昭和史65‐日独伊三国同盟と昭和天皇の詔書

とある情報機関が発行していた機関紙の昭和15年10月15日付の号では、盛大に日独伊三国同盟の成立を祝福しています。昭和天皇の詔書、更には近衛文麿の告諭、ついでにダメ押しの如くリーフェンシュタールの『民族の祭典』の宣伝まで掲載した狂喜乱舞ぶりを見せています。現代人の視点からすれば、アドルフヒトラーと手を結ぶというのは絶対にあり得ないとしか思えないですし、アメリカ・イギリスが「日本帝国滅亡させてもいいよね」と決心させる決定打になったとも思いますから、当時の資料を読むのはつくづくため息をつかざるを得ないのですが、取り敢えず、まず、昭和天皇の詔書の内容を見てみたいと思います。

政府二命ジテ帝国ト其ノ意図ヲ同ジクスル独伊両国トノ提携協力ヲ議セシメ茲二三国間二於ケル条約ノ成立ヲ見タルハ朕ノ深ク悦ブ所ナリ

とされています。この詔書を誰が起草したのかは分かりませんが、近衛文麿首相が強く働きかけて詔書の渙発に至ったことは間違いないものではないかと思います。近衛文麿としては天皇に詔書を出させることで三国同盟の正統性を高めたいという意図があったに違いなしと思います。昭和天皇本人がアドルフヒトラーに対してどういう意見を持っていたのかは多少謎ではありますが、昭和天皇は天皇に即位したばかりのころは色々と政治に口を出し、自分の影響力の大きさに驚いて立憲君主に専念しようと誓ったものの、やっぱりついつい口を出してしまうと繰り返していましたから、近衛文麿がアドルフヒトラーと組みたいと言い出した時に絶対反対というわけではなかったのかも知れません。『昭和天皇独白録』では、ナチスと話をまとめて帰って来た松岡洋右について「ヒトラーに買収でもされたのではないか」とかなり冷ややかなことを語っていますが、敗戦後のことですから、昭和15年の時の天皇の心境と敗戦後の天皇の心境には大きな変化があったと考える方が自然と思えますから、やはり昭和15年の段階で昭和天皇本音がどこにあったかはなんとも言えません。首相選びについては昭和天皇はファッショな人物は避けるようにという意見表面をしたことがあったようですが、近衛文麿は全体主義こそ国家国民を救うと信じ込んでいた本物のファシストとも思え、本当に昭和天皇は近衛文麿が首相でいいと思っていたのか疑問にも思えてきます。しかし一方で昭和天皇には名門出身者に対してはある程度寛容で、信用もしていたようですから、天皇家、宮家に次ぐ日本屈指の名門である近衛家の人物ということで、近衛文麿に対しては思想を越えた信頼があったのかも知れません。

昭和天皇が政府要人と会見した際、大抵の場合、要人の椅子の背もたれは暖かくなかったと言います。緊張して背筋を伸ばしていたからです。ところが近衛文麿が立ち去った後、背もたれは暖かかったと言いますから、近衛が昭和天皇に対する時もだいぶリラックスした感じだったことが想像できます。昭和天皇は大正天皇の摂政を努めた時から政治の中心にいて、政治家としてのキャリアは半端なく、大抵の政治家や官僚、軍人は昭和天皇に比べればどうってことないみたいな感じで恐縮するしかなかったのかも知れないものの、近衛文麿は西園寺公望に仕込まれて若いころにはベルサイユ会議にも参加していますから、近衛は近衛で政治家としてのキャリアは半端なく、家柄もその辺の軍人や官僚とは全然違うという自負もあったに違いありません。昭和天皇と近衛文麿、両者の呼吸の具合、人間関係を踏み込んで調べていけば面白いかも知れないですが、取り敢えずここでは日独伊三国同盟に話を戻します。

当該の号では昭和天皇の詔書の下に「内閣総理大臣公爵」近衛文麿の告諭が掲載されています。そこでは

今ヤ帝国ハ愈々決心ヲ新ニシテ、大東亜ノ新秩序建設二邁進スル秋ナリ(ここで言う「秋」とは「時」というニュアンス。一日千秋の「秋」みたいな感じでしょうか)

と述べられています。果たして近衛の言う大東亜がどこまでの広さなのか、東南アジアもシベリアも行けるところまでひたすら突き進むという意味なのか、それともそれなりにどの程度の広さという考えがあったのかどうか、はっきりとしたことは私にも分かりませんが、諸外国の人物が読めば「日本はアドルフヒトラーみたいな凄いのと手を結んだから行けるところまで行くぜっ」と宣言しているように見えたに違いありません。アドルフヒトラーは日本と同盟してソビエト連邦を挟み撃ちにする野望を抱いていた一方で、松岡洋右はベルリンからの帰りに立ち寄ってモスクワで日ソ不可侵条約を結んで帰って来たという一点をとってみても、日本とドイツは同床異夢の関係で、この同盟はほとんど有効に機能することもなく、後世にアドルフヒトラーのような極悪人と手を結んだという日本人に対する悪評だけが残ったわけですから、こうして日本帝国は滅亡していくのかと思うと「ため息」以外の言葉を書くことができません。

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