中年男という「人類の余剰」の生きる指針

中年男は存在しているというだけで周囲に感動を与えることはできない。たとえば乳幼児は歩いているだけで周囲に感動を与える。若い女性が爽やかに笑顔を見せれば、周囲はかけがえのない貴重な瞬間を捉えたと感じるかも知れない。無知な若い男が後先考えずに冒険に飛び出すとき、その無知を笑う人がいるかも知れないが、一方で共感や声援を得ることもあり得る。

中年男性にそのような恩寵は期待できない。私もまた中年男性であるため、その屈辱は充分に知っている。中年男性は生きているというだけでは存在を許容してもらえない。はっきり言えば生存権すら軽んじられていると言ってもよい。若い女性が殺害されれば警察は捜査本部を立て、マスメディアの取材にも力が入り、加害者が逮捕されれば重罰を与えるべきだとする声が起きる。中年男性が路上で死んでいるのが発見された場合、その男性の運が良ければ新聞の社会面の隅に地味に事実関係だけが掲載されるかもしれないが、そもそも警察発表がなされるかどうかすら怪しい。中年男性が死んでも人々の心は乙女の死に比べればさほど痛まないのである。中年男性には広い意味での「エロス」、生き生きとしたライブリーフードのようなものはない。その対極の存在として認識されていることは公然の秘密であると言える。いや、秘密ではなくあからさまな事実であると言う方がより現実に即していると言えるだろう。

中年男性には威厳があると思う人がいるとすれば、それは時代錯誤である。中年男性に威厳はない。むしろ中年女性の方が威厳がある。「大阪のおばちゃん」という謎のカテゴリーの存在は、中年女性は何をやってもゆるされるということを示している。中年女性はパワーに満ちており、時には反論をねじ伏せて高笑いすることも社会的にゆるされており、要するに威厳がある。仮にこれを読む中年男性が自分の威厳を保つことによって存在価値を保とうとしているとすれば、早々に諦めるのが得策である。中年男性が威厳を保とうとしている姿は周囲にとって迷惑であり目障りである。一般的に中年男性に求められていることは、なるべく目障りにならないように周囲に影響を与えように声を潜めて静かにおとなしくしていることであり、そのようにわきまえている限りに於いて生存する権利くらいは認めてやろうという程度のものなのである。

中には地位や権力、名誉や財産を手にすることによってこの中年の危機を乗り越えられると思う人もいるかも知れない。それはある程度正しいが、限界がある。属する組織で地位や名誉、大きな権限があればその組織の人はかしづくかも知れない。しかしそれはあなたにかしづいているのではなく、権力にかしづいているのである。財力にかしづいているのである。名誉というメッキにひれ伏しているのに過ぎない。一歩組織の外に出てみればうっとうしいおっさんであるという目を背けたい事実に変わりはない。スーパーやコンビニで電車やバスで、自分がどちらかと言えば警戒の対象であると認めなくてはいけない。笑顔を見せれば下心がありそうで気持ち悪いと思われる。黙っていれば不機嫌そうで態度が大きくうっとうしいと思われる。泣けば馬鹿だと思われる。泣こうと笑おうと、如何に工夫しようとも扱いが変わることはない。中年男性は中年男性であるという理由だけで、敗北しているのである。

しかし、死ぬわけにはいかない。私もまた中年男性の一人として敗北感を背負って死にゆくわけにはいかない。従って、中年男性はその動かしがたい絶望的な条件下で生きる道を模索しなくてはならない。これは命のかかった難事業であるが、そうする以外に我々の生きる道はない。

では、どうするか。まず第一は期待しないことである。お店の若い女性店員があなたを素敵な人だと感じることを期待することは諦めよう。あなたはうっとうしいだけの客であり、金を払えば一刻も早く立ち去ってもらうことだけを期待されているという事実を知ろう。職場の若い女性があなたに好意を持つことも諦めよう。そのようなことは大抵の場合は起きない。例外的にそういうことは起きるかも知れない。しかし、それは例外的であるということは強調しておきたい。大学生であれば異性が自分に好意を持つ可能性に期待をかけることは正当である。あるいは三十代半ばくらいまでなら、やはり正当な期待である。女性を見つめれば女性は喜ぶかも知れない。だが、年齢を重ねればそういう期待を持つのは自分の人生が無価値であるということをより強く実感させられることになるだろう。そういう期待は捨てよう。そのような明るい楽し気な未来はない。少なくとも期待している限りは。自分が正当に扱われていないことに不満を持ってはいけない。中年男性は人間の市場価値に於いて底辺に属する。従って、如何に不当と思える仕打ちを受けてもそれは正当な仕打ちなのだと知らなければいけない。

しかし我々にはまだできることがある。それはつきなみではあるが、自分磨きである。中年男性が生存を許されているのは憲法が生存権を認めているからだと思ってはいけない。そもそも今の日本国憲法は、国家の中枢に巣食い利権を貪り、戦争をおっぱじめて世界中の人々を死に追いやったおっさんたちを無力化することを目的にして書かれたものだ。にもかかわらず中年男性が生存を許され、場合によっては発言を許されるのは、中年男性であればきっと知識や経験や見識を備えているに違いないという期待があるからである。その期待に応えることができる限りに於いて、世間様に存在していることをゆるされているのである。しかし、男は意外と幼稚なまま年齢を重ねてしまう。本音中の本音を言えば、若いころのように酒を飲んで騒ぎたいし、ナンパもしたいし、やんちゃなことをやり続けたいものだ。しかし、それは若い男に与えられた特権なのであって、20前後の男性ならば場合によっては憧れの目で見てもらえる可能性もあるが、中年男性がそれをやれば確実に軽蔑されるのである。そのため、我々は残念ながら見識を高めるための自分磨きをしなければならない。肩書はこけおどしには使えるので持っていて損はない。多少なりとも世間的にかっこいいと言われる肩書を持つ人は、神に感謝するべきだ。肩書があるだけで、多少の見識はあるだろうという前提で扱われる。肩書がなければまず見識に耳を傾けてすらもらえないということを自覚しなければならない。なので、肩書を持つ人は幸運だ。しかし、肩書だけで見識があると考えるのは世間の悪しき誤解であることは言うまでもない。肩書以上の見識を持つ努力をしなければならない。読書し、調査し、沈思黙考しなければならない。外見的には不衛生そうな衣服を着ていてはいけないし、中年太りは努力によって解決できるのだから、ダイエットは必須だと思わなくてはいけない。はげはやむを得ないが、デブはなんとかできる。酒もやめるのが賢明だし、タバコも吸わないのが賢明だ。に酔っているおっさんは殺意の対象になるし、タバコを吸うおっさんも同じである。

我々にできることは限られているが、できることは十二分にやらなくてはいけない。今与えられている職業に感謝して精進しなくてはいけない。運不運によって肩書はかっこいいとされているものからださいとされているものまで様々だが、今から全く違う世界に転職することは神業である。それより先にまず今、たまたま与えられた職業をしっかり全うすることに力を入れなければならない。そうすれば、少なくとも職場である程度の敬意を払ってもらえるようにはなるだろう。中年男は敬意を払ってもらえなければ世間の余剰でしかない。少なくとも職場で敬意を勝ち取り得ないのであれば、その外で敬意を得られることは絶対にないと断言してもいい。

過去、日本には何度か就職難の時代があり、或いは自分探しに走ってしまい定職を持たない中年男性は存在する。諦めてはいけない。もし今アルバイトをしているのなら、そのアルバイトでスキルを磨かなくてはいけない。スキルの身につかない仕事をしている非正規雇用という言葉には多分に嘘が含まれている。スキルの身につかない仕事はない。どんな仕事でもスキルは身につく。誰にでもできる簡単な仕事であったとしても、経験半年と経験ゼロでは大違いだ。同じ賃金で雇うのであれば、雇い主は経験半年を選ぶに決まっている。高望みをしてはいけない。まずは選ばれなくてはいけない。自分が選ぶなどという理想を語ってはいけない。自分に選択の余地があると思ってはいけない。中年男性はそもそも生きていなくても世間は困らないという現実がある以上、選択するのは贅沢だと気づかなくてはいけない。そして、正規、非正規にかかわらず職場があることを神に感謝しなくてはいけない。ここで言う神は特定の宗教を指してはいない。神でも仏でも宇宙でも自分が信じられるものでいい。目に見えない何かに感謝しなくてはいけない。中年男性が生きていられるのは、目に見えない何かが何とかしてくれているからである。自分に価値があるというようなうぬぼれは捨てなくてはいけない。自分は無価値だというところから出発しなくてはいけない。もし今、仕事もアルバイトもしていないのであれば、条件にこだわらず、何かをしなくてはいけない。親の年金に頼って生活できているのであれば、ボランティアでもいい。私は親の年金に頼る中年ニートを軽蔑しない。そうならざるを得ないだけの事情があったのだろうと同情する。しかし、それでも何かをしなくてはいけない。たとえそれがどれほど小さな一歩であったとしても、踏み出すことは人生を変える大きな価値につながる。そして歩き続ければ気づくとステージが上がっている。人生のステージを上げようとしてはいけない。続けていれば自然とステージは上がるのだから、安心して歩けばいい。

中年男性が人生を逆転することは原則として期待できない。そして、逆説的だがそのような期待を捨てた中年男だけに次へ進む機会が与えられる。なぜなら自分が無価値だと認めている中年男は少なくともうっとうしさという点ではまだましな部類に入るため、他人があなたに機会を与えてくれる可能性はそれだけ上がるからだ。自尊心は捨ててしまおう。心の中で自尊心を保つことは大切だが、それを他人に悟らせてはいけない。自尊心に拘らない人物の方が敬意は集まりやすい。謙虚にしているだけで、あの人は良い人だと言ってもらえるのは数少ない中年男の特権である。中年男は厚かましくてふてぶてしいのが普通なので、できれば早く死んでもらいたいと世間が思っている中、謙虚な中年男性は意外な存在であり、運が良ければ賞賛される。謙虚になることは簡単なことだ。頭を低くするのは簡単なことだ。そんな簡単なことはやらない方が損だとすら言えるくらいだ。謙虚にならなくてはならない。謙虚になることは自分の能力や価値を証明することよりも簡単であり、且つ効果を見込みやすい。

神に感謝し、仕事に打ち込み、余暇は読書や勉強に充て、疲れた時は沈思黙考しよう。他人より得がしたいと思ってはいけない。中年男が得をして喜んでいる姿ほど他人が見てイラ立つものはない。誰も中年男に幸せになってほしいとは思っていない。中年男性が自分の幸福のために努力している姿ほど他人をがっかりさせる光景はない。どちらかと言えば「こんなおっさん死んでしまえばいいのに」とすら思われているのだから、幸せを望むのは以ての外である。小説でも映画でも悪い奴は大抵の場合は中年男である。読者や観客にとって受け入れやすいからだ。中年男は自分の幸福のために努力をしてはいけない。その逆をしなくてはならない。他人の幸せのために努力しなくてはならない。他人の幸せに貢献する中年男性は大勢いるし私はそういう中年男性を尊敬するが、それは当然のこととされているために、それだけで賞賛されたり尊敬されたりすると期待してはいけない。しかし、それ以外に存在を認めてもらえることはないと知らなくてはいけない。繰り返しになるが、神に感謝し、仕事に打ち込み、読書と勉強と沈思黙考によって人格を高めよう。人格を高めるということは如何に効率よくかつ適切に他人を幸せにできる能力を持つかということであり、あらゆる努力は仕事であれ読書であれ思考であれ、そのことに費やされなくてはならない。人格を高めることに終わりはない。従って、諦めている場合ではないし、くさっている場合でもない。今すぐにでもその作業に取り組まなくてはいけない。そして根気よく取り組まなくてはならない。強調するが、それ以外に中年男性が幸せになることはない。




「中年男という「人類の余剰」の生きる指針」への2件のフィードバック

  1. タコすけちんさん。コメントありがとうございます。励みになります。21世紀5G時代の中年男の生きる道を模索し続けたいと思います.

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