昭和史68‐日満華共同宣言

昭和15年11月30日、日満華共同宣言というものが出されます。同日、南京で日華基本条約も結ばれています。ここで言う「華」とは、汪兆銘政権のことを指します。当該の共同宣言では、日本と満州国、汪兆銘の中華民国の相互承認及び日満華経済ブロックの確立、更に防共をうたっているわけですが、私の手元にあるとある情報機関の昭和16年1月1日号(新年号)では、当該情報機関がその後の展開をどう考えていたかがよく分かる(つまり、日本帝国の考えていた方向性がよく分かる)記事がありましたので、ちょっと紹介してみたいと思います。

当該の記事では日満華は「共同の理想」があるとし、その共同の理想とは「アジア人によるアジアの解放」であり、「大東亜広域共栄圏」の確立としています。「大東亜共栄圏」ではなく、「大東亜広域共栄圏」としているあたり、いわゆる大東亜共栄圏構想がまだはっきりとは定まっていない、手探りの段階だったことを示すのではないかとも思えてきます。

続いて、当該の記事では日本と蒋介石政権との戦争は単にその二つの勢力の戦いではなく、蒋介石を支援する英米を中心とした列強との闘いであるとも強調されています。即ち、遅くとも昭和16年初頭の段階で日本帝国は世界を敵にして戦う決意を固めつつあったということが見えてきます。言うまでもないことですが、世界を敵にして戦って勝てるわけがありませんから、その後、日本帝国が滅亡の過程を辿って行ったのは当然の帰結と言うことができるかも知れません。当該記事ではフィリピンに於いてアメリカの航空勢力が拡充されている点に警戒感を示し、オランダ領インドネシアでは排日運動が盛んになって、嫌がらせされていることへの嫌悪感も書かれており、やはり世界を相手に戦争をする気がまんまんであったということが分かります。

もちろん、このように強気の姿勢で事態に臨むことができたのは日本にはドイツのアドルフヒトラーがついているということが自信の根拠となっていたわけなのですが、さすがにアドルフヒトラーと組むという悪手を選んでしまったことに、21世紀の現代を生きる日本人としてはがっくりするしかありません。ドイツの技術力は見事なものだったらしいのですが、資本力の底力みたいなものの点では英米に対しては各段に劣っており、長期戦になれば資本力がものを言うわけですから、アメリカ、イギリスサイドではさほど悲観的ではなかったようです。イギリスでは既にチェンバレンが退き、チャーチルが首相の座に就いていましたが、チャーチルはアメリカの参戦を心待ちにしており、ルーズベルトは日本に先に一発撃たせることで国内のモンロー主義を一掃し、英米世界秩序みたいなものを維持しようと考えていたという話は随所にありますから、日本がアドルフヒトラーをどんなに頼りに思っていても、アドルフヒトラーは実はそこまで強くなかったという現実に気づいていなかったというのが日本帝国の悲劇なのかも知れません。ドイツと同盟していなければ日本の政治家や軍人がここまで強気になることはなかったでしょうから、かえすがえすもがっくし、残念、何をやっているのだか…と辛い心境にならざるを得ません。私の手元にある資料は昭和17年までありますので、もう少しの間、資料の読み込みを続けたいと思っていますが、どうしても暗い心境になってしまいます。

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