昭和史23‐張鼓峰事件

張鼓峰は朝鮮半島と満州国とソビエト連邦の入会地みたいな感じになって、どこに主権がはっきりとは分からないエリアにあり、日本側も軍を置くというようなことはせず、ソビエト側も同じく積極的に介入するわけでもなく、なんとなくにらみ合いになる時期が続いていたことがありました。

昭和13年7月29日、ソ連側が進撃し、同地域の占領を目指します。山稜地帯ですからそこを奪取すれば満州、朝鮮エリアをかなり遠くまで見渡せるので何かと有利という、当然といえば当然の理由で、ある意味早い者勝ちと考えてソ連側が軍を出したようです。

日本側は夜襲をかけ、ソ連軍を撃退しますが、その後、一進一退の泥仕合が続けられることになります。日本にとってこの戦いの最も大きな意味は、日本軍が始めて機械化された部隊と衝突する経験をしたということにあると言えるかも知れません。第一次世界大戦にまともに参加していなかった日本軍は原則として歩兵が銃剣を持って突撃すれば根性で勝てるという、日清戦争・日露戦争の神話のようなものを是としており、これは少なくとも陸軍では太平洋戦争の末期ごろまでこの神話を信じていたわけですが(硫黄島、沖縄戦あたりから、考えが変わり、必ずしもやられっぱなしという感じではなくなったようにも思えるので、完全に末期のころは違ったと言えるのではないかと思います)、当時のとある情報機関がその模様について述べている機関紙によると、ソ連側はそこまで本気ではなく、局地戦でことを収めようとしており、中国に肩入れしているという立場上、うちもがんばってますよということを示す目的で、一応、戦争してみたらしいというような観測が述べられています。

この戦いは長期化せず、当時駐ソビエト公使だった重光葵が停戦を申し入れ、その段階でそれぞれが守備しているラインでそれ以上動かないということが決められたのですが、実際の戦闘ではソ連軍が後半で本気を出し、相当な規模の軍を投入し、日本軍に空爆も浴びせ、日本側は全滅に近い大きな被害を受けたと言われています。一方で、最近の研究ではソ連側の方が被害の実数として大きかったことも分かっているようですが、構図としてはノモンハン事件と全く同じだったことが分かります。つまり、日本側は現地軍だけで根性で戦うのに対し、ソ連側は一点集中で大量の軍を送り込み、どれほど被害がでようとも、そんなの関係ねえと資源を注ぎ込んで、勝ちを収めるという構図が全く同じなわけです。

私が読んでいる当該情報機関の資料ではそういったことには触れてはいません。インテリジェンスの甘さを感じざるを得ないと思えてなりません。張鼓峰事件の教訓が生かされることはなく、ノモンハン事件でも同じ展開を見せたということは、自分にとって不利なことには目を向けないという陸軍の致命的な体質があったのではないかと思えてしまいます。

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