西郷隆盛は維新三傑の一人に数えられ、剛毅さ、大胆さ、無私の精神、大局観など稀に見る大人物ともてはやされています。しかし、彼の歩んだ道を辿ってみると、かなり無茶というか、精神的にいかれた感じの人であった可能性も否定できないのではないかと思えます。
例えば、藩父島津久光とタイマンなみに意地の張り合いをしたこととか、下級藩士ながら京都で暗躍し、同志の僧侶月照を殺したこと(所説あり)、小御所会議で山之内容堂が異論を唱えて引かない様子を聴いて「殺せばいいじゃないか」という怖い意味での豪胆さ、最後まで徳川慶喜を殺そうとした執念、どれをとっても豪胆、剛毅というよりは目的のためなら手段を択ばぬサイコパスで、世渡りというものを一切考えておらず、常に明日死んでも別にいいという思い切り良さで乗り切っていたことが見えてきます。維新後も征韓論という無茶を唱えたり、西南戦争も始めから死んでもいいやで始めた感がどうしても拭えず、その心中には尋常ならざる激しい炎を抱えていたのではないかと思います。
しかしながら、そのような人物であるにもかかわらず、名声、声望、人望に於いて西郷隆盛ほど突出した人はいないのではないかとも思えます。日本の歴史で彼ほど高く賞賛される人を見つけるのは難しいでしょう。彼は島津久光と対立することで、二度島流しに遭っています。島流しにされていた間、やることがないのでひたすら漢書を読み、勉強したそうです。漢学の世界は2000年前に完成されているもので、道徳、倫理、世渡りとのバランスの取り方、勝ち方、情けのかけ方など成功法則の塊みたいになっていますから、西郷隆盛は島流しに遭っている間にそのような人間とは如何にあるべきか、或いは利他性、人徳というようなものを学び、結果として後天的な自己教育、自己訓練の結果、声望のある人物へと変貌したのではないかと私には思えます。目的のためには手段の択ばぬサイコパスですから、島流し中は本気で勉強して納得し、サイコパスらしくその後は学んだことを徹底したのでははないかと思えるのです。
さて、そのような西郷隆盛は最期は全く勝つ見込みのない西南戦争を始めて、それでもとことん山県有朋を困らせ、最終的には切腹して人生を終えます。明治維新の際には徹底した細心さ、緻密な計算をした西郷が勝つ見込みのない戦争をしたことは現代でも不思議なことのように語られることがありますが、西南戦争のきっかけを作ったのは薩摩の不平士族たちであり、西郷は「そうか。分かった。一緒に死んでやるよ。どうせ死ぬならみんなでパーッと死のうじゃないか」と決心し、サイコパスらしくそれを貫いたのかも知れません。
西郷は遺体が確認されていないため、生存説はついて回り、福沢諭吉も西郷隆盛はロシアにいるらしいという文章を書いたこともあるようなのですが、合理性を追求した福沢諭吉には、西郷的サイコパスが理解できなかったのではないかという気がします。あの西郷があんな風に死ぬわけない、絶対に復讐してくる。と福沢諭吉の思考回路ではそのようにしか思えなかったのかも知れません。もっとも福沢諭吉は外国語の能力だけでこつこつ出世した努力家タイプで、明治維新という天下の大転換には直接関わることができませんでしたから、その辺りのルサンチマンがあって、福沢が権力の末端に入り込んだのは咸臨丸の水夫という肉体労働で勝海舟のことはめちゃめちゃ嫌いでしたから、西郷隆盛に対してもせっかく自分が出世のレールに乗り始めた幕府を倒した恨みもあって、「潔く死んでるわけがねえ」とついつい思ってしまったのかも知れません。しかし、西郷隆盛がサイコパスだという視点から見れば、死ぬと決めたからにはその目的を達成したということなのだろうと私には思えます。
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