昭和史64‐フランス領インドシナと援蒋ルート

とある情報機関が発行していた昭和15年9月15日付の機関紙で、フランス領インドシナについて紹介する記事がありましたので、ここでちょっと紹介してみたいと思います。当該の記事では、インドシナ半島の風土や気候のようなものを紹介した後で、フランスが領有するに至った経緯が書かれています。そんなに難しいことや裏情報みたいなものは特になく、一般知識の範囲でフランスが徐々に当該地域を領有していった様子が書かれています。ちょっと興味深いのは、当時のフランスがあてこんだ流通ルートと援蒋ルートが同じものだという指摘がされている点です。更にその記事の最後の方では、フランス本国が「衰弱」したので、今後の展開は違ったものになるだろうというような意味の言葉で締めくくられています。

昭和15年の段階では、フランスには親ナチス的なヴィシー政府が成立しており、フランス領インドシナもヴィシー政府の治下に収まっていましたから、日本としては南進という国策がある上に、「東亜経済ブロック」拡大という野心的な視点からも獲れそうな場所であり、同時に援蒋ルートを断ち切るためにもほしい場所であったということが、当該の記事からうっすらと見えてくるように思えます。おそらく財界はマーケットという意味で欲しがり、陸軍は援蒋ルートの遮断という意味で欲しがり、当時の近衛文麿内閣は統制経済、全体主義を是とし、ナチスを理想とする今から見ればとんでもない政権でしたが、統制経済が必要になってくるというのははっきり言えば物資不足の裏返しなので、統制経済をやりたい政治サイドとしてもインドシナ半島の資源があれば助かるという意味で欲しがっていたのかも知れません。

その後日本は同意の上で北部フランス領インドシナに進駐し、更には南部フランス領インドシナに進駐します。南部に進駐する前、アメリカのルーズベルト大統領が、もし日本が南部フランス領インドシナに進駐すれば経済封鎖すると明確に警告していたにもかかわらず、フランス本国がナチスに握られている間に多分大丈夫だろう的な発想で進駐してしまうわけですが、そのような行動に出てしまった背景には、上に述べたように軍、財界、政治家がこぞってそこを欲しがっていて日本の中で残念なことにコンセンサスが取れてしまったことに要員があるように思えます。そしてルーズベルトは警告通りに経済封鎖を始めるわけです。

少し長めのスパンで言えば、日本帝国は満州事変での対応を誤って滅亡への第一歩を踏み出したと言えますが、もう少し短めのスパンで言えば、この南部フランス領インドシナへの進駐が日本の命取りになったとも思えますから、何をやっているのだか…とため息をつくしかありません。

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