【自己訓練】他人を赦す効用

よりよい人生を生きる上で、他人を赦すことは「必要」と言ってもいいかも知れません。なぜなら、他人から迷惑を受けることは生きていれば必ずあります。中には酷い攻撃をされたり、騙されたりなどの酷い目に遭わされることが絶対にない人生というものはおそらく存在しません。13代将軍家定が徳川慶喜が女性に人気があることに対して嫉妬したという話を読んだことがありますし、その徳川慶喜も西郷隆盛に殺されかけ、なんとか命だけはとりとめて長い長い諦めの人生を送ります。ですから、他人のせいで酷いことが起きる場合はあるのです。

もちろん、それが法律違反だった場合は法律に従って処理されなくてはいけませんが、法律違反とも言えないもの、泣き寝入りするしかないこともあるかも知れません。或いはせっかく雇い入れた部下が使えないタイプで部下のせいで思ったような効果を得ることができなかった、親のせい、兄弟のせい、学校の先生のせい、と他人のせいでいやなめに遭うことは必ずあると言ってもいいでしょう。

ですが、他人を憎むと結果として自分の苦しみが長引きます。よりよい人生を送りたいと願うのであれば、他人を憎むということを敢えてやめてみるということは、時に「必要」なのではないかと思えます。他人のせいで悪いことが起こった場合、たいていの場合には自分にも多少の非はありますから、その多少の非を認めることで他人への憎悪を減少させることができるかも知れません。また、これは倫理とかそういう話ではなくて効果、効用、功利的な問題ですから、結果として自分にとってもお得なのだと割り切り、テクニカルな問題として他人を赦すということを実践する、忘れてしまうというのが個人的にはお勧めなように思います。

絶対に赦せないということもあると思います。絶対に赦せないのを赦すのが、究極的なミソかも知れません。絶対に赦せないと思う相手をテクニカルに忘れていくようにすることで、毎日の生活のストレスは減少し、結果としてよりよい人生を得られるのではないかと思います。

タモリさんの赤塚不二夫さんへの弔辞はとても有名ですが、赤塚不二夫さんはどんなに酷い目に遭わされても「それでいいのだ」精神で、他人を呪うことがなかったという趣旨のことをタモリさんは弔辞で述べています。言葉にすると簡単かも知れないですが、実践するのは難しいことです。倫理的に考えても自分が正しいと思って憤懣やるかたなしのこともあるでしょう。私にだってそういうことはあります。そこをテクニカルな問題だと捉えなおして忘れて行くということを私自身も時に自分の人生をよりよくするための手段として意識的に取り入れようとしています。もちろん、完璧にはできません。イエスキリストですらいまわの際で父なる神に疑問を投げかけたと言われていますから、凡人の我々にそれを完全に達成することは無理かも知れません。しかし、実践することにより、状況がベターになるのであれば、やってみる価値はあるのではないでしょうか。ルイ16世は処刑される直前「私は全ての者を赦す」という言葉を残したそうです。この言葉はマリーアントワネットの「パンがなければお菓子を食べなさい」ほど有名ではありませんが、この最後の言葉にルイ16世という人物の器の大きさ、人間修行、自己訓練の態度を知ることができますから、そういう目で見ればルイ16世に対する印象も変わってきます。自分の名誉のためにも「赦す」ことを訓練したいものです。



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