人は生きている間に必ず誰かから恩義を受けます。全く誰にも助けてもらわずに生きて行ける人は絶対にいないことでしょう。親に生んでもらった恩義までしみじみと思いましょうとまで言うとちょっと説教臭いように思うので、そこまでは言いませんが、自分に恩を与えてくれた人に礼を述べるというのは大切なことではないかと思います。
恩義を受ければ返したくなるものですが、恩義は常に返せるものとは限りません。命の恩人に恩義を返そうと思うと、恩人が命の危険に晒されて自分がそれを助け得る立場になるというレアなケースでしか恩義を返すことはできません。ですが、礼を述べることはできます。
恩義は意外なところでたくさん受けているはずです。小さなところでは席を譲ってもらったり、道を譲ってもらったり、そのほか困っている時に助けてくれた人はちょっと過去を振り返ってみても相当大勢いるはずです。その多くを忘れてしまっているかも知れませんから、そういうのを思い出す時間を持つというのも、自分の人生が多くの人に支えられてきたということに気づくいいきっかけにできるかも知れません。
他人の助けて生きることができるということに気づけば、自然と物腰が柔らかくなります。目の前にいるこの人ももしかすると私を助けてくれることがあるかも知れず、或いは自分が気づいていないだけで、目の前の人がいるというだけで助けになっているということもあるかも知れません。そう思うと、やはり自然に物腰穏やかで腰が低く、言葉遣いも優しくなります。そういう人には更に人気が出るでしょうから、より感情面でも豊かな人生を築いていくことができるかも知れません。そのような感情面で豊かな生活を送る一つの手段として、恩のある人にはきちんと礼を述べるということは、効果があるのではないかと思います。
最近、以前にいろいろ世話になった偉い先生と教務で出くわし、私は「いろいろお世話になりました」と深々と頭を下げたことがあります。この人にはきちんとお礼を言わなくてはいけないと前から考えていたので、ばったり出くわした時に自然とそういう態度になったわけです。相手の先生はそこまで深々と頭を下げなくてもいいのに、なんか照れるなあ、みたいな顔をしていましたが、それくらいでちょうどいいと思います。大学の教務は全ての情報が集まり、また発信される情報ステーションです。人当たりがいいだけで出世できるような甘い世の中ではないはずですが、そういう一面があるということを教務の関係者に見られたというのは、悪いことではありません。逆に悪い態度や不貞腐れた態度をしている時も教務の人は何も言いませんが、自分のいないところで噂が尾ひれを付けて広がっていく筈ですから、注意が必要です。自分で意識していなくても悪い印象与える言動をしてしまうことはあり得ますから、意識していい印象を与えることのできる言動を一回でも多くやっておく方が、いろいろな面でよりよいに決まっているとすら言っていいと思います。
今からでも遅くないので、恩のある人に対してはメールなり手紙なり、或いはばったり会った時なりにお礼を述べましょう。お礼を述べるのは言う側も言われる側も周囲で見ている人もいい気分になれるものです。
関連記事
他人の仕事の出来栄えを批判することで優越感を得ようとしない
他人の失敗をなじらない
席を譲る
道を譲る
少額の募金をする