大学の授業で『風の谷のナウシカ』を二年ぶりに学生たちにみせることにした。私の世代にとってナウシカは常識の範疇に入るが、今の大学生たちにとっては古典映画の部類に入るのではないかと思えるため、ナウシカを見せることにはそれなりに意義があると思ったからだ。
どのクラスでどの映画をみせたかを考えるのが面倒なので担当しているクラス全てで「上映会」をしてみた。しばらくの間、私は映画館の映写担当者のような気分だった。何度も繰り返し同じ映画を見ることになったが、これはなかなかいい経験だった。特に自分が好きな映画なら、贅沢な経験だと言っていい。大学の教室のスクリーンで見るなら、ちょっとミニシアター並の迫力があるし、繰り返し続けて見ることで気づかなかったことにも気づくことがきる。そして好きな映画をみんなで見て、給料がもらえるのだ。これほどいいことはない。私はそれこそ神に感謝したい気持ちになった。
以前から気づいていたことだが、今回あらためてほれぼれとする心境で見たのはクシャナの後ろ姿だった。クシャナはかっこいい。そこに異論のある人はいないだろう。宮崎駿が力を尽くして天才的な頭脳と威厳のある女性を描き込み集約したのがクシャナだからだ。クシャナのイメージは烏帽子御前に引き継がれている。
クシャナの後ろ姿で印象的な場面は二つある。一つはまだ未熟な状態で孵化を待つ巨神兵をたたき起こし、迫り来るオームの群れに破壊的な光線を発射させた直後の場面。そしてもう一つは死んだナウシカがオームたちの神秘的な力により蘇生している瞬間を見上げている時だ。この二つの場面に於けるクシャナの心境はそれぞれ違っており複雑なものだが、その立場は一貫している。以下にクシャナの心境と一貫した立場を述べたい。
巨神兵を強引に孵化させ、その光線を発射させる場面では、その直後、ビキニ環礁の水爆実験を連想させる巨大な破壊が起きる。風圧でクロトワがのけぞる瞬間である。クシャナはのけぞることなく、すっくと戦車の上に立ち、火の七日間で世界を滅亡させた呪わしい破壊力を見届ける。彼女の目的は迫り来るオームを殲滅することにあるため、人が開発した巨神兵の威力に満足しているはずであり、映画の設定上彼女はオームを憎んでいるはずなので、人の力によってオームが撃退できる可能性があることにやはり満足しているはずである。そのような後ろ姿は自然を克服し、望むものを手に入れるために力を尽くす近代人を代表している。仮に現代も近代の延長線上にあるとすれば、クシャナは我々近代人の代表であり、巨神兵の破壊力は近代人の自然に対する勝利の瞬間であるとも言える。
もう一つは、ナウシカがオームの神秘的な力によって蘇生する場面だが、オームに追われ命からがら助かったクシャナとクロトワが無力そうにその様子を見上げている後ろ姿もまた、我々近代人を代表している。死んだ人間が生き返るはずがない。しかそのような常識を無視し、ナウシカが蘇生しているという、飽くまでも映画の中での出来事ではあるが、その信じがたい光景、クシャナがこれまで信じてきたものとは真逆の現象が目の前に起きているという事実に降伏せざるを得ない無力感と、同時にオームの神秘性を信じざるを得ず、死者が蘇るという無条件の感動を否定することもできず、何をどう思い、何をどうすればいいのか分からずに、ただ現象を見つめるしかない彼女の後ろ姿は、やはり人間の力を信じ、自然の神秘を信じようとしなかった近代人を代表しているのである。さらに付け加えるとすれば、見たものしか信じないという合理精神は、見たものは信じるしかないとするやはり合理的な潔さを彼女がいい意味で持っていると言えるかもしれない。
人間を自然の対立項として捉えるという発想法は多分に二十世紀的なもので、おそらく二十一世紀人は少し違った感覚を持っているはずだ。人は自然と対立するのではなく、人も自然の一部であり、自然の中で生きているという発想法は私の幼少年期の頃よりはより一般的なものになりつつあるように思える。それはおそらく私の幼少年期に於いては自然が克服すべき対象であったのに対し、現代では自然との調和へと世の中の関心事が移行したことと無関係ではないし、逆説的だが人は開発についてやれることはやり尽くしてしまったために、関心の方向が変わったのかもしれない。
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