を読んだこんで、ナウシカの博愛は実はエゴイズムの発露なのではないかという視点を持つようになった。

というのも、ナウシカは特別な苦行も修養もしているわけではないからだ。イエスは山中に40日籠り、悪魔の誘惑に打ち勝つことで救世主としての目覚めを得た。仏陀は苦行を否定したが、それは実際に自分で苦行を行い、苦行は無駄だと悟ったからだ。近代日本で言えば西郷隆盛島津久光に島流しにされている間に漢籍などを読み自己教育をして鋼の精神力と常人とはかけ離れた才気を発揮し人望を集めるようになった。

ナウシカにはそのような自己変革の機会はない。物語が始まった時からナウシカは既に天才的に風に乗ることがうまく、生得的な才能として人間以外の生き物とコミュニケーションをとることができ、人を限りなく愛するという哲学も最初から持っている。

そのように思うと、ナウシカが生まれつき救世主的なのはなぜかと言う疑問が湧いてくる。修練や自己訓練によって会得したものでないとすれば、ナウシカは単に生まれ持った本能に従って生きているだけであり、たまたま本能が救世主的だったと結論しなくてはいけないのではないかと思えた。

修練や思考を経て会得したものではないため、ナウシカは自分の判断でかなりのことをやってしまっている。例えば怒りに任せて人を殺してしまう場面は映画でも漫画でも描かれている。ナウシカが風の谷を離れなくてはなった時、自分の判断で地下の植物園の水を止め、植物たちに枯れて死にゆく運命を与えいている。そしてこれはネットでもよく言われていることだが、漫画版では腐海によって浄化され、ナウシカたちも同時に滅亡するようプログラムされており、その後、完全に汚れのない新生人類が生まれてくることになっていたはずなのが、ナウシカは自分の感情の赴くままに新生人類の卵を破壊している。仮に全ての命に愛を与えることを彼女が自己教育によって自分に課している義務なのだとすれば、新生人類の破壊するという行為はできないだろう。しかし、彼女はそうではなく、感情のまま突っ走るだけであり、かつそれでも失敗しないだけの運動神経の持ち主であるからこそ、あたかも慈愛と才能に満ちた人物に見えるのであり、救世主に見えるのである。

だが、それが宮崎駿の設定ミスだとも思えない。原作者は最初からナウシカは究極のエゴイストだということを自覚的に設定していたのではないかという気もする。映画でも漫画でも人を殺した後、自分が怒りに任せて何をするか分からないという台詞が挿入されている。つまり原作者は最初からナウシカは倫理で行動しているのではなく感情で行動しているのだと明確に描いているのだと言える。

だが、これをして、なんだ、ナウシカってただの自己中なのか、興ざめだな。ということにはならない。ナウシカが救世主であるという位置づけに変化は起きない。映画でも漫画でもナウシカは現生人類にとっての救世主としての位置づけに変化はない。イエスはユダヤ教の教会である種の破壊行為を感情的に行ったが、救世主は神の預言を授けられている存在であるため、感情に従って突き進むことにより人類を救うことができるのだと言うこともできる。

また、ナウシカの内側には神の預言者たる救世主としての一面と同時に新生人類を抹殺する悪魔の一面の両方が存在すると考えれば、むしろナウシカが相矛盾する性格を一人で抱える普通の人間なのだと考えることができれば、作品理解が更に深まるというか、作品を通じて世界や人間をより深く理解することの糸口になるかも知れない。『カラマーゾフの兄弟』では、無垢で誠実なミーシャが修道院長から修道院の外の世界を生きるよう命じられる。ドストエフスキーの計画では俗世に出たミーシャは黒いキリストになる予定だったという。おそらく『悪霊』はミーシャの俗世版だと言えるはずだ。



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